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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

1 藤堂高虎時代

 今治城を築く

 藤堂高虎は関ヶ原の戦功で板島八万石の城主から二〇万石の大名となって国府(分)城に入城した。国府城は河野氏の築くところ、かつての伊予国府に近く要害の地であったが、高虎はこれを捨てて海沿いに約五㌖北方の蒼社川(総社川)左岸の、現在の今治市の地を選んだのであった。『聿脩録』に「(慶長五年)十一月十八日、大神君(徳川家康)、功を論じ公に十二万石を益封せらる、旧を併せ二十万石、伊予半州を有つ、国府城を撤し、移して今治に築く、」とある。高虎はすぐれた築城家だったから要害の地とはいえ、河野氏の一支城にすぎない国府城では満足できなかった。すでに彼のライバルの加藤嘉明は半年前に伊予郡松前城を見捨てて道後平野の中心、勝山の地を見立てて新城建築に着手している。彼の目ざすところは海、とくに芸予諸島中心の制海権を握ることにあったと考えられる。瀬戸内海交通の要路、来島海峡を扼して対岸の大島ににらみをきかせるために国府城では離れすぎる、だからといって海峡に近すぎては潮流が激しくて利用できない。
 今治の地はもと今張と呼ばれていた。本来、今墾を意味し、遠浅海岸を埋め立てた新開地で、ここはまた「小田の長浜」とも呼ばれ、人家の疎らな漁村であった。高虎はこの地に着目して城普請を始めた。今治と命名したのは藤堂高虎とも、また松平定房治世の慶安年間(一六四八~五二)のことともいう。
 縄張は増田長盛の旧臣で軍略家として知られた新規召し抱えの渡辺勘兵衛が当たった。二万石で召し抱えたとき加藤嘉明が、自分なら二〇〇石取りを一〇〇人抱えるといったところ、高虎は平侍の一〇〇や二〇〇を破るのは容易だが、勘兵衛の名前を聞けば敵がたじろくから高禄でも効果が大きく、それだけの価値があると答えたという話が残っている。城地は海浜に吹き上げられた自然砂丘を利用して構築したので吹揚城ともいう。城の規模は城内約五町半四方、城外約八町一六間四方、中央部に本丸と城主の居館をもつ二の丸を置き、これを内まわり五七二間半、幅三〇間の内堀で囲んだ。その周辺に上級武士屋敷・櫓・門などを置いて長さ七八〇間、幅二〇間の三の丸堀で囲み、さらに外側に下級武士屋敷を置いて、幅八間の辰ノ口堀で囲んだ。このように堅固にめぐらされた三重の堀に海水を引き入れ、三の丸堀の北には広い船溜りを置いた。
 本丸は東西四三間、南北四二間、石垣の高さ八間、櫓数四、二の丸は一段低くつくられ東西七〇間、南北六三間、石垣高さ六間、櫓数三で、本丸・二の丸・三の丸の櫓数一九、うち一二までが海に面して造られた。二の丸東門を大手とし、門外の東町に組屋敷を置き、三の丸北門を搦手とし、城門を九か所に配した。
 今治城の特徴はこのように、あらゆる面で海を意識したその縄張りにあった。今に残る内堀に囲まれた本丸の部分は海上から見ると海に浮んだ要塞のように見える。そのため人はこの城を「日本のゼーランディア城」ともいう。ゼーランディア城とは寛永元年(一六二四)にオランダが中国、日本との貿易仲継地として台湾を占領して台南の地に築いた要塞のことである。朱印船貿易の盛んであったころ、寛永五年五月二八日に、長崎代官末次平蔵の持ち船である末次船の船長浜田弥兵衛がオランダ長官ピーテル=ヌイツの不法をなじり、これを捕え人質として屈服させたという有名な話の残る場所である。当時日本とオランダは中国商人の運んでくる生糸・絹織物と、島産の鹿皮の買い入れについて争っていたのであった。
 土木工事に従う普請奉行には木山六之丞が当たった。地がためから石材の掘り出し、運搬、石垣築造など、多くの農民を使役した。石材は国府城から運び、さらに越智郡の島々や乃万地区の墓石・供養塔まで徴発したという伝承がある。六之丞が労務者たちを励ました歌が、今も「木山音頭」として残っている。

