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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 三大事件建白と大同団結運動

 三大事件建白運動の展開

 明治一七年一一月の自由党解党を頂点に、各地における政社を中心とした民権運動は行き詰まった。愛媛県でも、海南協同会が同一八年一二月解散し、民権運動はその組織を失った。こうした「政海頗(すこぶ)ル穏ヤカ」(『政党沿革誌』)な状況の中で、明治一九年三月の県会議員半数改選で藤野政高(温泉郡)と岩本新蔵(下浮穴郡)が当選した。藤野は議員資格に必要な財産を持たなかったが、温泉郡藤原村の地主吉田唯光が地租一〇円に相当する地所を貸与して藤野の望みを実現させた。岩本は山口県人で松山千船町に寄留中であったが、下浮穴郡西野村(現松山市内)に転籍して同村戸長宮脇信好から地所を借り受け県会進出への目的を達した。藤野・岩本ら本県民権運動の担い手たちは、資産家有志の保護を受けて県会に進出し、地域に密着し県民の関心を高める運動目標を探求していた。これに対応するかのように、全国を揺り動かし愛媛県の政治運動を盛り上げる契機となったのが、いわゆる三大事件建白運動であった。
 三大事件建白運動は、外務大臣井上馨の条約改正案に反対することを皮切りに、外交失策の挽回に加えて言論集会の自由と地租軽減を要求し、さらには地方自治の確立を主張するという三ないし四項目の建白書を携帯した全国各府県の建白有志総代が東京に結集、明治二〇年一〇月から一二月にかけての最高潮の時期には連日のように会合を開いて、伊藤内閣に揺さぶりをかけた運動であった。三大事件建白運動開始や全国的規模での組織による運動方針の決定の時期などは必ずしも明確でないが、八~九月において高知県をはじめとする各地域の有志総代層による元老院への建白という運動が、「マッチを磨して枯葉を焼くが如く」(『自由党史』)全国に広がった。
 三大事件建白運動の愛媛県下での出発点は、八月臨時県会閉会後の″道後会談″にあった。藤野政高・小林信近・高須峯造・堀部彦次郎・浅井記博・平塚義敬・岩本新蔵・玉井正興ら県会議員有志と長屋忠明・白川福儀・内藤正格らが道後で会合、各郡で建白書を起草して署名を集め、高知県有志総代が上京するのに合わせて各郡総代も建白書を携帯上京することを申し合わせ、高知と連絡通信しながら建白運動の準備を始めた。この推進者は藤野政高で、「非常ノ熱心ニテ自カラ佐倉宗五郎ヲ気取リ自己ノ財産ハ悉(ことごと)ク抛(なげう)ツノ覚悟ヲ為シタリ」(『政党沿革誌』)といった意気込みであった(資近代2 五九九)。
 こうした動きの中で、一〇月二九日片岡健吉・星亨ら諸県代表四〇余名が東京で会合、「各地ヨリ差シ出ス建白書ハ遅クトモ十一月十一日迄ニ東京ニ着スルコト」「全国有志者ノ大懇親会ハ十一月十三日ニ開クコト」の運動方針を決定した。この会合に代表を送らなかった本県には片岡健吉名で決定事項が通報された。藤野は白川福儀らと図り建白書を同志に頒布して署名集めを促した。この結果、二月七日の有友正親を総代に曽根一真・亀岡哲夫ら有志九名の署名になる喜多郡大洲の建白書を最初に、一一日総代人白川福儀・藤野政高をはじめ一八四名の署名になる温泉郡建白書、二四日岩本新蔵を総代人とする下浮穴郡一一二名の建白書と平塚義敬を総代人とする喜多郡新谷四九名の建白書が県庁を経由して元老院に提出された。ついで一二月には伊予郡と東・西・北宇和郡の建白書が出され、合計八通、その署名者は総計六〇六名にのぼった。県庁文書綴の『明治二十年秘書雑書』(愛媛県立図書館蔵)に収録されている八通の建白書から、署名者の内訳を示すと表1―103のようになる。
 建白書中最多の署名者を集めた温泉郡の建白は、松山市街四四名と周辺農村三〇か村一四〇名にのぼった。松山市街では、藤野・白川・長屋忠明・門田正経・林常直・内藤正格・松下信光ら士族のほかに、高須峯造・井上要ら寄留・代言人や長阪周次郎・城戸昱三郎ら商人・旅館業者も名を連ねていた。建白文は一〇月元老院に提出された植木枝盛ら高知県有志の建白書を参考に白川福儀が起草した。建白の文章は、「愛媛県人民某等百拝頓首連署シテ書ヲ政府ニ捧呈ス」に始まり、「封建ノ制ヲ廃シテ郡県ノ治ヲナシ」「立憲政体ヲ確立スヘシ」「国会ヲ開設スヘシ」との聖旨の下で、「政府ハ須(すべから)ク其ノ政治ヲ改メ、其方針ヲ飜シ、早ク天下ノ正義ヲ容レ、与論ノ赴ク所ニ従ヒ、以テ国益民福ヲ量リ、上下意ヲ同フシ君民力ヲ戮(あわ)スノ計図ヲ為スヘシ」と要望、ここに「某等国家ノ為ニ、……忌諱ヲ忘レテ尽言シ敢(あえ)テ建議ノ已ムヘカラサルモノヲ左ニ具状スヘシ」として、「第一 租税ノ事」「第二 言論集会ノ事」「第三 外国交際ノ事」に分けて、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回を論述、「以上ニ書スル三要件ハ某等ノ急ニ改正ヲ請ハント欲スルモノ」であって、「其国家ヲ思フノ純忠至正ニ出テタルヲ亮察シ、至正公正ニ之ヲ裁セヨ」と結んでいる(資近代2 五九九~六〇五)。喜多郡・下浮穴郡・伊予郡の建白文はこの温泉郡のものを複写したものであった。
