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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

今治藩

   藩主の任免・参勤交代・巡見使関係除く
 
  年 代      事     項
(一六三五)
寛永12・7・28○伊勢長島城主松平定房、二万三、〇〇〇石を加増されて、伊予今治三万石に封ぜられる。入部は九月四日(大猷院殿御実紀・今治拾遺)。
寛永12・9・2○今治城代藤堂高吉、伊賀名張に移るため今治より出船(今治諸旧記録)。
寛永14・11  ○島原の乱鎮圧軍応援のため、物頭小貫清右衛門・藤江作左衛門らを派遣し、その後、田島彦左衛門・鈴木又兵衛・杉山三郎大夫・田橋左助らを遣わす(今治拾遺)。
寛永16・春  ○領内検地実施される。この時、八幡村に犬塚池できる(上野家譜)。
寛永17・2  ○今治城外囲新門より東門浜手船頭町に至る石垣工事開始され、拝志村城跡の石垣を利用する(今治夜話・今治拾遺)。
寛永17・7  ○松平定房、讃岐国高松城在番を命じられる。相役は大洲加藤泰興・西条一柳直重(大猷院殿御実紀)。
(一六四七) 
正保4・7・3○長崎にポルトガル船が来航したため、松平定行からの連絡あり、今治を出船する(今治拾遺)。
(一六五七)
明暦3・11  ○今治城下町に大火があり、幕府より銀五〇貫目拝領(今治拾遺)。
(一六六二)    
寛文2・12  ○今治城下町大火、二五〇余軒焼失(今治拾遺)。
寛文5・6・18○松平定房、江戸城大留守居役となり、武蔵国東葛飾郡・下野国芳賀郡・常陸国真壁郡で一万石を与えられ、合計四万石となる(今治拾遺)。
寛文9・10・17○松平定房、藤原氏の入内を祝して上洛する。この時兵士一、七六五人を引き連れて上京したため京都より帰京時に七、〇〇〇両拝借、また帰府後一二月一三日に三、〇〇〇両を拝借する(今治拾遺・岡本家記)。
(一六七四)    
延宝2・9  ○今治藩法度を制定する(御用所旧記『国府叢書』所収)。
延宝4・3・1○江島為信、太田道灌兵式の演習隊制を編成する(今治拾遺)。
延宝4・10・25○松平定陳、弟定道へ五、〇〇〇石を分知する(今治拾遺)。
延宝7・9・27○領内の布木綿の丈幅を規定し、翌正月より実施させる。幅は鯨指で一尺、丈は鯨指で三尺九寸にして七尋(鈴木永頼見聞録)。
延宝9・5・24○城下町役・職人作料などの規定できる(浮穴家文書)。
(一六八一)    
天和1・1  ○飢饉のため飢人六、七七七人、死者五五人を出す(鈴木永頼見聞録)。
天和1・11・8○不作のため、はじめて家臣の俸給を五㌫削減する(今治拾遺)。
(一六八五)    
貞享2・4  ○今治藩、今治・拝志両町法度を発布する(鈴木永頼見聞録)。
貞享2・5  ○今治藩、郷中法度を発布する(国府叢書)。
貞享2・6  ○今治藩、山林取締令を発布する(国府叢書)。
貞享4・9  ○暴風雨七五七軒倒壊破損する(今治拾遺)。
(一六八九)
元禄2・1  ○大島・伯方島に月改役を置く、大島は仁江村孫右衛門、伯方島は北浦村七郎右衛門(小笠原家譜)。
元禄2・11  ○今治藩勘定所、庄屋給分役高定書を布達し、翌三年より実施する。庄屋給分は一〇〇石の場合五俵(国府叢書)。
元禄2    ○八幡新田村で地坪が実施される(新編物語藩史)。
元禄4・⑧・14○今治藩、財政難のため、五か年を限り家中より借米する、給人の場合六分一 (今治拾遺)。
元禄5・1・18○越智郡別所村地坪のため、松山藩より手代池内七左衛門・永江安兵衛、北条村庄屋四郎右衛門来る。今治藩家老服部伊織、郡奉行多却孫左衛門出張する(今治拾遺)。
元禄5    ○日向国飫肥(家老江島為信の前任地)より甘藷苗を取り寄せ、大島へ植え付ける(今治拾遺)。
