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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

四 特設愛媛県会

 愛媛県会仮規則の制定

 明治一〇年五月八日、権令岩村高俊は、「凡ソ県内大小ノ事衆庶ノ公議ニ出テサレハ平等中正ノ議ヲ尽スヲ得ス、然レトモ管下人民一百三十余万、人毎ニ諮(はか)リ戸毎ニ詢(はか)ル日モ亦足ラストス、此故ニ自今公撰ノ方ヲ以テ人民ノ代議人ヲ定メ本県々会ヲ開設セシメ、永ク公同ノ利益ニ懸ラシメントス」と県会の開設を宣言、「愛媛県会仮規則」を布達した。岩村にとって、町村会開設に際して公表した一連の民会開設方針の最終段階にあたり、岩村県政を象徴する施策となった。この県会は、明治一一年の「府県会規則」による正式の県会と区別して、一般に″特設県会″と呼ばれている。
 愛媛県会仮規則五五条は、県会綱領・議員選挙規則・議長以下諸役員・議事規則・雑則の五章で構成されている。これによると県会は、各大区から代議人を出して「県内大小ノ事件人民ノ公議ニ依テ施行セサルヲ得サルコトヲ議スル」ため毎年一度開くを常例とし、本年は六月第三金曜日を開会日とするが、来年からは毎年四月第二金曜日を開会の定日とし、二週間の会期を定則とする。議案は発会数日前県令から告示され、議員提案も認められ、一切の議案を衆議に付しその可否を決定して決議書を作り県令に提出するのが議会の役割で、施行するかどうかは県令が決し、政府の公令に抵触する場合は改めるとしていた。議員は「其大区内人民ノ名代」であるので、「各自公平ノ議ヲ尽ス可キ」であり、その言論が「忌憚(きたん)ニ渉(わた)ルアルモ之レヲ糺治(きゅうじ)」しないが、「偏頗(へんぱ)ノ説」を主張したり、「人名或ハ番号ヲ附シ罵詈誹譏(ばりひき)スル等ノ言」を禁じ、議事の規則を犯し議長の説諭に従わないときは警察官が取り締まることもあると議員としての心得を説いていた。県会議員の資格は、大区に籍があり地面・家作などの不動産を所有する年齢二〇歳以上の男戸主であるが、不動産を所有せず戸主でなくても大区内で人望があり、選挙人十分の六以上が議員になることを望む者は県令の許可を得て議員になることが出来るという人材登用の道を開いていた。反面、議員は官吏・区戸長組頭・巡査の職務や官用傭を兼ねてはならないと行政との分権を明確にしており、兵庫県や千葉県など県会開設の先進県が区戸長を議員にするか区戸長の兼任を認めるかしているのに対し、近代的な議会制度を目指したものとして評価される。議員の定員はほぼ人口二万人に一人の割合で各大区単位の選挙区に割り当てられて、総計七〇人となっておりその任期は二年であった。選挙権は大区会と同様で各小区々務所に備えた大区会議員選挙人名簿をそのまま活用、隔年三月第二金曜日を公選の定日とするが、本年のみは五月第四水曜日を初公選日とする。各選挙人は小区々務所で入札、開封は選挙人の面前で戸長が執行、「誰某ニ幾枚ト云フ事ヲ衆撰挙人ニ知ラシメ」た後大区務所に送り、区長は投票の多少を取り調べて確認した後、落札者本人に通報、落札者は議員の任を受けるかどうかを三日以内に回答、就任を承諾した者は「某深ク皇天上帝ニ誓ヒ清廉ト勉励トヲ以テ公平ノ議ヲ尽シ其責任ヲ負担ス可シ」の誓約書を提出し県令の認可を得て正式に当選者となった。議会が開かれるとまず議長と幹事三名・書記二名を選出、ついで抽籤をもって議員番号を定め、会議中は番号で呼称することにしていた。会議は午前九時をもって議事を始める時限とし、議員過半数の出席で開会、議長は議案の趣旨を弁明、議案を朗読し逐条審議を行わせる。各議員は原案に同意あるいは異議の意見を演説し討論する。論議が尽きたところで議長は原案の可否を決し、原案可の数が少ない時には議員の動議案を順次決議して多数を可決票とする。可否の員数を点検するには起立を求め、議論数端に分れて可否決しがたいときは三名の取調委員を選び意見調整をさせる。議事の始終は撃板をもって報じる。県会議場は本会議場を築営するまで松山中学校内明教館を使用する。以上のように特設県会を規定していた(資近代1 四三五~四三九)。
 右の愛媛県会仮規則は、先進県の県会規則を参照しながら、町村会・大区会仮規則の施行実践に立脚した独自性・開明性が、議員兼任禁止事項、議員発言の保証、議長の議員互選など各所に見られる。岩村の推進した愛媛県の地方民会制度はこの特設県会によって完成した。

