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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

天領

(一六三四)
寛永11・8・25○幕府、蒲生忠知病没により城主不在となった松山城を、大洲藩主加藤泰興に預ける(北藤録)。
寛永12    ○川之江村など天領に編入され、松山藩預かりとなる(川之江市誌)。
寛永13・6・1○幕府、伊勢国神戸城主一柳直盛に伊予国で五万八、六〇〇石を与え、宇摩郡川之江村など一柳家支配下に入る(大猷院殿御実紀)。
寛永13・11・24○一柳直盛没後、宇摩郡川之江村など、二万三、六〇〇石の地、直盛の二男直家の所領となる(大猷院殿御実紀)。
寛永19・5・29○一柳直家没する。その後宇摩郡川之江村など天領となる(廃絶録)。
寛永20・5・15○幕府、宇摩郡のうち四四か村一万七、一二三石余・周布郡のうち一、八一九石余を松山藩主松平定行に預ける(予松御代鑑)。
(一六四五)     
正保2・12・1○宇摩郡のうち五、〇〇〇石、一柳直照の所領となり、のち津根村八日市に陣屋が置かれる(大猷院殿御実紀)。
(一六六三)
寛文3    ○宇摩郡半田村飼谷に用水池できる(宇摩郡下分村明細帳)。
(一六六五)  
寛文5・7・29○幕府、西条藩主一柳直興の封を解く、同年八月一五日、直興の旧領を松平阿波守光隆に預ける(厳有院殿御実紀)。
寛文6・8  ○幕府、松山藩預かり領のうち、宇摩郡土居組北野村六五一石余を一柳直照に与える(西条誌)。
        ○「松山叢談」には宇摩郡のうち三か村、高七二二石余を一柳直照に与えるとする。
寛文10・3・7○幕府、松山藩預かり領のうち、周布郡で一か村・宇摩郡で六か村、合計五、〇〇〇石を西条藩主松平頼純へ引き渡す(松山叢談)。
(一六七七)    
延宝5・6・13○幕府、松山藩預かり所宇摩郡の内三七か村一万三、五九一石余の地を直轄地とし、七月一四日代官三田次郎右衛門が受け取る(松山叢談)。
(一六九一)   
元禄4・4  ○宇摩郡別子山村別子銅山稼行について、大坂泉屋吉左衛門より願書が提出される(別子銅山公用帖)。
元禄4    ○別子銅山開発初年度の産銅三万二、〇一八斤余(垂裕明鑑)。
        ○江戸時代を通じて最高の産出は、元禄一一年の二五三万五、一七一斤余。
元禄7・4・25○別子銅山大火災、一四二人焼死する(別子銅山公用帖)。
元禄8・4・25○天領別子銅山大和間符と西条領立川銅山大黒間符と坑道抜き合い、境界争論起こる(予州別子立川両御銅山仕格覚書)。
元禄10・②・4○別子・立川両銅山坑道論争裁許、別子側に有利(垂裕明鑑)。
元禄11・5・26○幕府、今治藩の関東における知行地五、〇〇〇石を収公し、替地として、宇摩郡のうち一八か村を与える(今治拾遺)。
        ○「長野家文書」六月二八日とする。
元禄14・6  ○別子銅山請負人泉屋吉左衛門の代理金右衛門ら銅山より西条領種子川山村を経由して新居郡新須賀村へ出る道を使用したい旨、西条藩に願い出る(別子銅山公用帖)。
元禄16・10・25○幕府、宇摩郡津根村八日市陣屋一柳直増の所領五、〇〇〇石を収公し、播磨国美嚢郡のうちで替地を与える(寛政重修諸家譜)。
(一七〇四)    