 伊予の今治みすかの城を、築きあげたるその名も高き
  サノエンエノエン ヤトナー                 
 木山六之丞はなぜ色が黒い 笠がこまいか(小さい)横日がさすか
  サノエンエノエン ヤトナー
 笠はこもない横日もささぬ 木山通いすりゃ皆色黒い
  サノエンエノエン ヤトナー

 さて高虎は今治城の中心に天守閣を造ったかどうか。江戸時代の図にもまた明治初年の城郭跡にもそれらしいものがないので、松平氏の治世には天守閣はなかったと考えられる。
 では高虎の築城の時はどうだったのであろうか。

 「宗国史」(官延四年(一七五一)藤堂高文撰 藤堂高虎に始まる藩主の事績・政治経済を記す本編外編三二冊)の今治城建設の条に次の重要な記事がある。「城中に五層の高楼を建て、府下に五街を開き工商居る、街の長さ各五町云々」とある。築城の名手といわれる高虎が今治城を新築し、天守を造らぬはずはない。伝えるところによると高虎は転封に際し、今治新城の建造物を解体して新領地に運んだという。天守の資材も大坂まで送りつけたが、その時期に徳川家康から丹波亀山城を急造するように命じられた。高虎は「今治の天守閣を献上したい」と申し入れて家康を喜ばせ、高虎に普請の指揮をとらせたという。同書慶長一五年(一六一〇)の条に、家康が「夏六月、丹波亀山城を修す。公督役、公今治城天守楼を献じ之を亀山に建つ。秋七月六日、大将軍(家康)書を賜り犒賞す」とある。
 今治市は昭和五四年に市制六〇周年を記念して五層六階の天守閣を再建した。再建というのは「宗国史」の記事を原拠とし、明治一〇年、亀山城天守閣の取り壊し前の古写真をもとにして建造された意味である。

 城下町

 今張町の町割りは慶長八年(一六〇三)二月から始められた。城地の北は外堀で区画し、それ以北に四町四方の農地を整地して排水路・防火・非常時の井戸・洪水防止等を考慮に入れている。町の中央に本町を置き、海岸へ向かって風早町、中浜町、片原町、陸地に向かって米屋町、室屋町と六町を配し、各町を一丁目から四丁目に分け、各丁は長さ六〇間(約一〇九メートル)、幅三〇間(約五四メートル)の短冊型とし、また道路は本町のみ二間半(約四・五メートル)、他は一間(約一・八メートル)としている。
 城は慶長九年九月に一応完成し、同一三年に入城したが、その八月に高虎は伊勢国(三重県)に転封となり、伊賀一国と伊勢八郡を領し、二二万九〇〇石余を与えられ、津城を居城とした。
 その後、高虎は大坂両度の陣に一族将士を率いて出陣し、戦後伊勢四郡のうち五万石を加えられ、従四位に叙せられて都合三二万三、九〇〇石となった。寛永二年(一六二五)一一月侍従に進み少将となり、同七年七月一五日没、七五歳であった。
 高虎の略系を見ると実子は晩年に得たが、戦場馳駆の間は有能な一族に恵まれていた。朝鮮の役から関ヶ原、大坂の陣に戦場で辛苦を共にした高刑は姉の子(甥)であり、良勝は叔父良政の子(従弟)で幼少で孤となり白雲に育てられ、実弟のごとく育った。高吉は丹羽長秀の子、勇武のほまれ局く高虎は実子高次を得るまでは世子のごとく扱っていた。
 寛永二年八月三日付、二代高次に与えた一九か条の遺訓というもの(宗国史外篇七巻)がある。その中から主なものを挙げると、

 一御奉公油断あるまじき事
 一弓鉄砲馬以下、家職の道忘るべからざる事
 一身の分限程に万事その沙汰あるべき事
 一振舞にむさと参るまじく候、但斟酌成らざる所へ参り候はは長酒無用の事
 一大事の御国を預りある事に候間、万事油断仕るまじき事
 一算用の道知らざるものは諸事につけ悪しき事に候、常に心懸申すべく候事
 一朝は燈にて髪をゆひ用所申付べく候、晩は五ッ(八時)を限りに休み申すべく候、我等小身より辛労致し今の身上に罷成り渓間、苦労とも存ずまじき事