 最初の県会議員選挙

 県会仮規則の布達と同じ五月八日、県は区長戸長にあてて「今般本県々会ヲ開設セシメ候ニ付、別冊仮規則頒布候条規約ニ違ハス投票致サセ、其人名速ニ届出ヘシ」と、県会議員選挙の施行を指示した。県会仮規則では、この年の選挙は五月第四水曜日の二、三日と定められていたが、大区の多くで混乱が生じ、実際は期日よりも遅れて施行された。遅延の原因は、仮規則中の選挙規則の解釈に疑問が現れ、県への問い合わせに時間を要したためであったが、その間の伺指令が「明治拾年県会県参事会」(愛媛県議会事務局蔵)の簿冊に綴られている。
 伺いに見られる疑問点の一つは、仮規則第一八条の兼職禁止条項の内容に関するものであった。同条に掲げられていない学区取締・教導職・学校教員・郵便取締役・勧業掛など準役人とみなされる者の議員資格について、第三大区(小豆島)や第五大区(阿野・鵜足郡)から問い合わせがあり、県当局は「郵便取扱役ヲ除クノ外学区取締其他ノ役々共第十八条ニ明示セサル者ハ議員ニ撰へカラス候事」という解釈を六月四日付で示した。この指令に接した第六大区(那珂・多度郡)からは勧業掛を拝命している人物が県会議員に当選したが、第一八条中の官用傭の者と解釈して同人を除外した、勧業掛が議員になれるのならば選挙をやり直す必要があろうかといった伺いが出された。県は「目下当撰ノ者誓書差出シ其義務ヲ尽サンコトヲ明示ス、然ルヲ故ナク退任セシムル条理之レ無ク」、「書面伺ノ趣既ニ過去ノ義ニ付不問ニ措(お)クノ外之レ無シ」と苦しい回答をしなければならなかった。また大区会仮規則第二〇条には議員兼任禁止職務に「学区取締」が入っているのに、県会仮規則第一八条には「学区取締」がないのは矛盾するといった指摘があって、県は、九月五日付で「議員撰挙規則第一八条ニ学区取締ノ名称ヲ明示セサル処詮議ノ次第之レ有リ、該職ハ議員タルヲ得サルモノトス」と布達して、議員の学区取締との兼職を禁じた。
 第四大区(香川郡)や第一六大区(喜多郡)からは、選挙方法に関する誤った解釈による施行伺いや報告が寄せられた。第四大区のは、選挙期日が切迫しているので今回に限り大区会議員の互選で施行したい、第一六大区は区内小区の中には町村会議員を選挙人として施行した所もあるので改選させるから暫時猶予願いたいといった上申であり、県は選挙人による直接選挙の早期実施と当選者の迅速な報告を求めた。
 こうした選挙規則の疑義や誤解から選挙の期日が遅れた上、当選者の辞退が相次ぎ、次点者の繰り上げに日数を費やすという事態も起こってきた。大区会議員の互選による選出方法伺いを県から叱責された第四大区は、六月になってようやく松本貫四郎ら六名の議員を選出したが、その内二名が「事故之レ有リ退任申出」たので「其次投票多数ヲ以テ相定候得共、不幸ニシテ夫々事故之レ有リ未タ確定仕ラス候」と六月一五日に届け出た。第八大区(宇摩郡)では、県の指令通り五月二三日に選挙を実施して当選者三名を届け出た。ところが、内一名が病気により辞退したので次点者を繰り上げ当選者として通報したが老年と多病を理由に辞退され、三人目になってようやく受諾するという有り様であった。この間二〇日近くを経過、補欠当選者を届け出たのは六月一三日であった。各大区とも当選者の確定にはかなりの日数を要しており、このような状況から、県当局は仮規則の中で開会を宣していた六月第三金曜日(一五日)を一週間後の第四金曜日(二二日)に延期しなければならなかった。この期日延期により二〇日までには当選者もようやく出揃ったが、第一二大区(野間・風早郡)だけは一名の欠員がどうしても決定せず、老衰や病気を理由に辞退する者九名に及んだ。ようやく医師鎌田隆一が二四日に受諾誓約書を出したが、目下施治の患者を他の医師に委託するまで数日の猶予を願い出て、県会に参加したのは開会後の二七日であった。
 こうした選挙の混乱や辞退者の続出は、県民が県会の意義を理解せず、したがって岩村県政の民会施策に十分に対応できず、戸惑いと混乱を見せているといえよう。ともかくも議員となって記念すべき特設県会を構成した人々の氏名と出身・履歴などを示しておこう(表1―6)。
 表を整理すると、族籍別には議員定員七〇名のうち不明者四名を除くと士族二六名・平民四〇名となり、士族は当然のことながら旧城下町に集中している。履歴書が残っている議員の略歴を概観すると、士族は幕末維新時藩役人を歴任し、廃藩後県官吏に就任している。この中には、高松の松本貫四郎、松山の小林信近、宇和島の物部醒満(すがまろ)など廃藩置県前後行政の中枢にあった人々や都築温・得能亜斯登など幕末宇和島藩の功臣として知られた人物も含まれている。これら士族議員の多くは、明治六年の愛媛県・名東(みょうとう)県成立前後に官吏を辞して区長・戸長や学区取締になっている。また町村会・大区会が開設すると、大洲の戸名正路のように中村村会の会頭として活動し、二〇大区々会には会頭都築温はじめ三好季如・上原蓊らが議員に選ばれるなど地方民会経験者も見られた。平民は旧庄屋・里正と履歴に明記している者はそれほど多くないが、維新後、副区長・戸長・副戸長・組頭や学区取締となって地域行政を経験している者が一般的である。この傾向は、履歴の判明しない平民出身議員にも共通していると推察される。また平民議員は、二〇~三〇歳代の若い年代が半数を越えており、選挙民が新しい時代に即応して若い行政経験者に期待をかけて投票したことと思われる。中でも、一八大区(現東宇和郡)の清水静十郎は、「未タ戸主ニ之レ無ク候得共元ヨリ人望之レ有ル者ニテ既ニ区内撰挙人員惣数ノ内同人ヲ投票スル者十分ノ八以上ニ之レ有リ候」と、仮規則第一六条の該当者として区長以下一一名の戸長連名で申請、県から特例として資格認定された議員であり、煩雑な手続きを取ってでも人材を県会に送り込もうとする地域有権者の意志の表れと考えられる。なお、士族議員の年齢構成は平民よりやや上がって三〇~四〇歳代に集中しているが、働き盛りといってよい。有権者は、士族・平民を問わず、地域行政や議事経験のある三〇歳代前後の人材を選挙の基準にしたようであった。
 こうした期待を担って選出された議員であったが、辞退者が相次ぎ、県会が開会されても出席しない議員は一五名を数えた。欠席者は讃岐地域と伊予東部に偏在しているのが特徴的であり、九名は病気などを理由に不参届を提出、六名は無届であった。無届不参は七大区(讃岐国三野・豊田郡)に集中しており、六名の議員中県会に出席したのは大西量平一人であった。県から「参加致サズ不都合」の通知を受けた七大区長は、驚がくして当人を譴責し不参の理由をただした。本人たちも恐縮したようであるが、中でも後に国会議員に選ばれる伊藤一郎は「謝罪表」を岩村権令あてに提出して、資性遅鈍浅学陋(ろう)識で衆庶の代議の職任をつとめる才能もないのに、誤って多数投票されみだりに辞することもできないままに、多度津から松山に向かう途中持病の腹痛を起こして帰宅療養、無届不参のままに過ぎてしまった、県会の規則に違犯する醜態の挙動に立ち到ったことはまことに恐縮駭慄(がいりつ)追悔すべきことであり、伏して罪を草野に待つ心境である、何とぞ県会議員を除名されたいと謝っている。伊藤は、次の第二回特設県会には病気不参を届けており、七大区では大喜多彦三郎・森小八郎・徳重勝蔵が伊藤同様第一回に引き続き欠席、第一回県会に出席した大西量平は内山保次郎と共に第二回県会開会を前に辞職しており、この結果、第七大区選出の議員は定員六名の内一名も出席しない事態となった。こうした政治的関心の低い地域も少なくなかった。