宝永1    ○幕府、宇摩郡のうち旧一柳直増領蕪崎付・小林村・長田村と天領西寒川村・東寒川村・中之庄村・上分村・金川村を西条藩に与え、新居郡のうち大永山・種子川山・立川山・東角野・西角野・新須賀の六か村を天領とする(西条誌)。
宝永3    ○幕府、宇摩郡津根・野田の二か村を西条藩に与え、同郡西上野・東上野両村を天領とする(西条誌)
(一七一二)     
正徳2・6  ○幕府、大洲領伊予郡南神崎村のうち一、五〇〇石の地を上知させる(江戸御留守役用日記)。
        ○天領となった地域は宮ノ下村分一、〇一五石余、上野村分四八四石余。
(一七二一)     
享保6・⑦・23○幕府、宇摩郡・新居郡・伊予郡のうち天領二三か村、一万一、〇〇〇石を松山藩に預ける(松山叢談)。
享保7・4  ○幕府、田地質流禁止を布告し、伊予国天領にも徹底を図る(預所年代記)。
享保9・5~ ○大旱魃、宇摩郡天満天神で雨乞い、その後伊予郡南神崎村・浮穴郡大落水(御預所年代記)。
享保10・3  ○宇摩郡浦山村で山火事起こる(御預所年代記)。
享保12・1  ○御城付米一、〇〇〇石、松山藩預所より納入する(御預所年代記)。
享保17・8・3○天領宇摩郡・新居郡村々の稲作虫付損毛、中稲・晩稲に被害が出始めた旨、松平伊豆守へ報告する(虫付損毛留書)。
享保17・11・7○伊予国天領松平隠岐守預かり所へ、飢人夫食米として七〇一石余を置籾にて渡す(虫付損毛留書)。
享保17    ○宇摩郡川之江村長野家、飢人救済のため米二〇〇俵を出す(御預所年代記)。
享保18・2  ○幕府、松平隠岐守預かり所二〇か村、五、一三八人分の夫食米として二七〇石を貸し渡す(虫付損毛留書)。
享保18・8  ○宇摩郡・新居郡のうち松平隠岐守預かり所一八か村の富農・寺社など飢人救済のため、これまでに米七二石余、雑穀六六石余を拠出した旨、報告書が出される(虫付損毛留書)。
享保18    ○宇摩郡上野村半左衛門・豊田村宇兵衛・惣代勘平ら減租直訴逮捕される(御預所年代記)。
(一七四一)     
寛保1・7  ○天領宇摩郡川之江村と今治領同郡長須村境界争論起こる(長野家文書)。
(一七四四)
延享1・4・13○川之江村・長須村境論裁許される(長野家文書)。
(一七四九)
寛延2・12  ○立川銅山、泉屋理兵衛請負となる(予州別子立川両御銅山仕格覚書)。
(一七六一)    
宝暦11    ○天領伊予郡南神崎村同上野分・松山領八倉村・徳丸村・出作村と大洲・新谷領浮穴郡麻生村との間に水論が起こる(大洲旧記)。
        ○この水論、宝暦五年・同一二年及び明和八年六月にもあり。
(一七七一)     
明和8・6  ○南神崎村など七か村水論、一、○○○人余乱闘する。(御替地古今集)。
        ○安永三年二月二三日新谷藩領下麻生村組頭兵右衛門、倉敷で処刑される。
(一七七二)    
安永1・8・21○暴風雨・洪水(役用記)。
安永9・4・2○幕府、大洲藩の申請により南神崎村・同上野分を大洲領とし、替地として大洲領風早郡粟井村・小浜村及び大浦村の大部分を受け取る(江戸御留居役用日記)。
        ○この時大洲領摂津国武庫郡池尻村・南野村も天領に編入された。
(一七八六)   
天明6・8  ○暴風雨・洪水(役用記)。
        ○九月にも暴風雨・洪水あり。
天明8・7・10○幕府、大洲藩預かり所風早郡に対し、田螺を救荒食糧として貯えるよう指示する(堀内家文書)。
(一七八九)     