元禄6・12・5○越智郡本庄村幸新田沖土手汐留工事、郡奉行大山文右衛門・西山文太夫、代官白樫平右衛門見分のため出張(今治拾遺)。
元禄7・1・26○本庄村に開かれた地域を幸新田と命名、造成された塩田は三二町八反一畝(対揚遺芳)。
元禄7・11・3○拝志町の支配、町奉行から代官支配に変更される(今治拾遺)。
元禄10・3・11○今治城下町人不如意につき、藩庁が上方商人より借銀して、低利で融資する(今治拾遺)。
元禄11・5・26○今治藩、関東にある所領五、〇〇〇石を収公され、代償として宇摩郡のうち一八か村を与えられる(今治拾遺)。
元禄11・6・5○松平定陳、備後福山城主一〇万石水野勝岑改易につき、城請取を命じられる(今治拾遺)。
元禄12・1・22○越智郡大浜村、地組帳を作成する(伊予八藩土地史料)。
元禄12・6・5○徳川綱吉、松平定陳に領知目録を渡す(今治拾遺)。
元禄13    ○越智郡大島津倉村に前堀塩田できる(新編物語藩史)。
元禄14・2  ○越智郡仁江村田方割賦帳作成される(吉海町教育委員会所蔵文書)。
(一七〇四)    
宝永1・4・14○今治藩、魚類の沖売り禁止を徹底するよう布達する(鈴木永頼見聞録)。
宝永1・8・23○暴風雨のため、潰家三四四軒あり(今治拾遺)。
宝永2    ○宇摩郡柏村、上柏・下柏に分村する(宇摩郡地誌)。
        ○但し、公簿上では柏村のまま。
宝永3・3・9○大坂蔵屋敷普請開始、山脇勘左衛門が担当する(今治拾遺)。
宝永3・7・27○今治藩、財政難のため向こう一〇年間、藩士の禄米を借り上げる(今治拾遺)。
宝永4・10・4○大地震、一八日まで余震あり(大浜村庄屋万覚帳)。
宝永5・①・9○越智郡下弓削村上生の農民、今治城下へ出訴する。一一月一一日、頭取五郎左衛門追放となる。その後弓削村の農民再度騒動を起こし、宝永七年五月一二日軽罪の者処分、一〇月一四日庄右衛門ら八人斬首となる(今治拾遺)。
(一七一九)
享保4・4・4○今治藩、幕府の金銀通用法改正や江戸屋敷類焼再建のため財政に苦しみ、藩士の引米を増加し五年間継続すると布達(今治拾遺)。
享保4・12・6○越智郡大島宮窪村で大火事があり、七〇軒を焼失する(鈴木永頼見聞録)。
享保5・4・27○城下町のうち室屋町三丁目より出火、一〇〇軒を焼く(鈴木永頼見聞録)。
享保6・5・27○今治領越智郡国分村と松山領同郡登畑村との水論について、今治藩家老より松山藩家老へ書状を出す。七月一一日関係者の処分を実施する(今治御在城日記)。
享保6・7  ○今治領の人口四万二、二七五人、田畑三、六五五町歩余、新田畑七〇〇町歩余(国府叢書)。
享保7・1・20○今治藩拝志町の困窮を救うため、牛馬市・人形芝居を許可する(今治御留守日記)。
享保7・6・23○暴風雨、総社川は蔵敷村実入新田付近決壊、浅川も氾濫して城下町も被災、損毛高八、〇〇〇石余・潰家四八〇軒(今治拾遺)。
享保8・12・2○今治藩、家中の困窮を救うため、俸禄借上率を減少するとともに米を貸し付ける(今治拾遺)。
享保9・4・19○総社川瀬掘普請始まり、領内の農民のうち一五歳より六〇歳までの者に出役を命じる(今治拾遺)。
享保11・3・20○今治城下片原町下に防潮のため石垣普請を許可する(鈴木永頼見聞録)。
(一七二六)
享保11・5・6○今治藩、領内の人口を報告する、総数四万七、九一五人、うち町方四、五五三人(今治拾遺)。
享保11・11・13○今治藩、家中へ五か年間の引米を布達する。知行一〇〇石の者は五割引(今治拾遺)。
享保12・①・12○今治藩、武術の復興を図り、剣・槍術の師範役を任命し、稽古に精出すよう布達(今治拾遺)。
享保12・11・3○今治城下片原町下、高汐のため石垣破損、修復費捻出のため入津商船より出銀させることとなる(今治拾遺)。
