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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一 松平定行の入国と守成事業

 松平定行の松山入城

 松平氏による松山藩の施政は、伊勢国桑名城主松平定行(一五八七~一六六八)が寛永一二年(一六三五)七月二八日に、幕府から松山城ならびに領地一五万石に転封された(資近上二-1)のにはじまる。松平家の出自は、もと菅原氏であって、道真の孫に雅規(幼名を久松丸という)があり、尾張国智多郡英比郷(阿久比とも書く)に配流され、貞元元年(九七六)に逝去したと伝えられる。この地の人たちは、これを久松殿と称したという。その子孫は、開発領主として活躍した。室町時代に道定が現れ、尾張国守護斯波氏の家臣となり、久松氏と称してこの地に館を構えたようである。
 天正年間に、久松定俊(俊勝ともいう)は三河国の松平氏に随従し、刈屋城主水野忠政の女(のちに法号を伝通院という。はじめ徳川広忠に嫁して家康を生んだが、事情によって同家を離れる)を娶って、その間に定勝が誕生した。永禄三年(一五六〇)に徳川家康は、伝通院が自分の生母であったことから、定俊に対し松平氏を称し、葵の紋章を使用するように命じた。したがって、子定勝は家康の異父同母弟であった。定勝は関ヶ原の戦いの後、遠江国掛川城主(三万石)を経て、桑名城主(一一万石)に封ぜられていた。
 その子定行は、天正一五年(一五八七)に三河国西郡に生まれ、慶長一二年(一六〇七)に掛川城主に任ぜられ、寛永元年に父定勝の逝去の跡をうけて家督を相続した。
 定行は寛永一二年(一六三五)八月二五日桑名を出発し、九月六日に松山城に入り、直ちに江戸へ家老奥平貞重(由)を派遣して、松山藩受領の旨を幕府に報告させた。そこで定行は、幕府の奏者番から領地目録・郷村高辻帳を受領した(松山年譜・本藩譜)。定行の松山就封は、四国を征圧する含み(予松御代鑑)を持つものであって、松山藩が親藩として封建制度進展のうえに有する意義は、極めて大きいといってよいであろう。

 松山藩家臣団の構成

 家臣団には、家老・大名分・番頭・奉行・代官らがあった。家老には定行が掛川城主であったころから仕えていたものに、菅正勝・奥平貞由・奥平貞朝らがあった。そのほかに永沼之春・水野一元・遠山景朝・久松勝直らが家老職にあった。
 番頭には、はじめ広間・留守居・大小姓の各番頭があり、日下部朝通・中川逸貞・久松貞通・小出重清らか勤務した。奉行には、山・竹・船・破損・普請・諸道具・材木・麦・積・銭・郡・町の各奉行があった。各郡には代官がいたが、特に島中代官があり、風早・越智両郡の島嶼部(松山のほか天領・大洲・今治の各藩領があった)のうちの松山領の執務に当たった。そのほかに、本丸鉄砲頭・持筒頭・歩行頭があり、松山領と他領との境界の警備に従事する浅海・中山番、並びに台所番があった。
 史料は不備であり、かつ時代は下るが、明暦ころの分限帳によると、家臣の総数は、足軽・徒歩を含めて四、五〇〇名くらいあったと推察される(資近上二-30)。定行の時代になると、地方知行制の廃止に伴って、実質的には扶持米取に切り換えられていた。

 松山藩の領域

 この当時の松山藩の領域は、温泉・和気・久米・野間・桑村・風早・浮穴・伊予・越智・周布の一〇郡にまたがり、三三〇か村・一五万石であった。これを「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」によって村高を郡別に集計したものと比較したのが表二-4である。前掲書は、もと幕府が正保元年(一六四四)に諸国に対し、郷村高帳および国郡諸城の図の作成を指令したことによって、書き上げられたものと推定される。