 第一回特設県会の開会

 県会仮規則第九条では、明治一〇年六月の第三金曜日一五日に県会を開く予定であったが、いろいろな混乱で選挙が遅れ一週間延期して、第四金曜日の二二日に開会された。議場に充てられた旧松山藩校明教館には、権令岩村高俊以下書記官・県官と議員が礼服で参集、午前九時三五分、議員は撃板数声を合図に議場に入り、前日の打合会で抽籤によって決定した議席番号に従って指定議席に着座した。
 やがて岩村権令が立って開会の主意を述べた次の演説書を朗読した。岩村の演説は県会を開設する気概がこめられ、県会の本質に触れた格調高いものであった。

 夫レ公同ノ利益ヲ図ラント欲セハ、衆議輿論(よろん)ニ基カスンハアルへカラス、苟(いやしく)モ衆議輿論二基カント欲セハ、広ク之レヲ衆庶ニ諮詢(しじゅん)セサルヲ得ス、此レ議会ノ已ム可カラサル所以(ゆえん)ナリ、某、乏(とぼしき)(官職)ヲ本県ニ承ケ、夙夜黽勉(しゅくやびんべん)県治ノ易々ナラサルヲ思ヒ、深ク衆議輿論ニ望ム所アリ、此ノ故ニ明治八年第三月町村会ヲ開キ尋テ同九年第七月区会ヲ開ク所以ニシテ是レ各員ノ親シク知ル所ナリ、今茲ニ本年本月本日ヲ以テコノ県会ヲ開キ、衆議輿論ヲ尽サシメ、本県一般ノ洪益ヲ図ラントス、抑、議会ハ其土地ノ主脳ニシテ、一般ノ幸福ヲ増加スルノ要務ナリト云トモ、若シ其議事公平二基カスシテ、偏(ひとえ)ニ其形ヲ模シ其名ヲ衒(てら)フノミニ止ラハ、之レカ為メ却テ開化ノ進歩ヲ妨ケ一般ノ洪福(こうふく)ヲ傷害スルニ至ラントス、庶幾(ねがわ)クハ各員宣ク此ノ意ヲ了シ、専ラ一般ノ洪益ヲ□(りっしんべんに固)誠審議シテ敢(あえ)テ其本分ノ責任ヲ辱シメサランコトヲ、是レ固(もとよ)リ某ノ各員ニ望ム所ニシテ、各員ノ撰挙者ニ対シ期スル所モ亦応(まさ)ニ之レニ出テサルヘシ、然レハ即本会ヲ以テ将来本県一百三十余万人ノ洪益福祉ヲ期ス可クシテ、而テ某ノ県治上ニ望ムノ意モ茲ニ於テ初テ達スル事ヲ得可シ、
明治十年六月二十二日 愛媛県権令 岩 村 高 俊

