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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 在来工業の発展 ①

 工業の構成

 明治初年の工業は、基本的には幕末の延長で、問屋資本による職人か、農家の手工業的生産を主体とした。生産物も衣料や鍋釜・紙・陶磁器などの日用品か、醸造・精米など食品工業に限られる。しかし内海交通の要地にあり、藩の保護下に商工業や海運の活発であった伊予は、明治初年には工業の集積が著しく、伝統工業県として全国の七位に位置している(表1―67)。ただ中央では、政府の積極的育成により、官営の鉱業・造船・機械・紡績などが早くから発達したが、愛媛の工業の近代化はまず在来の地場産業に始まり、生産財関係の工業発展は、明治末期を待たねばならなかった。
 明治一八年でも、県下の工業生産は生蠟・織物・和紙を中心とし(醸造は含まず)、中南予の比重が高い(表1―68)。就業者でも紙漉(かみすき)や機織(はたおり)が多い。初期の唯一の動力源である水車は、灌漑用が主体であったが、歯車の工夫から用途を拡大し、明治に入って急増した。精米製粉の他に織物・製糸・紡績・陶磁器業に使用され、大いに労力を節減した。個人や組によって長く使用されたが、電気や発動機の普及で姿を消した。国税に占める地租の伸びは頭打ちであるが、商工税は一五、六年ごろからの不況期を過ぎて急速に増加する(表1―70)。

 綿織物業

 近世後期から伊予では綿作、綿織物の商品生産が進み、綿繰り・綿打ち・糸紡ぎ・撚糸(ねんし)・染色・織布などの各生産過程が、農家の副業や家内工業として広く行われた。先進地では明治一〇年代にジャカードやバッタン機の移入で問屋制手工業化し、明治二〇年代には力織機の普及で企業化が進行した。しかし県下では明治末年に至っても、この地機(じばた)や高機(たかはた)による家内工業(賃織生産)が広く残っていた。明治七年、愛媛の綿織物生産は一二〇万反で全国四位であり(「府県物産表」)、県内では綿花が不足し、上方や山陽筋から移入している。しかし明治二〇年、製造戸数に対する織機台数はわずか一・三台であり、主要機業地の温泉・伊予両郡でも一・七台であった。その品質改良や技術向上は、県や郡が積極的に指導した製糸とは異なり、県や上方の問屋筋の依頼によって、業者自身の努力で行われた。
 今治地方の白木綿(しろもめん)は、賃織の綿替制で発達した。廃藩後は綿替商や織子も増え、明治一〇年には四〇万反を産した。しかしそのころから低廉な輸入紡績糸を使用する泉州・播州物におされ、不況の影響もあって明治一八年にはわずか一万八、〇〇〇反となった。副業を失った農家の困窮は、深刻であったという。
 松山地方では、藩の縞(しま)会所が明治五年七月、栗田與三らの「興産会社」に譲られ、伊予結城(ゆうき)の生産販売が自由になると、問屋も織機も急増して、明治一〇年ごろは年産八〇万反となった。しかし織立、染色、丈尺などすべて粗製となって市価を落とし、同一三年から一六年は四五万反、一七年から一九年は一九万反に低下した(伊予織物組合沿革)。それで製品改良のため明治一三年一月、瀬川喜七・小玉源三郎ら三三名が「松山縞(じま)会社」を設立した。同社は同一七年四月「松山縞改会社」、同一八年には「伊予織物改良組合」と発展した。やがて経済界の復調もあり明治二〇年四一万反、同二五年八五万反と回復した。また明治一〇年代の不況時には、単調な模様の縞に対し、今出(いまず)中心に絣(かすり)織が流行し、素朴で美しい模様が次々と考案された。これは県外にも好評で、同二〇年ごろには「伊予絣」の名が定着し、生産量も次第に伊予縞を上回るに至った。
 「宇和織物」として九州に出荷された西宇和郡の縞木綿や絣は、西南戦争の特需により明治一〇年ごろには二〇万反を産した。ために地元糸では間に合わず、大阪や広島から紡績糸を移入し、賃織を増して需要に応じた。明治八年、早くも真穴(まあな)村に藤本織布工場の創立をみた。販売は神山、合田地方の行商人による。デフレ期の明治一九年には、問屋の三好徳三郎・布行寛らが業者を集めて品質向上を説き、同二二年には「織物改良組合」が組織された。このころ白木綿生産を中心とする宇和島地方でも、有志が「来善社」を設立し、山口県から技師を招いて子女の絣織技術の向上を図った。これら愛媛の綿織物業は、明治二〇年代から急速な発展をみる。