 一二月に提出された東・西・北宇和郡の建白書は松山とは別の動きで作成された。宇和島を中心としたこの地方は中央で活躍する末廣重恭(鉄腸)の故郷であり、民権運動に携わっていた山崎惣六・二神深蔵らは末廣らと気脈を通ずるほか高知県宿毛の林有造とも親密に交際していた。また高知の旧自由党員で代言人の坂義三が数年前から宇和島に来て政治運動を指導していた。したがって、建白運動が始まると山崎・坂らは宿毛に行って林有造と前途の方向を協議して帰り、旧里正その他農商民の重立つ者を勧誘して建白の準備に取り掛っている。署名集めに当たり、宇和四郡を南北・東・西の三区に分け、各区から一通ずつの建白書を提出、建白書の事項は「第一 租説ヲ軽減スヘキ事」「第二 言論集会ヲ自由ニスヘキ事」「第三 外国交際ニ関スル事」「第四 地方自治ノ基ヲ立ツヘキ事」の四項とすることを申し合わせた。建白文は、谷干城・板垣退助の意見書に林有造・白川福儀らの建白書を折衷したもので、小松信次郎・西村静一郎が起草した。脱稿すると、山崎らは四方に奔走して同意者を勧誘した結果、南北宇和郡で山崎・坂をはじめ堀部彦次郎・清水新三ら五六名、西宇和郡で鈴木正修・浅井記博ら三八名の連署を得て一二月八日に、東宇和郡では清水静十郎・古谷周道ら八二名の署名を集めて一二日にそれぞれ県庁に提出した。
 以上のように、一一月から一二月にかけて、県庁を経由して元老院に提出された愛媛県(伊予国)からの建白は中予と南予の各郡からのものであり、東予地方の建白書はなかった。東予でも、新居郡の渡部奇秀・岩田久造・丹正之らが藤野の依頼で建白運動に奔走したが、彼らは西条政談演説会葬儀事件に関連した恐喝取財未遂事件の刑で出獄直後の監視中の身であって、活動が束縛され建白書取りまとめまでに至らなかった。また植松暢美(県会議員)・天野精吾(元県会議員)らによる建白同意者募集の動きもあったようであるが、成功しなかった。
 東予地方で失敗したように、建白運動は順調に実行された訳ではなく、常に官憲の圧迫や郡吏・町村戸長の妨害・干渉にさらされた。「海南新聞」一一月一〇日付は「村吏の人民を諭説して其調印を非難し、成るべく其の調印せざるを欲するのみならず、甚だしきは治安に害ありと言ひ触らすの輩もあり」と報じた。ついで同月一三日付の論説で、明治九年一月の太政官布告「建白差出方心得」や人民の府県庁を経由しての元老院への請願権を認めた同一三年一二月九日太政官布告第五三号の条文を掲載して、今般当県下およそ二〇〇余名の有志諸氏が建白せんとすることも即ち此等の規則に準拠していることであり、意見書に各々その本貫、身分、姓名、年齢、職業、住所を詳記し、その姓名の下に捺印して管轄たる当愛媛県庁に差し出し、この進達方を請いたいと言えば、その手続は至当であってその挙動もまた穏当であると建白手続を解説、「夫れ国事に憂ふべく悼(いたむ)べきもの有りとせば、宜しく之が法律に従つて其意見を上陳するは亦国民たる者の本分と習ふべき歟(か)」と、建白への参加を勧めた。建白書を受け付けた県は、係官が審査して「語勢少ク不穏当ノ感之レアリ候得共、要スルニ立法ニ関スル建白ニシテ、該法規ニ遵由シ他ニ触ルヽ廉之レ無キト認ル」との意見を付して県知事の奥印を求め、元老院議長に進達した。
 一一月一二日、藤野政高は温泉郡建白者総代として白川福儀と共に上京の途についた。ついで下浮穴郡総代岩本新藏が同月二六日に、西宇和郡の鈴木正修と北宇和郡の坂義三が一二月一〇日と一五日にそれぞれ出発した。先発した藤野らは、各県の有志総代が揃わないうえ建白相手の伊藤首相が出張不在中などでなす術もなく滞京一か月に及び、ついに旅費に窮するところとなり、白川は金員の調達に帰県しなければならなかった。一二月一五日、二府一八県の総代九〇余名がようやく会合、建白書を元老院に提出して天皇への上奏を要請することに決し、代表委員をして元老院への交渉や伊藤首相に会見を申し入れることになり、藤野も委員に選ばれた。
 一二月二五日、政府は突然「保安条例」を発布して上京中の運動家五七〇名に皇居三里以外への退去を命じた。藤野らは抵抗も空しく帝都を退いた。藤野は後年「海南新聞」紙上でこの時の様子を次のように述懐している。

