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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

4 松山城在番時代

 松山城の在番

 忠知は三〇歳の若さで死去し後嗣の子も無かったため、蒲生家は断絶した。そのため松山へは幕府から城請け取りの上使として奏者番松平出雲守勝隆・使番川勝丹波守広綱・同跡部民部良保・勘定頭曽根源左衛門吉次が派遣された。また松山城在番として大洲城主加藤出羽守泰興・備中成羽城主山崎甲斐守家治・丹波福知山城主稲葉淡路守紀通が任命された(大猷院殿御実紀第二六)。次の城主松平定行の入部は寛永一二年(一六三五)七月であったので、それまでの城主なき松山藩の一一か月を、松山城在番時代とする。

 大洲領との替地

 在番を命じられた大洲城主加藤泰興はかねがね松山領に囲まれた桑村郡・風早郡の飛地の不便に悩まされていたので、この機会に松山領との交換をして大洲と地続きの地を得ようと考えて幕府に願い出た。城請け取りの幕府使番川勝丹波守は加藤家家老の大橋作右衛門とは旧知の間柄であったので、この交換は大洲側に好都合に運び(「温故集」巻二)、江戸において事務的に地図の上で行われた。領地の変更は次のようである。

 1、松山領となった村
  桑村郡一四村  六千四百十一石一斗一升四合
  風早郡四三村余 七千百六十七石三斗九升一合
    計五七村余 一万三千五百七十八石五斗五合

 2、大洲領となった村
  伊予郡一七村  一万四百四十石一斗六升
  浮穴郡二〇村  三千三十二石五斗八升五合
    計三七村  一万三千四百七十二石七斗四升五合

 もっとも、この時点では村数・村名・村高もこのように整然と扱われたわけではなかった。これは一四年後の「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」によって作成したものである(桜井久次郎「大洲藩替地問題論究」)。

図1-14 替地前後の状況

図1-14 替地前後の状況


表一-16 替地諸村村高

表一-16 替地諸村村高