 寛永ころの松山城下町

 定行が入国した当時の勝山(松山城本丸の置かれた山)は、禿山で樹木が少ないため、あたかも赤土山の上に城郭がそびえたつように見えた(垂憲録拾遺)。定行は麦・粟をまいて、鳥類を集めるようにさせた。それは鳥の糞の中に木の実があり、その実が自然に生いたって樹木になるのを期待した結果である。また日向国から松の実を取り寄せ、これをまかせたので、山麓の南側には松樹が成長したのに対し、山麓の北部の陰湿地には雑木が多く繁茂した(古今紀聞)。
 定行は寛永一二年(一六三五)入国後間もなく、家老・奉行・用人らを伴って、馬に乗って城下町を巡見した。その時、家中屋敷の模様はきわめて質朴で、屋根は杉ぶき・藁ぶきのものが多く、表の囲は篠を用い、掛塀はほとんど見受けられなかった。「物見連子の類も篠囲を切抜、又掛塀の下地を塗り残し有たるまでにて、格子など付たるはなし、組家町家抔も道筋至て不同にして、離れ離れに建てたるもの也」(垂憲録拾遺)と記録されている。この時、町家のものを引見したが、袴を着けたものは少なく、一刀を帯し男女とも白木綿を着けてぃた。士官の面々は阿波国から流行して来た納戸茶染の木綿を着ていて、帯はほとんど紺染のものを用いている。まれに薄茶、または紺浅黄の服を着用しているものもあった。町人・農民は浅黄・紺色のものを、まれに婦人で太い縞の衣類を着ていたものがあった。このように一般が至って簡素であったから、特に質朴であると批評する人もなかった(垂憲録拾遺)。

 道後温泉の大改造

 寛永一五年、定行は道後温泉の諸施設の充実に着手した。まず浴場の周囲に垣を設け、砌石などを整備した。浴槽は六室に分かれ、一之湯は士族・僧侶用に、二之湯は婦人用に、三之湯は庶民男子に供された。この浴槽のほか、東側に「十五銭湯」と呼ぶ士人の妻子用、「十銭湯・養生湯」と呼ぶ旅客雑人用のものがあり、さらにそれらの下流に馬湯があった(伊予史料)。
 この地には、寛文年間の初めまで奉行が置かれ、徒歩目付格である中川大右衛門・城野源助らかその任にあった。その後奉行は廃止され、道後御茶屋番がその任務を遂行した。なお道後御茶屋は定行が温泉入湯のために造った別荘であって、そこにいた御茶屋番が温泉を監督した。元禄のころまで、御茶屋番に今井作右衛門・永田門兵衛らが勤務したが、その後これに代わって明王院が温泉の鍵を預かるようになった(松山俚人談)。なお明王院は修験道場で、今の温泉の北側にあった。

 島原の乱

 寛永一四年(一六三七)一一月に、島原半島・天草島の農民たちは、疲弊の末同地のキリスト教徒、あるいは浪人たちと結束して、領主松倉氏の圧政に反抗した。これが島原の乱であって、幕府は直ちに板倉重昌を征討軍の総指令に任命し、九州諸藩の軍を統率させた。松山藩では者頭(物頭とも書いた)片岡正信・使番黒田吉辰・徒歩目付中村久重らに命じ、兵を率いて現地に赴かせて、板倉勢に応援させた(資近上二-20)。
 しかし、殉教の信念の堅かった島原・天草の信徒たちは、原城址によって頑強に抵抗した。そのため、幕軍は包囲攻撃を重ねたけれども、容易に城址を占領することができなかった。重昌は自分の責任を痛感し、翌一五年元旦を期し、諸軍を督促して城内に突入しようと図った。そこで壮烈な白兵戦となり、挺身した重昌は戦死を遂げた。これに従った正信も、城中から放った鉄砲にあたって城塀で戦死し、吉辰も城から落下した大石や鉄砲にあたり重傷を負った。
 これよりさき、幕府は事態の重大なのに驚き、老中の松平信綱を派遣したので、松山藩でも吉辰に代わって相田正盛・萩原重賢を送った(資近上二-20)。信綱は原城の包囲を厳重にし、糧道を断って一揆の自滅するのを待った。一方、万一に備えようとする暴府の指示によって、定行は一月一五日江戸を出発し、二八日松山へ帰り、宇和島藩主伊達秀宗の便船を借りて、佐賀関に赴いて待機し、熊本へ直行する準備を整え、現地からの連絡を待った。二月末に原城址も陥って、騒乱も終局を告げたので、定行はそのまま松山に引き揚げた(松山藩旧聞録)。その翌一六年に、幕府はポルトガル人を追放し、オランダ・中国以外の国々との貿易を禁止したので、我が国はいわゆる鎖国時代に入ることとなった。

 江戸城本丸再建の助役

 これよりさき、寛永一五年一一月一八日に、幕府から松山城内へ米一万石を貯え、毎年詰め替えの場合、古米を七月初めに売り払い、確実に入れ替えておくようにとの指令があった(松山藩旧聞録)。翌一六年八月一一日、江戸城本丸から出火して、殿舎を全焼したので、一六日に幕府から本丸の修補の手伝いをするよう命令があった(松山年譜)。この時の相役は、徳川頼房・井伊直孝・松平定綱・松平定房・松平定政・青山幸政・本多俊次らであった(大猷院殿御実紀)。定綱・定房・定政は定行の弟である。この再建工事は翌一七年四月に完成し、その功によって幕府から定行に時服一五を、この工事に関与した家臣五人に賞与が授けられた。