 当初(一二月二六日)片岡君の宿所たる久保町の金虎館に集って一同密議いたして居りますと、宿の主人が色を蒼くして二階へ上って来て旦那様大変で御座居ます、巡査さんが大勢参りましたとの注進ですから、私共も度胸を定めました、決して退去命令には服従すまい、命令に従はなければ必ず入獄さすに定って居る、若し我々各県の代表者一同を入獄したとなると又必ず全国の有志が騒ぎ出すであらう、然(さよ)うなると反って我々の目的を達する上に好都合であるから此処は一番退去命令に従はずに入獄しようではないかと、重立った人々が相談をして居ますと、大勢の警察官が靴のまゝで座敷に踏み込みまして、藤野政高、何の某という風に警部が名を呼びますから、私等は皆ハイハイと云って泰然と構へて居ましたから、警部も聊(いささ)か意外に感じましたらう、警察では定めし抵抗するであらうといふ見込みで、四十人程の我々同志に対し百名からの警部巡査が来たのですから、偖(さて)、御用があるから愛宕下警察署へ来いといふので、一人に付二人の巡査を以て拘引せられ、やがて同署警部は私に対して保安条例により二ヶ年間王城三里以外に退去を命ずと厳かな言渡です、私は保安条例などいふ法律が日本にありますか、兎も角私は退去を命ぜられるゝやうな理由がない、斯ふやりましたら保安条例は昨日発布されたのであると申します、然らば内容を承りたいと又た一歩切り込むと、今内容を示す必要はない、直ちに退去せよといふ、私は警部の命令ですけれども入獄して天下の人心を沸騰させようといふ考ですから、内容も解からぬ法律に服従する事は出来ぬと申しましたら、案の定警部は私を捕縛して警視庁拘置檻に投(ママ)り込みました、翌二十七日東京裁判所へ送られ、どうしたものか裁判所では何の取調もなく直ちに石川島の監獄署へ送られんとして、又検事の調を受けることとなり、初て同志の面々と逢いましたので、見ると総員二十名計り、同志は確か五百余名あったに、入獄して居るのが僅々二十名とは実に心細い、之では到底天下の人心を沸騰さす事も出来ぬ、寧ろ退去命令に従ひ一応国に帰り再挙を計るが得策であると思ひまして、何でも出獄する方法を講ぜなければならぬと考へて居ますと、幸ひ検事が何故退去をせぬかとの問ありし故、私は未だ曽て保安条例なる法律を知らぬのみならず、二十五日は日曜日であったから是れまで日曜日に法律の発表せられた例もないから、自分の知らぬ法律に服従することは出来ませぬと答へたのです、検事は然らば其保安条例を見せてやるから命令に従ふかと言ひますから、真実そんな法律があるなら従ひませうと、検事が見せた条例の綱領を見ました処で、検事は見せてやったからは従ふであらうと言ひます、私は当初目算の齟𪘚(そご)した為め出獄を希望して居ます所ですから、斯ういふ法律が出来て居る以上は直ちに退去致しませうと答へて、漸く二十八日の午後に放免せられて出獄しましたけれども、退去命令を受けて居る身分ですから、二人の巡査と同道で一応旅館に帰りますと、直ちに行李を調へて川崎まで退きました処が、川崎には林有造君も居られて何かと相談も致したいけれども絶へず警察官が身辺を離れず追いて居まして、宿に泊れば次の間に巡査が居るといふ有様で、迚も密議も何も出来ない、之では所詮駄目だと思ひまして、横浜へ参りますと、星亨君や其他の有志が居りました、併し相変らず警察官が影身に添ふて居ますから此地でも謀議を凝らすことが出来ない、其処で星君に一軒家を借らして其家を本城と定めましたけれども又駄目です、警察の目は其家の周囲を包んで少しの油断もない、モウ駄目だ、之では到底我々が事を謀る事は出来ないから時機を見て再び計画することとして、私共は一先帰国しようと横浜から飛脚船に乗って神戸に上陸しますと早や既に警察官が待迎へて居まして、宿屋に着いても少しも離れない、神戸から船に乗って松山に帰って来ると、警察でも少しの注意もしないやうで、誰も何の事もしない、此時は実に私は慷慨悲憤に耐へなかったです、斯く事志しと違ふて空しく故郷に帰った、

