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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

三 宇和島藩との境界争論

 目黒山争論

 明暦四年(一六五八、七月に万治と改元)春、目黒村(現北宇和郡松野町)庄屋長左衛門が、小岩谷の嶺で枌挽中の杣人を捕らえた。捕らえられた杣人は宇和島藩領の者で、吉田領目黒村分に入り込んで木を伐っていると判断した長左衛門は材木を没収して杣人を追放するとともに、吉田藩庁及び隣接する次郎丸村(現北宇和郡松野町、当時宇和島藩領)庄屋兵左衛門に連絡した。この次郎丸村庄屋兵左衛門は、目黒村庄屋長左衛門の兄であり、連絡を受けて直ちに目黒村に赴き、父の内蔵進方元を交えて三人で協議したが、血縁関係にあるにもかかわらず意見が対立し、事件は藩庁へ持ち込まれることとなり、宇和島・吉田両藩の取り扱うところとなった。
 事件の発端となった目黒山は、大部分が御立山(藩有林)で、一部が入会山(村民の共有林)であり、村民が肥料・飼料用の草を刈り、薪炭用の木や灯火用の松明を得ていた。この目黒山のうち目黒村分は吉田藩領で、それを取り巻く形で宇和島藩領の村々が位置していたから、村境紛争は藩同志の争いに直結する可能性を常に秘めていたわけである。
 八月になって、当事者である目黒・次郎丸両村庄屋の口上書が提出されたが、山境についての主張は完全に食い違っていた。すなわち、目黒村庄屋は、山境は明確であり境石も存在する、枌挽の杣人を捕らえた所は目黒村領分内である、と主張した。これに対して次郎丸村庄屋は、山境は不明確であり、枌挽が捕らえられた所は境界が明らかでない所であると反論したのである。
 両者の意見は対立したまま平行線をたどり、宇和島・吉田両藩の郡奉行や山奉行が調停に当たったが、解決に至らず、万治二年(一六五九)争点になっている山境未決定の地域を両藩の入会とし、当分の間入相山の御用木を伐採しないこととなった。
 万治四年二月、宇和島藩の山奉行の命によって百数十人の杣人が目黒山に入り込み、山境未決定部分を含む地域で大量に木材を伐採した。吉田藩では目黒村庄屋の口上書を添えて宇和島藩に抗議したが、宇和島藩側では、入会山から公儀用の欅を伐ったのだから問題にならないと反論した。
 両藩の対立は次第に深刻化し、寛文元年(一六六一)になると、宇和島藩側では、従来吉田領民が利用していた奈良山(現北宇和郡広見町)における薪採取を禁止し、山の通行をもとどめた。
 この措置によって、吉田藩領国遠・清延・出目の農民は、薪炭材の不足、目黒山への近道の使用禁止という事態に直面した。困窮した前記村々の庄屋は吉田藩庁に善処方を嘆願した。村境問題に端を発した事件が、これまで無関係であった村々をも巻き込んで拡大したのである。
 寛文二年から三年にかけて、吉田・宇和島両藩ともに藩境近くで木材の伐採をして小競り合いを起こしている。吉田藩では山番を置いて監視体制を強化し、越境するものを追い払うなどする事件もあり、問題が解決する兆しは全く見られなかった。
 寛文四年の春、目黒村庄屋長左衛門とその父方元及び百姓代表は、江戸に出て目黒山紛争の解決を幕府に願い出た。長左衛門の出府の背景には吉田藩庁の支援があったようであり、形式上は目黒村庄屋長左衛門が、次郎丸村庄屋兵左衛門を訴えているが、実際は吉田藩と宇和島藩の藩境争いであった。
 訴状は、幕府の寺社奉行へ提出され、井上河内守正利取り扱いとなり、被告兵左衛門に対して、論所絵図の提出が命じられた。絵図の作成は宇和島・吉田両藩士が立ち会い、目黒・次郎丸両村民によってなされた。この時幕府の裁断用の資料として目黒山の模型が作成され(銀杏樹材で作成、六個一組の組立式)江戸に運ばれた。
 寛文五年一〇月一二日、幕府は原告・被告の申し立てを裁断して、次のような趣旨の判決を下し境界紛争は終結した。