 和紙の生産

 和紙は蠟とともに伊予各藩の最重要専売品で、その生産や販売は原料の楮とともに、厳重な統制下に置かれた。廃藩後楮や紙役所が廃止されると、新規の業者が増加した反面、資金や原料調達、また販路に困る者もあって一時生産が停滞した。良質で知られた西条奉書(ほうしょ)紙・大洲半紙・宇和の泉貨(せんか)紙もやや品質が低下した。その後世情の安定とともに生産も回復し、明治一一年の全国農産表では、県下の紙業は高い地位を示している。明治一五、六年ごろまでの生産は、半紙と奉書紙で六割、宇摩郡と喜多郡で五割を占めていた。楮は中予の山間部を中心に全県で栽培されるが、需要の伸びに間に合わず、高知・大分県から移入された。周布郡中川村の「松山栽培会社」は、明治二二年に松尾・川上など郡内四か村の山地を開拓し、楮・三椏数万本を植えた(予讃新報六四号)。

 紙業地域

 明治一七年ごろ喜多郡内子の紙商吉岡平衛らは、高知県から紙漉(かみすき)工を雇い、改良半紙を抄出した。同紙は天神・五十崎(いかざき)両村で普及したが、大洲地方では養蚕熱によって、肱川沿いの楮畑の多くが桑畑に転じた。明治二〇年七月、喜多郡を中心に周辺三郡の一部により「大洲紙業組合」を設立し、品質向上のため移出紙には紙質を示す証票を添付した。また楮栽培奨励のため、翌年一一月に「楮作人組合」を組織し、刈取期や加工の仕法を定めて規格の統一を図った。
 宇摩郡の紙漉農家は安政ごろは一〇戸位であった。しかし維新後新興地としての意欲、楮移入や上方へ出荷の交通の便、用水などの立地条件にも恵まれ、伝統を持つ喜多・宇和両郡に代わって急速に成長した。郡別生産額では、明治七年に三万八、〇〇〇円で四位、同八年は一〇万円で二位、同一四年一一万三、〇〇〇円で一位となった。この発展の陰には多くの先覚者がいる。上分(かみぶん)村の薦田(こもだ)篤平は、明治三年に美濃・越前から技師数人を招いて紙質を改良し、京阪への販路を開いた。また農家に資金や用具を貸与して奨励し、明治元年の二〇戸が、同四年には八〇戸にも増している(「紙と伊予」)。明治五年、従来の二枚漉が四枚漉に改良され、同二一年ごろには八枚漉も考案されて能率が向上した。生産増によって原料不足となったため、篤平は楮苗を農家に配布して奨める一方、新原料を研究した。明治一七年、漂白剤にカルキを導入し、二一年には三椏(みつまた)・麦稈(ばっかん)・藁(わら)などの苛性ソーダによる溶解に成功した(「続川之江郷土物語」)。
 宇和の泉貨紙の主産地は野村・城川(しろかわ)・松丸・広見などで、主として野村の問屋から宇和島に集荷され、船便で大阪へ移出した。生産がほとんど農家の副業によったため、維新後流通系統が混乱すると生産は落ち、商人の買いたたきで農家は困窮した。その後野村に大阪の問屋が出店を置き、松山興産会社や、明治七、八年ごろからは地元でも問屋を開業する者が増えて、ようやく生産も回復した。
 周桑郡でも近世後期から、国安(くにやす)村と石田村で、農閑副業として、主として塵紙(ちりがみ)の生産がみられた。明治初年からは田中佐平や守田重吉らが土佐から新技術を導入した。一〇年ごろから業者が増え始め、明治中期以降は次第に奉書紙が中心となった。明治一七年八月には士族授産の貸付金により、旧西条藩士一七三名で「西条製紙会社」、旧小松藩士一二一名の「小松製紙会社」が設立されたが、経営は思わしくなかった。