 大同団結運動と県政界の動き

 保安条例の弾圧で挫折した三大事件建白運動は、大同団結運動と軌を一つにする反政府運動としてとらえられる場合が多い。明治一九年一〇月星亨・中江兆民・末廣重恭ら旧自由党有志は東京で全国有志大懇親会を開き、「小異を捨てて大同を旨とす」る超党派の反政府運動を提唱した。改進党は、同年四月の定期大会で地租軽減・言論集会の自由・地方自治の建白を決議して政府と対決しようとしていたから、この呼びかけに応ずる動きを示した。翌二〇年五月大阪での全国有志懇親会で旧自由党系と改進党系有志の連携は一層進み、大同団結の基礎固めができた。
 この有志懇親会には海南新聞記者の白川福儀が出席、海南新聞は八月二五日から二七日にわたって「意見投合の時代到れる乎」と題する社説を掲げて、「嗚呼(ああ)吾人は政治の改良を希望して止まざるものなり、政治家の苦心を感謝して止まさるものなり、而して党派多岐の弊を察して私(ひそ)かに憂懼(ゆうく)せしものなり、今にして政治上の重もなる勢力家が、自ら言ひ自ら行きて他の同情を求め他の同行を求め意見投合の時機を造るに遭ふ、豈に之を欣せさらんを欲するを得んや」と自由党と政進党の大同団結を歓迎し、それが単なる中央政界における超党派の運動に終始することなくより広範な大衆基盤に立つべきこと、そのうえでそれぞれの党派が主体性において提携すべきことを主張した。また九月二〇、二一日付で社説「愛媛県人将来の国事に対する挙動」を掲げて、愛媛県人が「天下の大勢を洞察し、政界の流潮に後れざる」ことなく「時に及んで憤発勇進し、遠く政海の波瀾を蹴破して彼岸に達する」ことを期待した。その間、大同団結運動提唱者の一人である朝野新聞記者末廣重恭が四月二五日に宇和島に帰省して六月一五日まで滞在、五月一一日には宇和島追手融通座で政談演説会を開き、一、〇〇〇余人の聴衆を前に国会議員選挙に向けて民心を喚起した。九月下旬には朝野新聞記者で宇和島出身の城山静一が松山の政況視察に訪れ、一〇月には海南新聞社が主筆に慶応義塾出身で旧自由党の論説委員として活躍していた永田一二を招聘した。永田は門田正経・井上要らと一一月一五日松山小唐人町二丁目の新栄座で、一二月八日には高須峯造・小西甚之助・中野武営らも加えて新栄座で政談演説会を開催するなど、新聞紙上と壇上で政治的関心への高揚に努めた。一二月八日の演説会には、高知の谷干城を訪ねて広島に向かう途中松山に宿泊した政治小説家東海散士(柴四郎)が傍聴に来ていた。
 この時期、三大事件建白運動が全国で展開されていたが、大同団結運動はこれを利用した形で推進され、一〇月丁亥倶楽部を設立して有志の団結を訴えた後藤象二郎が運動の中心的存在であった。三大事件建白が挫折し、明治二一年二月大隈重信が外務大臣に入閣すると改進党が大同団結運動から離脱した。後藤は、大同団結の機関誌『政論』を発行し、各地を遊説して地方が団結して組織を強め国会議員選出の地盤を固めることを説いた。この地方団結の主張は『政論』主筆末廣重恭らの考え方であり、それは改進党を排除した旧自由党系の結合による国会での多数派獲得を意図しており、三大事件建白を進めたころの大同団結運動とは質的に変化をとげたものであった。愛媛県での地方団結運動は旧松山藩の士族を結集するという形で開始された。
 保安条例で帝都退去を命ぜられ、明治二〇年の暮れに空しく帰県した藤野政高は、翌二一年一月一五日海南新聞社内で白川福儀・門田正経・林常直・岩本新藏・井上要らと今後の建白運動の進め方について協議したが方向を見出せず、同月二〇日高知に赴いて林有造らと会談し時機を待つことになった。こうした時、松山藩の家老で維新後大参事を務めた鈴木重遠が帰郷した。鈴木は、「藩中屈指ノ人物」で、昌平坂学問所に学んで漢学に通じ、「才学並ヒ秀且ツ世事ニ老練シ人心ヲ左右スルノ力アリ」と評せられており、藩主久松氏の内意を受けて松山に帰った。その内意とは、『政党沿革誌』によると、「松山藩士ハ維新ノ際誤テ一時天下ニ汚名ヲ取リ遺憾」であるにもかかわらず、「維新ノ後モ一トシテ天下ニ為スコトナク坐食遊惰ニ安ンジ」、「近年日一日ト柔弱卑屈ニ陥リ甚シキハ困窮離散ノ様ヲ呈シ、今亦天下ノ蔑視スル処トナルハ深ク遺憾トスル処」である、「偶々志士アルモ互ニ孤立ノ姿ニテ共同団結ノ力ニ乏シク、政事ノ思想ナキニアラサルモ之レカ主領ニ立チ常ニ方針ヲ示シテ士気ヲ鼓舞スルモノナキカ故ニ、士気衰頽シテ益々振ハス」、「今ヤ国会開設ノ期ニ臨ミ吾国第二ノ大変革アル時ナルニ共同団結スルナケレハ亦従テ何等ノ定見モ確立セス、恬(てん)然トシテ糊口ニ汲々シ敢テ天下ヲ顧慮セサルカ如キ状況アレハ、旧藩士ノ為メニ遺憾措(お)カサル処」であるとして、鈴木に旧藩士族の誘導方を委嘱したという。藩主の意図を打ち明けられた藤野・白川らは、鈴木の名望を回復するため明治二一年三月の県会議員選挙に温泉郡から出馬させることを画策した。鈴木もこれには異存なかったが、同郡出身県議で改選を迎えたのは県政財界の重鎮として「其名望或ハ鈴木ノ右ニ出ツル」(『政党沿革誌』)小林信近であった。小林は、当時県会議長のかたわら松山商法会議所の会頭などを務め、伊予鉄道会社の創設に奔走していた。藤野らに県会勇退を求められた小林は、幕末維新時上席の役職にあり長年の知己でもあった鈴木に議員の座を譲らざるを得なかったが、実際には「憂鬱(ゆううつ)楽マサル」心境での譲歩であった(資近代2 六一〇)。
 県会議員選挙には鈴木のほか長屋忠明も風早郡から出馬して当選した。長屋は公共社解散後キリスト教の洗礼を受け布教活動や松山女学校設立に尽力するうちに病魔に犯されるなどして政界から一時退いていたが、藤野に要請されて郡長として住民の声望を得ていた選挙区から立候補した。鈴木・長屋は来るべき国会議員選挙での有力議員候補であり、名望を定着させるためにも県会に送り込むことが当面必要な処置であった。
 県会議員に当選して士族団結の代表を任ずる鈴木重遠は、藤野と白川を秘書官同様の手足として旧藩中の人物を誘導して合同団結し基盤を固めていった。藤野・白川らは、政談演説会では民約憲法・国会一院制・政党内閣の実現など旧自由党の綱領を挙げて自由急進主義を説いていたが、旧藩中の有志を率先者として漸次一般に及ぼす方針でもっぱら旧藩士団結の斡旋の労をとり、鈴木らを国会に送り込むための全国的な党派結合を意図して後藤らの大同団結運動に参加していった。宇和島地方では坂義三が山崎惣六・清水新三らに説いて大同団結運動の地方政社結成を促したが、時期尚早の声もあってまとまらなかった。
 明治二一年一〇月一四日、中江兆民・植木枝盛らの発企で大同派の全国有志大懇親会が大阪で開かれ、伊藤内閣の打倒や各県同志者の拡大などを決議した。この会には、松山から鈴木重遠、宇和島から坂義三と山崎惣六が出席し、大同派の勢力強化のため鈴木が東中予、坂が宇和四郡の周旋委員を嘱された。坂・山崎の上阪は、中江・植木の文書要請に応じたものであったが、同志の清水新三・堀部彦次郎に相談しなかったので、彼らは山崎・坂に絶交状をつきつけた。宇和島の政治運動は、これまで坂義三と山崎惣六を中心に進められていた。山崎は天保一四年(一八四三)生まれの宇和島士族、若き時代は剣客として鳴らした義俠の人で、明治一四年青年書生三〇余名と民権結社蟻力社を組織、同社はほどなく解散したが、以来宇和島に来る活動家は必ず山崎を訪れるといわれる名士となった。この山崎を頼って土佐の民権家で代言人の坂義三が明治一六・七年ころ宇和島に寄寓、三大事件建白運動の担い手として活躍した。坂には同じ代言人の清水新三らが同調、万延元年(一八六〇)醤油醸造の資産家に生まれ若くして県会議員になった堀部彦次郎らが参加したが、堀部は坂らの政社結成の動きに不快の感情を示し清水らを誘って今回の仲違いとなった。