寛政1・9・19~9・27○天領大洲藩預かり所風早郡大浦村と同郡小浜村との間に境論があり、小浜村民一二九人が松山領同郡長師村まで村出する(小浜村御百姓共村出一件達書控)。
寛政1・12・18○風早郡大浦村・小浜村境論裁許される(中島町教委文書)。
(一八〇四)     
文化1・3  ○天領大洲藩預かり所風早郡小浜村へ、松山領同郡宮野村農民五〇人村出する(中島町誌)。
文化3・6  ○宇摩郡川之江村質営業者調査される。一六軒あり(役用記)。
文化5・9・7○幕府天文方測量役人川之江に到着する(役用記)。
文化7・9・20○松山藩預かり所新居郡種子川山村の農民二〇人小松領へ逃散する(小松藩会所日記)。
文化10・12・4○天領宇摩郡川之江村出身の幕府儒官尾藤二洲没する(尾藤二洲基碑銘)。
文化10・12・28○幕府、大洲藩に対し預かり所を私領同様に扱うこと及び年貢定免・銀納を許可する(加藤家年譜)。
(一八一八)    
文政1・5・17○宇摩郡川之江村の農民、松山に出訴する目的で村出する(小松藩会所日記)。
文政4・8  ○宇摩郡川之江村祭礼、昨年の山下騒動のため車芸停止される(役用記)。
        ○山下騒動は文政三年六月一二日の夏祭に際して発生した喧嘩であり、同年一〇月二六日に村役人厳しく注意される。
文政8・8・13○大風・洪水、同月一九日にもあり(役用記)。
文政9・6・4○別子銅山、湧水多く人夫不足のため、天領村々へ人夫派遣通達あり(役用記)。
文政12・7・18○宇摩郡村々大洪水の被害多く、修復のため米七〇石拝借を願い出る(役用記)。
(一八三七)     
天保8・8・22○宇摩郡川之江村出身の儒者、長野豊山没する(長野豊山先生墓誌)。
天保8    ○飢饉、疫病流行する(役用記)。
天保11    ○赤痢流行する(役用記)。
(一八五四)
安政1・11・5○大地震、各所で被害大(役用記)。
安政2・4・4○川之江浜手芝土居完成(役用記)。
        ○芝土居は台場。この年地震数回、飢饉、七・八月には暴風雨洪水あり。
安政4・7・1○川之江浜手台場、波浪高汐により崩壊(役用記)。
安政4・8・25○大地震(役用記)。
安政5・9  ○コレラ流行(役用記)。
        ○安政六年七月~九月にもあり。
(一八六一)     
文久1    ○松山藩預かり所、越智郡孫兵衛作村庄屋から、同村を長く天領として置かれたい旨を願い出る(越智郡孫兵衛作書上帳)。
文久2・7~ ○ハシカ・コレラ流行する(役用記)。
文久3・9・7○宇摩郡大庄屋猪川平七ら七名、海防御用掛を命じられる(役用記)。
文久3・10・7○宇摩郡川之江陣屋の武器仕構凡積り書できる。鉄砲二〇〇挺を用いる洋式銃隊編成となる(役用記)。
(一八六五)
慶応1・4・29○天領村々、長州征伐のための上納金を割り付けられる(中島町教委文書)。
        ○同年閏五月二二日にも軍費献納通達あり、宇摩郡川之江村の庄屋・年寄ら六八二両三歩を献金する(役用記)。
慶応2・8・6○台風襲来、金生川氾濫し、罹災者三、五〇〇人余に達する(役用記)。
慶応3・5・14○別子銅山に暴動が発生し、四〇〇人余が銅山峰を越えて川之江に向かったが、銅山支配方広瀬義右衛門らの説得と天領代官所の洋式銃隊の圧力により退散する(役用記)。
(一八六八)     
明治1・1・16○土佐藩兵、川之江に入り、陣屋側無条件降伏する(役用記)。
明治1・3・7○土佐藩、別子銅山の管理を朝廷に出願する(復古記)。
        ○この願書却下される。