 特設県会は、開会の翌二三日岩村高俊から議長互選の提案があり、出席議員全員の投票によって小林信近(二八票)が選出された。次点は松本貫四郎(一〇票)、三位は片山高義(四票)、都築温(四票)の二名で、松本・片山・都築は幹事に就任した。議長に就任した小林信近は松山藩士族で、松山県少参事・石鐡県七等出仕、愛媛県成立後も七等出仕として県幹部の一人であったがほどなくして辞任、その後、第一三大区(温泉・和気・久米郡など)区会議長に選出されており、その人柄と手腕はよく知られていた。
 小林議長は、六月二七日に議員全員の同意を得て権令演説に対する「奉答書」を提出し、岩村の期待に応えて協心同力することを誓った。

 曩(さ)キニ、朝廷至公至正ナル立憲ノ政体ヲ確立シ以テ人民ノ権利ヲ拡張セントス、爾来他ノ地方ニ於テ未タ純然タル民会ヲ設立シ以テ其績ヲ奉スルヲ聞カス、特(ひと)リ我本県ニ於テハ明治八年三月ヲ以テ町村会ヲ開キ尋テ同九年七月区会ヲ開設ス、今茲(ここ)ニ明治十年六月二十二日ヲ以管下人民ノ代議人ヲ集会シ県会開場ノ式ヲ行フニ至レリ、鳴呼一般人民ノ幸福ヲ得ルニ至ルハ素ヨリ、天皇陛下ノ盛意ニ出ツルト雖トモ、亦我県権令ノ一意、聖慮ヲ奉行スルニ在ルナリ、我衆議員不肖ニシテ素ヨリ厚意ニ副フニ足ラスト雖トモ勉メテ協心同力以テ其実功ヲ奏セサルヘカラス、夫レ天下ノ物皆其始有リテ終ナケレハ寧ロ其業ヲ創設セサルニ如カス、依テ開場本日岩村権令懇示ノ旨趣ヲ服膺(ふくよう)シ自誓フテ敢テ失ハサラントス、
  明治十年六月二十七日   愛媛県会 議長 議員 

 審議日程

 六月二二日に開設された特設県会は、会期二週間を超えて審議を続けた。議案審議の日程をあげると表1―7のようになり、学資賦課・警察費賦課・民費賦課の議案と民費賦課の方法の四議案を順次審議し採決していった。四議案は、地方税が確立していない時代の財源確保の問題であった。議会は地味な討論を重ね、警察費賦課の議案を原案どおり可決し、他の議案を修正可決した。特に民費問題については、直接県民の経済に関係するだけに議員の論議が集中し、それぞれの立場での発言が相次いだ。

 学資賦課・警察費賦課議案の審議

 「学資賦課ノ議案」の要旨は、開明日進の時に当たり学事は秒時もゆるがせにすることができないが、文部省よりの委託金が明治一〇年度になって大幅に削減されて各学校分賦金など教育費の不足を招き、それを補うために県税から支出してもなお足りないので、県内の人口割にして徴収したいが、その方法はそれぞれの小区に一任する、といった内容であった。議員の意見は、原案賛成、条件付き賛成、反対の発言に分かれたが、物部醒満が、民費夥多の時に際し県民に賦課するのはよくない、学校分配金は余剰のあるときに分賦したのでよいとする原案反対、学校分賦金一万円を削除する修正動議を提出、石原信樹の賛成で有力な意見となり、起立採決の結果、三五名の多数の賛成で可決された。石原の意見は、国庫委託金減額の根拠はおそらくは減租の聖詔にあり、補助金減額によって生じた不足分を県税と民費で補おうとすることは、徴収の名は異なるけれども減租五厘の額内を削る理となって少しも当を得ないし、たとえ一万円を各校に分配しても一校には二円余となって学校維持にもならない、と主張していた。議会での修正案可決で、岩村権令には「小学補助金ノ内成丈(なるたけ)経費ヲ節減シ差引残ル所ノ金員ヲ各校へ配賦スヘシ」と上申することにした。
 「警察費賦課ノ議案」の要旨は、明治九年一月以来予算化されるようになった警察費を官費・県税・県賦金と民費によって構成する方法、特に民力との関係において民費の賦課を認めるかどうか、これを認めた場合の民費賦課方法は戸数割とし、小区々務所が適当の方法を設けて取り立てる方法はどうかといった内容であり、併せて巡査の員数と配置の適正についても問題にしていた。審議の結果、警察費賦課議案は原案が可決された。