 愛媛倶楽部伊豫倶楽部

 松山では、小林信近・高須峯造・森恒太郎らが、鈴木・藤野らに反発する動きを示し始めた。小林は、「自分固ヨリ自由改進ノ主義ヲ採レリ、而シテ其主義ニ至テハ毫モ異ナル処ナシ、故ニ改進ハ飽迄望ム処ニシテ進歩セサレハ成ラサルナリ、然レトモ改進ニ緩急ノ序アリ、旧自由党員カ往々過激粗暴ノ行為アルハ実ニ吾輩ノ好マサルノミナラス忌避スル処ナリ」と藤野ら旧自由党系の主義主張を批判し、「今ヤ政府ハ欽定憲法ヲ布クニセヨ、又議院ハ上下両院ヲ置キ内閣ハ現政府ニ立ツ処ノ有司ニ依テ成立スル等ノ如キ、斯ハ素ヨリ余輩ノ満足スル能ハサル処ナルモ、之レヲ改良スルニハ宜シク秩序ヲ追ヒ漸ヲ以テ改良スルノ策ナキニアラス、苟クモ過激粗暴ノ挙動アルヘカラス」(『政党沿革誌』)と公言、改進党と連携を深めた。小林のこうした言動を憂慮した近藤明敏・桜井義廉・野田直幹ら松山士族有志は、藤野らとの仲裁に奔走したが効を奏さなかった。高須は安政四年(一八五七)生まれの越智郡平民で慶応義塾に学び、帰県後明治一六年の越智郡選出議員欠員による繰り上げ当選で県会に列してからは、同一七年と同二一年選挙で連続当選して才気活発な論客として活躍、また同一六年に代言人免許を得て以来松山に居住し、同業人の藤野政高と公私ともに親密な交際を持っていた。しかし鈴木重遠帰県後、藤野らが松山士族中心の大同団結を推進するにおよび、高須は大いに不快の念を懐き、小林をかついで県内改進党の組織化に奔走するようになった。
 小林・高須は、藤野・白川らの海南新聞に対抗して機関新聞を発刊することを企てた。高須は同志の森恒太郎と共に八月三一日松山を出発し、かねて親交のある県内各地の県会議員を訪ね、同志的結合と新聞発行の賛同を求めた。この結果、平塚義敬・有友正親(喜多郡)、清水新三・堀部彦次郎・清水隆徳(宇和郡)、石原信樹・村上芳太郎(越智郡)、河原田新(野間郡)、都崎秀太郎(讃岐国)らの有力同志を得ることができた。これらの人々の醵金(きょきん)により「豫讃新報」が創刊されたのは明治二一年一〇月二〇日であった。編集は高須・森・河原田が担当し、印刷は山本盛信の経営する向陽社が請け負い、やがて鹿児島新聞記者で宇和島人の元吉秀三郎が主筆に迎えられた。同月二九日には改進党の論客で京浜毎日新聞記者肥塚龍を招いて政談演説会を開催、豫讃新報創刊の記念行事とした。同夜、松山小唐人町一丁目改良席で開かれた演説会には、肥塚のほか高須・堀部・河原田・森らが弁士を務めて改進主義を喧伝、聴衆二、〇〇〇余人で藤野・白川も聴講するなど、文字どおり愛媛改進党の旗上げであった(資近代2 六一四~六一八)。
 一一月一一日、臨時県会開会を機に松山に参集した改進主義者二〇余名は、二番町花廼舎に会合して松山榎町の豫讃新報社内に豫讃倶楽部を創設することを決議してその規則を定め、幹事に小林・高須と窪田節二郎を選んだ。同規則は、「本会ノ目的ハ同士ノ人相会シテ懇親ヲ結フニ在リ」(第一条)以下、毎月第二日曜日に月次会を開き、毎年一一月総会を開くこと、新入会員は会員の紹介により月次会の承認を得ること、毎月の会費は三〇銭であることなどを定めていた。この倶楽部には、高須・窪田・平塚・有友・清水(新)・堀部らのほか、池内信嘉(野間)、村上寛治・村上芳太郎・武田徳太郎(越智)、紀伊郷篤・山中好夫(宇摩)、弘岡元三郎(喜多)、清水隆徳・兵頭昌隆・浅井記博・佐々木壽加松(西宇和)、清水静十郎・別宮周三郎(東宇和)、岡原丈一(南宇和)、石井文太郎(豊田)、前川彬量・大久保諶之丞(三野)、本間重明(那珂)、菊池武凞・小田知周(香川)、都崎秀太郎(阿野)、宮井知良・宮井十四吉(鵜足)らの県会議員が加盟し、県会での過半数を制する勢いとなった。
 大同派は、改進党系豫讃倶楽部の結成に憂慮を深めた。藤野らは県会議員中改進党系でない人々を説いて、一一月一〇日鈴木重遠宅に参集を求め、大同派加盟を促した。これに応じたのは、すでに鈴木らと行動を共にしていた長屋忠明(風早)、岩本新藏(下浮穴)、玉井正興(久米)のほか渡部操(下浮穴)、和泉理太郎(那珂)、漆原武夫(山田)の六名のみで、植松暢美・大原正延(新居)、兼頭耕平(周布)、杉芳輔(桑村)、二宮致知(北宇和)らは心情的に大同派に同意するが、表面上しばらく中立を維持したいとした。期待したほど同志を得られなかった大同派は、一五日鈴木宅に藤野・白川・内藤正格・近藤明敏らが会合、今後の同志募集方法を検討した。
 藤野は「世人ハ常ニ吾々カ言行ヲ目シテ恰モ旧自由党再燃ノ如ク思ヒ、或ハ過激ナリ粗暴ナリトノ畏懼(いく)ヲ懐キ暗ニ避クルカ如キ」傾向にあるので、「旧自由党ノ再興ヲ謀ルニアラス、単ニ天下ノ大同団結ヲ謀リ、国会議場ニ吾カ同意者ノ多数ヲ出サントスルニ在」ることを強調し、極力穏和な運動を旨とすべきであると説いた。また鈴木は、同志募集に当たっては、「各地重ナル人物ヲ説ケハ他ハ之レニ従フモノ」であるから、「先ツ国会議員撰挙権ヲ有スルモノト見込ム可キ人物ヲ説クコトニ注意スヘシ」と述べた。一同協議の結果、吾党組織の趣意書を印刷し同志に頒布すること、追って談話会を設け同志募集の手段に供することに決した。「趣意書」は白川が起草し鈴木が訂正したもので、「第一 吾党ハ社会改進ノ主義ヲ取リ以テ吾人ノ福祉ヲ増進スルコトニ務ム可シ」「第二 吾党ハ完全ナル立憲政体ヲ立テ以テ国是ヲ確定スルコトニ尽力ス可シ」「第三 吾党ハ日本全国中意見ヲ同フスル者ト協心戮力シテ以テ目的ヲ達ス可シ」の「規約」を付し、一二月中に県内の運動家に配布した。
 松山の大同派に呼応して、宇和島地方の大同派も党勢拡張の動きを示し始めた。坂義三・山崎惣六らは、改進派の堀部彦次郎・清水新三らが県会に出席しているのを好機として、一一月二三日宇和島で青年懇親会を開いて青年の同派支持を勧誘した。同月二五日には、玉井安蔵が卯之町、今西幹一郎・赤松範義が野村に赴いて野村の緒方陸朗らを引き入れることに成功した。また同じころ、八幡浜の鈴木正修・清水常紀らは西宇和倶楽部を設けて主義の宣伝に努めた。
 こうした時、一二月三日をもって、香川県設置が発布された。折から開会中の明治二一年通常県会は、一二月七日に解散した。明治二二年一月県会議員の総改選が実施された。二つの政派は総力をあげて県議選に臨み、選挙戦を通じて両派の組織的結合が整備強化されていった。選挙に勝利した改進派は二月一一日豫讃倶楽部を愛媛倶楽部と改称し、機関紙「豫讃新報」を「愛媛新報」と改題するとともに、越智郡倶楽部と宇和島政友会などの支部的政社を設立して組織の強化に努めた。惜敗した大同派は、中立議員の勧誘に奔走するかたわら、二月一七日鈴木宅に藤野・白川・近藤・内藤・坂・玉井正興・吉田唯光・村上桂策・緒方陸朗・宮脇信好が会合して、政社結成について協議した。この結果、県下三地区に南豫倶楽部(宇和島)・北豫倶楽部(松山)・東豫楽部(西条)を設け、三倶楽部が整備された上で松山に伊豫倶楽部を設立することに相談がまとまった。四月伊豫倶楽部は創立され、理事には鈴木・藤野・白川が選ばれた。同規則は、「伊豫倶楽部ノ目的ハ同志者相会シテ懇親ヲ結ヒ、緩急相援ケ憂楽相共ニスルニ在リ」(第一条)以下、伊豫倶楽部は東豫・北豫・南豫の三倶楽部より成立すること、事務所を松山に置くこと、毎年四月に委員会、一一月に総会を開くことなどを定めた(資近代2 六一八~六二三)。

