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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 四民平等

 身分束縛の解除と戸籍編成

 政府は、幕藩体制を打倒して国内の政治的統一を成し遂げ、天皇中心の中央集権の政治体制を完成させた。ついで、国民の自由な経済活動による資本主義の経済体制確立と、それを支える近代国家にふさわしい社会制度の改革を目指した。
 まず、明治二年、皇族のほか大名と公卿を華族、武士を士族、足軽以下を卒族とし、農・工・商の三民を平民として、四民平等の原則が打ち立てられた。翌三年には、これまで武士の特権であった苗字を平民にも名乗ることを許した。
 また、明治四年七月、居住・移転の自由を認め、八月には華族・士族・平民の間の結婚を自由にした。そして、九月には作付制限を撤廃し、農民が有利な作物を自由に作れることとした。さらに、翌五年に田畑永代売買の禁令が解かれて、江戸時代以来の土地売買の禁止が廃されるとともに、すべての国民に職業選択の自由を認めた。
 伊予諸藩のうち、松山藩は明治三年一〇月に「自今平民共苗氏差許サレ候旨」朝廷から仰せ出されたので、百姓町人共標札はもとより諸願伺などの肩書きに「何村百姓何野何某」「何町町人何野何某」と記するよう指示した(古三津村庄屋御用日記)。領民は早速苗字を定めたようであり、風早郡中通村(現北条市内)では一番組伍長の増太郎と組下の国太郎・庫太は高橋、為五郎と伴次は高松と称するといったように五人組単位に苗字を付けて一〇月届け出ている(中通村諸願達綴込)。宇和島藩は、明治三年一二月「自今平民苗氏差免ラレ候事」と布告、併せて甲村の者が農商のため乙村に出向く時一、二年の滞留は免ずるが終身乙村に居村する場合は乙村の籍に入るよう指示して職業選択や居住地移転などを許した。また百姓町人の一部に認めていた士分・郷士取り扱いや帯刀・御目見得・進席・上席家格・庄屋格などの特典を廃した(宇和島藩庁日記)。領内宇和郡内海浦の由良半島先端部網代(あじろ)地区では、網元の浦和盛三郎が網子漁民全戸の名字を選定した。三集落のうち、本網代には魚名にちなんだ岩志・浜地・鈴木・福戸・鱒・高魚など、本谷には大敷・木網・目関・大目・立目などの網にかかわる名字を、荒樫には穀物・野菜にちなむ麦田・稗野・粟野・真菜・大根・株菜・根深などを付けた。半島基部の家串地区は、織田・前田・細川・北条・加藤・伊井・黒田など戦国武将や藩政時代の大名家の名字を付けた(県史「民俗下」 七四〇~七四六)。
 苗字を冠することは戸籍編成上からも必要なことであった。明治四年四月「戸籍法」が制定され、戸籍の調査作成が町村に命じられた。編成なった壬申戸籍簿を県官が査閲すると不備なところが多かったので、県は明治七年一月一八日付で告諭を発し、区々の行き違いにより一人で二籍ある者もおり、あるいは全く脱漏している者もいる、一七、八歳の男に六〇歳以上の妻がいる者もあり、甚だしい場合は父母妻子を凋落し長男を長女とし妹を弟とする類も少なくないと誤謬(ごびゅう)事例を指摘した。これに続けて告諭は、「何程下愚と雖も銘々家族の員数及長幼男女を記臆せさる者なし、必竟我身を疎略に相心得、大切の戸籍を他人任せとし、之を調ふる者も又事務の多端より専ら筆耕に委ね、其簿書上と実地上との調査行届かさる故なり」と解説、このままでは戸籍錯雑遺脱の憂い何れの日に消除できようかとして、再調査と戸籍元帳との照合を指示した。
 明治一〇年八月にも県は「戸籍加除心得」を布達した。この布達の序に、戸籍は人民の家系であって遺漏錯雑があってはならないが、往々その籍に漏れる者や戸籍の訂正を請う者がある、これは当初編成が完全でないことにもよるが、平常戸籍加除の不注意に原因しているところが多いとあり、戸籍整備の必要性を述べている。このような状況のもとに、戸籍加除心得を示し、家督相続、分家、相続人入夫養子、改姓名、他家相続などの願い届け出を戸主に徹底するよう区戸長に命じた(資近代1 六三二~六三六)。平民は身分的な束縛は解除されたが、「家」制度のもと戸主を通じて管理される立場に置かれたのである。
