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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

三 藩政の推移

 新谷藩校求道軒の創設

 新谷第四代藩主加藤泰広は好学の人で、享保一七年(一七三二)在府中に、江戸藩邸ではじめて藩士教育を開いた。第六代新谷藩主泰賢は、天明三年(一七八三)藩校を創設して求道軒と名づけた。新谷藩校の始めで、大洲藩校明倫堂にならったものであろう。しかし藩財政窮乏がその極に達した文化六年(一八〇九)ころから自然休校となり、廃校となったとみられる。第八代藩主加藤泰理は、天保年間に至って求道軒を再興し、侍講である児玉暉山を抜擢して教授とし、学校の径営を委託したが暉山はこれに応えて、藩校の校則諸規定を改定した。暉山の門弟は多かったが、その中には勤王につとめた維新の志士香渡晋などがいた。

 倹約令

 新谷藩は、大洲藩の記述のところで触れたように、たびたび災害にみまわれ、年貢収入が思うようにならないこともあって、寛政四年(一七九二)大洲藩と同じく倹約令が発せられ、次のような「村々え申渡す覚え」が出された。

 一統困窮の時節、殊に上様格別にお差支えで、厳重に省略するよう仰付けられた。右につき、御家中末々まで奢がましき義なきよう、おいおい御法度の個条を仰せ出されるから、村々一統今後きっと相守り分限を忘れず、諸事慎むようにせよ。
 一、三月雛・五月幟など取飾らず、雛一対、人形三ツ、幟二本、鑓二本に限るべきこと。
 一、向後畳替の節、七嶋(表)に限って用いよ、庄屋の座敷一間の分は、上様御腰も掛けられる事故、中次表を用いるのは苦しくない、但し有り来りの分はそのまま使用してよい。
 御倹約につき御家中の衣類をはじめ、諸事質素にするよう、次のように仰せ出された。
 一、男女老幼によらず、帯は紬以下、袴羽織の裏布は木綿を用いよ。
 一、横麻上下相成らず、夏袴糸交りは無用。
 一、男女共白傘を用いてはならない。

 寛政六年にもまたまた次のような倹約令「村々え申渡す覚え」を出している。この触書のはじめに「大洲・新谷両藩は往古分知されたものであるから、双方領内のこと万端同様のはずであるが、分知以来大小の差別もでき、村々の仕成も違ってきたが、衣服などのことは同様でなくては、大洲領新谷領と入交っている村方のことであるし、御本家の御領と隔意があるかのようにみえて、よろしくない。殊に近年大洲方も改め御沙汰があったから、御本(大洲藩)末(新谷藩)一体のことであるから此度び御法度向御制服筋の改めを申付ける」として、次の箇条を記している。

 一、男女上着裏共に木綿に限るべきこと、但し男女とも六十以上五歳以下制外のこと。
 一、上下并に袴羽織布木綿類に限り糸交り無用のこと、但し裏絹無用。
 一、帯、紬類に限ること。
 一、夏衣類随分粗相な品を用いること、但し糸交り越後縮無用。
 一、裏付上下無用のこと、但し継肩衣裏付無用のこと。
 一、医者着用紬以下を用いよ、帯紗綾以下に限るべし、十徳夏羽織はその限りを申付けないが、粗相な品を用いること。
 一、妻子上着裏共に木綿に限るべきこと。
 一、下着紬類以下を用うべきこと。
 一、帯紬類以下を用いよ、但しかかへ帯右同断。
 一、夏の衣類随分粗末な品を用いよ、但し糸交り越後縮無用。
 一、櫛・笄などは木・竹・鯨・びいどろに限ること、但しかんざしは右の外しんちゅうも差し支えない。
 一、横麻上下相成らざること。
 一、女子振袖十五歳限十六歳より相成らざること。
 一、畳中次相成らず七嶋に限るべきこと。
 一、年始祭客一切諸参会とも銘々の身の程を考え、酒食御馳走振舞分限より内場に取計らい、身持の者吉凶につき重き客来るとも、一汁一菜に限るべきこと、但し酒盛長からざるよう銘々慎むこと。
 一、婚礼・葬礼の式分限を過ぎることのないよう急度心を付、幕など飾がましいことは一切無用である。
 一、日傘使用してはならない、但し医者はその身一人は苦しくないが、家族はいけない。
 一、雛幟これ迄小百姓共は飾らなかったが、もし相応に祝える身上の者があるなら、内裏雛一対、人形三ツ、幟二本、鑓二本に限るべきこと。
 右の通り相改め申付けたから堅く相守るべきこと。
                                         (久保家文書)