 明治二二年県会議員選挙

 明治二二年一月の予讃分離に伴う県会議員選挙は、同一二年二月の第一回選挙以来二度目の総改選であった。県当局は、選挙に先立ち議員定数の是正を行った。従来の定数は、毎郡人口二万人につき一人の議員を出す割合で伊予国一八郡総数三九名としていたが、明治二〇年一二月三一日時の人口調査では、同一四年一月一日よりも六万四二八人増加していたから、これに対応して新居・周布・下浮穴・伊予・喜多の各郡議員数を増員して、四四名の定数に改めた。
 県内二大政社大同派と改進党は、一二月下旬から一月上旬に県政史かつてない激しい選挙戦を展開した。両派は、それぞれ二、三人ずつの弁士を一組にして政談演説会を各地で開き、また議員候補者は自己の地盤で有志大懇親会を催し、後援会を結成していった。両派の機関紙「海南新聞」「豫讃新報」は、自派の演説会・懇親会の内容を連日掲載し、他派の誹謗記事を掲げて、自派を有利に導こうとした。両紙は、「今の府県会議員は先づ地方の錚々(そうそう)たる人物にして所謂(いわゆ)る地方の粋を抜きたる者なり、故に此議員を除て他に国会議員を撰はんとせば蓋し地方に其人なからん、……故に今日県会議員を撰挙するは実に大切なる時なり」(明治二一・一二・六付 海南新聞、「明治二十三年は議員撰挙の年なり、国会議場に多数を占むると占めざるとは共に此の撰挙の結果に依て決すべきものなれば、議員撰挙の争は最も激烈ならんと想像す」(明治二二・一・八付 愛媛新報)と、今回の県議選を来るべき国会議員選挙の前哨(ぜんしょう)戦といった認識に立っていた。
 両派の選挙運動は、投票日が迫るにつれて一層激烈となり、懇親会を名目とする酒食饗応買収、他候補の誹謗、詐欺などの選挙妨害が相次いだ。選挙戦中激戦区は、松山近郊と宇和郡であった。
 県会解散前の温泉郡選出議員は、鈴木重遠と藤野政高の大同派首脳であり、同派は両者の再選を期した。改進派は、小林信近・池内信嘉の当選を図るために加藤彰・藤岡勘左衛門ら財界人の全面協力を得て政財界における功績を喧伝し、実績のない鈴木追い落としを策した。選挙の結果、小林が六七五点、藤野が五七三点で当選し、鈴木と池内が落選した。松山近郊では、和気郡で白川福儀が敗退したものの、風早郡の長屋忠明、久米郡の玉井正興、下浮穴郡の宮脇信好、伊予郡の宮内治三郎などの大同派が次々と当選し、改進派は明治一五年以来連続して県会に議席を持ち副議長も務めた伊予郡の窪田節二郎が落選するなどの打撃を受けた。
 宇和郡の前県議は、北宇和郡の青木正穀を除いて改進派で占められていた。坂義三・山崎惣六ら大同派は、この選挙が党派拡大の絶好機であるとして、郡内各地で大同懇親会・政談演説会を開いて徹底した浸透を図った。他方、改進党系は候補者のほとんどが現職県議であって、予讃分離直前の県会に出席のため地元を留守にしていたから選挙戦に相当の立ち後れを呈することになった。北宇和郡の堀部彦次郎・清水新三らは帰郷後一二月二七日吉田、二九日松丸、一月二日近永と正月を返上しての遊説を試みた。しかし劣勢を挽回することができず堀部・清水は落選し、北宇和郡は坂ら大同派が五議席を独占した。
 また東宇和郡でも前県議の清水静十郎と別宮周三郎の改進派が、大同派の元県議牧野純蔵と新人の緒方陸朗に敗れた。西宇和郡では清水隆徳・浅井記博・兵頭昌隆の前県議と特設県会以来議会人として活躍し前年まで西宇和郡長を務めていた都築温太郎の改進派が四議席を独占し、南宇和郡で同派の岡原丈一が再選されたものの、改進派にとって北宇和・東宇和で議席を失って痛手は大きかった。しかし県内全般では、改選前圧倒的優勢を誇っていた改進党系が、今回も二一の議席を得て一七人の大同派をかろうじて圧した(資近代2 六二三~六二五)。各郡の県会議員当選者を党派別に分けて表示すると表1―104のようになる。
 右の表によると、複数区で宇摩・越智・上浮穴・喜多・西宇和が改進党、新居・風早・伊予・東宇和・北宇和が大同派と、一党派が議席を独占しているところにこの選挙の特色があったといえよう。わずかの差で敗北した大同派は、藤野政高を両郡に派遣して近藤・兼頭・杉を同派に加盟させることに成功した。改進派は越智郡の村上芳太郎らを急ぎ送ったが巻き返すことはできなかった。この結果、両派の議員数は同数となり、選挙後の組織県会における議長・副議長と常置委員選挙が注目されたが、投票では中立の門屋長平が改進党に同調したため、議長に小林信近、副議長に石原信樹、常置委員に都築温太郎・高須峯造・清水隆徳の改進党首脳が選ばれ、大同派は藤野政高と長屋忠明がわずかに常置委員に当選したにとどまった。

 県内二大政社の組織強化と遊説

 明治二二年三月、憲法発布の翌月に大同団結運動の総帥後藤象二郎が黒田内閣の逓相として入閣した。動揺した大同派は四月二八日東京で合同委員会を開催して今後の運動方針を協議することにした。本県からは鈴木重遠・藤野政高・坂義三がこれに参加した。委員会は後藤の入閣で紛糾、さらに政社結成の是非をめぐり激しく対立したので、藤野ら調和委員が選ばれて調停を試みたが効を奏さず、やがて政社派大同倶楽部と非政社派大同協和会に分裂した。愛媛の大同派は、大同倶楽部に留まり、鈴木・藤野が中央委員に選ばれた。
 大隈の外相就任で改進党が準与党化し、後藤の入閣で大同派が分裂するという中央政界の動向を背景に、県内では改進党と大同派が地盤拡大の抗争を展開していた。両派は、県会議員選挙で明確になった勢力分野を基盤に、県内各地に政治倶楽部の結成を促進した。
