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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一 天領の分布

 天領とは幕府直轄地のうち、主として年貢徴収を目的とする土地をさす語である。江戸時代には大名領や旗本領を私領と呼んだのに対し幕領は御領、または御料所と称した。
 徳川氏は関ヶ原の戦いの賞罰により、しきりに大名の転封・改易を行ったが、そのため天領は次第に増加し、元禄期(一六八八~一七〇四)には四〇〇万石に及んだ(享保一七年(一七三二)四五一万石、天保一三年(一八四二)四一九万石)。幕府は財政収入においても諸大名に比して絶対優位におかれていたことがわかる。全国の総石高を約三、〇〇〇万石とすればその約一三㌫余にあたっていた。
 天領の分布状態は文化初年では関東で約一〇〇万石、北陸で約一三五万石、近畿で約六八万石、東海道で約六八万石、中国で約四一万石、九州・四国で約一七万石となっており、幕府のお膝元の関東、米作地帯の北陸、大坂をひかえた高度の商品生産地帯の近畿、関東と上方を結ぶ要地東海道に集中していることがわかる(河出、日本歴史辞典・天領)。反対に天領の存在しない国は二〇か国で九州の筑後・大隅・薩摩・壱岐・対馬、四国の土佐・阿波、中国の因幡・伯耆・出雲・周防・長門・備前、北陸の若狭・越中、東海の伊賀・志摩・尾張、南海の紀伊・淡路である(地方凡例録巻一上)。
 このような天領の先縱は前代の太閤蔵入地にあったが、秀吉時代の蔵入地の総計は一九七万六、〇〇〇石余に過ぎず、その三分の一は畿内に集中していた。伊予国の蔵入地は文禄四年(一五九五)七月に松前城主六万石の加藤嘉明に対し四万三一〇石四斗、同年同月宇和郡七万石の藤堂高虎に対し六万五、九〇〇石、計一〇万六、二一○石四斗の蔵入代官を命じている。畿内に集中する蔵入地は軍を動かす場合の兵糧米に備えたものと思われるが、四国あたりの蔵入地は兵糧米ではなく、その周辺の将士たちの加増恩賞として用意されたものではなかったかと考えられる。現に朝鮮の役で功労のあった加藤嘉明には慶長三年(一五九八)五月三日付で「手前御代官所有しだい、三万七千石ご加増として」与えられており(資近上一-60)、また藤堂高虎に対しても同年六月二二日付で「手前代官所之内をもって一万石」を与えている(資近上一-64)のである。関ヶ原の戦いののち、豊臣家の所領は秀頼の摂津・河内・和泉で六五万名に削減され、全国に及んでいた蔵入地は徳川家康に没収されて、東軍の行賞に充てられて消滅した。江戸時代の天領の分布は、先に見たように関東を中心として要地に集中しており、九州・四国あたりに少なく、四国では伊予・讃岐の二国にわずかに存在するに過ぎない。