 (1)双方の申し立てでは山境不分明のため、幕府が新規に境界を決定する。
 (2)境界は、南は宇和島では皿山の峰、目黒村では初尾の森という所から進み、鳥屋の尾筋を下り、船石へかかり、北は鬼が城の峰まで、これが東西の境である。それより大あかり・おんぢが成・えぼし岩・地蔵堂札場まで峰通を南北の境と定める。(建徳寺文書・宇和旧記)

 河内・奥浦境界争論

 安永七年(一七七八)年、吉田藩領河内村(喜佐方村のうち、現吉田町河内)と宇和島藩領奥浦(現吉田町)との間に境界争論が起こった。事件は両藩の郡奉行取り扱いによって翌八年六月絵図・帳面などを調査した結果、両者の主張の食い違いが調整され、一二月には郡奉行立ち会いのもとに境界榜示が立てられた。安永九年両者の境論の地であった惣代・かちり坂へは入百姓をさせることとし、翌天明元年(一七八一)一一月には、境界に桜の木を植えた。この事件は、目黒山境界争論のように藩同志の対立には至らなかったが、宇和島領内の各所に飛地として存在する吉田領があるため、新田畑の開発や山林の利用が進むにつれて、境界が不明確な所では、常にこうした両藩庁をわずらわせる事件がもちあがる危険性をはらんでいたのである。

 その他の争論

 (1)皆江浦・下泊浦境界争論 文化五年(一八〇八)吉田領皆江浦(現西宇和郡三瓶町)と宇和島領下泊浦(加室浦、現三瓶町下泊)との間に境界争論が発生した。ところが、幕府天文方から派遣された伊能忠敬らの一行が測量を実施するというので、この紛争は双方納得のうえ、測量が終了してから話し合いを再開することになった。ただ最初に榜示を建てる場所はかれい崎の鼻と決定された。この事件は、天保六年(一八三五)に境界が確定して結着がついた。
 境界争論の詳細については、資料に乏しく『三瓶町誌』でも経過に関する史料を示さず結果のみを記している。下泊浦の耕地面積が、太閤検地(三町弱)・正保検地(九町弱)・寛文検地(二〇町強)・天保検地(三三町強)と急増しているところから、新田畑の開発が紛争の発端となり、幕府天文方の測量によって詳細な絵図ができたため、その絵図を基に再調整が行われたと思われる。
 (2)俵津浦・東山田境界争論 山田村(現宇和町、宇和島藩領)は、田畑の肥料や牛馬の飼料を得る草刈場を有しており、その場所が近隣諸村との境界線上にあったため、古くから境界争論が多発した。元禄五年(一六九二)に発生した吉田藩領俵津浦(現明浜町)との争論は両村の協議で解決したが、山田騒動(山田村庄屋を糾弾しようとした村方騒動)後の宝暦四年(一七五四)山田村は東山田村と西山田村に分かれた。この東山田村・野田村・伊賀上村と俵津浦との間に、文政元年(一八一八)境界争論が発生し、宇和島藩・吉田藩の藩境問題に発展したが、両藩の話し合いで解決し、俵津浦側が作付けしていた田畑は耕作禁止となり、山焼きを実施する際には双方が熟談のうえ取り計らうと決定された。文政四年にも同様の争論があったが、両藩取り扱いで解決している(伊達家御歴代事記)。

図2-60 目黒山付近(国土地理院発行20万分の1地勢図「宇和島」使用)

図2-60 目黒山付近(国土地理院発行20万分の1地勢図「宇和島」使用)


図2-61 皆江浦(現三瓶町)付近略図

図2-61 皆江浦(現三瓶町)付近略図