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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

四 藤村・白根県政と香川県の分離

 藤村県政と養蚕振興策

 関新平死去の後を受け、明治二〇年三月九日愛媛県知事に任命されたのは、前山梨県知事藤村紫朗であった。藤村は弘化二年(一八四五)の生まれの熊本藩士で萱野嘉右衛門と称し、二〇歳代で十津川郷士とともに高野山に義兵をあげた経歴を持つ勤王の志士であった。明治維新以来御親兵会議所詰・北越出先軍監・兵部権少丞など兵事関係に従った後、明治三年京都府少参事、同四年大阪府参事を経て、同六年一月山梨県権令、同七年一〇月同県県令となり、以来愛媛県に転任するまで一四年余の久しきにわたって山梨県に在任して県政の基礎を確立した。
 藤村の山梨県政は、行政機構の整備にはじまり、教育・衛生・殖産・道路・治水など各方面にわたり推進され、とりわけ養蚕製糸を中心とする殖産興業政策はみるべきものがあった。また明治九年一一月「山梨県会条例・規則」を制定し、翌一〇年五月特設県会を開設して民費・凶荒予備金貯蓄・小学校費などについて審議させた。さらに同一二年の郡長任命にあたっては、地元の有力者を登用、その中には自由民権運動家も口説かれて奉職した。
 こうした藤村の施策は岩村高俊と共通したところがあり、地方官会議での活動や発言などで開明県令として全国的に知られていた。しかしその施策は政府の指示を待たずして独断専行のきらいがあり、再三譴責(けんせき)処分を受けている。
 藤村が愛媛県に着任早々最も力を入れたのは養蚕の振興であった。愛媛県は養蚕に気候・地味が適しており、明治一〇年代に遠山矩道(吉田)・小笠原長道(宇和島)・池内信嘉(松山)らによる蚕業発展の気運が起こった。明治一九年三月県は温泉郡持田村の民有地四、〇〇〇余坪を借り入れて桑苗田を設けたが、藤村知事はこれを一町六反歩に拡大し、ここに県立松山養蚕伝習所を設けて、各郡より蚕業篤志家を募集し、学術の大要及び実業を伝習させることにした。ついで農事巡回教師制度を設け、県官や池内・小笠原らを各地に巡回させて養蚕の誘導に当たらせ、郡戸長に命じ蚕業奨励演説会を開催させて篤志家に蚕業の功用と利益を説かせた。藤村自身も山梨県での経験を生かし、しばしば告諭を発して蚕種・桑樹の精選と桑苗植え付けの心得などを具体的に説いた。例えば明治二〇年一〇月二日に告諭を発して、(1)蚕は自分で植え付けた桑をもって飼養しなければ利益のないものと知るべきである、故に桑は飼養に必要なだけを植え付け、決して他所へ売り払う目的をもって植え付けてはならない、(2)桑には種類が多く善悪の差がある、悪い桑で飼った蚕は良い繭を収穫することはできないと知るべきである、(3)植え付けに良い桑の種類は県庁で取り調べ郡役所に置いておくので、照会せよ、(4)桑の植え付け培養方・蚕の飼い方などは県庁で追々伝習の道を開くから有志者はあらかじめ心得ておくこと、といった桑樹の選択植え付けについて極めて具体的に助言した。桑苗については五〇万本を山梨・石川・長野などから県費で購入して希望者に配布した。
 この結果、養蚕が県内各地に急速な勢いで普及した。ことに中南予に比べて従来関心の薄かった宇摩・新居・周布・桑村の四郡に著しく桑園が増加したので、愛媛県の産繭(讃岐分を除く)は明治一九年時で九五四石であったのが、同二一年一、六六九石、同二二年二、一三五石に増大した。藤村知事はまた、前任者の関知事が明治一九年一月二九日に設定した「蚕糸業組合準則」による蚕業組合の強制と県の干渉が蚕糸業の自由な発展を阻害しているとして、これの廃止を農商務大臣に申請し、同二一年三月二二日その認可を受けた。藤村知事の熱心な奨励により養蚕業は愛媛県の新しい物産として注目されるようになり、明治二一年一〇月には愛媛蚕業協会が結成された。藤村紫朗はわずか一年間の本県知事在任に過ぎなかったが、養蚕業の発展に尽くした功労は大きかった。藤村知事はまた本県の懸案事項であった土木事業における地方税と町村費負担対象を明確にし、営業税・雑種税を地域等級税による徴収方法に改めようとした。
