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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一 加藤家の大洲藩就封と初期の加藤家

 藩祖加藤光泰

 元和三年(一六一七)七月、伯耆国米子城主加藤貞泰は、幕命により伊予国大津(洲)六万石に入封し、以後明治四年(一八七一)廃藩まで二五四年間、その子孫が一三代にわたって在封した。
 古来大津と呼ばれてきた当地に、大洲の地名を使用するようになったのは、藩から大津城石垣の築き直し許可を願い出たのに対する万治元年(一六五八)一一月二五日付の幕府の許可書の中に、「大洲の城」とあるのが公式文書での「大洲」の初見であるが、この頃から一般的に「大洲」の地名が使用しはじめられたと思われる。以下煩いを避けて、すべて「大洲」を用いる。
 まず大洲加藤家で、先祖としている貞泰の父加藤光泰について、「北藤録」巻六光泰之伝上・中・下によってみよう。光泰は藤原鎌足の一二代の孫(北家)加藤豊後守重光二一代の裔孫加藤権兵衛尉景泰の嫡男で、美濃国厚見郡今泉村橋詰の庄に生まれた。はじめ美濃国主斉藤竜興に仕え勇猛の部将であったが、竜興没後はいったん近江国に退去した。しかし、信長勢と対陣中の光泰の勇姿が信長の目にとまって秀吉披露の形で信長へ拝謁を許され、秀吉の部将となった。
 元亀二年(一五七一)には、近江横山の砦を防衛し、浅井長政勢を撃破する勲功をたて、秀吉から近江北部磯野村で七〇〇貫の知行と与力士一〇余人を給された。天正六年(一五七八)には、中国征伐に従軍、播磨三木城の攻略に功があり、播磨で五、〇〇〇石の知行を受け、天正一〇年(一五八二)の山崎合戦では、明智光秀の旗本を急襲し、秀吉軍を勝利に導いた。その功によってか丹波国周山城一万五、〇〇〇石に封ぜられ、続いて近江国貝津城へ転封、さらに加増されて二万石近江国高嶋城主となり、その後また尾張犬山城に移った。
 天正一一年柴田勝家との戦いでは、軍奉行として活躍し、続いて小牧・長久手の戦いや越中佐々成政追討の戦いに軍功を立て、四万石に加増され、美濃大垣城主となって御蔵入り二万石を預けられた。その時秀吉の機嫌を損ない、一時秀吉の弟秀長に属し大和国郡山に居住した。そのうち秀吉の勘気が解け、近江国佐和山城二万石に封ぜられ、従五位下に叙し、遠江守に任ぜられた。天正一八年小田原征伐には、山中城を陥れるなどの軍功により、一躍甲斐一円二四万石の領主に封ぜられ、古府中の地に城を築いた。
 文禄朝鮮の役(文禄元=一五九二)に当たっては、先遣軍を援護する五将の一人として活躍、晋州など各地で戦ういっぽう明兵南進に対抗し、日本全軍の釜山浦迄撤退集結しようという軍議に反対して、京城に踏みとどまって防衛しようとの強硬意見を出して、石田・増田らの諸将と不和に陥った。翌文禄二年、日鮮間の和議が成立し、日本全軍は釜山浦に集結、帰国の途に就こうとした八月二六日、西生浦で石田らが光泰と和解するため催した酒宴直後、俄に発病吐血、「作十郎(貞泰)は若年であるから、私の領地甲斐国は召しあげられるだろうが、御近所に召しつかわれるよう仰せつけ下さい。なにさまともせがれこと頼みいります」という浅野長政宛の遺書を残して、二九日の早暁五七歳で死去した。
 光泰は男振りがいかめしく、勇猛人に超え、上述のように積極敢為の気性をもった武将であった。特に片鎌槍の達人であった。そのうえ戦国の武将として稀なる篤学の人で、平日論語・孟子の二書に親しみ、文武両道にたけた人であった。朝鮮本論語・孟子は、朝鮮の役に帯した刀剣とともに子孫に伝え家宝として秘蔵された。

