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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

九 大洲・新谷藩の文教

 前項で触れたように、大洲藩の藩祖加藤光泰は、平日道に志し儒書に親しみ、朝鮮の役在陣中、朝鮮本『論語』・『孟子』を座右から放さなかった。第二代藩主加藤泰興は、盤珪永琢に帰依参禅し、士魂を鍛練したが、その嫡男泰義は、儒学に没頭し世に隠れなき学将としてもてはやされた。これら藩初藩主家一族たちの好学の風は、大洲藩と分藩新谷藩の文教展開上好影響を及ぼした。

 中江藤樹

 中江藤樹は、慶長一三年(一六〇八)三月七日近江国高島郡小川村に生まれ、九歳のとき加藤貞泰に仕え、一〇〇石取の平士であった祖父中江吉長の養子となり、元和三年八月藩主転封に伴い伊予大洲に移った。同八年元服、祖父の死去により一五歳で家督を相続し、一〇〇石を継いで大洲藩士となった。藤樹が本格的に儒学研究に打ち込みはじめたのは、寛永元年(一六二四)一七歳であり、「四書大全」を求めて自学に励み、論語・孟子に通達し朱子学に傾倒した。
 二〇歳のとき中川貞良(三〇〇石)ら藩士の同志二三人に大学を講義し、これら初学同志のために「大学啓蒙」を著述したりして、藩士の教学に努力をした。寛永三年から九年までは、南筋の代官職を勤めながらの学究生活であった。
 寛永一一年彼が二七歳のとき、郷里近江に寡居の母へ孝養を尽くすために、致仕を乞うたが許されず、遂に脱藩して帰郷した。在洲の終期五年間の藤樹は、学究として藩内の評判もよく、漸次有力門人が増加しつつあった。帰郷後も陸続と大洲藩士の間で入門者があった。近江時代の藤樹の門人のうち、推定分も含めて大洲・新谷両藩士は三二人あるといわれている(藤樹先生全集)。藤樹直門の藩士の中には、身につけた学問で藩主泰興の近習とか好学の泰義付きになったり、藩の要職に抜擢される者もあった。藤樹の余風は、直門一世に終わらず享保ころまで続いていた。

 川田雄琴と藩校建立

 第二代藩主加藤泰興とその嫡子泰義の好学については前述したところである。第五代藩主泰温もまた好学で、陽明学者三輪執斎を江戸藩邸に招いて聴講し、ついで大洲へ招請しようとした。しかし執斎は病軀老齢の故をもって固辞し、代わって高弟川田雄琴を推薦し、彼の学舎明倫堂もこれに譲り、大洲での学舎建設も寄託した。
 大洲藩士に召し抱えられた川田雄琴は、享保一七年(一七三二)大洲に赴任し、藩主への講義をはじめ、藩士達への陽明学の講釈を熱心につとめた。一方自宅に講席を設けたり、近隣郷町に講席を設けて百姓町人達を教化した。元文三年(一七三八)泰温は、雄琴の町郷教化を賞したうえ、領内の巡講を奨励した。雄琴は郷町庶民の中で奇特者の事跡を四五伝にまとめて、延享二年(一七四五)三月「予州大洲好人録」五巻に編述した。
 川田雄琴にとっては、恩師三輪執斎が寄託した明倫堂建立が、着任以来の悲願であり、藩士教化のため学校建設を必要として藩主泰温に進言した。しかし当時大洲藩の財政は窮乏しており、学校建立は困難であったが、泰温は自ら諸用を節して建立の費用に当てるなどして準備し、遂に延享元年(一七四四)学校建立の命を発した。しかし翌年泰温の死により中絶、遺志を継いだ第六代藩主泰衑は、延享四年学堂完成のことを下命し、八月中旬には完成した。こうして祠堂明倫堂(正面に藤樹家蔵の孔子像、左右に王陽明・藤樹の画像が祭られている)と講堂止善書院とから成り立った学堂は、藩校として発足した。伊予八藩中最初の藩校である。なお川田家は、資哲・資始・資敬と明倫堂教授を相承して天保期に及んだ。

 加藤泰済と編集事業

 第一〇代藩主加藤泰済は、松平定信指導のもとに、林述斎・古賀精里らの教えを受け、藩校明倫堂教授川田資哲門下の松岡清溪を侍講とし、敬義学の吉元平太を招き、朱子学の安川右仲を登用し、常磐井守貫から橘家神道を聴講するなど、博学深究の学者大名であった。
 彼は日ごろ尊敬していた北宋の名宰相韓琦の著作「韓魏公集」の刊本が我が国にないことを憂い、自ら出版しようと決意し、全集のうち「別録」・「遺事」・「家伝」に、「忠献韓魏公書」を加えて、文政九年(一八二六)一一月彼の死没後に刊行された。
 泰済没後一一年好学の第一一代藩主加藤泰幹は、父の遺業を継承達成しようとして、天保一三年(一八四二)八月「韓魏公集」(一七巻)を刊行した。ちなみに同書の刊行は、わが国では唯一である。泰済・泰幹父子の学問奨励・藩学振興によって、士庶の身分を越えて藩内に向学の風潮がみなぎり、各種著作物が多く成立したり、諸学への志向者・就学者が多数輩出した。
 まず泰済の代から泰幹の末年までに成立した著作物・刊行物の主なものを表示しよう(表二-60)。同時代伊予の他藩にはみられない多くの著作・刊行がなされた。ことに藩版の刊行が六種類三八巻に及んでいることは注目される。
 つぎに藩費または私費による諸学問への就学者が多数輩出し、正学の朱子学研究に昌平黌に就学した三名をはじめ、漢学一二師に延べ五八名が漢学を修め、国学・歌学部門八師に延べ二九名が、蘭学部門四師に八名、カスパル系医学部門二師に一一名が就学している。泰済から泰幹の代、さらに泰祉の末年までの就学者を、表二-61にまとめてみよう。