 松山城の本壇大改築

 松山城は五層の天守であったが、加藤嘉明の創建以来三四年を経過していた。嘉明は築城に当たり、三峰から成る勝山に土砂を埋めて一山としたので、山頂部は決して強固な地盤とはいえなかった。ことに本壇の所は谷であったから、ここに五層の天守閣を維持することは、危険性が大きかった。このため定行は、山がなびき狂うとの憂慮から、天守閣を三層に建て替える決心をした。これが天守閣改築の根本理由とされているが、『垂憲録拾遺』によると、弟の今治藩主定房の勧めによった旨を記している。寛永一六年に天守閣を含む櫓・多聞櫓および門・塀・石垣などの改造を幕府に申し出て、七月一三日その許可書が松山に到着した(松山藩旧聞録)。同一九年に至って、改築工事は完了を見た。
 城郭の概要は、城の高さ六五間、本壇石垣外回り七町四二間、惣曲輪回り二九町一五間二尺、二之丸は東西五町九間半、南北七六間、二之丸黒門より本丸一之門までの山路は五町二八間、三之曲輪である堀之内は東西三町四七間、南北四町一七間二尺である。櫓は二七あり、大手口は北、搦手口は東にあり、堀は二重となっている(資近上二-21)。
 翌寛永二〇年全(一六四三)五月に、幕府から宇摩郡のうち四四か村、一万七一二三石一斗五升八合、周布郡のうち一、八一九石八斗七升三合、あわせて一万八、九四三石三升一合の地を預かることとなり、同月一日に幕吏下曽根新十郎信由・長谷川三郎右衛門(守)長勝らが来て、二三日に受け渡しを完了した(本藩譜、受け渡しの日『予松御代鑑』には一五日とする)。これらの地は、川之江藩主一柳直家の旧領(播磨国加東郡をあわせ、二万八、六〇〇石)のうち、伊予国に属するものであった。直家は前年五月二九日に、年四四歳で病没し、幕府に対する養子の届けが不備のため後継者直次は播磨一万石を給与され、伊予国内領を没収されたのであった(資近上一-136)。
 同二〇年七月一八日に、江戸城で朝鮮信使が来聘したので、将軍謁見の儀式が行われた。定行は幕命によって、井伊直孝とともに応待し、さらに馳走役を命じられたので本誓寺に赴き、その役目を果たすことができた(大猷院殿御実紀)。

 定行の長崎警備

 翌正保元年(一六四四)正月に、定行は西国の大名とともに、長崎港の警備を命じられた。『垂憲録』などによると、この時定行が長崎探題職を命じられた旨を記載しているが、これは史実に反するので採り上げられない(資近上二-22)。これに伴って、定行は毎年一〇月に参勤し、翌四月に帰省することとなり、また東海道に七里毎に飛脚所を設ける旨を明らかにした。これが七里飛脚といわれるものである。さらに同年に幕府から長崎屋敷を与えられた。ところが、定行は予定より早く二月に江戸を出発し、大坂で鉄砲・弾薬などの兵器を受け取り、いったん松山へ帰り、三津浜で発火演習を行った(伊藤弥一右衛門家伝覚書)。
 それから三年のちの正保四年六月二六日に黒船二隻が長崎に入港したので、定行は宇摩・桑村・越智の各郡をはじめ各地の船舶を三津浜に回航するように命じ、自らはそれより早く七月四日出船して、一六日長崎へ入港した。この時嫡子の定頼、弟の定房(今治初代藩主)をはじめ、松平織部・奥平藤左衛門・長沼吉兵衛らの重職のものが随行した(資近上二-23)。一方黒船二隻は長崎港外五里のところに碇泊していて、初めはいずれの国の船ともわからなかった。この船はさきの寛永の鎖国によって、我が国から追放されたポルトガル政府の派遣したものであった。彼らは幕府に対し、祖国がイスパニアのハプスブルク家の権勢から離れて、一六四〇年ブラガンザ家のジョン四世の統治になった旨を報じるために来航したのであった。二隻のうち一隻は長さ二五間、幅八間、他の一隻は長さ二一間、幅六間の大型船であった。
 この時警備に当たったのは一〇人の大名であって、福岡城主黒田忠之が船一、三〇〇艘、熊本城主細川忠尚が一、五〇〇艘、定行が三五〇艘であった(資近上二-23)。ポルトガル船との間に、色々交渉が行われたが、港内では何らの紛争もなく、ポルトガル船が八月七日に退去したため、定行は八月九日に上陸して諸侯とも対面し、翌一〇日に長崎を出港して、松山へ引き揚げた(垂憲録)。
 慶安三年(一六五〇)に、定行は和気郡祝谷に常信寺を創建した。この時、有名な天海の弟子憲海を迎えて開山とした。この地は松山城の鬼門に当たり、その守護のためであったという。はじめ定行は、ここに東照宮を建立する積もりであったが、幕府の許可がなかったので、天台宗の寺院を建立し、のち山頂に神祖廟を造ったと伝えられる(垂憲録拾遺)。

