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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

1 加藤嘉明時代

 嘉明の来歴

 加藤嘉明(一五六三~一六三一)は松前城主から松山に新城を築き、松山城下町を建設し、伊予在国三一年という愛媛県に縁の深い武将である。嘉明、又の名を茂勝ともいい、幼名を孫六、左馬助と称し、永禄六年(一五六三)三河国幡豆郡永良郷(愛知県西尾市)に生まれた。父は岸三之丞教明。少年のころ父に従って近江国に出て羽柴秀吉に仕えた。幼少から騎馬に長じたため秀吉の臣加藤景泰に知られ、その養子となる。天正四年(一五七六)播磨征伐以来、秀吉の股肱となり、同一一年四月、賤ヶ岳の戦いに七本槍の一人として勇名を馳せ、禄三、〇〇〇石を得た(加藤嘉明公伝)。時に二一歳であった。
 天正一二年から一三年にかけ、尾張長久手から紀伊根来雑賀の役、また四国征伐には小早川隆景の部将として伊予を攻め、功により従五位下左馬助に任ぜられ、同一四年一一月、淡路国で一万五、〇〇〇石を受け、志智城に入った。
 同一五年九州征伐、同一八年小田原征伐に従軍、舟師を率い伊豆国下田城を陥れた。文禄の役では一柳・藤堂氏らとともに船奉行として壱岐に渡って警固に当たったが、海戦では李舜臣の朝鮮水軍のため苦戦した。文禄三年(一五九四)講和内約で一月二八日帰朝、戦功を賞されて、二月二〇日付淡路国岩屋郡で一、七〇〇石加増され、同四年七月伊予国正木(松前)に転封六万石を領し、浮穴・和気・温泉・伊予の各郡内で合わせて四万石余の蔵入代官を命じられ、翌慶長元年(一五九六)には伏見向島留守居役に任ぜられ二万二、〇八七石の在京料を与えられるなど(水口、加藤家文書)、秀吉子飼いの部将として信任を得ていた。
 翌慶長二年の朝鮮再征では七月一五日、唐浦沖で家臣河村権七郎・佃十成・塙団右衛門らを率い、敵の番船一六〇艘を捕獲し、沿海一五里の間の敵船を焼却した。この時、嘉明は藤堂高虎と軍功を争い、軍監がこれを裁許して高虎の勲功第一としたが、嘉明は不平が収まらず、以来両者は不和となったという。

