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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一三 幕末の情勢と長州征伐

 松山藩の神奈川警備

 安政三年(一八五六)養父勝善の後を継いだ勝成の治世は、全く幕末の混乱期に当たり、尊攘・開国論の抗争、雄藩の台頭による政界の動揺の中で、苦慮しなければならなかった。
 翌安政四年四月二八日、藩庁は幕命によって、外国船の渡来に備えるため、武蔵国神奈川付近の警備に当たることになった(池内家記)。一方、藩領内では大地震があり、藩庁は家中に対し知行一〇〇石について五俵ずつの米を支給した。このころ、西洋流砲術の訓練が盛んに実施されていたが、安政五年五月一日藩庁は市街地南部の法竜寺裏の空き地を練習場に指定し、各自で射撃に精励するようにと指令した(武知家記)。同年六月大老井伊直弼は国際情勢の切迫を憂慮し、勅許を待たないで通商条約に調印した。世にこれを安政の仮条約と呼ぶ。
 同年七月松山藩は、幕府から神奈川警備の内命を受けた。やがて江戸湾のうち、神奈川宿境の芝生村から北方の川崎宿までの海岸線の警戒に当たった。翌安政六年七月より神奈川の猟師町の海面に、およそ一か年をかけて台場(砲台)と薬玉庫(弾薬庫)を築造することとなった。この台場と薬玉庫は、のち松山藩が神奈川警備を解かれた時、そのまま幕府に献納した。この台場の石垣は現在も残っている。
 安政六年一〇月一七日江戸城本丸が炎上し、将軍は西ノ丸に移った。この本丸再建のため、一二月二八日松山藩は一万両上納を決定した。翌万延元年(一八六〇)三月、大老井伊直弼は水戸藩浪士らによって桜田門外において刺殺され、幕府の威令はにわかに衰退した。
 同年六月一五日に、藩庁では七月から人数扶持を実施する旨を発表したが、家中の経済困窮を救うため、一〇〇石について四〇〇目ずつ取替(前渡し)のかたちで給与した。同年一〇月九日、勝成はこうした莫大な出費や藩財政の困難な中で、神奈川の警備と台場築造に尽力した功労を賞され、少将に任ぜられた。文久二年(一八六二)九月一一日に、勝成は幕府から来年二月の将軍徳川家茂の上洛の際には、供押をするよう命じられた。しかし、翌三年となり方針がかわり、三月に将軍が上洛することになり、勝成は数日前に大津宿に赴いて将軍を出迎え、同地から供押の任務を勤めた(池内家記)。翌四月二一日、家茂が石清水八幡宮に参詣したので、勝成はその供を命じられ警備に当たった。
 国許では、郷町から松山城下町の入り口になる木屋町・三津口・土橋・橘(立花)・新立・一万に柵門を設けて、世相の不安を一掃した。このころ勝成は帰国していたが、京都――特に二条城二条口――の警戒に従うように指令があった。翌元治元年(一八六四)一月六日に上京して勤務に就いたが、四月より六月までの間はひろく京都の警備を勤めた。その功労によって、勝成は従四位上に昇叙された。五月六日には、御所九門の外の巡邏を命じられ、翌六月二四日に京都警備の手当てとして三、〇〇〇両を受領した。
 これよりさき、文久三年公武合体派のクーデターによって、八月一八日の政変が起こり、長州藩などの尊攘派は京都から駆逐された。そこで元治元年(一八六四)六月二四日に、長州藩士らは権勢を回復しようとして家老福原越後らに率いられて皇居に入ろうとした。そのためこれを阻止しようとする会津・薩摩・桑名の藩兵との間に、禁門の変(蛤御門の変)を起こした。この時松山藩は桑・薩両藩と行動を共にし、御所南門、さらに三条通紙屋川辺の警備を命じられ、長藩士の掃討にも奔走した(池内家記)。

