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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

五 久万山農民騒動

 定英逝去後の政権変動

 前述したように、享保の大飢饉にあたっては、五代藩主松平定英のもとに、家老水野忠統(吉左衛門)・久松貞景(庄右衛門)・奥平貞継(藤左衛門)らが執政の主班であった。定英は凶荒の被害の大きいのに驚き、享保一七年一二月末に、目付山内久元(与右衛門)の一行を松山へ帰らせ、領内の惨状と、これに対する救済策の効果を調査させた。久元はひろく郡郷を巡視して、その実状を藩主に報告した(西岡家記)。翌一八年四月一九日に、定英は重病にかかったので、幕府から差控を免じられたが、五月二一日ついに江戸藩邸で逝去した。年は三八歳であり、治封はわずかに一四年に過ぎず、遺骸は江戸済海寺に葬られた(増田家記)。
 定英のあとを継いだのは、その嫡男の定喬(一七一六~六三)であって、享保元年生まれで、幼名を百助、字を白丁、のち号を衡山といった。同一五年一二月二五日従五位下に叙せられ、山城守と称した(増田家記)。同一八年七月二八日家督を継ぎ、隠岐守と改めた(本藩譜)。
 ここで注意すべきことは、定喬の襲職後わずかに一〇日目に、藩政当局に大変動が起こり、上級職の更迭が断行されたことであった。当時隠居を命じられて、失意の境遇にあった奥平貞国(三郎兵衛といい、のち久兵衛と改む)が家老職の現役に復し、二〇〇人扶持を給与された(本藩譜)。それに対し、家老奥平貞継は役儀を取り上げられ、浮穴郡久万山へ蟄居を命じられた。その処罰の理由としては、彼が享保の大飢饉において、大坂からいったん帰着しながら、その措置を誤って多数の餓死者を出し、また幕府からの拝借金を大坂の平野屋五兵衛に渡すような不都合の行動があったことをあげている。それに続いて、家老久松貞景(庄右衛門)・番頭奉行阿部市左衛門・奉行山田四郎兵衛・目付渡部次大夫・同伊藤三右衛門・同三浦正左衛門・同山内久元(与右衛門)らは罷免のうえ、閉門を指令された(本藩譜・山内家記)。一二月五日には、山田は風早郡二神島、渡部は越智郡生名島へ配流された(垂憲録拾遺)。山内は悪心をもって定英の心を惑わし、さらに、松平家が大事に及ぶような結果をもたらした張本人として、味酒村長久寺において切腹を命じられた(本藩譜・山内家記)。
 なお久元の処刑の事情については明確を欠くが、前述の罪名に相当する事実を見いだすことができない。これらの理由は単なる口実に過ぎないのであって、おそらく硬骨漢の彼がこの政変において注目の的となり、ついに更迭の犠牲者となったのであろう。要するに、この変動は大飢饉当時の執政者であった貞継一派の失脚と、貞国の勢力擡頭とを将来することになった。前後の推移と、久元の罪名の事実無根であったことなどから考えると、この政変は両派の政権争奪の現れであって、たまたま享保の凶荒と定英の逝去とが、その契機となったのであろう。

 奥平貞国一派の施政

 このように奥平貞国一派の権勢は次第に伸張し、やがて藩政を独占するかたちとなった。彼の施政のうちで、主なるものをあげてみよう。まず享保一八年(一七三三)一一月一一日に、道後湯之町に対し、富鬮・芝居の興業を許し、遊女を配置することを認めた(増田家記)。翌一二月七日に、藩儒松田東門(大月新之丞ともいう)に目安箱についての解説文をつくらせ、水谷半蔵にこれを書かせ、箱とともに古町の札ノ辻に置き、これを庶民に告知した。その目的は、領内におけるどのような事項でも、「訴たき事あらは、たとひ筋違ひの事にても、其おもむきを書付」けて、箱に入れるようにと掲示した(増田家記)。翌八日に、一般に芝居および風呂屋の営業、遊女の設置を許可した(増田家記)。これらを通じて考えられることは、時勢の推移によって、庶民に対する施政に緩和策がとられたことである。
 翌一九年一月二五日に、藩庁は道後御茶屋、ならびに周敷郡丹原の御茶屋を売り払った(増田家記)。その理由は史料に明記してないが、藩の経費の節減をはかるための措置と考察される。元文二年(一七三七)五月二二日に将軍徳川家重の子竹千代(のちの家治)が生まれた。この時、定喬は将軍にかわって東照宮へ代参するよう命じられ、六月七日江戸を出発し、同一五日に目的を達して帰府した(本藩譜)。
 このころ藩の財政も窮迫したと見え、同年一〇月より来年秋まで、人数扶持を断行することになった。しかし、当時の記録には、その理由について何の記述もない。八月五日に大風雨が襲来し、藩領内の損毛高は一万四、〇六五石余であった(本藩譜)。翌元文五年(一七四〇)に、吉田浜から三津へ至る街道に松を植え、それから五年のちの延享元年(一七四四)五月に、三津縄手道の松を伐り取り、唐櫨を植えた(垂憲録拾遺)。