 右のように大洲藩にならって、領内村々に倹約令を公布した。寛政八年(一七九六)になると、財政難による新谷領銀札の値下がりを防止するため、他領銀札の領内通用を禁止するに至った。しかし領民たちから不都合との訴えがあり、享和元年(一八〇一)七月には解禁した。

 本家の新谷藩支配

 文化六年(一八〇九)になると、新谷藩は独立藩としての機能を停止し、行・財政の両面にわたって、本家大洲藩に全面的に支配されるに至った。「久保家文書」の中の「御書附写」によると、

 御内辺御さしつかえ、度々御省略仰せ出された処、御仕法あい崩れ、必止と御さし迫り御取り直しの手段もなく、御家の御安危に掛るように成り、余儀なく御本家様へ御願い仰せ上げられ、御心添によって取り進めた結果、御仕法があい立つにいたった。

と述べ、向こう五か年間大洲藩に管理されることとなった。これにつれ家中の給与も、「飢渇に及ばざるまでの取り計らい」という最低に抑えられ、同時に御家中外に与えられていた扶持方も停止され、徹底した財政緊縮方針がとられた。
 本家支配となって四年目の文化一〇年(一八一三)六月になると、文化七年三月、第六代藩主泰賢の隠居により新谷藩の家督を相続した泰儔が、政道向きが手に入るようになったので、本家支配をやめ新谷藩だけで一手に取り計らった方が為になると考え、江戸において大洲・新谷双方熟談のうえ、次のようにすることに話がまとまった。大洲藩家老加藤斎宮の名で公布された藩内への布達によると、

 去る已年新谷表御政事御内辺向は、御心添の儀御頼みなられ、是迄御世話なされたところ、此度御心添の儀以前の通りに御返しなられ、御内辺向(財政など)は未だ御仕向が片付かないこともある故、今暫くの内御世話を成され、是迄の年数、御心添御指揮があったが、掛隔っていることなので、不行届勝ちで、ことに御内辺御さしつかえ中、別して御手詰の御仕向があり、さぞ一同難苦堪え難いことであっただろうと、しみじみ御察し、御案じなされていたところ、いずれも御仕向の御主意を厚く弁え、滞りなく取続勤めていることを大慶に思召されている。此上御年限も今少しになったので、出精相勤めるようにとの思召しである。
                                          (久保家文書)

とあり、行政面を新谷藩の手に戻し、財政面では財政整理が未完了なので、本家支配が続いた。

 藩財政再建策

 文化一一年は、本家支配の年限終了の年であったが、財政難で、倹約令は引き続いて発令された。この年八月、藩は検見取の経費を節約するため、向こう三か年間定免とする旨、村々へ公布した。九月になると去る七月限り新谷藩札をすべて大洲藩に引き上げ、その後処分する旨布告している。いずれも財政再建のためであった。
 文化一二年九月には、財政立ち直りを促進するため、前掲寛政六年の触書を改正し次のような箇条を付加して「村方え申渡す覚え」を公布し、庄屋百姓に対し徹底的な倹約を令し、風紀の粛正を命じた。