 長州征伐と松山藩

 禁門の変に敗れた長州藩側が本国に逃げ帰ったので、幕府はこれを好機として長州征伐の命を諸藩に下した。松山藩では出動に先立ち、長州藩と親しい土佐藩の動静を憂慮し、元治元年(一八六四)八月八日に奉行松下小源太・藤野正啓を派遣し、土佐前藩主山内豊信の内意を探索した。豊信は長州征伐の紛乱に乗じて、松山藩の虚を襲うような卑劣な行動に出ない旨を確約した。
 やがて、勝成は幕府から西国軍の先鋒となって徳山に上陸し、山口に向かうように命じられた(池内家記)。そこで家老水野佶左衛門と藤野正啓とは大坂に赴いて、征長総督徳川慶勝と作戦の打ち合わせを行った(藤野手記)。勝成は、自ら風早郡中島に滞陣し、一の手・二の手の両軍を津和地に進発させ、長州藩領に迫ろうとした。ところが、長州藩では恭順派が主戦派を抑えて勢力を得たため、藩主毛利敬親父子は責任者を処分して、謝罪の誠意を示したので、幕府は征討を中止した。この間に、藩庁では神奈川警備などに多大の費用を要したので、幕府から金一万両を借用した(御家記)。
 翌慶応元年(一八六五)になって、長州藩では主戦派の高杉晋作らが、藩内の恭順派を抑えて藩論を統一し、軍備を増強して幕府の命令に従わなかった。幕府は長州藩の態度に憤慨し、再び同藩征討の令を諸侯に伝え、家茂は大坂に下って諸軍の統率に当たった。これが第二回長州征伐であるが、この間に薩摩は公武合体論を捨て、次第に討幕論に傾いた。やがて土佐藩の坂本龍馬のあっせんによって、翌二年一月に薩長両藩士の間に、討幕を目的とする密約が締結され、ここに薩長連合が成立した。従って、薩摩藩はこの密約を守って、幕府の出兵督促に応じなかった。
 慶応二年五月二九日に、松山藩では長州出征に当たり、勝成は松山城を守衛し、定昭(藤堂高猷の四男錬五郎、安政六年勝成の婿養子となる)が一の手・新製二番大隊・二の手・旗本衆・新製一番大隊・旗本遊軍の順序で統率して出撃することになった。
 六月六日、四国各藩の軍兵の総指揮官として、若年寄京極高富が海路来松し、大林寺に宿泊した。高富の指示に従って、翌七日一の手軍が菅良弼に率いられて和気郡興居島を出発したのをはじめ、長沼朝彝に率いられた二の手軍、吉田惣右衛門に率いられた新製二番隊がこれに続いた。一行は八日、周防国大島(屋代島ともいう)の由宇村付近に上陸し、さらに伊保田村付近を探索したが、長州兵を発見することはできなかった。一〇日になって長州兵が普門寺付近に集まったとの連絡があったので、松山藩兵は安下庄に上陸した。しかし、両軍の間で競り合いがあった程度で、松山藩兵はその港に滞船した。ところが一五日になって長州兵が大島に渡って本格的な攻撃を開始した。長州勢は普門寺越・源命越・家房越の三方面から、巨砲を連ねて襲撃したので、松山側では多くの死傷者が出る有り様であった。松山藩兵は対抗できないのを悟って、いったん安下庄に集結し、さらに松山領の風早郡津和地島に引き揚げねばならなかった。
 この間に四国側では来援する藩もなく、独力で大島を制圧できないことを自覚し、にわかに守勢に転じ、専ら郷土の防衛に当たった。一の手・二の手軍を三津浜に配置して長州兵の上陸に備え、その後備軍として二番大隊を山西村に、一番大隊を久万村に、旗本遊軍を江戸村(のちに余戸村)に、部屋備衆を辻・沢村に駐留させ、城下町防御の姿勢を整えたように考えられる。この時、幕府側の気勢はあがらず、長州藩の国境に迫った諸藩の兵も連戦連敗して、その無能ぶりを天下に暴露する結果となった。
 慶応二年(一八六六)八月二〇日に将軍家茂は大坂で逝去し、一橋家から慶喜が入って将軍職を継いだ。幕府は喪中であるとの口実のもとに、長州征伐軍を引き揚げることになった。一〇月八日には諸藩の撤退が完了し、四国軍総指令京極高富は松山を出発して江戸に帰った。松山藩では、一一月九日に郡奉行奥平三左衛門らを長州藩に派遣し、大島における藩兵の軍事行動を謝罪した。その後、両藩の間で捕虜の交換を行った(池内家記)。
 翌慶応三年二月、定昭は上京して当時滞京中の将軍慶喜に、長州征討における松山藩の不始末を報告した。この間、長州藩との間にも折衝があり、中老格家老部屋出席の津田十郎兵衛ら四人が長州藩に赴き、長州への出征に際して、失律のあった点について重ねて遺憾の意を表した。

図2-9 長州征伐関係図(周防大島)

図2-9 長州征伐関係図(周防大島)