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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

六 吉田藩の文教

 藩校時観堂

 寛政六年(一七九四)、六代藩主村芳は家中町の南端(町人町側から横堀大橋を渡った西側の地点)に時観堂を設立した。同年一一月二七日村芳来場のもとに、教授森嵩の論語の講義が行われ、開校の運びとなった。大洲・宇和島・新谷藩に次ぐ伊予八藩で四番目の開校である。時観堂は学問所と武芸訓練所(槍術・撃剣)が設けられており、儒官宅が併設されていた。
 時観堂への入学者は士分以上の子弟に限られ、徒士以下足軽など下級のもの及び百姓・町人の入学は許されていなかった。入学者の年齢は九歳から二〇歳までで、毎日午前九時より午後三時までが読書・習字、それ以後夕方までは武術の訓練が行われた。
 授業は、四書五経・左伝・史記・文選・文章軌範・八大家文などが主たる教材で、この外に漢学・国学・習字などが課せられることになっていた。
 武芸には剣術(飯篠流・田宮流・無外流)・居合術(山の井流・田宮流)・柔術(関口流・円明流・無相流)・槍術(鏡智流)・砲術(稲富流・威遠流)・弓術(小笠原流)・馬術(大坪流)・兵学(甲州流・越後流)などの種類があった。時観堂の設立は、吉田騒動の直後であり、藩士の綱紀粛正のためにも時宜を得たものであったといえよう。
 明治二年(一八六九)時観堂は文武館と改称され、本町の鈴村邸(現在の吉田病院の前あたり)に移された。このころには学則も改正され、庶民の入学も許されていたようである。

 私塾と寺子屋

 時観堂が設立された当時、吉田藩家中の軽輩や町人・農民の子弟には入学が許されなかったので、私塾や寺子屋を利用する者が多かった。藩内における私塾としては、沢田塾・玉田塾・伊尾喜塾などがあった。寺小屋については、具体資料に乏しいが、神官・僧侶・庄屋などによって、習字・読書・算術が教えられていたようである。

図2-63 時観堂見取図

図2-63 時観堂見取図