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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

八 浅山勿斎の藩政改革案

 勿斎の藩儒としての地位

 松山藩政について、大改革が断行されたことは、極めて少ない。そのうち安永七年三月に、儒臣であった浅山勿斎(一七五四~九七)が、藩主松平定静に藩政改革を進言したことは、注目すべき事柄であろう。
 まず勿斎の学者としての履歴と、その地位について述べてみよう。「勿斎浅山先生墓碑」(宮原竜山撰)の銘文によれば、彼は寛政九年(一七九七)六月七日に、四四歳で逝去している。墓碑銘を撰した宮原竜山は、名を彬、字を楽天という。桑村郡高知村の人で、はじめ西依成斎に、のちに服部栗斎(ともに崎門学系統)に学んだ。竜山は定国に招かれて松山藩に仕え、育英事業に功労があった。彼の門人には高橋復斎(のちの明教館教授)・野沢象水・西川楽斎らの俊秀の士があった。
 勿斎は諱を尹、字を達甫、通称を太郎左衛門といい、藩医青地快庵について蘐園学を修め、徂徠学の賢才と称讃された人物であった(却睡草)。勿斎が蘐園学者として、どの程度に評価されたかは、史料がないので不明である。安永四年に、定静か家中に対し文武の奨励を企てた時、家老竹内久右衛門が「各志に励み政を助け、何等の御用に相立候て家名をも輝し候様」と説諭して(垂憲録)、躑躅の間で月次講釈が始められた。「松府古士談」によれば、「安永七戌年三月二五日佐藤勘太夫門弟経書の講釈御前にて申し上ぐべき旨仰せ出され、中島九郎次、浅山数馬二五歳両人召出され(下略)」と記されている。
 浅山数馬とは勿斎のことであるが、ここで問題になるのは、勿斎を佐藤勘太夫の門弟であるとしている点である。勘太夫については、『高浜家記』によれば、「大月門人(中略)松田通居、其東門弟子佐藤勘太夫あり」と記され、大月履斎―通居―勘太夫―勿斎らが子弟関係にあったことを述べている。もしそうであれば、勿斎は崎門学系統に属することになるが、むしろ勿斎は蘐園学を学びながら、他の学派にも理解を持っていたと推定したい。
 さて勿斎が二五歳の壮年で、講師の地位にあったことは、学者として傑出していたからであって、『却睡草』によれば、「かかる器量の美質も稀なり」と評されたことを記している。