 櫨実の生産

 伊予の各藩、特に大洲・宇和島両藩にとって蠟(ろう)は重要な国産であり、原料の櫨(はぜ)は資金貸し付け制や苗木の提供、買い上げ価格の保障などで栽培を勧めた。しかし維新後は貸し付けは廃止され、蠟の販路も途絶えて櫨の生産も激減した。南宇和郡では価格の低落で櫨樹を伐採する者が多く、明治五、六年ころの産額は従前の四割となった。その後蚕豆(そらまめ)櫨・多吉(たきち)櫨・葡萄櫨などの良樹の接ぎ木で増殖に努めたが、二四年ごろはまだ三分の二に回復しただけであった。北宇和郡も明治八~一〇年ごろの低落で、樹数が激減した(「愛媛県農事概要」)。
 櫨実の自由販売は仲買人の立場を強化したが、品質不揃いや価格の不安定によって栽培農家、製蠟家には不利となった。明治二〇年一二月、宇和四郡の製蠟家は仲買人からの不買を申し合わせ、自ら出買いを行った。もっとも出買いの例は多く、宇摩郡入野(いりの)村山中家では明治二〇年九月に、川上喜太郎・同長次の二人に一七三貫の櫨実を買わせ(山中家文書 土居町教委蔵)、北宇和郡岩松村の東小西家では、明治一八、九年ごろに買集人七人を雇って一万二、〇〇〇貫を購入した。宇和島城下東西両三浦の旧庄屋田中家は、網元や金融業も兼ねる豪農であったが、櫨畑七町歩、櫨実・蠟蔵四棟を持つ製蠟家でもあった(田中家史料5・6集)。
 櫨実は始め山野に自生のものを採種したが、各藩はやがて優良種の唐(とう)櫨を山野や畦畔に栽培させた。品質や収量は種類により差が大きく幕末から明治にかけては、各地で優良樹種の接ぎ木が普及する。県でも明治一一年に越智郡朝倉上村に六反歩の漆樹試験場を設け、苗木試植を行った。周桑郡では、櫨は桑以前の主要換金作物で、田野村では畑に反当たり二五~三〇本を植え、除草のため間作を無料で小作させている(「田野村誌」)。品種は王(大)櫨が主力で、明治中期には中川一村で二〇万貫を越えた。西宇和では宮内村の利太治(りたじ)櫨が全郡に普及したが、明治末期には百日櫨や郡役所の勧めた葡萄櫨も栽培された(西宇和郡保内郷の櫨実栽培)。

 全国一の木蠟

 木蠟は蠟燭(ろうそく)・鬢付(びんつけ)・薬用などに広く用いられた。近世の伊予の諸藩では、製造は蠟座により、販売は御用商によって上方へ出荷され、重要財源となった。幕末には白蠟が作られて市場が関東へも拡大した。しかし維新後はガス灯や斬髪廃刀令による需要減で、一時は衰退した。明治一〇年代にはパラフィンや中国産のものが輸入されたが、白蠟の輸出も始まり、市価の好転により生産が回復した。本県は、明治一一年の全国生蠟生産六五一万斤の二四・三%、一五八万斤を産し、二位の福岡一一〇万斤、三位宮崎九〇万斤を圧している(全国農産表)。明治一二年、県下では喜多郡と宇和四郡で生蠟の産高・金額ともに八七・八%を産し、近世以来の伝統を維持している。
 宇和島では、旧藩の融通会所を受けて、大阪の蠟問屋井上市兵衛を社長に「商会社」が設立され、郡内の産蠟を一手に集荷した。ために地元では商取り引きが行われず、大阪の仲買や問屋筋で価格を操作し、製蠟家は不利益となった。そこで卯之町の清水経三、八幡浜の平田喜平らは、各地に設立されつつある小組合の連合を企画し、まず明治一七年一一月に「西宇和郡製蠟組合」を組織し、同二〇年一二月には「宇和四郡製蠟組合」へ拡大した。組合を代表した談判委員は、大阪の九軒の蠟問屋と交渉を重ね、翌年一一月に「誠商組」を組織し、株式の三割を組合で持ち、販売取り引きは全て入札とする旨の権利を獲得した(海南新聞)。販売権を得た同組合は、ついで品質改良や販路拡大に努力している。喜多郡の晒(さらし)蠟の中心地内子には、最盛期には二七軒の業者があったが、そのほとんどは明治初年の創業であった。伊予郡の砥部(とべ)地方では、明治初年に七戸の業者が、粗製の蠟を上灘(かみなだ)や松山の晒蠟業者に販売している。

表1-67 主要工業県の工業構成

表1-67 主要工業県の工業構成


表1-68 郡別の主要工産品生産

表1-68 郡別の主要工産品生産


表1-69 愛媛県の職工人数

表1-69 愛媛県の職工人数


表1-70 国税に占める商工税の伸び

表1-70 国税に占める商工税の伸び


表1-71 県下の水車

表1-71 県下の水車


図1-9 県下職工人員

図1-9 県下職工人員


表1-72 愛媛県の綿織物構成

表1-72 愛媛県の綿織物構成


表1-73 郡別綿織物の生産と構成

表1-73 郡別綿織物の生産と構成


表1-74 郡別楮皮の生産高

表1-74 郡別楮皮の生産高


表1-75 愛媛県の和紙生産(Ⅰ)

表1-75 愛媛県の和紙生産(Ⅰ)