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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

4 海岸防備

 寛政五年の防備態勢

 領内のリアス式の海岸線は長く、海の産物に依存することの多い宇和島藩にとって、寛政三年(一七九一)の幕府よりの触れは、海に生きる人々にも、藩士たちにも実に身近な少なからぬ衝撃を与えたに違いあるまい。幕府触れには、異国船漂着の対処方が子細に記されており、いち早く外国の圧力を感じとって一国の防備に強い関心を持った老中松平定信によって通達されたものであった。これを受けた宇和島藩江戸藩邸では、寛政五年三月三日、「異国船漂着之節手当覚」の達しを国元に送った。その内容は、まず日振島・沖之嶋・三机浦・佐田浦・深浦の各番所に常々、侍格の者が下番人を差し添えて定番をする、異国船が見えたならば早々に城下まで知らせ、城下からの人数が番所に着くまでは、その郷・村々に有る鉄砲をもって備え、庄屋代官そのほか村の人数で固め、浦手の船を出して異国船の様子をうかがい、その報告を城下に知らせるようにさせた。知らせを受けた城下では、幕府触れに従ってすぐに隣領へ知らせ、かねての通り隣領の加勢を受ける(逆に隣領から知らせがあれば出陣加勢をする)。同時に城の矢倉より鐘鼓で合図をし、第一陣を編制して海岸に派遣する。
 第一陣(「一之手」)は侍大将一人(侍を三〇人ほど召し連れる)・番頭二人・物頭五~六人(弓・鉄砲・長柄の者一二〇~一三〇人とほかに旗差一〇人を召し連れる)、そのほかに目付・使番・儒者・医師・書記役・徒目付・相図役・走役・徒士・勘定兵糧役・小人目付・砲術の者・同手伝足軽の構成で、大筒一〇挺(玉目五〇匁より四貫匁まで)を装備した編制となっている。これらは、城下に常時用意された船に乗り込み、対象地に向かう手はずとなっていた。現地に着くと、異国船へは筆談などをして、穏やかにすれば上陸させて番人を付けて留め置き、幕府に伺いを立てて指示を受ける(原則的には長崎に送る)。もし異国船が抵抗の姿勢を見せるならば容赦なく船をも人をも打ち砕けという幕府の命令に従った(「異国船取扱及海岸防備書類」)。
 異国船漂着に対する出動態勢はその後も右の基本型に、もう少し具体的な対応策を考慮して整えられていった。ところが、文政八年(一八二五)、幕府はそれまでの方針を変更して、異国船が乗り寄せるのを見受けた場合には、その所に居合わせの人夫をもって、有無に及ばずいちずに打ち払うように命じたのである(「異国船打払令」)。それというのも、英船が長崎で狼籍に及んだり、みだりに上陸したり、米穀や島方の野牛などを奪い取るなどの横行があり、キリスト教禁止のうえからも異国船を放置できず、強行手段に出たという説明を付け加えたものであった。この幕府の異国船対策の変更は、宇和島藩に現実的な緊迫感を強く与えたものとみえ、実際を想定した対策が検討された。すなわち、打ち払いという強行策に出るにはそれなりの覚悟と態勢が必要となった。組頭の桜田監物は、その組中の者に具体的な出陣態勢を指示した上で、異国船が着岸しようとも、なるべく騒動にならないように追い払うことが肝要であるが、押して上陸するようならば防戦せよ、その節、下知なくわがままな進退をした者は罰する、また、戦に臨んで心が憶し、逃げ隠れする者があったならば立ち所にて斬る、決戦になったなら手負いの者があろうとも顧みず、敵を追放し、その後にほう輩・軽卒の手負いの介抱をすべし、という命令を下し、戦時から約二〇〇年近くも隔たった当時の兵卒に臨戦の心構えを具体的に示している(「異国船漂流之節手配調帳」)。この文政八年の幕府の異国船打ち払い令をきっかけにして、宇和島藩の軍備は現実的かつ積極的に、藩政の重要な課題として取り組まれることになっていった。