享保14・9・14○領内風雨洪水高汐のため、越智郡の損毛三、三八九石余、宇摩郡三八五石余(今治拾遺)。
享保17・7・19○領内稲作虫付損毛につき、米雑穀の他所売を禁止する(今治拾遺)。
享保17・7・25○今治藩、農作の減収を予想して藩士に対しては引米増加を布達し、同八月三日には町方・村方へ援助方を依頼する(今治拾遺)。
享保17・11・2○越智郡上弓削村で大火事があり、百姓本家三六軒・無給本家一一軒・納屋牛屋四四軒ほか焼失する(鈴木永頼見聞録)。
享保17・11  ○今治藩、領内の飢人高九、八九六人、餓死人一一三人と報告する(虫付損毛留書)。
        ○同一二月報告では、飢人高一万三、〇一二人に増加。この年今治藩は本高分の年貢収入二、六六〇石一斗八合、外に領知目録にある新田分よりの年貢三六三石三斗五升であった(虫付損毛留書)。
享保20・5  ○越智郡朝倉銅山請負人善蔵、勘定所へ太銅を持参、善蔵へ金二〇〇疋、吹大工弥治兵衛へ鳥目五○○文を祝儀として渡す(鈴木永頼見聞録)。
(一七三六)    
元文1・9・3○今治藩、財政困窮のため、諸役所に倹約を申し渡す(今治拾遺)。
元文1・9・11○領内の人口四万五五八人、うち町方四、三八五人(今治拾遺)。
元文4・8・5○領内大風雨洪水高汐、損毛高八、五五三石余、被害田畑八六二町歩余(今治拾遺)。
(一七四一)     
寛保1・7  ○今治領宇摩郡長須村と幕領同郡川之江村境界争論起こる(川之江市立郷土館蔵長野家文書)。
寛保3・1・20○今治藩、蔵元鴻池六兵衛らへ扶持米を給与する。鴻池六兵衛・天王寺屋藤右衛門ヘ一○人扶持、河内屋善六へ五人扶持、菊川元俊へ三人扶持(江戸京坂用聞名鑑)。
(一七四四)    
延享1・4・13○幕府、長須村・川之江村境界争論を裁許する(川之江市立郷土館蔵長野家文書)。
延享1・9・3○今治藩、大坂御用聞町人へ知行を与える。天王寺屋・鴻池二〇〇石、河内屋一五〇石(今治拾遺)。
延享1    ○今治藩、中曽根村大庄屋今村小左衛門に永の暇を出し、家財を没収する(今治拾遺)。
        ○理由は、小左衛門が田地を質入れして御用銀を調達したことは、公儀法度に背くものであるとしている。真相は、今治藩の借財が嵩んで支払い不能になったのではないかと「今治拾遺」の著者が述べている。
延享2・4・8○総社川堤、実入新田下通より東町下までの土手嵩上工事を始める(今治拾遺)。
延享2・4・11○今治藩、横目役を設置、同年一〇月一日には経済再建のため大元締役を置く(今治拾遺)。
延享2・11・30○今治藩主、贈答などを五か年間停止するよう布達する(今治拾遺)。
延享3・5・3○越智郡大島福田村で塩田普請を起工する(武田家譜)。
延享3・7・23○今治藩家老久松八左衛門長孝、藩政不振の元凶であるとして、沖島に流罪となる(今治拾遺)。
        ○沖島は現越智郡魚島。この事件を今治騒動ともいう。
延享3・11・22○今治藩、郷方・町方に総社川の瀬掘りを命じる(今治拾遺)。
(一七四八)     
寛延1・12・18○今治藩、家中俸禄渡方の改正をする。高一〇〇石の場合、全渡七〇俵三斗一升一合(今治拾遺)。
(一七五一)     
宝暦1・3  ○総社川、河道大改修工事、普請用係として家老服部外記・大目付松田平兵衛・郡奉行平野久五右衛門・勘定目付大沢恵左衛門、実務担当として河上兵作(安固)任命される(今治拾遺)。
        ○総社川の流路について、「今治拾遺」には、浅川裾へ流れ落ちていたとするが、近年この説を否定する考えが定着しつつある。竣工は宝暦一三年。
宝暦1・6・27○今治藩、倹約のため大坂屋敷を廃する(今治拾遺)。
宝暦1・⑥・18○暴風雨、総社川堤切れ、鳥生村広紹寺の上、八町村より鳥生村高下まで氾濫する。損毛高一万三、七九九石余(今治拾遺)。