 松平定政の意見封事

 慶安四年六月一三日に、定行は幕府から黒書院溜間詰の指令があった。この時同列には井伊直澄・保科正之・松平頼重らがあった(松山年譜)。溜間に席を置くのは老中経験者・譜代大名の上級者であり、松山藩の幕閣における地位が知られよう。
 同年七月九日になって、定行にとっては全く予期しない事件が起こった。それは定行の弟定政が三河国刈屋城主でありながら、江戸東叡山最教院に入って遁世するとともに、意見封事を幕府に差し出したことであった。定政は定勝の六男であって、寛永一〇年(一六三三)に小姓となり、やがて能登守に任ぜられ、小姓組頭となり俸禄七、〇〇〇石を与えられた。慶安二年二月に、三河国刈屋城主二万石に封じられた。ところが同四年七月九日に、定政は増山正利・中根正成・宮城和甫・作事奉行牧野成常・町奉行石谷貞清・林道春らを自邸で饗応したのち、自分は命を捨てて将軍に尽くす決意であるが、今の施政が続くならばやがて混乱するに相違ないから、井伊直孝・阿部忠秋の両老中にこの意見封事を提出してもらいたいと懇願した。正利らはこの提案に驚くとともに、この封事を直孝のもとへ差し出した。直孝は一人で見るべきではないとして、他の老中と一緒に披見した。その封事は、まず彼の履歴を述べ、「将軍秀忠・家光に仕え忠勤を励み、第四代将軍家綱の時代となり、世相は表面的には泰平であり静謐であるが、財政上では金銀米銭に事欠くようになっている。いま私か二万石を放棄すれば、五石取りの武士四、〇〇〇人を養うことができる。私一人で四、〇〇〇人の働きは到底できないから、刈屋城ならびに江戸屋敷をはじめ保管中の諸武具類を幕府へ差し出したい。もしこの辞任請願で切腹を命じられるならば、快く上意に従う覚悟である。」という内容であった(厳有院殿御実紀)。
 あたかもこの四年には、四月に家光が逝去し、七月に家綱に対し将軍の宣下があり、世情は不安定の時であったから、幕府では定政の行動を狂気の沙汰としてその所領を没収し、身柄を兄定行に預けることになった。おそらく幕府としては、施政に対し諸侯の口出しをも禁圧するための強行措置であったと考えられる。この処罰があってから一七日のちに、有名な由比正雪の反乱、すなわち慶安の変が起こっているのを見ると、幕府にとっては、多事多難の時期であったと思われる。正雪は軍学者として名を知られていたが、世相の動揺に乗じ、幕府に対し反乱を企てた。彼は丸橋忠弥を江戸にとどめ、自ら駿府の旅宿に赴いて機を待った。しかし、忠弥らが捕えられたので、正雪は事の露見したのを察知し、遺書を残して、その前で割腹した。

 軍役通達

 松山藩にとって、幕府から重大な通告があった。それは同藩の負担すべき軍役が決められたことであった。承応元年(一六五二)一二月一六日の記録によると、幕府から松山藩一五万石に対して、騎馬二七〇騎・旗三〇本・弓九〇帳・鉄砲五二〇挺・長柄五〇本を課された(本藩譜)。
 同年に吉村又右衛門が藩庁に来て、一万石で召し抱えられることを願望した。定行はこれを採用せず、これに代わって与力一○○人を召し抱えるのを有利とし、翌年彼らに一〇〇石ずつを与え、家老七人に分け預けた。もと松山藩では、家中の二・三男を与力として採用し、浮穴郡見奈良村に郷居させていた(国士伝)。
 翌承応二年に、伊予郡古泉村の金蓮寺の客殿・庫裏を奉行矢野与右衛門指揮のもとに建立した(三田村秘事録)。金蓮寺は玉松山十二光院といい、真言宗に属し、古くは性尋寺と称した。かつて加藤嘉明が松前城を築くために、現在地に移建したと伝えられる。定行は二〇石を寄進して保護を加えた。明暦三年(一六五七)一月一八日に江戸の大火によって、松山藩の上屋敷が類焼した(本藩譜)。

