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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 地租改正への動き

 地租改正の背景

 版籍奉還・廃藩置県を経て、近代的政治制度を整えつつあった明治政府は、何よりまず第一に経済的基盤を強固にする必要に迫られていたが、それには重要財源を当時の主要産業である農業からの収入―地租の形で収納される―に求める以外に手段がなかった。
 当時集議院判官であった神田孝平(たかひら)は、明治三年六月、旧幕藩制下の地租を近代国家にふさわしいものに改革しようと、「田租改革建議」を行い、田地売買の許可、沽券の交付、地租金納を主張した。当時神奈川県令であった陸奥宗光も、明治五年五月「田租改正建議」を提出して、「今法ノ内相ヲ一変シ従来ノ石高・反別・石盛・免・検地・検見等一切ノ旧法ヲ廃除シ、現在田畑ノ実価ニ従ヒ其幾分ヲ課シ、年期ヲ定メ地租ニ充ントス」といい、その基準とされる地価は神田孝平のいう売買地価とは違い、「是迄ノ上中下田ノ称ヲ混同シ、唯其地ノ良否痩ニ就テ其価ヲ出サシ」めるよう主張した。この陸奥の意見は、翌六年六月に公布された「地租改正条例」に決定的影響を与えた。
 このように政府は新しい財政制度を確立するため、租税の金納化を本命とする画一的な税制の確立についての神田・陸奥らの有力な意見を採り入れるいっぽう地租改正の前提となった次のような一連の行政措置を次々に実施した。
 政府は維新早々の明治元年、農村一般の土地は農民の所有地であることを明らかにしたが、同三年には畑方の石代納を、同五年には田方の石代納を許可し、地租を金納制に移行させる政策を実施し、同四年には一般農民の米の販売を許可すると同時に、田畑作勝手次第であるとして、農家の現金収入が増加することに努めた。同五年には二三〇年間禁制となっていた土地永代売買を解禁し、農民間の身分制を廃止し、職業の選択を自由にするなど、地租改正への基盤工作を固めていった。石鐡県でも、明治五年九月津留を解除してよんどころない理由や飯料残米があって米穀の売買・持ち出しを希望する者は鑑札を渡すので願い出るよう通達した(資近代1 五五)。