 民費課賦の議案と賦課方法案の審議

 六月二五日から七月九日まで、途中一日の休会と二回の日曜日をはさんで一二日にわたり論議されたのは「民費課賦ノ議案」と「民費賦課ノ方法」案であった。
 民費とは官費に対する名称で、官(政府)の支弁する経費に対して民の負担する経費の意味として使われた。廃藩置県後、従来の藩租税のすべては国税として中央政府に収納され、府県庁にはその一部が庁費や教育・警察・土木費の官費(国庫下渡金)として下付された。さらに明治五年九月に大蔵省は府県に対して、遊女・飯盛・食売女・女芸者などに賦課していた雑税を府県限りの取り立て税とし、各府県の道路堤防の営築・邏卒取り締まりの費用などに充ててよいと指示した。さらに翌六年一月政府は僕婢(下男下女)・馬車・人力車・駕籠(かご)・乗馬・遊船などの国税付加税を府県が賦課することを認め、両者を合わせて明治七年一月一九日の太政官布告で賦金と称することになった。しかし僅少の官費支給を賦金収入で補っても広汎な府県行政費を賄うには不足した。そのため府県は、府県民を対象として府県限り取り立ての税を徴収するようになった。これを官費に対する用語として民費と呼んだのである。この府県庁が賦課する民費のほかに大区小区や町村単位で賦課徴収されるものも民費と称せられた。民費の用語の初見は明治四年五月二五日の太政官達であるが、その後の官省達で民費賦課費目を徐々に指定、費目増加とともに金額も年々増徴されていった。政府は明治六年七月の地租改正に関する布告と民費中土地に賦課する額は地租三分の一を超過してはならないと制限を設け、翌七年四月民費賦課はその多少増減によりおおいに民情に関係するとして、分類雛形を示して明治六年の民費と、できれば同五年の民費を調査報告するよう各府県に命じた。
 愛媛県は同七年五月一五日付で民費調査と報告を各大区の正副区長に指示した。愛媛県でも、また全国的にも明治五年の民費調査はまとまらなかったようであるが、明治六年から一〇年までの民費はほぼ全府県出そろい、『府県民費表』として刊行された。同表から本県の民費を抄出すると表1―8のようになる。また明治六、七年の民費明細を示したのが表1―9であり、両年で県庁収入金の六三%が民費徴収に依存していた。このように県の財源の主体となっていた民費は県民や自家の経済に大きな影響を与えるだけに、民費賦課の議案とその賦課方法には県会議員の関心が高かったのである。
 民費課賦議案の第一項は、民費の賦課法は地租五分の一以内に制限されていて、多くを人戸に課する以外にない、しかし富潤の戸に賦するのも赤貧(せきひん)の戸に賦するのも同一にするのは不当であるので、所有の財産をもって戸々等級を定めてこれを課すのはどうであろうか、といった内容であった。政府は、明治八年七月に、たとえ諸費過剰であっても地所に民費賦課をしてはならない、その地の人民の協議により戸数人口などへの別途賦課の方法を設けよ、と指令して地価割民費のほかに人口割か戸数割民費の賦課を認めた。さらに明治一〇年の減租に際して、地価割民費の制限額を地租の三分の一から五分の一に減じていた。民費課賦議案の審議に先立ち、岩村権令が特に発言を求めて、「正租五分ノ一ヲ遺ヒ払フノ規則ハ政府ニ於テモ未タ一定セス、原案ノ如キハ単ニ地種ニ関スルモノヲ措(お)キテ専ラ人口ニ課スル云々以下ヲ眼目トシテ之ヲ議ス可シ」と指示した。権令が地価割を棚上げして人口割戸数割民費についてのみ審議して欲しいとしたのは、民費の人口割戸数割賦課の比重が強まったことを裏付けていた。審議では修正案も出されたが、原案に「財産ハ動不動産ヲ論セス悉皆之レヲ成算スル者トス」の但し書きを追加した一部修正案が多数で可決された。第二項は、財産等級を九等に分類するかどうかであり、結局原案が可決されたが、成立しなかった案の中には、更に九等級の上に一等級を加え、巨万の富を有する者はこの等級に拠って賦課する(成瀬岩太郎ら)、九等級の下にもう一級を設けて賦課する(石丸弘陽)、廃疾者には別に等級を設けて賦課する(石丸弘陽)、廃疾者や治産力のない者は後日別に協議する(都築温)、鰥寡(かんか)孤独の者や廃疾の者は賦課を免除する(大西量平)意見が出され、税負担公平を期待する議員の意志が反映されていた。
 民費課賦の議案第三項は財産額による等級割、第四項は等級の決定方法、第五項は民費取立の順序、第六項は確定した財産等級を三か年間固定するといった提案であった。この段階で、課税対象の動産不動産の内容や戸数割賦の問題点などが指摘され、審議外とされた地種にかかる民費にも論議が波及して、議事が混乱した。小林議長は質疑の多かった第三項の財産等級案と第四項の財産査定方法案に対する調査案の作成を指示した。加藤彰・石丸弘陽・石原信樹が調査委員に選ばれ、原案に議員の修正意見を加味した調査案を作成提出した。しかし同案は原案の財産等級基準を変更したものであったので、議員一般を納得させるに至らなかった。審議の過程で、原案・調査案の具体的な財産等級基準は否定され、堀田幸持・福家清太郎が提案した九等級の区分は残すが等級の金額や各戸の財産取調方法は各小区の民会で協議して適宜これを決定するという修正案が可決された。これに伴い、全議員の賛成で「小区会開設ノ議」を小林議長から岩村権令に上申することにした。
 岩村権令はこれを認めて、一〇月二日の県布達で小区会の大綱を示したが、小区会開設は県会議長上申の趣もあったけれども小区会議を開設するには差し支えもあるので、民費賦課方法などで会議を開く必要がある場合のみ各町村議事役をもって臨時小区会を開設すべしと述べて、小区会は町村会・大区会のような常設の議会とはせず必要に応じて町村会議事役の代表による臨時会とすることとし、但し書きで議員は三〇名~一三名内、諸般の事は大区会規則に照準して斟酌せよとした。
 第五項の各種民費(管内費・大区費・小区費・町村費)取り立ての順序は、大区・小区・町村の経済的な実態を無視し機械的に戸数を基準に割り当てることからそれぞれの戸の経済力に応じた公平な負担にならないという問題点を含んでいたが、この点について不安を表明しながらもほとんどの議員は原案に賛成した。第六項の各戸財産等級を三か年固定する案は、一か年固定案に改められた。
 県当局の原案に対して、県会は以上のような修正を行った。その結果「民費課賦ノ議案」は、第一項の主旨において県当局の意向をそのまま承認しながら、その実際の執行面では大幅に修正され、財産等級を九等に分類するという大まかな枠だけを決定して、その他の施行上の問題はすべて小区の民会に一任するという形を決議した。こうした修正の背後には、民費負担者である県民の立場に立って極力合理的な適正課税を実現しようとする議員の意志が反映されていたといえよう。
 民費課賦の議案に八日間を要した後、七月四日午後から民費賦課の方法の全体質疑が開始された。この議案は一五か条にわたり民費の概目、民費賦課の区別、民費賦課の順序、民費支出の手続を示したもので、第一条で民費を管内費・大小区費・町村費に大別、第二条、第三条、第四条で管内費(官員旅費・県会費・警察費など)、大小区費(大小区務所諸雑費・区戸長書記及び区務所諸傭給旅費・地籍戸籍徴兵調費・区会費など)、町村費(町村雑費・組頭以下諸傭給旅費・町村会議費・道路堤防橋梁修繕費・溜池及び井堰(いせき)井手営繕費・防水防火費・学校費など)の支出費目を列挙、第五条で第一種地種、第二種人戸、第三種地種・人戸の賦課対象ごとに支出費目を分類していた。
 審議では、民費の区別や賦課費目についての質疑や意見が出され、大小区費を二つに分けて大区費と小区費に区別する修正案を可決、都築温・西山徴・福家清太郎が委員に選ばれて大区費(大区々務所諸雑費・正副区長 大区長書記及び大区々務所諸傭給旅費・大区会費・国民軍簿調費など)、小区費(小区務費諸雑費・小区長 戸長及び小区々務所諸傭給旅費・小区会費・地籍戸籍徴兵調費など)に分割する調査案を作成して議会に報告、可決された。この結果、新たに小区費の条文が加えられ、その他民費の課税別種目にも多少の修正をして、賦課方法の審議を終えた。