 藤堂家の永世存続を希い、子孫のため自らの体験を通して遺訓を残した。豊臣から徳川へと転身が早く権力志向型で、福島や両加藤のような武辺一途の朋輩武将からは快く思われなかったが、自力で三二万余石の大大名となり、外様大名でありながら、幕府の枢機に参画し、準譜代の如き地位を得ている。遺訓の中で注目されるのは、算用の道を重視していることであろう。
 藩政上の諸経費、江戸滞在費、軍事費、その中には軍役、城普請、課役などもあろう。はからざる災害も考慮しなくてはならぬ。財源と支出の勘定が速やかに出来る能力は何時の世にも必要であるが、それは近世となって時代の下ると共に重要となったが、その平和の世を見通すかのように述べているのは卓見というべきであろう。彼は優れた築城家で、幕府でもその才能を高く買われ、伏見城・江戸城・丹波篠山城・大坂城などの新築・改築に参画している。こうした特技は宇和島・大洲・今治などの自分の城を多く手懸け、また家臣渡辺勘兵衛らに学ぶところもあったのであろう。縄張りという基本設計は城の工学的・軍事的機能を理解していなくてはならず、その基礎は算用の道に通じていたことにあるであろう。

 拝志騒動

 慶長九年(一六〇四)七月、高虎は駿府にいる家康に伺候しており、今治城には藤堂高古が留守居をしていた。高吉は主君に中元の挨拶をするため星合忠兵衛を使者に命じ、本人も明朝発足仕るべしとて宅に下ったところ、傍輩の小者太郎兵衛(苗字不明)という者がかねて忠兵衛を恨むことがあってこれを斬り殺し、鷹匠の彦太夫の助けを得て拝志に隠れた。拝志は今治城下より一里半東にあって松山城主加藤嘉明の支城があり、城代として嘉明の弟内記がこれを守っていた。
 高吉は翌七月一四日に淵本権右衛門と弟馬左衛門に太郎兵衛の探索を命じた。両人は鷹匠彦太夫を案内に立てて拝志に赴いたところ、彦太夫は先頭に立つ権右衛門を斬ろうとしたため、弟の馬左衛門が一刀のもとに彦太夫を斬り捨てた。これを見た拝志の町人たちは、今治の侍が来て拝志の者を斬ったと思い違いをして騒ぎ立てたので、淵本兄弟は回り道をして今治に帰り、この由を高吉に報告した。高吉は拝志に一言断りをさせるべく、渡辺庄左衛門(高四〇〇石)を拝志に遣わしたところ、拝志の町与力五右衛門(苗字不明)という者が待ち受けており、馬上ながら渡辺が断りの挨拶するのを聞き入れず、拝志城の門前で馬上の渡辺を槍で突き殺した。供の者が走り帰ってこの由を伝えたので、高吉は怒って馬回りの侍共を連れ、領分境の絹乾山(現今治市衣干町か)まで出張ったが、重臣友田左近右衛門が後を追い、かかる時に公儀を軽んずる所業と色々なだめたため、高吉も今治に引き返した。この次第を駿河の高虎に報じ、高虎・嘉明は夫々幕府に訴え出た。この訴訟は高虎の勝ちとなり、加藤内記は薙髪して京都嵯峨東福寺に入り、五右衛門は切腹を命じられて落着したが、高虎は高吉を大洲の奥の野村(現東宇和郡野村町)に三年蟄居させた。事件のとき高吉は二六歳であったが、蟄居ののち、大洲に出仕している(「宗国史」・「高吉公御一代之記」)。
 なお、「宗国史」によれば、関ヶ原後は伊予一国四〇万石を加藤と藤堂が中分して領治していたが、二人は不仲で、そのことが家中に及び、しばしば紛争が起こっていた。松山では川村権七が、板島では友田吉家が謀主とされていた。土民が板島で罪を犯せば松山に逃れて匿われ、松山の土民も板島に逃れて同様であった。年貢過重と称して互いに逃避し役人も制止出来なかった。藤堂方の灘の城(伊予郡)は松山城から西二里にあって、境上多事のため板島の藤堂良勝が守っていた。ある時、姦民が人妻をさらって松山に奔ったと聞き、良勝は押取刀で馬を駆して松山城正門前で追いつき、姦夫の首を斬って帰ったこともあった。その後、灘の城は風雨に損じ遂に廃城となった。新たに今治城ができ、拝志の事件もあって藤堂家の友田吉家も京に去ったという。

図1-15 今治帳縄張図

図1-15 今治帳縄張図


図1-16 今治町割図

図1-16 今治町割図


図1-17 藤堂氏略系図

図1-17 藤堂氏略系図