 定行の隠退と東野茶屋

 このころ、定行は致仕を願い出ていたが許されず、翌万治元年(一六五八)二月二七日に至り、ようやく許可されたので、家督を嫡子定頼(一六〇七~一六六二)に譲った。定行は六月一〇日に江戸を出発し、七月一日松山へ帰着した。それから彼は閑静な東野に隠居所を建設するため、千宗庵に命じて数寄屋ならびに庭園を造らせた。
 これが東野御殿と呼ばれるもので、外回りは一里余あり、竹垣で囲まれていた。北方に前の門があり、これを三町ばかり入ると、両側を杉に囲まれた杉の馬場が、その東方に桜樹を植えた桜の馬場があり、その中間に馬見所の茶屋があった。これらの茶屋は茅葺・桧皮葺の極めて簡素なもので、彼がいかに質実な老後の生活を期待していたかを考察し得られる。これらをお茶屋と呼んだのは、あたかも江戸あるいは東海道の茶亭を想定したのによる。またこれらの建造物の西側には大池を掘り、その南側に風呂の茶屋、北側に竹の茶屋、さらに東側に京都の清水寺を模した観音堂があり、南へ進むと小高いところに傘の茶屋、さらにその南にいろはの茶屋、西へ赴くと達磨の像を安置した安心堂があった(垂憲録)。
 この堂宇の回りに池があり、これに橋が架けられていて、吟松庵に赴く通路となっていた。またこの間に東海道五十三次の駅を模した風景が作られた。なお吟松庵は定行の弟定政(法名不白、不伯とも書く)の隠居所として建てられたもので、庭は千宗庵の設計により、中国の金山寺および八十八谷を模して樹木を植え込ませた。また池を掘って湖に仕立て、池中に蓮を植えさせた。また吟松庵には、春夏秋冬の気候を表現した各種の庭があった。南庇に月見台が設けられ、八月一五日の夜はここで月見の宴が開かれた。

 このころ、花畑と称するものは、吟松庵における東西一町・南北三町半の花園をはじめとして、

 石手御花畑 東一一五間・西一三〇間・南一七九間・北一三八間
 藤原御花畑 東七一間半・南七〇間半・西七一間半・北七〇間、池二つ蓮あり東杉林也
 正宗寺裏御花畑 北六一間半・東四一間・南二八間・西六六間半
 道後御茶屋 南二〇間半・東九間半・北二一間半・西四五間、池の長さ七間二尺・横四間などが存在した(垂憲録拾遺)。

 東野茶屋の建設に当たって注目すべきことは、もとこの地域が野原で雑草が繁茂していたため、定行は庭手代の森長彦兵衛の意見を用い、近傍の桑原村から一〇八人の農民を動員して、ここに新田を開発させたことである。その広さ六町三畝二六歩に及び、石手川の湧ヶ淵の下に堰を設け、これから新田へ水を導入した。この堰を横井手といい、さらに東野に至る間に三つの池を構築したので、旱魃時にも水の不足することはなかった。
 東野茶屋の工事開始の翌年、すなわち万治二年(一六五九)、定行はこの地に移ったが、その完成は三年のちの寛文元年(一六六一)のことであった。定行は六月八日に剃髪して松山と号したが、のち勝山と改めた。

 殖産興業

 定行は殖産興業に意を用い、同年一〇月に鶉五六〇羽を和気郡に、翌二年一月に一〇〇羽を溝辺村に、翌三年にも鶉を放った。また広島から牡蠣七〇俵を取り寄せ、海辺に放流した(垂憲録拾遺)。また松前浜が干潟で泥海となるので、定行は旧領地の桑名から白魚を取り寄せこの浜にまいたので、白魚が群棲して松前の名産となるに至った(伊予古蹟志)。さらに浮穴郡久万山地区が山岳地帯であるのに着眼し、宇治から茶種を取り寄せ、これを栽培させた。これから茶がこの地域の名産となった。
 定行は寛文八年一〇月一九日に東野別荘で逝去した。時に八二歳で、松山藩政を見ること三五年、隠退生活一一年であった。葬儀は二四日に執行され、遺骸は祝谷村の常信寺に埋葬され、法号を真常院殿前侍従道賢勝山大居士といった(垂憲録拾遺)。