 閉会と決議案件の執行

 七月一〇日、ようやく四つの議案を議了した議会は閉会式を迎えた。岩村権令は居並ぶ議員を前に「本会議既ニ畢(おわ)ル、某(それ)カシ深ク各員ノ誠意ヲ至シ公議ヲ竭(つく)シ人民ノ為メニ幸福ヲ計ルノ他ナキヲ好(よ)ミス、其決議条款ノ如キハ厚ク審議ヲ遂ケ追テ施行成否ヲ告示ス可シ」と演説、県会の決議を尊重し、民意を行政に反映する努力をする意志を表明した。特設県会は、藩域を越えて伊予国・讃岐国の地区代表者が一同に会した初めての会議であり、定員七〇名中四〇名前後の議員が二週間にわたり民費賦課問題に取り組んだ。議員たちは、都市生活者としての士族層や地主的立場での平民といった階層、あるいは各自の保守性・革新性といった学識でいろいろな意見発表を試み討論を続け、数年前まで厳格な身分制で差別されていた士族と平民が対等に議論を展開した。ともすれば知識を振りかざす士族議員に対し、平民議員は生活体験と町村行政担当の経験から得た現実論でわたり合った。香川県大属などを歴任した旧高松藩士族の代表格である松本貫四郎から県会費の民費支弁に付き「県税遣払ノ途ヲ誤解スルモノヽ如シ」と批判された二一大区内海浦(現南宇和郡内海村)の平民(漁業)浦和盛三郎が、「松本貫四郎ノ駁議(ばくぎ)ハ、某ニ対シテ礼ヲ失フ者ト謂フヘシ、抑(そもそも)、県税遣ヒ払ノ途ヲ誤解ストハ、某ヲ以テ鳥獣視スルナリ、嗚呼(ああ)、我県人民未タ開明ノ域ヲ窺(うかが)フニ至ラス」、「某、管内ノ辺隅ニ居リ、所謂(いわゆる)井底ノ痴蛙ト雖トモ、亦少シク見ル所アリ」と堂々と対決する光景や、財産等級の標示にあたり加藤彰・石原信樹ら士族の作成した調査委員案「門標ニ其等位ヲ記載スルモノトス」を一六大区大洲の平民久保重高が「貧者ノ如キハ太(はな)ハタ之ヲ辱カシムルニ当ル」と削除を求める情景などは、廃藩以前には考えられなかったことであった。こうした士族・平民の階層の違いからの反目や伊予国と讃岐国に大別される地域利害の対立なども見られたものの、議員たちの真剣な討論は、県当局の提出した議案がともすれば住民の現実を無視した抽象的な側面を持っていたのに対して、これを具体的に現実に引き降ろし、民費の公平賦課を目指す立場で実施可能な方法に修正しようとする共通の信念がみなぎっていた。
 県会閉会後、議会の議決事項は、議長小林信近と松本貫四郎ら幹事により整理され、多少の組み替えや追加をして権令岩村高俊に上申した。県当局は、この上申書を検討、「民費課賦ノ議案」と「民費賦課ノ方法」を統一して「民費概目及賦課法」とし若干の組み替え再修正をして、閉会後三か月余を経た一〇月二六日に県内に布達した。この段階で議会の決議を骨抜きにするような修正も一部施されていたが、ほとんど県会の議決どおり施行していた。権令岩村高俊は、自らの意志で開設した特設県会の審議を見守り、県民を代表した議員意見の総括である決議事項を行政に支障がない限り採用したのであった。