 改進派は明治二二年一月越智郡倶楽部、三月宇和郡政友会、六月大洲倶楽部(八月喜多郡倶楽部と改称)、九月西豫倶楽部、一〇月浮穴倶楽部・宇摩同好倶楽部を設立し、大同派は四月東豫倶楽部・北豫倶楽部、九月南豫倶楽部を創設、この三倶楽部支部として宇摩・新居・周桑・久米・温泉・伊豫・北宇和倶楽部などを設け、それぞれ愛媛倶楽部・伊豫倶楽部の下部組織に位置づけた。これに対応して、両派は数郡あるいは県単位の連携を図り、松山から幹部が赴いて政談演説会・懇親会を開き、勢力の整理強化に努めた。改進派は、四月四日清水新三・堀部彦次郎らが小林信近・高須峯造を迎えて宇和四郡連合政談演説会及び懇親会を宇和島融通座で開催、五月二五日には高須・石原信樹らが越智周布桑村三郡懇親会を今治皇太神宮で催した。大同派は、五月下旬周布桑村郡に白川福儀と内藤正格を派遣し、ついで従来改進党の地盤である喜多・和気郡などに藤野・白川・岩崎一高・柳原正之らの遊説を実施した。また長屋忠明が今治の改進派柳瀬春次郎を大同派に勧誘して越智郡に大同派進出のくさびを打ち込むなど精力的な同志獲得活動を行った(資近代2 六二五~六三〇)。
 両派の政談演説会では、弁士は自党の政策や方針を喧伝し他党を激しく誹謗したが、聴衆に理解と感銘を与えるためには演説が巧みで政策に通じた中央の論客を招聘(しょうへい)することが必要であった。この要望を満たす人物として大同派から帰省を促されたのが末廣重恭だった。
 嘉永二年(一八四九)生まれの宇和島士族で当時四一歳の末廣重恭は、朝野新聞記者・自由党の論客として知られていたが、明治一九年から翌年にかけて鉄腸のペンネームで書いた政治小説『雪中梅』が大当たりして欧米に旅行、帰国後大石正巳の勧誘で大同団結運動の機関誌『政論』の主筆として活躍していた。
 末廣は、大同倶楽部の喧伝と自らの国会出馬の地固めもあって、明治二二年三月二〇日宇和島に帰省した。山崎惣六ら宇和島の大同派は、二七日末廣を国会議員候補者に決定し、翌二八日宇和島融通座に聴衆一、六〇〇名を集めて末廣の政談演説会を開催した。末廣は、「我党の目的」と題して政党内閣の樹立などを訴え、ついで三〇日卯之町と八幡浜で同様の演説を行った。松山にあって、小林信近ら改進党系に先行されていた鈴木重遠ら大同派は、党勢拡張の好機として末廣の来松を乞い、末廣は四月一〇日に海路松山に入った。
 同日夜、藤野らは宮古町大林寺に末廣を迎えて懇親会を開き、三〇〇余名が出席した。藤野は、「吾々カ努ムル地方同志ノ団結」は「大同団結トハ其主義目的ヲ同フスル」ものであり、「政党内閣ヲ造リ出サントスレハ大同団結ノ旨趣ニアラサレハ成シ能ハサルコト」を弁じ、ついで「大隈ヲ戴テ天下ニ立タントスル」改進党は、「政府党ニシテ、彼レカ発表スル主義綱領モ信用薄キモノ」であると論難、目前に迫った国会議員選挙の勝利のために党勢を強められたいと訴えた。ついで末廣は、数日間遊説を続けた宇和四郡の政情の感触を伝え、またジャーナリストの立場から海南新聞・愛媛新報ともに他を論難攻撃するあまり事実を誤って伝えている例が少なくないと忠告した。末廣は翌一一日の夜、東栄座に二、〇〇〇人の聴衆を集めて政談演説を行い、一二日広島に向け離県した(資近代2 六三〇~六四一)。なお末廣は、九月にも東予大同派の招きで来県し、越智・周布・桑村三郡の各地で政談演説会・懇談会を実施している。
 末廣の遊説で少なからぬ打撃を受けた改進党は、東京本部に末廣に匹敵する論客の派遣を要望した。これに応じて五月二五日箕浦勝人・枝元長辰・上田重長が来松した。二六日、小林信近・高須峯造らは箕浦らを歓迎する懇親会を大林寺で開いた。席上、小林は「国会ノ期モ既ニ明年ニ迫リタルコトナレハ人民タルモノハ勉メテ其準備ヲナサヽル可カラス、殊ニ我党員タルモノハ宜シク懇親調和シテ勢力ヲ養成シ以テ為ス所ナカルヘカラス」、高須は「国会ニ出スヘキ人物ハ誰ソ、諸君ハ他ノ瞞着手段ニ眩惑セラレサルニ注意セサルヘカラス」と述べ、枝元と上田は「国会議員ヲ撰挙スルニハ智識財産完備ノ人物ヲ撰挙」しなければならない、「世運ト共ニ改良進歩スル好人物ヲ撰挙」しなければならないと挨拶した。しかし箕浦は病後で疲労し発言も不自由であるとして演説せず、出席した二七九名の同志の失望を招いた。改進派は当初予定した箕浦の演説会に代わり、枝元・上田に加えて高須・森恒太郎・窪田節二郎・清水隆徳・元吉秀三郎・御手洗忠孝の地元論客を総動員した政談演説会を松山三番町東栄座で開催した。弁士たちは「大同派ノ人々ハ多クハ器械的ノ人物カ器械的ニ集合シタルモノニシテ吾改進党ノ如ク主義投合シテ団結シタルモノニアラス」、「大同派ハ曩(さき)ニ大隈伯カ入閣ニ際シテハ種々ノ非難ヲ試ミタレトモ今ヤ其首領タル後藤伯ハ入閣シテ逓信大臣トナリタリ、今其旗下ニ集ル所ノ大同派ハ如何ニ之ヲ感セシムモノソ」、と交々(こもごも)大同派を論難した。改進党の招いた論客のうち箕浦・上田は二七日離県し、枝元のみが大洲・八幡浜・卯之町・宇和島と遊説を続けたが、知名度がなく末廣ほどの成果を挙げることはできなかった(資近代2 六五三~六六四)。
 この年の県内二大政社の遊説合戦や条約改正の是非をめぐる建白運動については、『政党沿革誌』が極めて具体的に報告している(資近代2 六二三~七三五)。この年の一一月県会では改進党の有友正親が坂義三の地租金は一〇円に満たないとして無資格を発議したことから紛擾を来し、ために有友は激高した大同派の壮士に狙われる事件も起こった(資近代2 七二五)