 天保一三年の防備態勢

 幕府は再度、異国船対策を変更した。天保一三年(一八四二)、文政八年以来の打ち払い方針を改め、それ以前に復し、異国船の望みが薪・水・食料にあるならばこれらを与えて引き返させるようにする穏やかなものとした。しかし、防御の固めは重ねて一層厳重にするよう命じたのである。それが時代の要請でもあった。伴せて、海岸絵図(浅深・城下までの里数・台場・遠見番所などの書き込み)の作製が命じられ、宇和島藩も早速これを郡奉行に担わせ、磯崎浦・三机浦・二名津浦・三崎浦・佐田浦・河ノ石(川之石)浦・八幡浜浦・津布理村・日振島・岩松村・下灘浦・平城村・福浦・深浦・満倉村・沖ノ嶋の絵図作製が時沢喜内・松浦定治・坊主随亭に託された。このうち台場については宇和島藩には、これまで存在しなかったが、この機会に台場設置の評議の必要が認められた(これが後の樺崎砲台設置につながる)。また、応変の備えとしては寛政五年の達しを踏襲するものの、人数については増加させ、五〇騎一備を二組配備することにして、侍大将二人・番頭・旗奉行・物頭・長柄頭・馬廻之士ともおよそ一〇〇人位・徒士足軽以下雑兵に至るまで四~五〇〇人ほど・大筒砲など五〇目より六貫目まで・船などが配備された。それらは番方四組のうち桜田組が必ず出陣することになっており、それにほかの三組のうち一組が交代で出陣する取り決めであった。これらの宇和島藩の警固態勢案並びに作製絵図は翌年天保一四年に幕府老中へ届けられている(「異国船取扱及海岸防備書類」)。
 異国船警固の備えに農民を直接動員することは考えられてなかったが、漁民については網船など漁船が藩の所持船(南渡丸・那智丸・三嶋丸)のほかに差し出させられ、その乗り組み役(水主役)として、弘化二年(一八四五)の段階では約一、〇〇〇人が動員態勢に組み込まれていた。

 威遠流

 寛政五年(一七九三)以来の異国船警固態勢は、宇和島藩に銃器鋳造・火薬製造・砲術操練を日常的な、かつ重要な課題とさせた。番方四組は陣立の操練を、例えば天保一一年(一八四〇)に八幡川原で行い、藩主宗紀がこれを閲兵するというように、盛んに軍事操練が繰り返された(「御歴代事記」)。しかしその陣立てや操練は、かつての伝統的なものとは異なり、その中心に西洋式銃隊が配置されていた点が特徴的であった。
 天保一五年(一八四四)、伊達宗城が宇和島藩主になると、さらに砲術は「海防第一之利器」であるとの認識から、製造とともにその操練方が奨励され、板倉志摩之助を中心とする砲術の流儀を威遠流と唱えさせ、その修行を推奨した。この威遠流は西洋式放銃を修行するのみならず、弾薬製造にもかかわるもので、用語も洋名を用い、また、流儀・製造法などもすべて秘密を厳守させられた(「威遠流ノ義ニ付追々被仰出」)。藩では、既に文政一一年(一八二八)一一月二二日に火薬原料の硝石の領内集荷独占を命じ、他所売りを厳禁した。さらに、天保一五年二月一二日には、仏海寺近くに焔硝作り場所の建設を命じ、その製造も本格化していった(「御歴代事記」)。
 寛政五年以来の海岸防御態勢作りから始まり、やがて西洋流砲術(威遠流)を中心に積極的な武備強化を進めていくことで、この後、八代藩主伊達宗城時代に宇和島藩は雄藩としての軍事的実力を蓄積していくことになるのである。しかし、その前提となったのは、七代藩主宗紀時代の「文政改革」の藩側から見た成功であり、それはすなわち、貸銀の帳消しにあった大坂の商人資本と銀札を召し上げられた宇和島領民の犠牲や、専売制によって成長を阻止させられた楮・紙生産者や楮実・蠟生産者の犠牲の上に成り立ったものであることは、ここで改めて付け加えるまでもないことであろう。

図2-56 海岸絵図が作成された村・浦

図2-56 海岸絵図が作成された村・浦