初代藩主加藤貞泰

 「北藤録」巻之九 貞泰之伝によって初代藩主加藤貞泰をみよう。貞泰は藩祖光泰の嫡子であり、天正八年(一五八〇)近江国磯野村に生まれた。母は一柳藤兵衛の女であった。文禄三年(一五九四)貞泰一五歳の時、家督相続が許され甲斐国より美濃国黒野に所替えとなり、四万石を賜った。若年の故であろうか。やがて従五位下左衛門尉に任ぜられた。
 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いでは、父光泰が石田三成と不和であったことから家康の率いる東軍に属し、二番手の軍勢として活躍、近江水口城を攻略するなど功があった。慶長一五年七月、貞泰は二万石加増され、伯耆国米子城主に封ぜられた。このとき改めて左近大夫に任ぜられた。慶長一八年から翌年にかけて江戸城普請手伝を勤め、慶長一九年には大坂冬の陣がおこり、天満口の配備についた。翌慶長二〇年夏の陣がおこり神崎口に陣した。これら大坂の軍功によって、元和三年(一六一七)七月、伊予国大洲へ転封となった(台徳院殿御実紀四六)。「温故集」によると、この転封にあたって徳川二代将軍秀忠は、旧恩を思い禄一〇万石に加増したかったが幕府老中達が「彼のみを加増しては譜代大名達の思わくもいかがあろうか、領地の高は只今のとおり六万石にとどめて置いて、内分所務よい所へ所替仰付けられ然るべき哉」との進言によって、台命を発したという。
 貞泰受封の六万石の領域は、喜多郡・浮穴郡内の領地の大部分を占め、一部領地は風早郡・桑村郡・摂津国武庫郡内に散在していた。
 貞泰は後述するように一三二人におよぶ給地侍をけじめ隠居や給人格、中小姓以下の御家人・足軽仲間など多数を引き連れて、元和三年八月五日大津城下の外港長浜に到着した。長浜には近傍村落の庄屋達二三人が、新藩主の入部を出迎えた。それ以外の庄屋は、城下で出迎えた。
 入部後貞泰は、藩体制の確立に鋭意努めるいっぽう元和六年には、大坂城改築普請の御手伝いを勤め、同八年には大名人質として妻子を江戸に移した。同九年在位七か年で江戸において病没した。享年四四歳。
 「北藤録巻之九貞泰之伝」の末尾には、次のように記している。貞泰人となり仁愛深くして節義を重んじ、武事に達し、なかんづく馬術に長じ、「無明一巻抄」の秘伝を得、道に志し篤く政事を怠らず、賞罰を正して土民を恵む。また暇日には詩を賦し歌を詠じ、連歌を好み、志を風雅に遊しめけるとある。