 農民騒動の原因

 享保一八年六月の政変によって、奥平貞国一派の権勢はますます強大となった。ところがその後七年を経て、寛保元年(一七四一)三月に久万山農民騒動の勃発を見ることとなった。この騒動の蔓延した地域は、久万山二六か村であった。そのうち松山平野の東南隅に位置し、久万山に接する久谷・窪野(現松山市)の両村を別として、久万盆地にある東明神・西明神・入野・菅生・直瀬・上畑野川・下畑野川の七村が比較的耕地に恵まれているとはいえ、松山平野の農村に比較すると、高冷地であって、冬期には雪の災害を受けることが多く、かつ日照時間も短い悪条件があった。その他の一五か村に至っては山岳地帯で、水田面積は極めて狭少で、わずかに畑作によって生活を支えなければならなかった。つぎに、この騒動の誘因について述べてみよう。
 (1) 享保の大飢饉以降における農村の状況は、不安定であった。農民生活の困窮状態の回復しないうちに、元文四年(一七三九―大飢饉後七年)、および寛保元年(大飢饉後九年)の両度、松山藩領内に大暴風雨があり、稲作の損害が大きく、米価の上昇を招いた。なお、松山における価額は、玄米二俵が享保二〇年に二九匁、翌元文元年に三一匁、翌二年に三三匁、同三年に七二・五匁、同四年に六〇匁、同五年に六六匁、翌寛保元年に六七匁となった。ことに山岳地帯を占める久万山地区は、他に天産物に恵まれることがなかったから、一般農民の経済は窮迫していた。
 (2) 米価が次第に騰貴したのに反し、この地区の重要な産物であり、かつ必須の換金作物であった茶の価額の下落したこと(坐右録)が、彼らの生活窮迫に追い打ちをかける結果となった。
 (3) またこの地域では、楮が栽培され、製紙が貢租として課せられていた。藩庁では各農家の楮改めの時、藩吏が過大に見積もっていたため、強制買い上げの際に常に不足を来した。そのため、農民たちは他の地域から楮を購入して、製紙を藩に供出しなければならなかった。したがって、農家にとって製紙は失費が多いうえに、紙漉については定められた期限内に出荷しなければならないため、農事を捨てて取り掛かる必要があり、彼らにとって、過重な負担となった。