 勿斎の改革案

 定静の命で、安永七年三月より月次講釈が始まり、勿斎も儒者の一人として経書の講義を担当した。同月二五日の講席において、まず中島九郎次が講義をし、次に勿斎が論語の講釈をした時、ついでに進言したいことがあると断っておいて、かねてからの腹案であった藩政改革案を説いた。
 この時の彼の改革案は一二項から成っている。最初の三項目は学校設立と藩政の根本に関する提言である。
 (1) 藩主自身が率先して学問に志し、他国から優秀な学者を招くとともに、藩領内に学校を作るべきである。ところが現実には、藩庁内の学問は形式に流れ、藩士も名聞のうえから講席に出るばかりで、家庭では書物を開くものもいない。もし学校が設立され、学者が招聘されるようになると、藩主が学問を奨励しなくても、自然に学術は振興するものである。
 (2) 七〇歳以上の家老奥平左門・竹内冬松・山田荀活らを隠退させ、若年のものに代わらせたことは、藩主のおぼしめし違いである。老人は思慮分別も深く、国の宝といって良い。これに反して、年若い家老では、配下の藩吏も我意をもって申し募るようになるから、藩吏の任免を慎重にし、今の政局の是正を望む次第である。
 (3) 財政整理のうえから、石手の屋敷・花園を売り払われたことは、必ずしも当を得たとは言えない。その売却による収入六〇貫目に対して、三ノ丸の居間・奥御殿の普請に四〇貫もかけている。これでは財政補強策にならず、これも藩主のおぼしめし違いである。
次いで民政の安定策として三項目を掲げている。
 (4) 藩主が家老宅へ出掛ける場合、あらかじめ日限を切らないため、家老の方では無礼のないようにとの心遣いから、居宅の取り繕い、畳替えなどをする。藩主の方で、いくら手軽くと注意しても、家老の方では万事に気を遣い、意外な失費を生む結果となる。来訪の日時を近くに限定するならば、手軽くせよといわれなくても、雑作する余裕がないため、自然に冗費も省けることになる。
 さらに私たちの望むところは、家老宅訪問の気持ちを万民に及ぼすことであって、これこそ王道とも仁政とも言うべきであろう。いかに不義非道なことであっても、いったん藩庁から書付で発布されると、藩吏は仕置であると解釈してそのとおりに実施する。そのために下にある庶民はこれに苦しめられた結果、藩庁をそしり恨むこととなる。ところが藩主には下情がよくわからないため、みな得心したと過信してしまう。
 (5) 郡郷に対し租税を軽減して恩恵を売っておき、内々に御礼米と称して、農民より取り立てを行うことは、収斂に渉り、暴逆の政治というべきである。このような取りはからいをした藩吏こそ逆臣禄賊であって、その害毒は盗賊よりも甚だしく、ひいては国家を滅亡させる素因となる。
 (6) 銀札を贋造したものを死刑にする慣わしであるが、これについて藩庁における銀札発行の根本精神を疑わざるを得ない。それは紙で銀貨に代わる銀札を作って価値を持たせることこそ、責められるべきであろう。
 藩庁はすべからく銀札の発行を停止し、またそれによって紙幣贋造を防ぐことが出来る。
 勿斎は、いかにも儒者らしく藩庁の経済政策を批判している。七項から一二項は、人数扶持その他の悪政廃止によって善政を展開すべきことを提案している。
 (7) 安永八年(一七七九)七月から向こう三か年の間、藩庁から人数扶持を実施する旨の通達があった。人数扶持は天災飢饉の場合ならば当然であるが、最近は稲作も良好である。それにもかかわらず、人数扶持を実施して人々を苦しめることは、王政人道に反するものである。たとえ天災に備えるためであるとの理由であっても、老人たちは長い間困難な生活を送って来たのであるから、これ以上苦しめるのは、不憫というほかはない。
 (8) 藩庁は三津浜において塩田開発を強行したが、その結果これに隣接する新浜村の塩田所有者の利益を圧迫する結果となった。庶民の利益を収奪することは、民を苦しめるに外ならない。
 (9) 官命を帯びて旅行する場合、家老は荷船に、奥女中や金銀類の荷物は関船(高尾船ともいい、軍船を言う)に改められた。奥女中こそ荷船で良いはずであるのに、藩の重職にあるものをこれに乗せることは、いずれの面から考えても不都合である。また町方に株仲間の設置を承認したため、物価が騰貴し、庶民が大変苦しんでいる。これらの二点について、藩庁は十分に考慮しなければならない。
 (10) 人数扶持の実施を予告し、家中にその覚悟を促しておきながら、神社・仏閣の祭礼に芝居を許可することはいかがであろうか。また足軽たちに山役を課したため、彼らはその負担の過重に苦しんでいる。山役に不参の足軽には、暮渡しの切米の中から不参米を差し引いているが、このようなことでは彼らを困窮させ、ひいては平素の武備に悪い影響を与えることになる。
 (11) 藩主の鷹狩は、時期を考えず農作物を踏み荒らす結果となるので、農民が被害者となり迷惑している。
 (12) 江戸山にある藩祖松平定行の石碑に対し代参者を送っておきながら、神社・仏閣に藩主自身が参詣するのは、祖先に対し不敬の行為と言わなければならない。
 勿斎は、人数扶持は家臣愛護の精神に合致しない悪政であると断じ、三津浜の塩田開発・奥女中の関船乗船・藩主の鷹狩など細部にわたって藩庁の配慮不足を指摘している。ただ(12)の項目で彼が祖先の霊に対し尊崇の誠を捧げるべきであると強調した点は認めるにしても、松平定行の石碑に関しては彼の誤りである。『垂憲録拾遺』の著者である竹内信英が述べているように、これは定行の石碑ではなく、長門屋九左衛門が定行の来訪を記念して建てたものである。
 以上一二項目にわたって勿斎は藩政改革案を進言した。彼は悲壮な決意と燃えるような情熱のもとに、真摯な態度で時弊を論難しながら提案したのである。その要旨は、学校を設立して教育制度を整備すること、藩庁の重職の任免には慎重であること、庶民への慈悲の念を浸透させるよう取り計らうこと、収斂本位の政策を改め民利を尊重して世相の安定をはかること、人数扶持などを廃止して善政を展開することにあったと思われる。

 改革案の評価

 この当時の他藩に行われた藩政の改革、すなわち文武の奨励、倹約の厳守、綱紀の粛正、民心の安定策は、封建体制の補強工作に結びつくものであった。勿斎は他藩の改革に重大な関心を持っていたに相違ない。
 次に施政者としての勿斎であるが、藩の重職たちが旧慣を墨守したのに対し、彼には伝統を重んずる必要もなく、確かに老臣たちには見られなかった自由が存在した。そこには従来の藩当局者にはなかった新鮮味があったことは明らかである。しかしその反面、儒者としての限界があり、それを越えることを許されなかった。
 また、彼が若輩であったために、時弊の批判に重点が置かれ、藩政のより積極的な展開、すなわち財政の再建や殖産興業の分野が見られなかったことは残念である。さらに彼が儒教における王道思想に眩惑され、藩主による善政の実現を期待したことは、迫り来る封建制危機の把握を不充分ならしめた。
 さて、勿斎の献策はどれはどの効果をもたらしたであろうか、『却睡草』によれば、(9)が採用され、家老が関船に乗るよう改められ、株札運上が停止された。また(7)の人数扶持が安永七年(一七七八)一一月に取り消されたことをあげ、善政の端緒が現れたと称讃している。

 改革案の挫折

 安永七年四月、定静は参勤交代のため松山を出発して江戸に赴いた。彼は疝癪のため江戸城中で杖を用いることを許されたが、翌八年七月一〇日病気が急変して、同月一四日愛宕下邸で逝去した。この時五一歳、藩主の地位に就いてわずかに一五年であった。墓所は済海寺である(本藩譜)。
 定静の逝去は、高い理想を懐いて改革を推進しようとしていた勿斎にとって、大打撃であったろう。定静のあとを継いで藩主となった定国(一七五九~一八〇四)の治世に、彼が側用人に登用されたのを見ると、彼の手腕に期待するところが大であったと推察される。ところが、若年の勿斎が才智にまかせて改革を推進しようとしたことは、封建制下の現状に安住しようとする藩士の反対を招き、その事業も失敗したようである。『却睡草』に「御政事を改め、万事を俄に動せし故、俗人等不信して終に事破れたり、惜しむべき事なり、此時(勿斎)凡三十歳許りの由也」とあるので明らかであろう。勿斎が寛政一〇年(一七九八)に四四歳で逝去したため、彼の存在も史書から姿を消す結果となった。