 第二回特設県会

 明治一一年四月一二日第二回特設県会が開かれた。折から権令岩村高俊は、四月一〇日に召集された第二回地方官会議に出席しており、少書記官赤川戇助が代理として開会の辞を述べ、議長小林信近がこれに答えた。ついで、明治一〇年九月に四大区(香川郡)長に就任したため議員を辞した幹事片山高義(旧高松藩士族)の後任選挙が行われ、第一回特設県会で説得力のある論旨と見解が評価されていた加藤彰(一三大区、旧松山藩士族)が選任された。
 第二回特設県会までの議員辞任者は片山はじめ一五名を数えた。その辞任理由の主なものは、県官・区長・戸長に就任したためであり、堀田幸持(四大区、旧高松藩士族)・石丸弘陽(一六大区、旧大洲藩士族)が愛媛県九等属・山口県九等属にそれぞれ抜擢(ばってき)され、片山の四大区長についで森遷(三大区、平民)が地元の三大区(小豆島)区長兼学区取締に登用された。このほか、財産売却・破産による議員資格喪失者もいた。これら辞任者の補欠選挙がそれぞれの大区で実施され、綾野宗蔵(四大区、旧高松藩士族)・中村惇(一五大区区長、旧松山藩士族)・後藤豊章(一六大区副区長、旧大洲藩士族)・都築温太郎(一七大区書記、平民)らが当選した。これら新議員を含めて議員定数七〇名中六一名が議席番号を付され、残りの九名は全会期欠席した。
 県当局が提出した議案は、民費賦課法並びに同附則増補改正、巡査増置、車税消費、官林保護方法、物産調査方法の五議案であった。議会は、二週間の会期中民費賦課法並びに同附則増補改正案とそれに付随する問題に審議のほとんどを費やして足りず、議長決裁で会期を六日間延長して審議を続ける状態であった。このため他の議案は、巡査増置の議案が最終日に慌ただしく審議されただけで終わった。
 民費賦課法の改正を必要とした理由として、県当局は「昨十年十月甲第百三拾壱号ヲ以テ布達セシ民費賦課ノ方法タルヤ、同年第一次県会ニ於テ議定セルモノニ係ルト雖ドモ、尚未タ尽サヽル所アルヲ以テ之レヲ実行スルニ至リ往々疑惑ヲ生スル者アリ」と、民費賦課の実行段階で疑惑矛盾が生じ混乱した状況を告白していた。これの施行に当たり各大区から民費賦課法の条文疑義について多くの伺いが出された。県当局はそれぞれについて回答指令を与えると共に、解釈上の統一を要する事項については区長・戸長宛の乙号達で示達した。明治一一年二月七日付の乙第一二号達は、民費賦課法附則第一条但し書き「財産トハ動不動産ノ内土地ヲ除キ之ヲ成算スルモノトス」とは「財産取調ノ大意ヲ示ス」のみであって、「財産ノ価格ヲ定ムルハ勿論動不動産中地所ヲ除キ種類ニヨリ之レヲ財産ニ組入ルト否ラサルト」については同則第四条により「各小区ノ適宜ニ任ス」との見解を示していた。つまり、県当局は、附則第四条にいう「各戸財産ヲ取調スルノ方法ハ毎小区ノ適宜ニ任ス」のは、財産価格(等級)の査定だけでなく、財産種類の決定までも含まれるという解釈であった。
 県会は、民費賦課法並同附則増補改正議案の逐条審議に先立ち、「乙第一二号達」は昨年度県会における上申書の主旨を大きく変更したものとして問題とした。加藤彰・石原信樹らは「適宜」の拡大解釈は税負担公平の原則に反すること、動産不動産の無原則性が民費賦課法そのものの実施を不可能にするおそれのあることなどを指摘した。さらに福家清太郎は、県会の決議を無視した乙第一二号布達で、「昨年会場ニ脳髄ヲ費シ徒ニ民資ヲ耗シ喋々スル論議モ全ク水泡ニ属シテ民会ノ精神ヲ煙滅スルニ似タリ」「議会ハ人民ニ在リテ幸不幸ヲ知ラス、議員モ亦徒ニ行政官ノ玩弄物ニアラスヤ、是ヲ推究セハ上ハ聖詔大令ト下ハ民権ノ伸縮ニ関シ実ニ憂慮ニ堪ヘス」と憤慨し、乙第一二号布達を許した法的根拠は県会仮規則第四条「其施行スルト否ラルトハ県令之ヲ決ス可シ」にあるとして、「県令之ヲ否トスルトキハ其理由ヲ陳シテ却下スヘシ、然ルトキハ本会ニ於テ再議ニ附シ議員三分ノ二以上元ノ議ニ左祖(さたん)スルモノハ県令ヲシテ施行セシムルノ権アリ」といった文意に改めれば「民会ノ精神ハ勿論決議ノ効用ヲ保有シ、一般確信感佩(かんぱい)スル」と、仮規則第四条の改正を主張する意見書を提出した。