 明治七年一二月時の愛媛県内戸数人口は一七万二、三八二戸・七九万一、五二二人で、うち士族九、二二二戸・二万九、三〇五人、平民一六万二、九二〇戸・五八万六、九八三人であった(「愛媛県紀」資近代1 一五六)。また讃岐国を併合した同一〇年一二月時の県内戸数人口は三一万八、九七三戸、土族戸主一万四、七九七人・同家族四万七、五九八人、平民戸主三〇万三、〇三四人・同家族一〇四万八、〇三九人、合計一四一万三、四六八人(男七三万〇、七五四、女六八万二、七一四)であった(「愛媛県紀」資近代1 四四一)。

 芸娼妓解放令と公娼制度

 明治五年一〇月二日政府は太政官布告で、人身売買を禁止し芸娼妓の解放を宣言した。
 本県の藩政時代、道後温泉場に十軒茶屋があり、松山藩は天保一一年(一八四〇)にこれを認め、その後茶屋の売春営業が風紀を乱すとして一時禁止したが、安政三年(一八五六)線香一本につき六分の賦金を上納させることにして娼妓を抱えることを認めた。和気郡三津浜(現松山市内)にも茶屋があり、船員相手に営業していた。このほか、松山領風早郡北条村(現北条市)、同和気郡津和地村(現中島町)、今治領今治町、同越智郡波止浜村(現今治市内)、大洲領伊予郡米湊(こみなと)村(現伊予市内)、同喜多郡長浜村、幕府領宇摩郡川之江村などの要港にも営業者と抱え娼妓が居た。明治四年七月の廃藩置県後、道後の十軒茶屋の株制度が廃止されて茶屋営業者は四〇余軒に急増、三津浜など他の地域でも売春営業がそのまま継続された。さらに私娼がはびこり梅毒などが蔓延(まんえん)したことは、明治五年六月二五日付神山県布告「密売淫禁止ノ件」(資近代1 一〇九)で明らかである。石鐡県は明治五年一〇月に「芸者酌取女営業規則」を布達、売淫の有無で芸者・酌取女に区別して前者は月二円、後者は一円の納税を命じた。また新規営業及び人員の増加を禁じ、営業場所は道後湯月町・三津浜・波止浜・今治新地・川之江の五か所に限定、他の場所での営業は翌六年三月限りで改業することなどを指示した(資近代1 五六)。
 神山県と石鐡県が合併して成立した愛媛県は、明治六年八月三日に「芸娼妓営業規則」を布達した。その前文で、芸妓娼妓の儀は風俗を破り人の家産を墜(おと)すなどの弊害があり、厳に廃止するべきことであるけれども、そうなると他の手業を心得ずたちまち生活に差し支えることにもなるので、営業を望む者は願い出よ、もっとも即今は営業しても往々方向を立てて、なるたけ他業に改め終身の生計を心掛けるようにせよと述べて、芸妓娼妓の廃止転業が望ましいとしながらも余技のない、芸娼妓の生活に支障をきたすとの理由で公娼制を認めようとした。したがって規則でも、「人身売買は御厳禁に候条兼て公布の趣堅く相守」り、「芸娼妓営業差許分は其身他に生計を営むへき手業これ無きか、又は止むを得さる情実これ有る者に限り候事」と、表面上芸娼妓営業を制限する姿勢を示した。芸娼妓希望者には鑑札を与えて営業を許可、免許鑑札料三円・営業税月二円であった。芸娼妓の営業所については、道後・今治・三津の三か所に限定、他の地域での営業を禁止した(資近代1 二二九~二三〇)。但し川之江・波止浜・長浜など旧藩時代以来の営業場所は、明治一〇年二月末日までの期限つきで営業を許可した。
 こうして太政官布告で芸娼妓解放令が発布されたにもかかわらず、芸娼妓当人の希望による自由営業という形での府県公認の公娼制は継続された。抱え主は座敷を提供するたてまえで貸座敷業者と称したが、前借金で娼妓を拘禁して売春を強要、府県は芸娼妓や貸座敷業者から月々営業賦金を取り立て府知事・県令の裁量財源として警察費・病院費などに充当した。