 二代藩主加藤泰興

 「北藤録巻之一〇 泰興之伝」によって第二代藩主泰興について述べよう。初代藩主貞泰の嫡子として慶長一六年(一六一一)伯耆国米子城中で生まれた。母は但馬国出石城主小出播磨守吉政の女(法眼院)。幼名は五郎八。元和八年(一六二二)一二歳で、将軍秀忠と家光に
謁見、翌九年七月上洛中の秀忠・家光(第三代将軍の宣下があった)へ参賀のため伏見城に参殿拝謁したが、その際父貞泰の遺領六万石の相続が許され、弟大蔵直泰に遺領のうち一万石を分与した(台徳院殿御実紀・大猷院殿御実紀)。
 泰興は寛永元年(一六二四)従五位下出羽守に任ぜられた。寛永三年初めての大洲入城にあたって、一五歳(公儀向きは一八歳としていた)の前髪姿を家中侍に見せるのは如何かと考え、前髪をとらせたと「加藤家年譜」に記している。
 かような年若い藩主泰興の上に、藩制の確立という大きな課題がのしかかっていたが、明敏果断すぐれた才能をもって藩政上細事であっても自ら裁許して治績をあげた。その業績には次のようなものがある。
 (一)藩権力の基盤である藩領の整理統合を図り、寛永一一年(一六三四)松山藩との間に替地を断行したが、網代騒動をひきおこし、入会漁場ということで和解した。
 (二)寛永一六年弟直泰に新谷一万石を分知し藩権力の強化を図って、家臣団の充実に努め、既述のように先代貞泰就封の際引率してきた一三二人の給人侍は、泰興の代には新規召し抱えなどにより二〇九人に激増した。
 (三)藩の軍事力強化のため城塁の修補に努め、万治元年(一六五八)・寛文四年(一六六四)・同五年・同八年にそれぞれ三之丸・本丸・二之丸の石垣の築き直しなどを行った。
 (四)以上藩権力の強化に努めるいっぽう幕府から課せられた普請手伝いの公役を次のように果たした。
 1元和九年(一六二三)・寛永元年(一六二四)~同三年・寛永五年~同六年の各年にわたって大坂城普請手伝いを勤めた(「北藤録」巻之一〇泰興之伝)。
 2寛永一三年一月から江戸城惣郭改修普請手伝いに従事した(「大猷院殿御実紀」三〇)。
 3寛文元年の大火で焼失した仙洞御所の復興作事手伝いに翌年九月から従事した(「厳有院殿御実紀」二三)。
 (五)幕府から命じられた次のような城在番の公役を勤めた。
 1寛永四年(一六二七)松山城主加藤嘉明が奥州会津若松城主へ転封となり、代わって蒲生忠知が松山城主二四万石に就封、忠知の松山入城までの数か月間在番を勤めた(「加藤家年譜」上泰興)。
 2寛永一一年蒲生忠知が参勤の途中で病死し、嗣子がなかったので改易となる。翌年九月松平隠岐守定行が松山一五万石城主として就封、その間約一か年間泰興が松山在番を勤めた(「大猷院殿御実紀」二六)。
 3寛永一七年讃岐国高松城主一七万一、八〇〇石生駒高俊が改易となり、代わって寛永一九年五月、松平頼重が高松一二万石城主に就封するまで、泰興は西条城主一柳直重とともに在番役を勤めた(「大猷院殿御実紀」四四)。
 4明暦三年(一六五七)讃岐国丸亀城主五万三、〇〇〇石山崎治頼が改易となり、翌年京極高和が就封するまで一か年間泰興が在番の公役を勤めた(「厳有院殿御実紀」一三)。
 5このほか寛永二〇年七月と明暦元年一〇月の二回にわたる朝鮮信使の饗応使の公役をも勤めた(「大猷院殿御実紀」五四・「北藤録」巻之一〇泰興之伝)。
 6泰興は、木下淡路守利当を師として槍術の稽古にはげみ、その極意を得るため精神鍛練を志し、参禅して槍禅一如の境地に達しようとした。名僧盤珪永琢に帰依して、大いに悟るところがあった。明暦二年泰興は、永琢を大洲に招き、翌年には慧日山遍照院を建立してこれに請じた。永琢は寺法を定めるなど寺の基盤を固め、次第に信徒が増加していった。寛文九年(一六六九)からより広い寺域を求めて、泰興は冨土山廃寺如法寺の跡地に如法・遍照・集雲の三寺を合わせた禅林大道場如法寺の建立に取りかかり、全藩家中町人百姓の志を集めて、寛文一二年までに完成し、永琢を開山とした。やがて自得した槍術の極意を自著「槍術勝負工夫ノ書」で述べており、近世槍の名手として「武芸小伝」にも名を連ねている。

 加藤泰義

 泰義は、第二代藩主加藤泰興の嫡子として、寛永六年(一六二九)江戸で生まれ、母は泰興の正室吉である。幼名は亀之助、ついで右馬助という。承応元年(一六五二)従五位下美作守に任せられた。以後部屋住のまま禄七、〇〇〇石を与えられ、在邑の時には下屋敷に住み藩政をみた。幼少の頃から学芸を好み、林春斎に学び、山崎闇斎を師として江戸藩邸に講席を開いて崎門学にいそしみ、万治三年(一六六〇)とくに師に頼んで曽祖父光泰以後の「加藤家伝」を執筆してもらった(「北藤録」巻之一五泰義之伝)。寛永期大洲・新谷の百石取藩士で、陽明学者の中江与右衛門藤樹が脱藩して近江に帰国した後、その門人となり学殖を身につけた藩士のうち、三名が抜擢されて若殿泰義付となり、泰義の藤樹学研修の推進役となった。こうして泰義は広く積極的に諸学を学んだので、元禄ころ全国諸藩の藩主の系譜・家伝・行跡・藩政の動向可否等について評判などを記した「土芥寇讎記」の中、大洲藩主加藤泰恒の項で、「父作州ハ(注泰義をさす)、世ニ隠ナキ学将タリシ。其ノ風義残リ、今以家民無為ナリ。」とほめている。大洲藩の教学展開のうえで偉大な貢献をしたといえよう。
 泰義は、部屋住のまま父泰興に先立って寛文八年(一六六八)三月大洲において死没した。享年四〇歳。