 定頼の治世

 定頼は定行の嫡男として、慶長一二年(一六〇七)に掛川城で誕生し、幼名を千松と称した(松山年譜)。寛永三年(一六二六)に従五位下・河内守となり、正保三年(一六四六)に初めて領国の松山に入った。翌四年七月に、父定行と共に長崎港警備に赴いたことがあった。
 万治元年(一六五八)二月に、定行が隠退したので、松山城ならびに一五万石の領地を継承した(三田村秘事録)が、引き続き長崎警備を命じられた(松山年譜)。翌二年従四位下・隠岐守に任ぜられたと伝えるが、『松山年譜』ではこれを寛文元年のこととしている。この間において松山に大火があり、万治二年一〇月に同心町より出火し六三六軒、翌三年一一月に二〇二軒が類焼した。同年六月には久万町で一三六軒が焼失している(本藩譜)。寛文元年(一六六一)一〇月に、重要な道路である三津縄手に松杉三〇〇本を植え、三津から城下町に出掛ける往来者に便宜を与えた(垂憲録)。
 翌二年一月二二日に定頼は、三田中屋敷の馬場で落馬し、そのために逝去した。時に五六歳であって、家督を継いでからわずかに五年であった。遺骸は火葬のうえ江戸済海寺に葬られた。法号を乾光院殿前四品最厳阿尊道英大居士といった(増田家記)。

 松平定長の継承

 定長は定頼の二男として、寛永一七年六月一七日江戸に生まれ、幼名を万千代・虎千代といった。万治元年に従五位下・兵庫頭、のちに石見守に任ぜられた。寛文二年一月二二日に父定頼が逝去したので、三月二五日に遺領一五万石を受けた(松山年譜)。同年七月はじめて帰国し、一一月には藩領を巡回した。
 翌寛文三年(一六六三)四月一三日に将軍家綱が日光東照宮に参詣するので、その留守中江戸城の警備を命じられた(垂憲録拾遺)。一方松山では、久万山日浦村の農民と庄屋との間に紛争が起こったので、家老長沼吉兵衛宅において双方から各自の主張を聴取した結果、村の会計を農民側に明示するように申し渡した。『垂憲録拾遺』によると、「以後此類多し」と記載しているので、農民と村役人の間で村落の会計にかかる紛議が少なくなかったことがわかる。五月二二日に石手花畑の普請ができあがった。『松山俚人談』によると、この地には加藤嘉明の時、他国よりの使者を宿泊させる館があったが、定長は矢野五郎右衛門に命じて詠覧所等の建造物を新築し、また二笑庵(溝口玄哉)に興福寺の庭園を造らせたと伝えられる(松山俚人談)。
 寛文三年(一六六三)は旱魃であり、各地で雨乞いが実施された(本藩譜)が、八月を過ぎて稲作の検見を藩の全領域にわたって実施した。久米・風早郡へは中島又右衛門・太田八右衛門・高崎杢右衛門・尾崎庄左衛門、和気・野間郡へは奥平藤左衛門・林喜左衛門・大塚三右衛門・尾崎九郎兵衛、伊予・周布郡へは奥平三郎兵衛・松下宗悟・野田五左衛門・尾崎四郎兵衛、越智・浮穴郡へは水野吉左衛門・戸塚六右衛門・中野平太夫・小田彦左衛門、温泉・桑村郡へは山田喜兵衛・中野日忠・小崎新左衛門・佐島平右衛門を派遣した。この年の貢租の未納額は三分の一に及んだ(垂憲録拾遺)。また一〇月二七日に城郭の太鼓櫓から二ノ丸下尾谷門脇の渡塀二五間か一大音響とともに崩れ落ちた(本藩譜)。