宝暦2・1  ○宇摩郡柏村、唐櫨苗三、〇〇〇本を植える(藤枝雑記)。
宝暦6・9・6○越智郡大島宮窪村・余所国村農民、佳例山入会慣行問題につき、藩が有津村に利用を許可したことを不服として今治へ出訴(今治拾遺)。
        ○宮窪騒動ともいう。宝暦八年八月二二日出訴首謀者処罰される。
宝暦7・7・26○今治領内大風雨により倒壊家屋・潰家一、八四六軒、損毛高一万八、〇八一石余(今治拾遺)。
宝暦8・4・19○今治藩、宇摩郡三島村陣屋を御用屋敷と改称することを通達(今治拾遺)。
(一七七一)    
明和8・2~ ○越智郡古谷村鹿児池普請始まる。竣工は寛政一一年(今治拾遺)。
(一七七二)
安永1・8  ○今治市中で取引する。茶・出綿実・入綿・家代銀に歩一運上を課す(今治拾遺)。
        ○これを古歩一と呼ぶ。安永二年四月の出入米・出入麦より。
安永4・12  ○頓田川瀬替普請を執行、翌年春竣工する。一日の使役人夫一、二〇〇人~一、三〇〇人、新河道敷になる部分は藩が買い上げる(国分村庄屋旧記)。
(一七八四)     
天明4・①~ ○疱瘡流行、飢饉のため諸物価高騰する(木之浦年代記)。
天明5・9・3○今治城本丸の建物破損箇所多く、一一月四日より破損部分取り除き(今治拾遺)。
(一七九三)    
寛政5・1・15○今治藩、領分海岸へ異国船が漂着した際の防禦組織を作る(今治拾遺)。
寛政7・3・2○越智郡別所村犬塚池普請始まる(今治拾遺)。
        ○竣工は文化一四年
寛政9・9・15○三宝米伝播者大僧都寛雄没する(南光坊位牌)。
寛政10・8  ○越智郡高橋村の神官伊豆太夫、高橋村権現神職の件につき江戸で駕篭訴をしたため、今治で監禁される(今治拾遺)。
寛政12・9・14○宇摩郡の豪農真鍋与三右衛門、御用銀三五貫目を献納する(真鍋家譜)。
(一八〇五)    
文化2・4・3○今治城南堀端善方弥右衛門跡屋敷地へ藩校設立、教授に長野景次郎恭度任命される(続今治夜話)。
文化13・3・4○今治領宇摩郡中曽根村・柏村・三島村と松山藩預かり所同郡小川山村との間に山論が起こり、寺社奉行に裁決を願う(今治拾遺)。
        ○この事件は大坂町奉行所吟味となり、訴訟費用は幕領諸村が出すことになったが、その負担に堪えかねて、文政元年に川之江村で一揆が起こっている。
文化14・5・18○今治藩、池内八郎兵衛屋敷跡へ藩校を再興、同年六月九日松平定信自筆、克明館の校名を藩校南正面に掲げる(今治拾遺)。
(一八一八)    
文政1・5  ○猟師町吾智網漁規定布達される(大浜八幡大神社所蔵文書)。
文政7・9・3○今治城下町の砂田綱治保固・近藤庄蔵包勝、御用銀一、〇〇〇貫目を献上する(砂田家譜・近藤家譜)。
文政7・11・5○宇摩郡三島村の真鍋善左衛門、当年より四か年で米一万五、〇〇〇俵を献上する(真鍋家譜)。
文政9・5・20○大風雨により総社川土手所々で大破する。溺死者二三人、破船五〇艘(今治拾遺)。
    6・6 
文政10・2・13○今治藩、御用所金歩一銭を開始し、取締方に目付岡崎大次郎を任命する(堀江家譜)。
(一八三二)    
天保3・3  ○船頭町下川口に石垣(天保山)を築き、紀州杉杭を打って港を整備する。工事担当は大坂より雇用の北山禎助(今治拾遺)。
天保4・11・18○宇摩郡下山村農民一八〇人、米穀高騰のため新田宮に集合し頼母子休講の件につき談合、同二〇日、領家村農民群集する(藤枝雑記)。
天保5・9・12○今治藩、江戸城二ノ丸修復普請手伝を命じられる(今治拾遺)。
        ○天保五年一一月二六日、一、〇〇〇両上納。同六年三月六日、三、九一三両上納。
天保6・⑦・19○宇摩郡諸村の甘蔗栽培を当分休作するようにと通達する(今治拾遺)。
天保6・10・20○今治藩、江戸城二ノ丸普請助役などのため財政急迫し、明年の人数扶持を布達する(今治拾遺)。