 旧租法・付加租の整理

 地租改正を実施するにはその前提として、旧藩の貢租がどんな具合いであったかその実態を把握しておくことが必要であった。ことに本県の場合旧支配関係が、幕領と八藩に分かれて錯雑していたから、貢租関係も旧支配ごとに相違していて多種多様であった。そこで旧藩の貢租の実態を調査して、やがて実施される県下の地租改正に役立てようとして、明治五年から六年にかけて、租税に関する調査書がいくつか作られた。その内二、三を摘記すると、同五年の「旧吉田県租税取扱方」・「旧新谷県検地之条々」・「旧藩々税法取調届(神山県分元宇和島管内)」・「旧小松藩租税方法」、同六年の「旧大洲藩租税取扱方」・「元神山管下伊予国村々之内貢米豆江課シ取立候口米大豆溢米大豆目払大豆込大豆等之儀ニ付申上候書付」・「延米口米等貢米ニ課シ取立候種類取調之事」などがある。
 ここで『愛媛県史(国史稿本)』(愛媛県立図書館蔵)によって、旧幕府領及び旧伊予八藩の正租に関する税制と正租に付加して徴収された掛り物をまとめると、表1―22と表1―23になる。この二税に雑税(小物成を含む)と夫役米・夫役金を加えて、幕府領・各藩ごとの全租税収入が形成されていた。
 全国共通の統一税法の実施を企図していた政府は、明治四年七月の廃藩置県直後、これら租税のうちまず夫米・夫金の廃止を太政官布告で布達したが、松山県では夫米三、五〇〇石、大洲県では夫米一、四四〇石と夫大豆一、〇三八石、倉敷県では夫米八六石余と高掛三役米四六石余・金四九円余が廃止整理された。
 次に旧藩ごとに種々の名称でよばれていた正租の掛り物は藩によって種類が異なり、租額にも多少軽重があったから、それら藩が県となりやがて統合されて、松山→石鐡、宇和島→神山の二県となると、同一県内にいくつか異なった租税地域を抱える二県は、それぞれの区の税額の取り扱いに苦慮し、しばしば大蔵省にあてて貢米についての伺を提出し、その指令を仰いでいる(「石鐡県紀」・「神山県紀」)(資近代1 三二~三四・九二~九四)。
 明治五年八月政府は、「府県貢米納方之義、同規則」の太政官布告第二三一号を公布したが、その中で(1)旧藩々で、従前東京その他への運賃米あるいは欠減差米など上納してきていた分は、今後廃止の筈であるから、各府県で取り調べ申し立てよ、(2)俵入れについては、兼て達している通り本米四斗であり、合米二升を加えて計四斗二升にするといい、付加租の多くを整理し、合米二升くらいに止める方針を明らかにしている。
 この太政官布告に応じて同五年八月石鐡県は、管内七地域の掛り物について陳情し、当県下村々の正租米・大豆へ掛る口米・大豆その外を取り調べたところ、書面のように旧慣が区々で一時に租税の改正は出来難いので、皆旧により取り立てるようにしたいとの伺いに対して、同年一一月大蔵省は七地域ごとに細かい指示を与えている。このうち旧松山県地域にあてた指令には、この地域の口米二升(一石に付き)は、従前通り徴収するが延米四升は廃止する、しかし俵入れの際、四斗の上に二升の合米=余米を付加せよとあった(資近代1 三二~三五)。これで松山地区の付加租は、藩県時代の旧租より四斗につき二升の減税となり、付加租総額は正租一石につき七升となった。ところで付加租についての政府の全国画一の徴収規定は、松山地区の場合は上述のように減租となるが、石鐡・神山県内の地区によっては、この規定によって増租となるところも出来た。旧宇和島藩地域では、天保二年(一八三一)以降付加租として口米がなく、合米はわずか七合にすぎなかったから、石鐡県松山地区の付加租一石に付き七升の大蔵省指令に従うと六升三合の増徴となるので、付加租の少額である由来を述べ、その増徴免除を大蔵省に訴願した。しかし大蔵省はこの神山県の訴願を受け付けず、正租米四斗に付き合米二升を差し加えて上納するよう神山県へ指令した(資近代1 九八~九九)。
 こうして旧租法の改正と後述する石代納の増加により表1―24に示すように明治六年の付加租総額は、米四、〇五二石余、大豆七三八石余、金一円余で、正租米に対する比率は約二・七%、正租大豆に対する比率は約二・七%となり、同七年は米五、五五六石余におよび大豆六三〇石余で、正租に対する比はそれぞれ二・六%、二・五%に減少した。

 石代納の促進

 付加租の改廃につづいて、旧税法改正の第二点は石代納=金納の実施であった。全面金納を目玉とした地租改正への準備となる。明治五年石鐡県は、布達一一八号で、「一、貢米上納者御規則通可為四斗二升候事 一、石代上納者御規則通可為四斗候事」と公示し(資近代1 六五)、現米輸送などの諸費用が省ける石代納=金納にすれば納税者は、米一俵四斗につき二升分は有利であることを訴えて石代納を奨励している。ところで金納には、現物の換金に必要な石代相場が公示されねばならない。明治七年一月と翌八年一月とに愛媛県布達で、それぞれ前年の諸石代相場(七年の石代相場は上米一石に付七円一三銭七厘五毛、大豆一石に付四円七八銭一厘八毛三糸(し)、小豆一石に付五円二〇銭四厘三糸、塩一石に付五七銭九厘三毛七糸、下米一石に付六円七七銭七厘五毛九糸であった)が公示されている(資近代1 一七八・三〇一)。
 しかし石代納には、さまざまな隘(あい)路があった。神山県の場合、管下元四県(宇和島・大洲・吉田・新谷)の村々には石代納がなく、貢米豆を正納し各県々で大阪へ積み送り、売り払っていた国柄で県下の町や在郷とも米の売買はなく、従って市・在とも米問屋などがないので米値段相場がはっきりせず、石代納を願っても売り払うことができないので、代金上納に差し支える状態であると、大蔵省の指示に反論している(資近代1 九五~九六)。
 それでも石代納は促進された。明治七年は正租二一万七、九九二石余に対して、現物納は三分の一の六万九、〇〇〇石余となり、同八年には現物納はわずか一万石未満に減少して、地租改正に引き継がれることとなった。

