データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

2 近藤篤山の招聘

 近藤篤山

 竹鼻正脩は、藩校養正館の創設に尽力するとともに、その振興を図るため、藩内文教の中心たるべき人物の招聘を考えていた。彼は、当時川之江において開塾していた近藤篤山を迎えようとし、寛政一二年(一八〇〇)に交渉を進めたが、篤山の承諾するところとはならなかった。その後、享和二年、篤山の父甚内が小松領内の大生院村に隠栖することになったのを機会に再び交渉し、篤山の応諾を得ることができた。
 小松に迎えられた篤山は、藩主頼親より賓師の礼をもって遇され、終生臣籍につくことはなかった。また五〇俵を給されたが、家老竹鼻正脩が一二○石であることを考えると、藩としては精一杯の待遇であったといえる。
 篤山は明和三年(一七六六)、宇摩郡小林村西条に高橋甚内の長子として生まれ、名を春崧、通称を高太郎と称した。西条藩の三品容斎は彼の弟である。篤山は天明八年(一七八八)、弟容斎とともに大坂に遊学して、川之江出身の朱子学者尾藤二洲に師事した。二洲が幕府の儒官として江戸に去った後、篤山は二洲門下の高弟であった越智士亮とともに一時二洲塾を預かっていたが、寛政六年、師の招きによって江戸に赴き、昌平黌に入学した。三年後の寛政九年になって篤山は、父の任地であった別子に帰り、翌年川之江に開塾し、三島・和田浜(讃岐国)などへも出講した。享和二年(一八〇二)前述の如く、小松藩に招かれて養正館教授に就任し、天保一三年(一八四二)に隠退するまで、同藩における文教の中心として力を尽くした。
 彼は、養正館教授として藩士の教育に当たる一方、私邸内に挹蒼亭、緑竹舎と名付ける私塾を開いた。挹蒼亭は藩内有志を対象とし、一柳亀峰・菅橘洲・遠藤石山らが学んだ。緑竹舎は他藩よりの入門者を対象とし、ここに学んだ者には日野和煦(西条藩)・宮原瑤月(松山藩)・上甲振洋(宇和島藩)らがあった。
 篤山は、人格完成のための三本柱として、立志・慎独・求己の「三戒」が重要であることを説き、また、婦女子への教訓として「四如の喩」を説いて、藩士のみでなく、庶民に対しても、さらに藩外へも大きな影響を及ぼした。信州松代藩の佐久間象山は、篤山あての手紙の中で「徳行天下第一」の人物と讃え、世人からは「伊予聖人」と呼ばれて尊敬を受けた(渡部盛義「近藤篤山」)。

 近藤南海と弟簣山

 天保一三年、篤山はかねてからの願いによって隠退し、その後は長子南海、次いで次子簣山が儒官となって明治に至った。
 南海は文化四年(一八〇七)小松に生まれ、名を春煕、字を光風と称した。文政八年(一八二五)、大坂において、父と同じ二洲門下の越智高洲に師事し、天保元年には、さらに昌平黌に学んだ。帰国の後は藩の儒官となり、文久二年(一八六二)には家老に登用されて藩政に参与することとなったが、同年死去した。彼の門下からは、黒川通軌・田岡俊三郎・得能淡雲(人見極馬・大洲藩)・香渡晋(新谷藩)・尾埼山人(西条藩)などがあらわれた(前掲「近藤篤山」)。
 簣山は、文化九年小松に生まれ、名を春壽、通称を真介と称した。京都の猪飼敬所(彦博)に学び、帰国後、小松に清斯堂を開塾した。さらに、兄南海の死により、その後をうけて養正館教授に就任した。彼の門下からは、石黒千久之助・飯塚八百太・日野強・池原鹿之助らが輩出した(前掲書)。

 近藤門下と尊攘運動

 篤山・長子南海・次子簣山の三代に及ぶ近藤門から、藩の内外に多くの人材を送り出したことは先述の通りである。彼らの中には幕末維新の混乱する政局で活躍し、尊攘派として各藩の指導的立場にあった者が多くみられた。
 田岡俊三郎は小松藩に生まれ、槍術をよくするとともに儒学を南海の門に学び経史にも通じていた。彼は開国後の混乱の中で高揚をみせる尊攘運動に参画して上洛し、他藩出身者とも交わりを持った。文久三年の政変(一八六三)にあたっては、いわゆる七卿落ちに従って長州に逃れた。その後、七卿の一人である沢宣嘉の但馬生野における挙兵に参加し、失敗の後は沢を護って美作・備前・讃岐を経て伊予に帰った。郷里においては、幕府の追求をのがれ、南海門の同門である尾埼山人(西条藩)らとともに、沢を宇摩郡蕪崎の医師三木俊三、新居郡垣生の医師三本左三らのもとにかくまった。三本俊三・同左三もまた南海に学んだ同門の士であった。元治元年(一八六四)、沢を長州に送り、そのまま同地に留まっていたが、同年起こった蛤御門の変に出陣し、戦死した。
 田岡とともに沢宣嘉の伊予潜伏を助けた者に、前記尾埼山人・三木俊三・同左三の外、黒川通軌・池原利三郎・近藤(・日に折)吉・一柳瑕介・青山操・加藤加守衛(以上小松藩)・三木源一郎(新居郡垣生)らがあり、いずれも南海門に学んだ人々であった。このうち黒川通軌は維新後軍職に就き、西南戦争その他で活躍、陸軍中将に任ぜられ、男爵を授けられた。また、後には東宮武官長兼侍従長を勤めた。
 以上の外、藩外にあっては、南海門下の新谷藩香渡晋、大洲藩人見極馬(得能淡雪)らが京都に上って尊攘運動に活躍し、各々の藩論を指導した。香渡晋は維新後岩倉具視に招かれて顧問となり、大日本帝国憲法の制定にも尽力した。