 魚市場の規定

 三津浜は魚介類の集散地であったから、浜辺で魚類の売買が古くから行われ、元和二年(一六一六)に下松屋善左衛門がその仲介業に当たったとの伝承がある。この地では、一般に漁夫から直接に魚を買い求めるために、価額の相違、あるいは魚類の争奪による紛議が起こり、常に怪我人が出る始末であった。藩庁ではこれを是正するために、寛文三年一一月に三津肴問屋を作り、これらに売買を掌らせることにした。矢野作右衛門・同十右衛門・唐松屋九郎兵衛らを問屋に任命し、藩の定めた三か条の規定について神文を出させて誓わせた。これで魚類売買の騒動はなくなったが、値段については紛争が続いたので、翌年三月に売買に当たっては、隠し言葉を使わせたので、紛議は遂に消滅した(草庵日記・垂憲録拾遺)。
 この当時、歩行町・一万町は下級武士の住宅地であったが、町並に広狭があり、かつ不揃いであって見苦しかった。藩庁では歩行町のものには道後藪・湯山より竹類を、一万町の家へは銀一二匁を与え見繕いをさせた。しかし、この支給品も一戸当たりは極めて少額で、効果があまりなかったので、寛文三年一二月に池上七郎左衛門に銀五貫目を与えて町並の出入・高低を直させた。そのためこの地区は面目を一新することができた(垂憲録拾遺)。
 定長自身は寛文三年一二月従四位下に叙せられ、翌年二月に隠岐守に任ぜられた。五月に温泉郡吉田村の新田の普請ができあがった。翌五年一二月に藩庁では今までの未納の米穀一九万八、五七〇俵を破免した(垂憲録)。翌六年かねてから松山藩の預かり地となっていた宇摩郡三か村七二二石五斗九升一合を、幕命によって一柳直照(宇摩郡津根八日市に居住)に譲渡した。また、父祖以来松平家に忠節を尽くしていた服部保元を桑名より引き取り、七〇〇石を与え、大名分扱いとした。

 伊佐爾波神社の社殿造営

 定長は同四年六月に、式内社として有名であり、かつ地方民に崇敬の厚かった道後の伊佐爾波神社の社殿造営工事を起こした。その由来については、寛文二年春に将軍臨場のもとに、江戸城内で大名衆射礼が行われた際、定長が出場するに当たって八幡宮に祈願し、無事に目的を達成し得たならば、石清水八幡宮のような社殿を造営すると誓った。定長の放った二本の矢は、見事に的に当たったので、ここに同社の造営を断行したとの説話がある(垂憲録拾遺)。
 総奉行に竹村長左衛門、普請奉行に早水八左衛門・勝田金兵衛・田中与左衛門・砂川仁兵衛・滝助之丞らが任ぜられてこれに協力し、大工は六七九人であって、延人数は六万九、〇一七人であった(本藩譜)。この工事は三年のちの寛文七年五月一五日に落成して、盛大な遷宮式が行われた。この式には、社人役人八五人のほか二〇人が勤め、家老竹内信重が代参した。
 この社殿は石清水八幡宮を模して造られ、柱に金箔を施し、銀製の樋を使用し、誠に豪華絢爛たる建造物であった。その様式は、宇佐・石清水八幡宮などに見られる八幡造であった。八幡造はもと平安時代に、寺院建築の影響によって発達したもので、これに鎌倉時代に中国から伝来した唐様が加味されるようになった。その前方に向拝のついた拝殿を設け、本殿を相の間で連絡し、両者に接してできあがった谷の部分に太い樋を通している。したがって、正面または背面から眺めると、神明造の一社のようであるが、側面に回ると同じ形式の建物が並立した感がある。
 本殿はその後も修理されたけれども、江戸時代初期の面影を伝えているばかりでなく、あらゆる点に桃山時代の雄渾で豪華な様式をうかがうことができる。この建造物が竣工した当時、その壮大さにどんなに地方の人たちが眼を輝かせたかは、私たちの想像以上のものであったに相違ない。本殿は昭和三一年(一九五六)六月二八日、国の重要文化財に指定されたが、破損と白蟻による被害が大きかったので、解体修理が行われ、同四三年五月末日にその工事を完了した。

 定免制の実施

 このころ重臣として功績をあげたのは、奉行中島又右衛門であろう。寛文ころまで郡の法制も整備されないため、わがまま勝手な訴訟―直訴―をして奉行の命に従わず、納税不能に陥る場合もあった。彼はたびたび回郷して、積極的に農政の指導に当たり、また彼らの経済的な苦脳をも理解し、細心の注意を払ったので、社会も安定するに至った。さらに又右衛門について留意すべきは、石田七郎兵衛の協力を得て、定免制を断行したことであった。定行就封の翌年(寛永一三年=一六三六)以来、検見取が実施されたが、寛永二〇年・明暦元年(一六五五) をはじめとして、寛文三年以来の旱害による凶作が続き、同五年(一六六五)には累積された未徴収米一九万八、五七〇俵の破免を強行しなければならなかった(垂憲録)。
 この難局を克服するため、又右衛門は定免制を復活し、同七年から実施した。又右衛門らの努力にもかかわらず、定長晩年の延宝元年(一六七三)に至って、未進米・貸付米の合計が二二万八、八二九俵に達した。それは藩の歳入の一年分に相当するものであった。藩当局では予期した効果もあがらなかったので、延宝元年の大雨を契機として定免制を廃止した。
 このころ、讃岐に赴くものは海岸伝いに今治に出て、南下して小松を目指して、いわゆる金比羅街道を利用していた。矢野五郎右衛門は、寛文七年に松山から東進して小松に出る中山街道に桜樹八、二四〇株を植え、従来の細道を大きくし、交通の便を図った。それからこの道が使用されるようになり、俗に桜三里といわれた(古実談)。しかし『垂憲録拾遺』には、これを貞享四年(一六八七)すなわち次の定直時代としている。