 本県地方税支弁の土木事業は道路・河川・港湾ともに旧藩時代の慣行を踏襲していて不統一であり、区々地方税と町村費負担が錯雑して支弁区分が不明確であった。明治二〇年通常県会に提出された「地方税土木費支弁区分及町村土木費補助法」の諮問案は、こうした不公平・不合理な土木費支弁区分・方法を是正しようとするものであった。すなわち、「土木費支弁区分法」は、国・県道及びこれらに架かるすべての橋梁を従来どおり地方税支弁とし、海岸費を地方税支弁から外し、河川の地方税支弁対象を土器川・重信川・肱川・香東川・石手川の五河川に限り、港湾費を従来地方税の支弁であった高松・多度津・三津浜・丸亀・八幡浜に今治・長浜・宇和島の三港を加えるなど、地方税対象の河港道路橋梁名を具体的に示した。また「町村土木費補助法」案では、県道線和気郡三津広町~伊予郡筒井村など一五の県道、加茂川以下三五の河川、越智郡桜井海岸など五五の海岸を表示して各町村費負担とし、非常の災害に遭いまたは新設改良する場合に限って事業の軽重工費の多少などを調査しその時々に補助するとした。この諮問案の審議に当たり、県会はこの議案はすこぶる重要な問題であるので改廃を決しがたいとして論議を展開、動議や異議がはなはだ多く混乱したすえ、平塚義敬(喜多郡)が元来土木費の事は改正を望まないのではないが、原案が不完全であるので二一年からこれを実施することはできないと法案廃棄を提案して可決した。藤村知事が英断をもって立案した地方税土木支弁区分及町村土木費補助法の設定は、議会の否決であえなく挫折した。営業税雑種税徴収規則改正案は、売上高による等級税法を廃し営業地区単位に等級を設けて負担額を定めるという新しい賦課法で、徴税事務を経済的に運用し脱税防止を意図したものであった。議会は六日間にわたり各税目について慎重審議を行い、等級地の変更などで論議が続き審理案を作成すること数回におよび、原案を各箇所で改めた。

 十州塩田組合会紛議事件

 明治二〇年一一月の通常県会では、中野武営(香川郡)の提案になる「十州塩田組合会ニ関スル布達廃止ノ建議」を可決、議長小林信近名で内務大臣山県有朋に提出した。十州塩田組合会は瀬戸内海十州(六県)の製塩業者の同業組合で、明治一八年八月一日付農商務卿は、(1)十州の間において塩田を所有するものはすべて十州塩田組合に加入して規約に従うこと、(2)製塩の事業は、一か年間六か月限り、みだりに期限を超えてはならない、(3)製塩取り締まりのため十州の間に本部を置き各地適宜の場所に支部を配置せよと通達、愛媛県は同月二九日にこれを伝達した。製塩を六か月に限定して塩価を騰貴させることが十州塩田組合会の結成を促進した防長など富裕塩田地主の思惑であった。これを「誤認」ときめつけ「塩業ノ制限ハ其衰頽(すいたい)ヲ致スノ拙策」と論じて生産制限撤廃運動に立ち上がったのは東讃支部長井上甚太郎であった。
 東讃地方の塩田は元来藩主所有のもので経営者である浜百姓は小作人の地位にあった。明治一二年に至って塩田は払い下げられて浜百姓の所有に帰したが、零細経営者にとって休業は生活を維持するうえで大きな痛手であった。しかも気候風土が防長地方と異なり、冬期の営業もそれほど生産が低下しなかったからなおさらであった。これら経営者の下で雇傭される浜子(塩業労働者)は一層みじめな立場に置かれた。東讃の塩田業者と労働者が井上の主張に同調し、坂出の塩田地主井上を支部長に推したのはこうした背景があったからであった。