 農民騒動の経過

 寛保元年(一七四一)三月七日に、浮穴郡有枝・大川・上黒岩・日野浦・柳井川・西谷・久主・黒藤川・沢渡・仕出・七鳥・東川・大味川・直瀬の一四か村の農民たちは、貢租の減額を嘆願しようとして、まず藩庁に出訴することとなった。ところが、彼らが城下町に近い久米郡久米・石井村、浮穴郡井門村まで来た時、代官関助太夫が駆けつけて、彼らの進行を遮るとともに、帰村するよう説得につとめた(垂憲録拾遺)。
 その結果、彼らはやむなく出訴を断念して、いったん帰山した。さらに助太夫と奉行穂坂太郎左衛門・郡奉行吉岡平右衛門らは久万山に赴き、農民の帰村を確認した(垂憲録拾遺)。この時農民は負担の過重であることを重ねて訴え、藩の善処を強硬に求めたが、その効果はなかった。そこで、彼らはこのままでは要求貫徹できないのを自覚し、再び松山への強訴を企画したように考察される(資近上二-213(1))。藩吏は彼らの鎮撫にあたるとともに、貧窮者に対して救助米三五〇俵を配布して、その状勢の緩和につとめた。
 当時の農民階級にとって、農村が極度に疲弊し、普通の手段によって生活難を打開する道を失った時に選ばれた手段は、百姓一揆であった。江戸時代中期以降は、農民騒動の頻発した時代であって、その進展の過程は、いろいろの形態のもとに遂行された。その消極的な反抗運動の代表的なものは、逃散であった。逃散とは農民たちが安住の地を求めて郷里を捨て、他領に逃亡することをいう。これによって旧支配者である藩庁に経済的・精神的な大打撃を与える場合が少なくなかった。典型的な逃散に発展したのが、この久万山騒動であった。
 寛保元年七月五日に、土佐国に近い久主村の農民がまず蜂起し下坂(久万山南部地域)の村々をも合流して、隣藩の大洲領に入った。八日に露峰村へ進んだ時には、北坂(久万山の北部地域)および口坂(久万山の入り口になる地区)と久万山・三坂地区の農民たちも参加した。一一日に一行は大洲藩領薄木村に達したので、大洲藩の代官が帰村するよう説諭した。しかし、彼らはこれに耳を貸さず、一三日に内ノ子村に進んだ(坐右録)。松山藩庁では、郡奉行の吉岡平右衛門らを大洲藩に使者として派遣し、農民側に対しその嘆願を裁許するから、帰村するようとの伝達を依頼した。さらに久万山に来ていた奉行久松貞景も、証札を示して確約する旨を主張したけれども、農民側にはこれに応じる模様も見いだされなかった。一五日に、彼らは大洲城下に近い中村あたりまで入り込んだので、松山藩庁では片岡七郎左衛門に黒印を持たせて赴かせた。この時逃散した農民の数は二、八四三名に及んだといわれる(坐右録)。
 二二日に、松山藩庁では領内における損毛一万四、○八三石二斗余、不熟による減収高五万四八六石二斗六升、合計六万四、五六九石四斗六升余であることを、幕府に報告した(本藩譜)。二七日には、酒造家・油絞り・木綿問屋・抹香師・紺屋藍坪の業者に対し運上銀、紙問屋・肴問屋・旅人宿に対し口銭、桶師に対し役銀等を免除する旨を通達した(家記)。

 要求書の作成

 同日に家老奥平貞国・奉行穂坂太郎左衛門らに対し、騒動の責任者として、出仕差留の強硬な処分がとられた(家記)。いっぽう逃散した農民たちは、大洲藩主に窮状を訴え、効果がない以上は帰村しない旨を主張し、松山藩のいっさいの交渉に応じなかった。そこで貞景・助太夫らは藩の慰撫策の効果のないのを自覚し、やむをえず久万大宝寺の住職斉秀に、農民への斡旋方を依頼した。斉秀はいったん辞退したが、助太夫の懇望によって、同寺の塔頭僧である理覚を大洲領に遣わして説諭させた。ところが、農民側かこれに応じないのを見て、久松貞景は重ねて住職自身で農民との折衝に当たるよう懇願した(坐右録)。
 そこで斉秀は交渉の準備工作として、藩吏と農民側への妥協策について審議を重ねた。斉秀は貞景らに対して、つぎの条件を提示して、藩庁の決意を促した。それは、

 (1) 農民側から提出される要求事項のうち、久万山地区全般にわたるものが三か条あれば、そのなかの二か条を容認すること。
 (2) 郡全域の要求も、これと同じ条件にすること。
 (3) 村単位の要求が一〇か条あれば、そのうち五か条を許可すること。
 (4) この騒動における主謀者を探索しないこと。

などの条件であった(資近上二-213(2))。
 貞景らは、その提案を承諾したので、七月二四日に斉秀は大洲領中村に赴き、農民たちに前記の条件を示して、説得につとめた。そこで、農民側もようやく斉秀との交渉に応じ、これらの条件を容認のうえ、斉秀にその後の折衝を一任することとなった。やがて、諸村の農民の側で、藩に対する要求書が作成され、貞景に提出した(資近上二-213(2))。