 明治七年ごろ道後の貸座敷は四〇余軒に達し、世上の景気も良く湯治客の金遣いも荒く、道後は不夜城の有り様であったという。県は、明治七年一二月二七日に遊女に紛らわしい風体の者が増え、このままでは淫風蔓延して防ぐことができない勢いであるから湯月町・今治・三津の三か所以外に貸座敷及び芸娼妓に紛らわしい営業をしてはならないと指定営業所を再確認させるとともに、「貸座敷並芸娼妓仮規則」を布達して取り締まりを厳しくした。貸座敷仮規則は、壬申(明治五年)一〇月に仰せ出された芸娼妓年季解放の御趣意を堅く相守ることを命じた。さらに営業の者へ前借や衣服代など各種の名目で金銭を貸し付け、人身を束縛する様な所業を厳禁した。ついで、貸座敷・芸妓・娼妓の営業を望む者は願書を提出して鑑札を受けること、鑑札料は一か年につき貸座敷業者七円・芸妓五円・娼妓四円、営業賦金は一か月につき貸座敷業者と芸妓三円・娼妓二円と規定、芸妓には娼妓稼業を禁じ、一五歳以下の娼妓営業は許可しない、娼妓には検梅を実施するなどとした(資近代1 二三九~二四一)。この仮規則は翌八年一二月二八日に改正されて、貸座敷営業者と芸妓・娼妓を警察の管轄下に置き業者の選挙による取締人制度を採用して一昼夜以上にわたる遊客や不審の者を警察へ届け出るよう指令するなど警察面での取り締まりを強化した。また娼妓の検梅を月三回実施すること、貸座敷業者にも娼妓の検梅を監督指導することをそれぞれ義務づけ、これを怠って受検しない場合には営業禁止の厳罰で臨むなど性病予防対策を進めた(資近代1 四一七~四一九)。
 当時徴兵検査で性病患者が多数発見されてその蔓延が問題となっており、県が明治九年三月「売淫罰則」を定めて私娼取り締まりに罰則規定を設けた(資近代1 四二〇)のも、性病予防の実効を期すためであった。この年九月、県は道後祝谷に県立松山病院分院として駆梅院を設立、土地代金・建設資金・維持費を貸座敷営業者と芸娼妓の賦金から支出した。駆梅院設立後、娼妓の検梅を毎週一回強制的に実施し罹病(りびょう)者を強制入院させた。「海南新聞」明治一一年三月二六日付は、「温泉郡道後松ヶ枝町の娼妓連も昨日頃までは兎角黴(ばい)毒の検査を厭(いと)ひしが、近頃は誰一人検査を拒む者もなきようになりたるよし、それ故か客(かく)年八月頃までの該所の駆黴院には該病に罹りて入院する者十四五名宛は絶えざりしに自今僅かに二名程のよし」と報道している。駆梅院設立後は娼妓の性病患者が激減したようであるが、強制入院させられた娼妓に治療費・生活費の保証はなかったから、入院治療費を自己負担せねばならず、休業を強いられて収入もなく、高利の前借金が増加して苦界から足を洗うことがますます困難になっていった。
 明治九年三月、県はかねて構想していた遊廓設置を実施に移し、道後の貸座敷営業者四〇余軒に対し、この年限りで一定区地域内を限って営業せよ、然らざる者は営業中止を命じると厳達した。業者らは事が余りにも突飛だったため、少なからず面食らったようであるが、遊廓を設置する土地の選定や貸座敷費用の捻出などについて協議したすえ、負担に堪えられる二四軒が遊廓設置に応じた。当初遊廓の候補地は道後祝谷の地が挙げられていたが、地主との借地料の話し合いがまとまらず、道後松ヶ枝町の宝厳(ほうごん)寺門前の参詣道をはさんだ両側の土地に変更した。この土地はかつては僧侶の宿坊があったといわれるが、このころ道の片側は竹簸、一方は馬捨場になっていた。ここに南北に一二軒ずつ合計二四軒の貸座敷が並ぶことになり、突貫工事で建設を進め、明治一〇年一月一日から道後松ヶ枝町遊廓として営業を開始した。松ヶ枝町遊廓の発足に伴い、県は同年一月二四日「貸座敷取締規則」「娼妓取締規則」「取締人心得」「賦金徴収規則」を布達し「売淫罰則」を改定して罰金を引き上げた(資近代1 六二七~六三〇)。
 こうして道後松ヶ枝町遊廓は貸座敷二四軒、娼妓一三〇名前後を抱え、県内七か所の営業指定地(伊予国二・讃岐国五)中最大のものとして開設した。松ヶ枝町遊廓の設置は明治一〇年五月松山堀之内に丸亀歩兵第一二連隊の分営が設けられるのと時期を同じくしていた。明治一七年六月松山歩兵二二連隊が誕生すると娼妓を上等・下等に区別して兵隊が安い公娼を得易くするなど、松ヶ枝町遊廓は軍隊の慰安場としての役割を果たすことになった。
 愛媛県権令岩村高俊は伊佐庭如矢ら県官有志の建言をいれて、明治一〇年湯月・三津女紅場を建設した。娼妓に読み書きを教え縫織の技芸を習得させて正業につかせようとする授産事業であったが、女紅場の経費や備品購入は娼妓の生産労働による製品の売上金で賄う経営形態であったから長くは続かず、同一三、一四年ごろには衰えてしまった。″遊廓″という公娼営業指定地の設置は、娼妓の人身を拘束して売春を強要する非人道的境遇をますます定着させた。明治五年の芸娼妓解放令は遠い過去のものとなったのである。