 井上は、明治二〇年八月神戸で開かれた第二回通常会に、半年も休むと塩田使役人はたちまちその業を失い他に職を求めなければ窮途に号泣するの惨状に陥るといった内容の「塩業ノ制限ヲ解キ全国同業者ト一致スベキ」建議を提出した。しかしこれに賛成したのは井上と同じ東讃支部代議員の松本貫四郎・山下有鄰の三名に過ぎず廃案となったので、脱会する旨を告げて退場した。井上らは帰省後、九月一一日に東讃支部会を開催し、脱会の事を謀(はか)った結果、東讃製塩業者は一致協同して十州塩田組合会を脱退することを決議するにいたった。井上らは「十州塩田組合分離ノ儀ニ付請願書」を起草して政府・県に営業制限撤廃を訴え、東讃塩田では十州塩田組合会で決定した営業期限を無視して採塩を続けた。このため、十州塩田組合本部副長石崎保一郎(伊予国温泉郡)は、一〇月一九日井上甚太郎ら四〇余名を相手として松山始審裁判所高松支庁に採塩停止の訴訟を起こし、さらに本案の審理に先立って採塩仮停止命令書下付請求を行った。高松支庁は直ちにこれを受理し、翌二〇日に停止命令書を出した。採塩停止処置で、浜子はたちまち糊口に窮することになり一家離散して路頭に迷う危機に迫られたので、塩田経営者も香川山田郡役所に救済の道を要求し、裁判所に集団で押し掛けて採塩停止取り消しを請願する示威運動を繰り広げた。井上・松本ら十州塩田組合脱去会の総代は、これの対策として命令書の取り消しを裁判所に訴願するとともに藤村知事に善処方を要望した。この間、「海南新聞」は、十州塩田組合紛争事件を詳細に報道、紛議の原因となった十州塩田組合会の沿革を解説して、井上らを支援した。
 こうした情勢で、愛媛県会は「十州塩田組合会ニ関スル布達廃止ノ建議」を採択した。建議は、本県下のように一帯の海浜に接する地方は到る所塩田が点在しその製塩は我が地方物産中屈指のものであって、その業に従事して生活を立てる者最も多く、その産額おびただしいのでこれの取り引きのために船舶往来貿易するをもって地方の繁盛をつなぐ基となっていると製塩業の地場産業としての効用を挙げ、しかるにその製塩の季節を制限しその産額を抑制すれば塩業の営業を害するだけでなく商店もこれがためその利益を損じ船舶もこれがためにその業を失い、直接間接に生ずる弊害はついには一般人民の生計に波及し不景気の結果は農商工ともに皆その弊害をこうむるに至ると製塩制限が地方の疲弊をもたらすと指摘して、「該布達ハ百害アリテ一利ナキモノト云フヘキナリ」と極言、今や我が地方はこの布達のために当業者はその業に安んずることができない、日一日困窮に陥りその弊害は一般人民の生計に波及し、甚だしくは糊口の途を失い妻子飢餓の苦しみに迫らんとする者ありと製塩関係者の窮状を訴え、「我々県会議員タル者之レヲ聞キ之レヲ見ルニ忍ヒサルナリ」と、内務大臣に製塩制限布達の解除を請願する理由を述べた。この建議と前後して、県知事藤村紫朗も農商務省へ善処方を要望する意見書を提出した。
 井上ら東讃塩田業者の生産制限反対運動は県内新聞や県会の支援を受け、ついに政府を動かして明治二〇年一二月二〇日農商務省から「制限中止ノ特達」が発令された。愛媛県は同月二六日に「明治十八年八月甲第百十三号十州塩田組合ニ関スル布達ノ第二項制限法ハ其実行ヲ中止ス」と布達して、製塩制限の枠を取り除いた。十州塩田組合会紛議事件における井上らの生産制限撤去闘争は一応成功した。裁判所の採塩仮停止も農商務省の通達で自然消滅したけれども、井上らの規約違反は「特達」の出る前のことであったから、裁判では井上らの陳弁も空しく、二一年二月四日有罪と決定した。井上らはその判決を不服として控訴再度に及んだが、二二年一〇月三一日の判決で敗訴した。

 尋常師範学校の敷地紛争

 愛媛県尋常師範学校は明治九年の創立になるが、松山市二番町の旧松山藩校明教館跡に勝山小学校・松山中学校と雑居の状態であったから、明治一九年の文部省令で生徒定員二〇〇名に増員されると教室・寄宿舎などが狭く、移転・新築が急務となった。藤村知事は迅速な英断をもって五万八、八〇〇余円の師範学校新築費を起算、明治二〇年一二月臨時県会を招集して承認を求めた。議会は移転新築には賛成しながらも、建設費を四万七、二〇〇余円に減じた。県当局は、尋常師範学校新築敷地を榎町か木屋町・府中町に予定した。実測の際、古町地方の有志者十数名から古町誘致の請願があり、寄附の申し出もあったので、これを許容して木屋町・府中町に校地を決定、地所購入のための示談を進めるとともに校舎設計にとりかかった。