天保7・12・26○今治藩、当年七月、八月の長雨による損毛高を二万四、五二八石六斗と報告する(今治拾遺)。
天保8・4・24○昨年の不作のため米価急騰し飢人多数あり、別宮村明神社地へ御救小屋を設置、毎日一、二〇〇人宛、五〇日間救済する(今治拾遺)。
天保8    ○この年領内に悪疫流行し、死者が多いため、光林寺にて祈禱を実施し、札守を配布する(今治拾遺)。
天保9・12・1○当年稲作、植付時の長雨による損毛高一万五、六八一石余と報告(今治拾遺)。
天保13    ○今治藩、財政窮乏のため領内より借入を図り、金九、五六七両、銀一四貫五〇〇目、国札一〇貫目、米一一〇俵を割り当てる(今治拾遺)。
天保14・10・4○今治藩、異国船渡来の節の手当を強化する(今治拾遺)。
(一八四五)     
弘化2・3・15○越智郡伯方島木浦古江へ塩田開発企図され、開発係岡村大作ら任命される(今治拾遺)。
        ○弘化三年四月二七日塩田へ砂入始まる。同五年二月下旬古江沖手石垣着工。嘉永六年二月古江沖開発中断のところ再開。完成は文久二年。
弘化4・7・11○今治城大手門普請用係、関助右衛門らを任命する(今治拾遺)。
        ○完成は嘉永元年四月六日。
(一八四九)    
嘉永2・11  ○今治藩医菅周庵、牛痘を接種する(続今治夜話)。
嘉永3・12・13○当年八月・九月の暴風による本田分損毛高を一万六、二五八石余と報告(今治拾遺)。
嘉永5・10  ○今治藩、紙の売買について規定し、当年より向こう一〇年間、黒部武右衛門一手取扱いと定める(柳原家文書)。
嘉永6・9・26○今治藩、家中の武器・馬具の修復費を補助し、武器新規購入者には資金の一部を貸与する(今治拾遺)。
(一八五四)
安政1・11・4○当日より地震あり、以後断続的にあり、同月五日に烈震、今治城も破損多し(大浜八幡大神社蔵地震日記・今治拾遺)。
安政4・8・25○大地震、以後断続的にあり、九月一九日には高潮あり(大浜八幡大神社蔵地震日記)。
安政5・10  ○今治藩、異国船対策・地震復興費などのため、領内より三〇年賦で借用する(柳原家文書)。
(一八六〇)    
万延1・8・19○越智郡伯方島木浦村古江塩田開拓築留、見分のため家老見習久松彦兵衛長世出張する(今治拾遺)。
(一八六一)    
文久1・12・15○越智郡伯方島木浦村古江塩田二三浜落成。見分のため家老服部外記正弘出張する(今治拾遺)。
文久3・3・1○今治藩主松平定法、来島海峡への砲台築造について朝廷へ上申書を出す(鈴木文書)。
文久3・4・12○異国船渡来につき、今治城を鈍川村に移す計画をたてる(鈍川村森家文書)。
        ○この計画実現せず。
文久3・9・16○今治藩主松平定法、禁中番役に就任する(今治拾遺)。
文久3・9  ○今治藩、木綿売買・積出規定を定める(浮穴家文書)。
文久3・12・24○今治藩主松平定法、将軍家茂上洛中につき滞府留守番役に就任する(今治拾遺)。
文久3・12  ○今治藩、漁事取締規則を改定し、漁事差配方を大坂屋彦左衛門から木原儀助ほか一一名に命じる(柳原家文書「漁事御触出御規則覚」)。
(一八六四)    
元治1・1  ○今治藩、切迫の時節柄につき村方へ倹約心得について布達する(浮穴家文書)。
元治1・8・7~8・11○今治藩、領内富家より軍用金一万二、九三五両を借用する(国府叢書)。
元治1・11・10○今治藩、征長応援のため軍勢を派遣する(今治拾遺)。
(一八六六)    
慶応2・6・11○長州再征軍一番手編成される。その後出兵して安芸御手洗まで進んだが、のち波止浜まで後退し、幕府の出陣命令に応じなかった(今治拾遺)。
(一八六八)     
明治1・1・18○京都警衛のため、家老鈴木永弼出張する(鈴木家譜)。