 一、嫁娶の用意軽くせよ、たとえ支度ができない難儀のものでも、御法を守ることを元とし、諸道具なども過分の様子がないよう、庄屋役人共、心を付、奢りがましいことのないようにせよ、また石打・水あびせ無用のこと。
 一、仏事等も過分のことがないよう、手軽く取り計らい、物入りが少ないようにせよ。
 一、すべて祈願につき諸神社へ宮篭の際、大勢申合せ酒盛音曲などを催し、遊興がましいことがあるように聞いている。信心で宮篭りする者は、一家内限りと心得、他家打交ることは無用、神酒を備えることは格別、その外酒を持参し酒盛等無用、すべて神前不敬なことがない様にせよ。
 一、参宮并四国廻り等に出たものが帰着の際、坂迎といって多人数が出て酒盛などをしてはならない、もっとも家内近親のものが出迎えるのは格別だ。
 一、音信贈答過分なことがなく、相応の取遣をせよ。
 一、御役人出在、又は下役等を指出す際、賄などは是迄の通りと心得、随分手軽く取り計らえ。
 一、御役人始め役掛りの面々、下目付手代等へ、へつらいかましき音物を贈ること無用。
 一、新家作すべて過分の取り計らいがなく身分の程を考え質素に心得よ。但し目立つ瓦庇并大柱色付惣而様子宜しき家作無用のこと。
 一、百姓の子どもへ新規の家作取り繕い并家構え、高分けをしてやり、貧富の差別なく家作に物入して、高分けをするので、小身の百姓共は、本家末家とも次第に困窮するようになる、今からは猥に家作を取り繕ったり、高分け遣すなどのことは停止する、家作高分けしたき輩は、その段庄屋所へ願い出、庄屋村役人共はその人の身上を能く考え、吟味の上、支配方へ申出て差図に任せよ、もっとも高分けをして末々心元なく思われる百姓の願いは、庄屋方から堅く差留めるよう、以前申付けた通り心得るよう。
 一、新谷并大洲御家中の面々へ無礼なき様心得べきこと、付り下役等郷方へ懸っているものに対し、それ程の敬礼をするのは勿論であるが、庄屋共のうち、間々には心得向不行届もあるやに聞こえている、役前を敬うのは、則上を尊ぶ道理であるから、その心得であるべきだ。
 一、村々借り物のうち、庄屋分と百姓分と紛らわしいことがなく、急度分るように取り計らい置くようにせよ、但し帳面を見届けさせる事もあるから、随分入念に間違わないよう記して置くようにせよ。
 一、村内出入なく静かなる様、常々心を付申すべき事は勿論であるが、若し出入りがあった節、筋により内々にて取り扱い済ませる様のこともあるが、不直の筋を押付鎮置様のことは無用である。附り変死人があれば、麁末のことがないよう入念にせよ。
                                          (久保家文書)

 なおこの月には、藩財政再建の一環として、田畑不作・年貢未進・道橋の破損などの場合、なるべく当該村において処置し、藩当局の世話にならぬよう命じている。触書を次にあげると、

 一、田方不作これある時分、およそ百石に付き二、三石より以下であれば村方の取り計らいで済ませ、不作の願いを申し出ないよう心得よ。
 一、村々百姓の内、間々未進をする者があり、不都合である。以後未進をする者があれば、重高にならないうちに、庄屋組頭共から厚く心を付け、取り計らい、大体のことは村方で補って、上へ嘆きがましき義を申し出ないよう心得るべきである、嵩高になって余儀ない場合は、委細申し出よ。
 一、田囲・道橋など痛んだ場合、少々のことは村方で済ませ願い出ない様心得よ。            
                                      (久保家文書)

 藩当局負担出費を少なくするため、諸村に肩代わりをさせるねらいがあった。
 文政三年(一八二〇)三月、財政再建のため藩は藩内各村に対し御用銀を命じた。さきに寛保二年(一七四二)一月、前年からの省略令と併せて藩財政のやりくりのため、新谷町内の家持階層に対して、はじめて二〇〇石の御用米献上を命じた先例(新谷町内家持献功名鑑)はあったが、今回は藩内全村を対象としたものであった。
 天保元年(一八三〇)には、江戸表での藩債がかさんで取り捌きが困難になったというので財政整理のため領中の余裕のある者へ御用銀を割り付けている(村上家文書)。