所有者の過半は県の買収に応じたが、二十数名の地主と金額面で折り合わず、県は明治二一年三月二八日付をもって「公用土地買上規則」の適用を内務大臣に申請、四月四日裁可を得て五月八日これを執行、桜井義兼外二八名所有の土地家屋の買い上げを強行した。桜井ら一六名はこれを不当として大阪控訴院に提訴した。数回の審理の後、裁判所の再評価額に法定利子を加える裁決が下って師範学校の敷地紛争は落着した(資近代2 五三六~五四四)。この間、師範学校の新築は推進されたが、訴訟との兼ね合いがあって起工から落成に至るまで三か年を要し、完工したのは明治二三年九月であった。この校舎は後に″愛媛の阿房宮″と称せられるほどの豪華な近代美を誇る建築であったけれども、藤村知事が古町商人に多額の寄附金を要求したとか収賄をもって山梨県の土木業者に建築設計を依頼したとかの噂が飛び交い、白根知事の公用土地買上規則強行による敷地紛争とともに、世間に注目された移転建築であった。
 藤村紫朗は、明治二一年二月二九日突然愛媛県知事を退職して郷里熊本に帰り、やがて熊本農工銀行の頭取に就任した。「海南新聞」明治二一年三月三日付は、「殖産興業に熱心せらるゝは夫の養蚕の奨励を以て明なる所にして、余輩も亦大に此挙を賛成する所なりと雖も其此等に熱心せらるゝの余り或は少しく干渉の弊に陥ることは無きやとは昨今世人の専ぱら唱導する所なりし」と評した。

 白根県政

 後任の愛媛県知事には白根専一が任命された。白根は山口県士族で嘉永二年(一八四九)の生まれ、長州藩校明倫館に学びついで上京して慶応義塾に入った。維新後、明治六年秋田県権大属・八等出仕、同九年一〇月同県権参事、同一一年同県大書記官などを経て、同一二年六月内務省少書記官に栄転し、同一三年三月庶務局長、同一四年七月内務権大書記官、同一七年五月内務大書記官、同一八年六月総務局次長・戸籍局長など内務省の要職を歴任した後、同二一年二月二九日愛媛県知事に任ぜられた。本県に赴任当時四〇歳であった。「海南新聞」三月三日付は先の藤村知事評に続いて、「新任の白根知事は果たして如何なる政略を執らるゝや、就職せられたる後に非ざれば余輩固より之を窮知するを得ずと雖も(中略)内務省より赴任せらるゝ白根知事なれば我が地方に益することも多からん歟」と、内務省のエリート官僚から転出した白根知事に期待した。白根知事は明治二一年一二月讃岐国分離・香川県再置前後の職責を果たし、同二二年一二月二六日愛知県知事に転出した。その後、同二三年五月内務省次官として政府に復帰し、同二五年二月の第二回総選挙に際し内務大臣品川弥二郎を助けて民党に対する大選挙干渉の指揮をとった。白根は、この責任をとって次官を辞任したが、明治二八年一〇月には伊藤博文内閣の逓信大臣に抜擢されて翌二九年九月まで在任した。
 白根専一の履歴は愛媛県の歴代知事中秀逸であり、後世新聞などでの知事論では「本県歴代の知事の内誰が一番地方官として県治をよくし人物がしっかりしていたかと云ふと先づ指を白根知事に屈しなければならない」(昭和一〇・一一・三付海南新聞)としている。この評価は後の輝かしい経歴から割り出したところもあるが、香川分県による事務分割の処理や市制・町村制とこれに伴う町村合併という大きな行政改革を施行して愛媛県を去った。
 愛媛県立図書館には、白根知事から後任の知事勝間田稔に引き継がれた明治二三年「県政事務引継書」がある。引継書は、戸数一八万五、〇一五戸、人口九一万二、七〇〇人(明治二一年一二月末)をはじめ土地面積・東西南北距離を明記して、地形を概別すれば「山岳其七分ヲ占メ平地ハ其三分ニ居レリ」、水陸の運輸は「輓近(ばんきん)汽船ノ来往繁ク海路ハ稍(やや)其便ヲ得ルモ陸路ニ至テハ道路嶮悪ニシテ不便ヲ感スルモノ甚シトス」、主な物産は銅・アンチモニー鉱・紙・茶・木蠟・食塩・魚類・木綿など、地味を大別すれば「概ネ東北ノ肥腴(ひゆ)ニシテ西南ハ瘠确(せきかく)ナリ」、人情は「昔時八藩ノ分治ヲ襲(う)ケ、各藩其政令ヲ異ニスルヲ以テ各地各様固ヨリ同一ナラズ」といえども、これを略言すれば、「其城市ニ接近シテ交際稍繁キ地方ハ怜俐ナリト雖トモ亦少ク浮薄ノ風アリ、山間僻邑(へきゆう)来往不便ナル地方ハ自カラ淳朴ナリト雖トモ固陋(ころう)ヲ免カレサルニ似タリ」、しかしながら「一般ノ施政上目下共障碍ヲ視ズ」といった県勢概要に始まっている。