 大同派の分裂と板垣退助の再来県

 明治二二年五月に分裂した大同倶楽部と大同協和会は、大隈外相の条約改正案に反対する建白運動で共同歩調を取り、これを契機に両派提携による自由党再興の試みが土佐派を中心に計画された。大同協和会でも、一一月に大井憲太郎が高知を訪問するなどこれへの積極的態度を示したが、大同倶楽部はこの動きに強く反発した。ここに至り、板垣退助は両大同派の対立激化を危惧し、別に愛国公党を組織してその下に両派を糾合しようとした。板垣は、一二月一九日を期し大阪で談話会を催すから出席されたいと、愛媛の鈴木重遠・藤野政高らに招状を送った。これと前後して大同倶楽部からも「党務上重要事故之レアリ、至急御一名御上阪相成リ度」の書状が届いた。愛媛大同派は、とりあえず鈴木を上阪させて政況を視察させることにした。鈴木は一一月三〇日上阪し、板垣の考えを確かめるため高知に赴いた稲垣示らと協議をとげ、一二月七日の伊豫倶楽部総会までに帰松した。
 松山市公会堂で開かれた総会に末廣重恭も出席したが、この前日小唐人町新栄座における政談演説会で、末廣は「将来ノ日本ハ改進党ト大同派トヲ以テ支配スレハ足ル、必スシモ自由党ノ再興ヲ要セス」(『政党沿革誌』)と、自由党再興に反対する態度を明らかにしていた。総会では、鈴木が予定された政情報告の猶予を願ったことから自由党再興に対する態度を論議するに至らず、大同倶楽部残留の決議を期待していた末廣は空しく松山を引き揚げた。その後、大同倶楽部から愛国公党合併の是非についての協議会を一二月二〇日に大阪で開催するとの通報があったので、愛媛大同派はその態度決定を迫られることになり、一二日有志協議会を開いた。席上、鈴木は大阪大会の情況によっては愛国公党に加盟すべきであると提案した。これに対し藤野政高は、「今日ノ急務ハ全国ニ対スルノ働キニアラスシテ地方団結ヲ鞏固ナラシムルノ働キニアリ」と慎重を求め、この意見が多数を制したが、態度の正式決定は一四日の伊豫倶楽部員協議会にゆだねられた。
 協議会は早急な招集であったので、各郡からの出席者が少なく三〇余名が参集したに過ぎなかった。会では、鈴木派の近藤明敏と藤野派の豊島昌義が激しい口論を演じ、鈴木と藤野の調整役に当たるべき長屋忠明が「前途測ル可カラサルノ政党ニ合シテ地方団結生涯ノ禍福ヲ決センコトヲ急ニスルハ忠明ノ固ク執(と)ラサル所ナリ」とその旗幟を鮮明にするなど冒頭から荒れ模様であった。その後も、藤野が「会員中ニハ多数ニ服従セスト決心スルモノアリト聞ク、若シ多数ニ従ハスト云フモノアレハ速ニ退会セシムヘシ」と鈴木派の退席を求めた。これに対し、近藤らは、「今日ニ当リ愛国公党ノ樹立ヲ賛成セス、天下大勢ノ定スルヲ待テ去就ヲ決スルカ如キモノハ所謂松山武士カ維新革命ニ際シ恥ヲ天下ニ曝ラシタル卑劣主義ノ二ノ舞ヲナスモノ」と抗弁した。激論が続いた後、藤野派は多数の力で大阪大会への委員出席を見合わすことに決定した。しかし鈴木は一六日に大会出席のため上阪し、大阪から「地方団結ニ分離シテ別派ニ運動スヘシ」との書状を送ってきた。二四日藤野らは北豫倶楽部臨時会を開いて鈴木の処置を協議した結果、除名もやむを得ないがしばらく本人の反省を促し、復帰の途を絶たないため名簿からは抹消しないことにした。ここに鈴木と藤野の親密な盟友関係は終わりを告げた(資近代2 七二七~七三五)。
 これより先、板垣ら土佐派は一二月一九日旧自由党員懇親会を大阪で開いて愛国公党結成を決定、当初板垣と行動を共にしようとしていた大同協和会は別に自由党を再興することになり、大同倶楽部は鈴木の参加した二〇日の大阪大会で愛国公党に加盟しないことにした。この結果、自由党系の諸政派は大同倶楽部・愛国公党・自由党の三派鼎立の状態となった。これら三派は主義主張では大きな差異はなく、したがってその構成員は、対人関係で複雑な離合集散を繰り返すことになった。愛媛県にあって、愛国公党への加入に傾いていた鈴木重遠は、大同倶楽部大阪大会での加盟見送りで動揺し、末廣重恭の説得で大同倶楽部に留まった。これに対し愛国公党加盟に慎重であった藤野政高らは、板垣ら土佐派の勧誘を受けたのか、明治二三年の年明け早々愛国公党に同調する言動を示し始めた。
 分裂の危機にひんした大同派ではあったが、二月二五日の県会議員半数改選では一〇名の退任者に対し一五名が当選して非改選議員を合わせ一挙に二六名の絶対多数を確保した。
 県議選が終わって数日後の二月二五日、土佐の林有造は宇和島に入り、坂義三宅に山崎惣六・玉井安蔵・鈴木正修らを集めて愛国公党加入を勧誘し、山崎・鈴木らはこれに同調したが、他は即答を避けた。林は宇和島に影響力を持つ末廣重恭説得の必要を感じつつ同地を去った。その末廣は関西日報紙上で愛国公党に不同意を表し、あくまで大同団結を固執していたが、二月二六日今治に入り、柳瀬春次郎・工藤干城・村上桂策・近藤春静ら東豫倶楽部員と大同派維持のことを論じ、三月二日松山での伊豫倶楽部総会に臨んだ。
 この総会は、鈴木重遠が末廣と謀って開催したものであった。北豫倶楽部内で藤野政高と多数派争いを続けていた鈴木は、南豫・東豫倶楽部の大勢が大同倶楽部に留まることになったのを好機とし、総会の多数決をもって県内大同派の意思を統一し、愛国公党加盟を促進しようとする藤野ら北豫倶楽部主流の動きを封じようとした。総会に先立ち、鈴木派の近藤明敏・菅沼政典は藤野政高・白川福儀に書を寄せて、藤野らを大同派の世論に反する少数派ときめつけ、総会に出席しなければ自ら脱会したものとみなすと迫った。これに対し藤野らは三月一日北豫倶楽部総会を温泉郡藤原村薬師寺で開き、二五名の同志を集めて協議した結果、北豫倶楽部は伊豫倶楽部を脱し、当分いずれの党派にも属さず″地方団結″と称して独自の運動を続けることにした。このため藤野らは伊豫倶楽部総会に出席せず、ここに愛媛の大同派は分裂した(資近代2 七三六~七四一)。
 明治二三年三月二一日、愛国公党々首板垣退助が勧誘に来松した。板垣の来県は明治一七年に続いて二度目であった。藤野ら六三名の同志は板垣の旅舎城戸屋に参集して談話会を催した。主な出席者は、藤野政高・井手正光・白川福儀・長屋忠明・岩本新藏・坂義三・鈴木正修・八木亀三郎・岩崎一高・柳原正之らであった。板垣は愛国公党創設の趣意を説明し、「今日ノ如ク個々分立スルコトハ誠ニ国家ノ不幸ナレハ宜シク合同一致強大ナル一政党ヲ組織シ以テ立憲政体ノ実効ヲ挙クヘキコト」を強調した。板垣の説明を受けた藤野らは別席で会合して、県下において公然愛国公党を名乗って一団体を組織すること、東京において同党の結党式を挙行する時は委員を上京させることを決議し、この旨藤野が代表して板垣に誓った。板垣は翌二二日松山市公会堂での懇親会に臨み、八〇〇名の聴衆を前に、「代議士タルモノハ公明正大能ク行政官ニ対抗シ以テ人民ノ幸福ヲ計ルニアラサルハ決シテ其任ヲ全フスヘカラス、故ニ能ク其人ヲ得ルニ注意スヘキハ最モ今日ノ急務ニシテ之ヲナスニハ必ス政党ノ組織ヲ要ス」と演説した。
 板垣の来松による愛国派の勃興を恐れた鈴木ら大同派は、三月二九日遊説員八木原繁趾を招いて大林寺で懇親会を催した。ついで四月五日には末廣重恭と八木原を弁士とする政談演説会を開いた。八木原は大同団結の歴史を述べ、「大同各派モ国会開会ノ際ニ至テハ遂ニ調和ヲナスニ至ルヘシ」と大同派の分裂は一時的な事態であるとした。ついで末廣は「政党論」と題し、「地方団結即チ是迄大同団結ト同主義ナリトシテ相結託セシモノカ俄(にわ)カニ変心シテ愛国公党ニ入リシハ道理ニ通セス」と藤野派を批判し、「愛国公党ハ仲裁主義ヲ執(と)ル為メ起リシモノ」というが、「板垣伯ハ自カラ我々ノ領分へ踏込ミ我々ノ攻撃ヲ受クル地位ニ立ナカラ仲裁スルトハ何事ソ、実ニ伯畢生(ひっせい)ノ失策ハ愛国公党ノ組織ニアリ」と板垣を攻撃した(資近代2 七四一~七四七)。
 愛媛の改進派は、大同二派の分裂と抗争を座視していたが、両派に圧倒される傾向が出てきたので改進党本部に著名な論説者の遊説を要請した。五月一八日肥塚龍が来県、宇摩郡三島村・新居部泉川村・西条町・越智郡今治町・松山市・北宇和郡宇和島町・東宇和郡宇和町の懇親会及び政談演説会に遊説行脚を続け、「従来漸進主義ヲ執テ秩序的ノ進歩ヲ計ランコトヲ欲シ数年間此主義ニ従テ運動ヲ為」す改進党の喧伝に努めた(資近代2 七四七~七四九)。
 こうした政情下で、県内政社三派の代表は、高須峯造・石原信樹が四月一二日の改進党大会、鈴木重遠が五月一日の大同倶楽部大会、藤野政高・玉井正興が五月五日の愛国公党結成大会に上京参加して中央政社の連携を強め、間近かに迫った衆議院議員総選挙の運動に全力を挙げることになった。

表1-103 三大事件建白運動の概要

表1-103 三大事件建白運動の概要


表1-104 第7回県会議員選挙党派別当選者

表1-104 第7回県会議員選挙党派別当選者