 軍備御用銀

 嘉永元年(一八四八)一一月には、対外情報の緊迫に伴い新しい入費として軍備御用銀があらわれ、領中の余裕のある者へ御用銀を命じている。安政五年(一八五八)一二月には、藩として軍備頼母子を実施し、その資金に領内各村に御用銀を命じた。新谷町家持は銀札二二四貫五〇〇目を一四人で、今坊村は銀札五貫二〇〇目を一六人で、出海村からは銀札五二貫二〇〇目を一五人で、それぞれ献上している。
 元治元年(一八六四)一一月には、軍備補充のための寸志銀として、今坊村から五三人で銀札一九貫目、出海村からは五人で四貫目、新谷町家持からは三五人で六九貫四〇〇目をそれぞれ献上している。
 嘉永以降藩末にかけて、右の軍備御用銀のほか、江戸表御屋敷造営料・御講掛送り銀・長浜御屋敷門建替料・不穏御時勢物入多分・御殿造営料など、財政支出が大幅に増加したが、藩当局はこれを御用銀の賦課・寸志銀の拠出などでようやく切り抜けていった。なお寸志・献銀者に対しては、褒賞として苗字御免・上下着用御免などの栄誉特典を与えたり、御紋付・御盃・御酒・御吸物などが与えられた。

 自主村法の制定

 天保九年(一八三八)は、漸く財政的に立ち直った新谷藩にとって、大変支出の多い年であった。引き続いての大洪水・巡見使の回領など、またもや財政窮乏に陥りかけ、村方難渋者も多くなった。新谷領喜多郡今坊村では、こうした時勢から起こった村内の悪弊を矯正するため、庄屋久保平左衛門(若年のため一木村庄屋西山市郎左衛門後見役となる)が、村風刷新のため村法を制定して、惣百姓へ布達した。その「定書之大意」は次のようである。

 一、第一この村方は、御同領に近村もこれなく、一村一箇の格も立っているが、自然と猥にも押うつり、古法を乱す様になって行き、甚だ以て宜しくないことである、向後みなみな心をあわせ、一家を治める時は一組おさまり、一組正しいときは一村和して、泰山のごとき村たるべし。
 一、近年組により大借銭等して、庄屋・組頭をも印形役人と心得、本体を失っているのは不都合な事である。村方の役人というのは、公儀から定められた役人である。しからば不正を正し、直を専らとしてつとむるのを本とす。然るを何ぞや、友朋輩と心得る様に押し移ったこと、返す返すもなげかわしい事である。だが役筋のものがいたく権威を振っているのではないのだから、道がたってゆくと、朝夕親しくする事、およそ村方庄屋を父親とたとへ、組頭を母親と心得、五人引合頭をば惣領の兄と心得、順々の道にしたがい猶むつまじく家業相つとかべきこと。
 一、廿ヶ年以前までは、当村方において印形ものと申すは、漸く拾貫目足らずにて済ませてきた処、近来は庄屋・組頭もただ其時のきげんよいのに甘えて、追々と借増来り、只今では三百貫目余の借金印形と成り行き、法例ばかり乱していること、重々不都合至極である、以後新借の分、印形一銭のこともしてはいけないから、その段銘々に心得ていて、借増しない様心をつけるべきこと。
 一、追々後年に至り、過半見通しも立ったならば、物により、所により、新印形承届ける事もあらば、一統其場に承知致すべきこと。
 一、是迄借金の分ち、借主不埓にて支配等の節は、下請のものへ、夫々割付けるから、専ら承知致し置くべきこと。
                                          (久保家文書)

 以上藩政の推移を、重要事項を中心に述べたが、内分という形で、大洲藩から分知され、しかも一万石の小領地が、飛地として一村ごとに孤立して、大洲領の村々に囲まれている村―二四か村から成り立っていたから、発足当初から藩政にとっては、大きなハンディを背負っていたわけである。なんとかやりくりしてきた藩政も、度々の倹約令も効果なく、行き詰まって立て直しの手段もないくらいになり、最後には前述のように文化六年(一八〇九)から五か年間、本家大洲藩に頼み、その支配管理下に置かれるようになった。他藩にはみられない事例である。その後本家支配は解かれたが、大洲藩に頼ってその心添庇護によって、ようやく藩政を続けて行かざるを得なかった。