以下、二三年度通常県会決議、県会議員、市町村制施行、国境争論地、地方税、県有財産処分、松山養蚕伝習所、漆樹試験場、松山測候所、士族勧業資本金、桑苗払下、獣医学校、水産状況、市之川アンチモニー鉱山、地籍編纂(へんさん)、警察の概況、四国新道開さく、土木概況、尋常師範学校建築と敷地に係る訴訟、小学校設置区域及校数位置、伊予尋常中学校、県立病院、伝染病予防、地方衛生会、監獄、徴税など、県政各事項につき、「県政引渡ノ条件中処理完結ニ至ラス或ハ将来施政上事ノ重要ニ渉ルモノヽ要領」を報告記録している(資近代2 四四二~四四四、四六七~四七三、五三六~五四四、五五一~五五二、五六九~五七一)。

 分県運動と香川県の分離

 明治九年八月香川県が廃止されて讃岐国が愛媛県に併合されて以来、讃岐人の不満は大きくしばしば県政の障害となった。明治一三年と二〇年の「県政事務引継書」は共通して讃岐国統治の難しさを報告していた。また参事院議官山尾庸三は「愛媛県巡察復命書」の中で「讃岐地方ハ頓(しきり)ニ分県独立ヲ企望シ其目的ヲ達センカ為メ県令ノ行為ニ対シ一挙一動之ヲ攻撃シ之ヲ妨碍(がい)センコトヲ務ムルノ情況アリ」といった感想を報告していた。
 香川県が設立した高松師範学校や高松病院附属医学所などの諸施設が愛媛県に合併後次々に廃止されるごとに讃岐人の分県独立の希望は高まっていった。県会議員六七名中讃岐国議員は二七名で伊予国議員に比べ少数派であったから、讃岐内県営施設の維持復活運動は効を奏さず、予算配当交渉でも常に悲哀を味わわねばならなかった。讃岐の民権家小西甚之助(寒川郡)は明治一七年県会に「高松師範学校設置ノ建議」を提案するが、その理由説明の中で、「讃民分県請願ノ余波今ヤ又将サニ其鋒(ほこ)ヲ逞(たくまし)フスルニアラントス、其請願ノ可否得喪ハシバラク置テ論セサルモ、此レ等議論ノ沸騰紛起スルハ県治上祝スベキモノニアラス」として、高松に師範学校を設けるのはその勢焔を挫折させ讃岐人慰撫の道を施すものであると訴えた。小西の発言に見られる讃岐人の分県運動はすでに明治一五年ごろから開始されていた。明治一五年五月二九日、高松の渡辺克哲・鈴木傳五郎・湊亮三・森島鼎三は「讃豫分離ノ檄文」を配布して、分県運動協議のため六月二〇日高松兵庫町の商法会議所に来会するよう呼びかけた。檄文は、「人ハ萬物ノ霊ナリト、均シク動物ノ僚伍ニシテ霊ノ名称ヲ附スルニ智識ヲ以テスレバナリ、然ハ則チ智識ヲ発達シ其至貴至重ノ自由権利ヲ伸張シ宜シク自治為サヾルベカラズ」を巻頭言とし、「我ガ天皇陛下ハ畏(かしこ)クモ一視同仁以テ民ニ臨ミ我ガ政府ハ至正至公以テ政ヲ施ス、何ソ我ガ天皇陛下ガ偏ニ豫人ヲ仁シ豫人ヲ愛シ、我が讃人ヲ虐シ給フノ理アランヤ、我ガ政府何ソ豫讃人民ニ偏頗(へんば)不公平ナル処置アルノ理アランヤ、之レ生等ガ確ク信シテ疑ハサルヨリ此ノ挙ヲ起ス所以ナリ」と天皇・政府の公平なる処置を期待しての請願を提唱、ついで、(1)県庁有無の利害や地方税に関する箇条を列挙して讃岐国が幾重にも不利益を受けていること、(2)海上陸路ともに数十里の波濤を越え数日程の嶮途を経るのでなければ遠く県庁に達することができないこと、(3)古来讃豫阿土をもって四国と称するのに我が讃岐のみ独立県でないことは慷慨に堪えないことを挙げ、分離論の原由としていた(資近代2 一六~一八)。