福家の意見は、当時、地方に浸透普及していた自由民権論的意識を表現しており、綾野宗蔵・松本貫四郎ら旧高松藩の士族仲間に支持された。しかし伊予国議員の代表格である石原信樹・加藤彰らの「改正スルハ素ヨリ容易ナラサルコト」「事ノ緩急ト難易トニ拠レハ現時差向ニ於テハ乙第十二号取消サヽルヲ得ス」と言った改正消極論や、浦和盛三郎の「乙第十二号ノ布達アルトキハ昨年勉励シテ議スル処モ水泡ニ属スルニ似タリト雖トモ、取捨ノ権ハ長官ニ在リ、然レハ我輩議員ニ於テハ仕方モナキコトナリ」といった改正否定論などで、県会仮規則第四条改正動議は採択されず、乙第一二号の取消決議が多数で可決された。四月一七日、県会議長小林信近の名で取り消し上申書が県に提出され、県当局は岩村権令留守中にもかかわらず赤川少書記官の決断で翌一八日には同布達の取り消しを通告、同時に民費賦課法並びに同附則改正議案に、第四条を「財産ヲ取調フル手続並ニ財産ノ価額ヲ定ムルハ各小区ノ適宜ニ任ス」に改める一項を追加した。
 この議員の大勢の意志にすばやく対応した県当局の迅速な処置を評価した議会は、開会以来七日目の四月一八日から民費賦課法改正案の審議を開始した。以後、会期延長を含め一二日間にわたり原案各条文の逐条審議が熱心に続けられ、多くの条文が議員の現実的な意見や論議に基づいて修正された。しかしこの改正案の決議事項は施行されなかった。明治一一年一二月二六日に「地方税規則」が施行されたことから、同月二八日には従前の民費賦課法そのものが消滅したのである。なお、第二回特設県会の最終日四月三〇日にわずか一日で議了した「巡査増置ノ議問」は、民費支弁でもって巡査二〇〇名を増置する案を一〇〇名増置に修正され、岩村県令(明治一一年五月一五日付で県令に昇格)もこれを認めて七月一日付で告示した。
 特設愛媛県会は、明治一〇年と同一一年度の二回だけで幕を閉じた。審議された主な議問は民費賦課関係であった。議員たちは特設県会開設に感激しながらよく勉励して熱心な討論を展開、審議を通じて、徴収方法の公平と合理化を要求し続けた。その集約である決議事項は、明治一〇年のものは主要な部分が無視され、同一一年のものは水泡に帰した。岩村高俊を長官とする県当局の姿勢は、すべての面で議会の意志を尊重したのではなかったが、議員多数の批判を浴びた県布達を即座に取り消し県令執行権の是非に論議が波及するのを巧みにかわすなど柔軟に対処し、協調の態度を取り続けてこの特設議事機関の育成に努めた。翌一二年から三新法体制下の正式県会に移行するが、特設県会を構成した議員たちの多くがその後の県会で活躍するのを見るとき、議事訓練の機会と場所を提供して地域代議制機関運営の基礎を固めたという意味からも特設県会を評価することができる。

表1-6 明治一〇年特設県会議員名簿 1

表1-6 明治一〇年特設県会議員名簿 1


表1-6 明治一〇年特設県会議員名簿 2

表1-6 明治一〇年特設県会議員名簿 2


表1-6 明治一〇年特設県会議員名簿 3

表1-6 明治一〇年特設県会議員名簿 3


表1-6 明治一〇年特設県会議員名簿 4

表1-6 明治一〇年特設県会議員名簿 4


表1-7 第一回特設県会議事日程 1

表1-7 第一回特設県会議事日程 1


表1-7 第一回特設県会議事日程 2

表1-7 第一回特設県会議事日程 2


図1-4 第1回特設県会議場配置図

図1-4 第1回特設県会議場配置図


表1-9 明治6・7年民費表

表1-9 明治6・7年民費表