 常磐井厳戈と矢野玄道

 表二-61にあげた多くの諸学研究者のうち、国学・蘭学関係で幕末・維新期に偉大な業績をあげた人についてみよう。
 常磐井厳戈は、天保五年(一八三四)一六歳で、喜多郡阿蔵村の大洲藩総鎮守の八幡宮社家常磐井家の養嗣となったが、天保九年丸山真振から養父守貫相伝の橘家神道の伝授をうけ、国書・神道に関する学を教えられ、享和(一八〇一~三)ごろから盛んとなってきた平田篤胤の復古神道に傾倒した。元禄~享保ごろに創始され、寛保~宝暦ごろの常磐井守敬の代になって神書の講釈を始めた家塾を、厳戈は古学堂と命名し、篤胤の著書や彼の思想のよりどころとなった古典などを、古学堂の教本として門弟を教育した。門弟の中から、中村俊治・山本尚徳・武田教孝・同成章・三瀬諸淵など維新の俊英を輩出した。
 矢野玄道は、大洲藩下級武士で国学者本居大平・平田篤胤の門人であった父道正から国学を研究し、その業績を後世に残すようにとの教訓をうけ、天保一〇年(一八三九)には常磐井厳戈と義兄弟の約を交わし、弘化二年(一八四五)には上京し順正書院に入所、その翌々年には江戸に出て平田塾に新谷藩出身で篤胤の養子鐡胤を訪ね、篤胤没後の門人となり、また昌平黌にも入学して国学を中心とする学問研究を深めた。
 嘉永四年(一八五一)再び上京、以後慶応年間までに彼の理想とする惟神の道による祭政一致の体制を成立させるため、文書による運動を続け、皇学校設立の建白、神衹宮再興の建議、山陵復興の建言等を薩長両藩や関白に提出した。この間古典を精究した著書「皇典翼」・「神典翼」などの執筆に励んで国学史上不朽の業績を残した。慶応三年一二月の王政復古の大号令に盛り込まれた復古的政治思想は、玉松操や彼の意見が岩倉具視を動かしたものと言われる。同年彼はかねて抱懐していた政見を三六か条の具体策にまとめ、新政府に建策した(「献芹詹語」の著となる)。明治に入って新政府に登用され、神衹事務局判事、ついで内国事務権判事となり、大学規判取り調べを命じられ、皇学所廃止により大学博士心得となる。三年御系図御用掛、一〇年修史館御用掛、一七年図書寮御用掛などを歴任して、古典の研究・史料の採訪を努めた。明治二〇年六四歳で死去した。

 三瀬諸淵と武田成章

 三瀬諸淵は、天保一〇年(一八三九)大洲城下中町の塩問屋麓屋半兵衛の家に生まれ、前述の常磐井厳戈に入門し、安政二年(一八五五)一七歳の時、宇和郡卯之町で開業医であった叔父二宮敬作のもとで、蘭学と医学を学び、叔父に従って宇和島へ移住し、村田蔵六に入門し蘭学と兵学を学んだ。翌年敬作と共に長崎へ赴き、蘭学を精究した。再来したシーボルトに師事し、文久元年師の幕府登用に伴い、すぐれた語学力で赤羽接遇所の通訳となった。慶応年間宇和島藩出仕となり、藩の英蘭学稽古場の教授に任ぜられ、明治元年伊達宗城が外国事務総督となった際、有能な通訳として活躍し、ついで大坂医学校・病院の開設などに功績をあげた。
 諸淵は、安政五年(一八五七)長崎から大洲に帰った際、持ち帰った電信機械の実験に成功した。日本における電信機械の実験は、松代の佐久間象山・鹿児島の松本弘庵に次ぐものであったが、彼らがいずれも不成功に終わっていたから、諸淵の実験が我が国における最初の成功であった。実験は常磐井厳戈の塾舎古学堂から約一㌖離れた肱川畔の川水亭との間で実施され、大洲藩の専売業者三瀬半兵衛らが後援した。
 武田成章は、文政一〇年(一八二七)大洲藩士の家に生まれ、弘化五年(一八四八)二二歳の時大坂の緒方洪庵の蘭学「適塾」に入門し、蘭法医学から西洋兵学研究にうつって、嘉永三年(一八五〇)江戸に出て佐久間象山の洋式兵学塾に学び、砲術・築城法に精進するにいたった。同六年象山の推挙により幕府に登用された後、樺太調査に派遣され、安政三年(一八五六)以降蝦夷地警備のため、箱館の弁天崎砲台・亀田の五稜郭の建設に従事し、七か年かかって完成した。その間安政三年箱館に諸術調所を設け、洋式兵術を教授した。文久元年には箱館奉行御用船で黒竜江を遡航巡察した。元治元年江戸開成所兵学教授・関口大砲製造所頭取に抜擢され、明治五年兵学寮教授、同七年兵学大教授・士官学校主任教授、同八年幼年学校長に任ぜられ、明治初期の士官教育に尽くした。

表2-60 大洲・新谷藩著作物一覧

表2-60 大洲・新谷藩著作物一覧


表2-61 幕末期大洲・新谷両藩校外の諸学問就学者一覧

表2-61 幕末期大洲・新谷両藩校外の諸学問就学者一覧