 異国船手当て・軍役夫待機令・郷筒・郷組

 嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ極東艦隊の渡来に当たって、幕府が諸藩に発した和戦いずれの態度をとるべきかの下問に対し、第八代藩主泰理は用人寺井庄九郎をもって即時開戦を答申させるとともに、家老徳田安之助は、泰理の命により今坊・出海の両村の海岸防衛計画をたてた。いっぽう香渡晋を京都に急派して、諸藩の動勢を窺わせた。
 文久三年(一八六三)二月、藩当局は領内各村に対し、軍役夫出動に即応できる態勢を整えて置くよう命じた。世上の形勢不穏のため、いつ出陣になるかもしれない。その時、各村から村高に応じて割り宛てられた軍役夫(知行夫を本夫とし、その他の軍役に従事するものを平夫とする)を、あらかじめ本門百姓のうちから抽選で決定して待機させて置こうというのである。この際、伝馬役・水主役を負担している村の軍役夫は、割宛人数を半減された。軍役夫は出役の際、脇差・股引・草鞋・蓑笠の服装で、一日分の弁当を持参することとした。出役手当ては領内で年一貫二〇〇目、他領の場合はおよそ五両であった。
 同四月、新谷領の各村に郷筒=農兵が募集された。藩から庄屋宛に出した「農兵誘引之覚」によると、藩が京都非常警備を命じられ、藩兵を出張させると、藩内防衛が手薄になるので、藩兵に代わって郷中の若者に国への報恩として、郷筒となって藩内防衛に当たるよう勧誘した。郷筒加勢を願い出る者への覚は、次の通りである。

 1、銃砲持参がたてまえである。難渋者で手当てのできない者は持参に及ばない。
 2、軍事出張の際は、帯刀差し支えなし。帰って後は、永久に許される。
 3、郷筒の用向きで呼び出しの際は、帯刀差し支えなし。
 4、剣巻・銃砲・尻割羽織の着用を許す。
 5、笠・玉薬・火縄等は村役場まで渡して置く。
 6、苗字をとなえ、上下・袴を着用することは、帰って後は禁止する。

これに対して村からは次のような願伺が出された。

 1、農兵に出る際、兵糧は村々で準備せよとあるが、当日の弁当は持参するが、その翌日からの賄は渡して貰いたい。
 2、郷筒呼び出しの際は、賃銀を渡されたい。

 文久三年六月、新谷藩では、郷筒の他に農民鉄砲隊を組織した。これを郷組という。在郷の足軽組という意味である。郷筒と違う点は、準藩兵として召し抱えられた点である。
 「久保家文書」によると、世上の形勢不穏の時節に、出海村・今坊村は、海岸にあって新谷陣屋から遠く各々孤立して、異国船の患いが気になる。防衛上不安であるから、村で鉄砲組一隊を抱えて置けば、異国人乱暴や賊難の防衛にもなる。非常の節には、藩兵が着く迄の間、郷組で防御するとある。
 この郷組は、志願の形をとり、一人一貫目献銀することを前提としている。郷組員の手当は、出勤の際は二人扶持四石とし、鉄砲稽古は月一度、その夫役料銀札三匁であり、帯刀・上下着用ならびに剣巻鉄砲所持などの特典が与えられた。しかし身分はどこまでも村方百姓であって、席順も御家中分より下座であり、不敬なことがないよう気を付けねばならなかった。また御普請出夫とか、村夫・御蔵収納などの節は、百姓分同様に心懸けねばならなかった。藩当局は、農民が郷組に召し抱えられたことを鼻にかけ、傲慢になり農業を怠ることのないよう注意し、不埓なことがあったら組員をはずすと注意している。
 郷筒から志願する者もあって、今坊村では五組二五人、出海村では二〇人が郷組に選ばれた。