 旧租法の雑税廃止

 前述の幕藩時代の旧租税中正租とその付加租・夫役や夫役米豆・夫役金を除いた諸税のうち、従来農民が負担していた小物成・高掛物などの雑税を免除されたいとの伺いが大蔵省あてに提出された。
 まず明治五年七月には、神山県から表1―25記載の小物成について免除伺いを出している。その理由として、(1)これら小物成のうち真綿麻苧など現物がなく買い納めるような不合理な租税である、(2)それでも小物成を納めてきたのは、庄屋・組頭役料、堤川除・井堰(いせき)・橋梁の修理費などを負担してくれたからである、現在政府はこれら費用を下付してくれない、(3)全く藩主の入用のため一方的に取り立てられた有名無実の品々を従来通り納めては、「今般県治一洗ノ施行不相立」となるとし、寛大の評議をもって今年より免除されたい、と述べている(資近代1 九四)。神山県は翌六年一月再度廃止を訴え、大蔵省から明治五年より小物成を廃止するという指令を得ている。
 明治六年八月から翌七年三月にかけて、愛媛県は旧藩・石鐡県より引き続いた小物成(表1―26)について免除伺いを三回にわたって大蔵省へあてて提出している(資近代1 一六八~一七一)。伺いは、次のようである。藩により適宜石高に掛けて取り立ててきた小物成の多くは有名無実であり、旧神山県では明治五年から小物成は廃止されているのに、石鐡・神山両県を合わせ愛媛県が置かれた現在、一方は廃しもう一方は存するようなことでは、一県内で政務が二途に出るようなことになるのでいけない、近年民費が多い中で、いわれのない収税があったのでは、「県治一洗ノ際モ相立」たないから、旧神山県同様高掛け小物成を廃止されたいというのであった。これに対して、大蔵省は申し出の通り明治五年以降の小物成の免除を指令している。政府がこの雑税廃止を承認したのは、神山・愛媛両県からの伺いの趣旨を聞き入れたことによるが、最大の理由は、地租改正実施となれば当然廃止されるべき租税であったからだろう。

 壬申地券の発行

 以上述べた旧地租の改正と併行して、明治五年以降地券が発行された。この年の干支をとって、地租改正後発行された地券と区別するため「壬申地券」と呼んでいる。この年二月大蔵省達第二五号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」と同年七月大蔵省達第八三号「従来所持地ヘ総テ地券発行」の法令をうけて、神山県では、今般地所永代売買を差し許され、今後売買ならびに譲渡をする際異論がないようにするため、田畑山林所持の者の確証として地券を渡すので、銘々所持地を取り調べ申し出るよう、過日雛形(ひながた)をもって達して置いたが、代価申し出は一筆限り、それぞれ見込の代価を記載し申し立てるようにせよとの布達を公布した(資近代1 九四)。
 このように壬申地券は、最初は売買の度ごとに、のちには売買にかかわりなく、一般の田畑・宅地・市街地など土地について、その地番・反別・所有者の申告に基づいた地価・所有者名などを書いて、土地所有の証券とした。この地券の発行は、地租の収納を目的としたものでなく、それぞれの所有地の沽券(こけん)を改め地租改正の準備として行われたものであった。
 さてこの壬申地券は、すべての私有地に対して交付するため、従来無税地であった村々の社寺の田畑、庄屋の居屋敷などにも調査が進められたので、増税・新税などについて農民の不安と疑惑を招いた。これに対して神山県では、同五年八月と九月の二度にわたって達書を出し、疑惑の解消を図るとともに、九月には地券掛を任命した。地券掛は田畑山林の反別・地代金の取り調べ、反別調書の作成提出を急いだ。いっぽう同五年九月石鐡県では、地券掛官員らを関係郡内各村へ出張させて、地券交付についての説明を行い、農民の納得と協力に努めた。しかし明治六年七月、政府により地租改正条例・同施行規則が公布されると、翌七年四月一五日愛媛県では、先般地租改正が仰せ出されたので、今般是迄の地券交付を見合わせ、直ちに改正を施行したいとの達書を公布し、壬申地券の発行は中絶したが地租改正実施への準備となった(資近代1 一八五)。

表1-22 伊予各藩の正租税額

表1-22 伊予各藩の正租税額


表1-23 伊予各藩の掛り物

表1-23 伊予各藩の掛り物


表1-24 明治6・7年の国税地租額

表1-24 明治6・7年の国税地租額


表1-25 神山県内旧藩の小物成

表1-25 神山県内旧藩の小物成


表1-26 石鐵県内旧藩の小物成

表1-26 石鐵県内旧藩の小物成