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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

3 陣屋町西条の整備

 陣屋の建設

 西条藩の陣屋及び陣屋町の建設作業は、そのほとんどの部分が一柳氏時代に行われており、藩政時代を通じて存続する原型が整えられた。
 一柳直重は、寛永一三年(一六三六)、西条に入部後直ちに陣屋の建設に着手した。東西二町四間、南北二町一五間の平城で、周囲は四〇町一〇間である。四周には一〇~二〇間の幅で、石垣で畳んだ堀がめぐらされている。この堀には、新町泉、観音水など湧水の水を集めている新町川、喜多川の流路を変えて水を引き入れ、その水は、新しく掘った本陣川を通して海に排水される構造であった。
 藩政時代、敷地内には約一〇棟ほどの藩庁の建物があったが、現在残っているのは大手門のみである。
 なお、西条藩陣屋跡は、現在、愛媛県立西条高等学校などの敷地として使われており、西条市指定の史跡となっている。

 陣屋町の整備と発展

 開町当初、陣屋町は喜多浜町(総町名)と呼ばれた。町割は、陣屋の西側と東側に武家屋敷がおかれ、東側武家屋敷のさらに東が町人居住区域となっていた。町人町には本町(現本町一丁目)、中之町(現本町二丁目)、魚屋町(現本町三丁目)、大師町、紺屋町、横町(現東町一丁目)、東町の七町があった。これ以外に、元禄一四年、東町の東に新地と呼ばれる町がつくられたが、これは公式には東町に属して町名は称されず、町役人もおかれなかった。これら町人町の町幅は、大師町のみ二間五尺五寸、そのほかは四間であった。
 陣屋町の整備を進める一方、藩は町への商工業者の移住を奨励した。この時に大町から招かれた八名の有力商人の家柄は、一柳、松平氏時代を通じて、〝西条町開基〟以来の旧家として特別視され、近江屋、広島屋、大和屋、備前屋など、豪商として活躍する一方、大年寄、町年寄などの町役人を多く出し、町政にも重要な働きをした。
 伊曽乃神社の祭礼日である九月一四・一五日には、領内外から多数の商人が集まり、伊曽乃市が賑った。また、九月一六~二三日には馬市が開かれた。最初は東町、次いで紺屋町に移り、後には市日を八月二〇日~二六日に変えて中之町で開かれるようになった。しかし、両市ともに、「西条誌」の著された天保一三年ころには、すっかり衰えていたようである。
 「西海巡見志」(寛文七・一六六七)によると松平氏就封直前の町勢は「高二百石、家数二百六拾五軒、舟数拾艘猟舟、加子数二拾人」となっており、「西条誌」(天保一三・一八四二)には「家数三百十軒、人数凡そ千三百四拾七人、舟数二艘、二艘共六端帆」となっている。

 町方の支配

 西条藩では、支配面における町方、在方の区別がなく、ともに郡奉行の支配下におかれていたが、元禄一六年(一七〇三)、町方支配のため、初めて町奉行が設けられた。そして、奉行のもとに、有力町人から町役人が任命され、町政にあたった。大年寄は当初は町年寄と称され、総町に二名おかれた。各町には、当初町頭と称された町年寄が、各一名おかれた。横町の年寄は本町の年寄が兼務であったため、町年寄全体の人数は六名である。これら町役人には、大年寄一五間分、町年寄七間半分の間口銀が免除されるきまりであった。町会所は、享保年間(一七一六~一七三六)から天保一一年(一八四〇)までは、本町東側に表口五間の建物がおかれていたが、天保一一年、中之町に間口一四間の新会所が建設され、以後はここに移った。