 檄文の首唱者渡辺克哲は香川郡中笠居村の豪農で明治一〇年ごろから戸長を務めて文筆弁舌にすぐれ地域に人望があった。鈴木傳五郎は三人扶持を許された高松城下南新町の豪商伏見屋に生まれ、民権結社博文社の創設に加わりついで高松立志社を主宰するなど政治運動の中心人物として活躍、また戸長や高松商法会議所会頭を歴任し、後には貴族院多額納税議員にも選ばれるなどの名士であった。森島鼎三は旧高松藩士族で文筆弁論をもって高松立志社の政談演説会を主催するなど民権家を任じ、明治一三年の国会開設請願運動には署名総代人に加わっている。この首謀者三人の略歴と檄文を見れば、讃岐分県が自由民権運動の関連においてとらえられていたことが明らかである。讃岐の民権家にとって一国の独立に比すべき分県運動は地域住民の参加を得るうえで格好の課題であった。
 豫讃分離請願有志集会は会場を予定の高松商法会議所から弘憲寺に移して六月二〇日から二二日までの三日間開催された。二〇日午後一時開会、渡辺克哲が予讃分離請願の主眼として、第一地形人情の異なる事、第二県庁遠隔の事、第三土木の事、第四勧業学事が進捗(ちょく)しない事、第五豫讃地方税の不均衡な事の五件をあげて豫讃分離をしなければならない理由をつぶさに演説、討論審議のすえ分離を請願することに決した。そこであらかじめ同意した森島鼎三起草の「豫讃ヲ割キ讃岐ニ一県ヲ置キ高松ニ県庁ヲ設置スル上願」案を提示、協議決了して一日目を閉場したのは午後七時であった。二日目の二一日は正午一二時に開場、豫讃分離の目的を達するために第一綱領「全讃有志ヲ鼓舞シ全讃ノ団結ヲ斉(ととの)フル事」、第二綱領「全讃団結已ニ成ルノ後請願ニ従事スル事」、第三綱領「第一第二ノ事業ニ従事スル費用ノ事」について討論することを議決した。第一綱領の有志を鼓舞し団結を整える方策については首唱者の提案した見込案に議論沸騰してまとまらずために五名の修正委員を選んで修正案を作成することに決して午後八時閉場した。翌二二日は午前一〇時開場、修正案を審議議了、第二・第三綱領を異議なく可決した。第一綱領は、全讃の団結をまとめるのは容易な事業ではないので町村会議員の同盟を勧めて全讃団結の基としたい、本会出席の各員及びその他有志者をもって鼓舞委員に充てる、鼓舞委員は分離の主眼である地理の不便人情の異動及び地方税支出の不均衡などをもって事を誘導すること、鼓舞委員は連名簿を作製し、七月一五日までに全讃国の団結をまとめること、仮事務所を香川郡高松に設け二名の常務委員を置き、各地鼓舞委員との書翰往復及び分離一切に関する事務を担任させることなどを取り決めており、常務委員には渡辺克哲と谷弘道が就任した。第二綱領では請願者は毎町村一~二名を互選すること、第三綱領では運営費に金一〇円をあてること、常務委員手当として一日一人につき三〇銭を給与することなどを内容としていた。集会の参加者は初日会員一六五名・傍聴人一〇〇有余名、二日目一九三名、傍聴人二〇〇有余名の盛況であった。参会者の多くは大内・寒川・山田・香川郡など東讃地方の人々で、その中には六車三郎・高嶋運・蓮井慎一・國方甚吾・安井勇平・片山高義らの県会議員も交っていた。大会終了後、懇親会が開かれ、会員は酒宴を張り時事を談じ分県運動に尽くすことを誓った。
 集会で決議された「豫讃ヲ割キ讃岐ニ一県ヲ置キ高松ニ県庁ヲ設置スル上願」は、「讃岐国民森島鼎三渡辺克哲鈴木傳五郎等頓首再拝謹テ内務卿閣下ニ願望スル所アラントス」に始まり、「我讃民ノ経歴ヲ顧ミレハ実ニ云フニ忍ヒサルノ不幸ヲ蒙リシモノト云ハサルヲ得ス」として、明治四年七月廃藩置県で高松県・丸亀県、一一月香川県に統合して一年三か月、同六年二月名東県に合併されて二年六か月、同八年九月香川県が再置されて、「讃民愁眉此ニ至テ始メテ開キ皷腹謳歌ノ声洋々耳ニ満ツ」喜びにひたったにもかかわらず、「庁門ノ懸牌墨未タ乾カ」ないのに、明治九年八月愛媛県に合併させられた。「嘘唏流涕(きょきりゅうてい)天ヲ仰キ地ニ俯(ふ)シ、何ノ罪アリテ屢々(しばしば)此離合ノ災ヲ蒙ルモノトナルヤト且ツ疑ヒ且ツ歎シテ止マサル所ナリ」と、県の分離合併の中で翻ろうされる讃岐人の不幸をまず綴った。ついで分県願望の四つの理由を具体的に挙げた。