松平定行霊廟の建造

 寛文七年八月二二日に、味酒神社の遷宮式が行われ、同九年に社領二〇〇石と神馬一匹が寄進された(津田家記)。味酒神社は古く阿沼美神社といい、式内社であった。また寛文八年一〇月二二日に藤原町から出火し、一〇八軒を焼失した。同一〇年二月七日、預かり地の周布郡のうち一か村、宇摩郡のうち六か村、合計四、六二八石六斗五升余を西条藩主松平頼純に引き渡した。頼純は和歌山城主徳川頼宣の二男で、左少将・左京大夫に任ぜられ、寛文一〇年二月に西条三万石に封ぜられた。『伊予日記』によると、旧西条一柳直興の遺領二万五、〇〇〇石と宇摩郡の預かり地五、〇〇〇石を領有したこととなり、寛文六年の「御預地伊予国宇摩郡の内三ヶ村高七百二十二石五斗九升一合一柳半弥直照公へ知行渡致可様」および同一〇年の「御預地伊予国周布郡の内一ヶ村宇摩郡の内六ヶ村四千六百二十八石六斗五升九合松平左京太夫頼純公へ知行渡仰付被」とある『松山叢談』の記事と差異がある。この時、幕府から本間五郎左衛門が西条に、松山藩家老小出四郎兵衛・奉行吉田十郎右衛門らは宇摩郡へ赴いて、引き渡しを完了した。
 翌一一年に大洲藩領となっている替地について、松山・大洲の両藩民の間に紛争があったが、伊予郡のものは無札で大洲領に入って、草刈りをして良いこととなった(本藩譜)。また同年に常信寺境内に定行の霊廟が落成した。この建造物は円柱を用い、屋根は入母屋造・本瓦葺、出組三手先、一部に唐様をあしらっている。江戸時代初期の霊廟建築を代表する建造物で、いまは県指定の史跡である。
 このころは石手川の堤防が整備されていなかったため、大雨の時には氾濫して、その被害は少なくなかった。ことに延宝元年(一六七三)の出水には、六月一七・八日ころから雨天が続き、二七日の夜堤防が切れて代官町辺りまで水びたしとなり、水かさば増す一方であった。人々は、堀の上手に畳を運んで難を避けるものが多く、一時大騒動となった(垂憲録拾遺)。

 定長の逝去

 延宝二年一月二一日、定長は病気で倒れ、男子がなかったので、今治城主松平定時の嫡子鍋之助を養子に迎える旨の願書を幕府に提出した。定長は養生の甲斐もなく、二月一二日に江戸の三田屋敷で逝去した。時に年三五歳で、治封はわずかに一三年に過ぎなかった。遺骸は火葬のうえ江戸済海寺に葬られ、法号を天鏡院殿前四品寂翁月昭大居士と称した。三月一〇日に、分骨を松山大林寺に納めた(本藩譜)。

図2-1 松平氏略系図

図2-1 松平氏略系図


表二-1 松山藩初期の家老

表二-1 松山藩初期の家老


表二-2 松平定行時代大番頭

表二-2 松平定行時代大番頭


表二-3 十人番頭時代の組員数

表二-3 十人番頭時代の組員数


図2-2 松山藩領図(幕末)

図2-2 松山藩領図(幕末)


表2-4 寛文四年松山領石高、慶安元年諸郡石高・新田高

表2-4 寛文四年松山領石高、慶安元年諸郡石高・新田高


図2-3 東の御茶屋配置図(『ふるさと桑原』所収図を改変)

図2-3 東の御茶屋配置図(『ふるさと桑原』所収図を改変)


図2-4 松山藩主系譜

図2-4 松山藩主系譜