 騒動の解決

 これよりさき、斉秀は農民への回答について、上席家老の水野忠統から直接に申し渡すよう要望していた。そこで忠統はみずから久万へ赴き、貞景ら藩吏の立ち会いのもとに、法然寺の本堂で各村落の代表者に正式に回答した。
 この時の申し渡しは、各村落の要望に対してなされたものであるから、おのおの異なった条項も存在する。ここでは、各村落に共通した項目を、前記の要求書の順序に従って述べてみよう。共通項目は、
 (1)年貢の減免は認めない。(2)茶に対する課税の五割増は取りやめる。(3)差上米は免除する。(4)諸物成の五割増は取りやめる。(5)紙漉借用銀米は無利息の五か年賦とし、紙楮仕法は希望にしたがい従前の通りとする。(6)水旱風損の場合は十分に吟味のうえで決定する。(7)藩吏の減員と、(8)藩吏に対する賄い方については今後の研究事項とする。(9)郡大割の負担軽減も吟味する。(10)郡小割を免除する。(11)庄屋の未進米の割掛、および帳書料の割掛などをしないこと。
などであった(久万山出訴一件覚書・資近上二-213(2))。
 この申し渡しによってわかるように、藩の決定条項は必ずしも農民側の要望の全部を容認したものでなく、彼らを満足させるものではなかった。しかし、彼らは藩庁の妥協的な態度に納得して、八月一一日に帰村の行動を開始し、二名村・久万町村を経て、十三日におのおの郷里に帰着した。ここに、松山藩にとって未曽有の大事件の逃散も、ようやく落着を見るに至った(坐右録)。

 奥平貞国一派の没落

 農民騒動勃発ののち、奥平貞国および穂坂太郎左衛門に対して、出仕差留の強硬な措置がとられたことは前述した。
 さらに、八月一五日に貞国は時節柄不相応の饗応を受け、酒宴遊興に長じ、その上常々賄賂を取り、贔屓の者のいい分を信じて裁許を誤り、下賤の者たちの恨みを買い、ついに騒動をおこす結果となり、不忠の至りであるとして越智郡生名島に配流された。これと同時に奉行穂坂太郎左衛門は風早郡二神島へ、者頭脇坂五郎右衛門は越智郡大下島へ配流された。また貞国の子源左衛門は役儀を取りあげられ、閉居を命じられた。
五郎右衛門の子伝之丞は父とともに遠島となり、そのほかに処分されたものもあった。
 これに反して、享保一八年(一七三三)死罪となった山内久元の子岩次郎は、藩庁から亡父与右衛門の先知一四〇石を下しおかれ、馬廻組入りを命じられた。そのほかに、復職の幸運に恵まれたものも多かった(山内家記)。
 要するに、大飢饉の後に反対党を退けて政局を独占した貞国も、凶荒の善後策に公正を欠き、ついに農民騒動の誘因をつくり、さらにそれによってみずからを滅亡の渕に落とし入れた。この事変を契機として、かつて政局から排除された水野忠統・久松貞景らが政権を回復する(垂憲録拾遺)ことになった。享保年間から存在した政権上の紛争は、ここに落着を見た。
 貞国の末路をたどると、遠島後八年の寛延二年(一七四九)一〇月に、松山藩庁から派遣された目付伊奈左仲・下村七兵衛らの手によって殺害された。藩では目付に遠慮を命じたけれども、わずかに一三日後に赦免したことによって、その裏面の状況を想見できるであろう(膾残録)。
 なお、この政権争奪の経過は、誇張し小説化されて、『伊予名草』・『松の山鏡』に松山騒動として発表された。そのうえ、八百八狸の怪奇談さえ加えられ、いろいろの俗説を生んだが、さらに演劇化されてひろく人口に膾炙されるようになった。この俗説の素因を作ったのは、恐らく当時の神田あたりの講釈師であろうと考えられる。
 この政変の直後の寛保元年(一七四一)八月二〇日に、道後の遊女をおくことを停止し、また富鬮・芝居などを禁止した(家記)。貞国が政権を独占した時代と全く形相が一変し、粛正の気運がおこり、厳格な風潮が再現したように思われる。

図2-6 久万山騒動関係図

図2-6 久万山騒動関係図