すなわち県の離合の被害は殖産・工業・教育・商業に多大の影響を及ぼしているけれども、最大の影響を受けて著しく衰微したものは教育をもって第一とする、教則のごときは「合スルニ変シ離スルニ更(かわ)リシカ為メ」、生徒日常に疑いを持ち父兄は子弟就学を好まなくなったこと、県立師範学校は松山のみにあるため遠い道程とその他の不便でもって讃人の就学者は少なく、明治一四年の調査によると伊豫から入校した者八〇人に対して讃岐からは二二人に過ぎず豫八に対し讃二強の割合である。教育の振るわないことこのような状態であり、殖産・工業・商業・教育を回復して振起させるには必ず分県を実現しなければならないと、分県願望の第一の理由を教育の不振などに求めていた。
 第二の理由としては地理の不便を挙げている。県庁までの道程が最西部豊田郡で陸路三〇里・海路四〇里、最東部大内郡では陸路六〇里・海路六〇里を隔てていること、その間、陸路は「險峰断続峻巒囲繞(らんいにょう)道路突兀(とつごつ)ニシテ行路頗(すこぶ)ル艱難(かんなん)」で、豊田郡から急行庁下に達するには三日間の道程を要すること、海路を取る場合は皆多度津から汽船に乗らねばならないが、遠隔地の者は多度津まで一、二日を費やし波が荒れ狂うときには二、三日も港に滞在させられる、「海陸二途不便ナルヤ此ノ如シ」であるので、臨時特急の事故があるときには県庁が遠隔であるために繊細な事も重大な事となり、細民のごときは県庁に行こうと欲しても道程が遠くて費用のかさむのを恐れて県庁に至ることができないので、伸長せらるべき権利を伸長することができず、得るべき幸福をも得ることができないと説いている。
 さらに地形が異なれば人情もこれに付随して異なり、好尚希望の趣を異にするのは免れないところであるとして、地形・人情の差異を第三の理由にしている。讃岐の地は「東西ニ延長シテ南北ニ狭短シ且ツ山峰少フシテ平地多ク」、伊豫の地も「亦タ東西ニ延長スト雖トモ南北ノ狭短讃地ノ如キニアラス、加之(しかのみならず)屹境(きつきょう)巒峰(らんほう)重畳(ちょうじょう)平地ハ僅々其間ニ散在スルニ過キス」と地形の違いを指摘、人情の異なる例として、昨年の通常県会で讃岐出身議員が讃州特産砂糖の改良進歩を図るため海外伝習生派遣を建議したにもかかわらず糖業に従事する者が少なく現今の衰頽を痛感しない伊豫出身議員がこれを廃案した事項を挙げ、「之ヲ要スルニ地形人情ヲ異ニスルノ結果ト云ハサルヲ得ス」とした。
 第四の理由として経済の不均衡を挙げている。一三年度決算報告から讃岐人民の徴収額と讃岐地への支出額の収支相償わない点を数字で具体的に示し、年々四万円余の金額を讃岐より伊豫に補助していると指摘、「実ニ此年々棄捐スル四万円余ノ金額ハ永ク豫地ニ留リテ豫民ノ幸福ヲ図ル材料トナリ」、「讃民ハ一家ノ財産ヲ年々減々減損スルモノト云フモ可ナリ」と、讃岐の損失を慨嘆していた。
 以上列挙したように、数の離合、地理の不便、地形人情の異同、経済の不均衡を分県の四つの理由に挙げ、我らがこれを喋々しなくても久しからずして、閣下はこれを知了せられて早晩予讃を分割されることを信じて疑わないところである、けれども、「閣下之ヲ割ク、一日之レヲ速ニスレハ我々讃州人民ハ一日ノ福利ヲ益シ、之レヲ割ク一日之レヲ遅クセハ我々讃州人民ハ一日ノ福利ヲ欠クヘシ」「閣下、宜シク讃州人民ノ哀情ヲ憐ミ生等ノ微志ヲ貫徹セシメ、以テ一日モ速ニ讃州人民ニ福利ヲ与ヘヨ、一日モ速ニ豫讃ヲ割キ別ニ讃岐ニ一県ヲ置キ高松ニ県庁ヲ設置シテ豫州人民ヲ安スンセヨ」と哀願していた(資近代2 二二~二五)。
 この集会後、分県運動は日々高まり、明治一六年二月東讃地方各郡から選出された三名の請願委員が連署して願書を内務省に上申した。
 内務省は、田積・人口が他県に比べて狭少であり到底一県を維持するの実力なしとして讃岐分県に難色を示したようであり、讃岐国を愛媛県から分離して新しく徳島県と合わそうと協議中との情報も相当の信用性をもって伝えられるようになった。これに応じて分県運動を推進していた渡辺克哲らは徳島県との合併を画策しはじめ、徳島県と合併するのならば愛媛県に留まったままでよいとする一派も生まれ、政府にその意を請願しようとする動きを示した。さらに明治一五年の分離請願運動に参加しなかった香川郡の県会議員小田知周や阿野鵜足郡長を務めた山田政平らが「独立置県旨趣要領」と、「拙者義毫(すこし)モ阿州ニ合併ヲ好マス豫州ニ附従ヲ望マス飽迄讃岐国独立置県希望ノ有志ニ候間御同盟仕候也」といった檄文を配布して賛同署名を集めた(資近代2 二八二~二八三)。小田は東京改進党に加盟して渡辺ら自由党系と対立していたから、分県運動は政社間の思惑を帯びて混乱した。
 こうした中で、独自の国会開設請願運動を実行して全国的に知られた寒川郡の県会議員小西甚之助は、安井勇平(阿野郡)・蓮井慎一(寒川郡)の二県議や間島馬二・間島南海士・西条欣吾ら同志一〇名と連署して、明治一八年一一月一八日付で「豫讃ヲ分割シ讃岐高松ニ県庁ヲ設置ノ儀ニ付建議」を内務卿山県有朋に提出、讃岐人一般の意志は讃岐国の分県独立にあることを明言して、分県の早期実現を要望した。建議は、まず明治一六年讃岐人民よりの独立分県哀訴請願を政府が許容しないことを憂え、「政府ノ意若シ讃岐ニ一県ヲ設置スルモ讃岐ハ田積人口共之レヲ他県ニ比シ寡且狭ニシテ到底一県ヲ維持スルノ実力ナシ」と見るならば誤った認識であるとして、豫土阿三国の田積・人口を比較、四国中にあっても我が讃岐の田積及び人口は単に伊豫にのみ数を譲るけれども、土佐・阿波に比べればあるいは超過しあるいは対等であるといえようと反論、さらに全国七三州でも中等以上に列するとして田積・人口の水準を論証した。また讃岐の特産物砂糖・食塩は質量ともに全国の重要部に属し取り引き金額も少々のものではないとして、田積・人口から見ても貧富の度をもってしても、我が讃岐は中等以上に列する土地であって十分に一県独立し得べき資格ある国柄といわざるを得ないと強調した。ついで、目下讃岐では讃岐を徳島県に合わそうと望む党と在来のままに据え置こうと欲する党とが対立勃興し、両党の者が各々上京して一通の願書を内務卿に上程したことがあり、これが我々をして請願の緊要なるを感ずるに至った理由であるとした。ついで、徳島との合併や愛媛県に留まるという説が分県運動の中で如何なる背景をもって起こったかは知らないけれども二者とも至当の言ではないとして、地理・経済・人情の三点から二説を論難した。豫讃合併のままの弊害の論旨は明治一六年請願の内容とほぼ同一であった。この後、建議者は、愛媛県の管轄を離れ讃岐において一県の設置を希望するのはほとんど全讃の世論であり、在来のまま据え置くことを希望するの論者と徳島との合併論者との間に大きな軋轢(あつれき)を生じないためにも讃岐の一県設立が切要であり、政府がこの際一県の設立を許容されれば一国の昌平無事を期することになるので、「仰キ願クハ閣下私共ノ微意ヲ憐レミ此際讃岐ニ於テ一県独立ノ設置アランコトヲ、伏テ哀願奉リ候」と訴えた。
 讃岐の分県運動は党派的対立を含みながらも県会議員中野武営や菊池武凞ら改進党系も加わって政府・内務省への陳情が続けられた。こうした讃岐の民意をくんで、政府が香川県を再置したのは明治二一年の暮れであった。一二月三日勅令第七九号で香川県の設置が公布され、同日付で逓信局内信部長の林薫が香川県知事に就任した。愛媛県からの香川県分離を最後に全国行政区は三府四三県となった。
 「海南新聞」一二月一一日付は論説「告豫讃人民」を掲載、「香川県を置かれ愛媛県と其管轄を異にする」ことになったが、「豫讃人民は十数年間同一の県下に在り同一の県会に代議士を出し相倶に地方の利害得失を討議せしのみならず、其邦土は相接し海路の交通又自由なるを以て所謂(いわゆ)る歯唇相親しみ輔車相依るの国柄なれば」、「従来の友誼(ゆうぎ)を空ふせず互に猜忌(さいき)の念を去り相偕に親愛して、政治なり商業なり之れを他方に向て拡張するは実に各自の幸福にして亦南海の名誉と謂ふべし」、「豫讃の分界を去り広く四国に眼を注ぎ将来南海男児を以て天下に立たんと切に希望して措(お)かざる所なり」と訴えた。

図1-17 香川分県の戯画

図1-17 香川分県の戯画