 石手川の改修

 松前城主六万石の加藤嘉明は、慶長三年朝鮮再征の功によって一〇万石を与えられ、同五年の関ヶ原合戦には東軍にくみして家康から二〇万石を与えられ、伊予半国の大名となった。
 さきに土木に長じた家臣足立重信によって松前城の拡張工事がなされたが、この城は伊予灘に沿うため風波が荒く騒がしく、櫓の倒れるおそれさえあったので、二〇万石の大名にふさわしい広大で静穏な城地を道後平野の中に求めることになり、重信らにその候補地を探させた(資近上一-99)。
 まず挙げられた候補地は、当時勝山と呼ばれていた今の城山(海抜一三二メートル)と、御幸寺山と天山の三か所であった。中でも勝山は味酒郷の中心をなす孤立丘陵で、周囲に城下町を造成するにふさわしい平地があって第一候補地とされたが、その欠点は湯山川という荒れ川が東北から流れ込んで山裾を洗っていることで、この川筋をつけ替えぬ限り、城地としては不適格であった。改城を決意した嘉明は慶長六年三月五日に松前から出船して江戸に赴き、家康に謁して改城の許可を得ている(予陽郡郷俚諺集)。
 重信は築城の準備として、嘉明に進言して湯山川の流路改修に着手し、城下町の土地造成をはかると共に、この水を近郷の灌漑用水に充当しようと計画した。湯山川というのは現在の石手川のことで、北三方ヶ森(九七七・六メートル)の南山腹に水源を発し、湯山地域を西南に流れ下って道後平野に流れ込んでくる。平野に入ってからの流路は岩堰のやや上方から石手寺の前を過ぎ、現在の湯渡から持田の中央を流れて、勝山町から二番町を経て西に向かい、古田浜に出て海に注いだようであるが、流路が一定せず、一雨ごとに流れを変えて、雨期にはかならず氾濫し、水田を押し流していた。
 重信の石手川改修工事は慶長五、六年のころと推定される。口碑によれば彼はまず岩堰に立ち塞がる数十間の岩盤をきり開き、ここから流路を南西に向けてゆるやかなカーブで開通し、余戸で伊予川(重信川)に合流させることを計画した。
 この工事は岩堰の開さくで最も難渋したと伝えられる。工具としては石のみと鎚だけで堅い岩盤と取り組むのであるから、工事は遅々として捗らない。人夫は疲れ、重信にも焦りが出てくる。口碑に「石くず一升に米一升」という言葉が残っているが、石くず一升掘った労賃として米一升を与えることにしたという。こうした励ましが功を奏し、ようやく岩堰の掘抜きが成就したというのである。
 岩堰から石手川が伊予川に合流する出合までの約二㌖の両岸には高くて堅固な堤防を築いて流路を一定し、竹木を植えて耐久工事を施した。これが今の石手川堤防で、これによって城下町を建設する安全な平地を得た。これはまた城郭の東南の防御線ともなった。
 この新流路の開通によって旧河道を埋めて数百ヘクタールの水田を得たが、それは新流路開設によって失った田地を差し引いてなお三〇〇余㌶を増したと伝えられる。また新川開通とともに数十条の水路を開いたため灌漑の便を増し、石手川の水がかりの水田面積は三、〇〇〇ヘクタール、産米一〇万石といわれるほどの恩恵を与えた大土木工事であった。

 松山城を築く

 築城工事にさき立つ石手川改修工事が成功を収めたので、嘉明は改めて重信を普請奉行に任じ、慶長七年(一六〇二)正月一五日を卜して築城工事を開始した。
 はじめ城山は南北二つの峰から成っていたので、これを一つにするため両峰の山頂を削り、間の谷を埋める作業から始められた。そしてこの谷間にあった井戸を守り立てて周囲を下方から積み上げて、城の井戸とした。こうして得た城山の山容は、東南部が緩傾斜で北部は切り立った断崖をなしていた。
 この頂上の広さは約一〇六アールで、これを「本丸」とした。本丸は南北に長く東西に短いが、北部は最も広く、この北峰を削った跡の堅固な岩盤へ五層の天守閣を営み、小天守・隅櫓を備える連立式の城郭とした。また天守閣を中心として南に筒井門・隠門・太鼓櫓・太鼓門・東北に艮門、北西に乾門・乾櫓を配し、櫓と門とを土塀で結び、本丸の備えを固めることにした。
 平山城としてのこの城山の比高は約一〇〇メートルでその上に載った五層の天守閣を中心とする楼門は堂々たる威容を備えていたと思われる。城山の北部は聳立して高石垣と呼ばれて堅固に囲まれ、北方から敵に攻め込まれるおそれはない。城の正面はゆるやかな東南部で、大手門・筒井門その他が坂の途中にある。
 つぎに城山の西南麓に二の丸(約一五八アール)を置き、さらに西の平地に三の丸(約九〇九アール)を設けた。ここが城主の居館で、政庁がおかれ、またそれを中心として上級武士の屋敷を置いた。そのためまわりを防御の堀で囲み、この一画を「堀之内」と称し、現在もその名を残している。
 さて石垣のほか櫓や門の中には湯築城や松前城の遺構を利用したものも少なくなかったらしい。現存する乾櫓や、昭和二四年に焼失した筒井門などは松前城のものを、そのまま移築したものであった。
 松前城下に住む「売魚婦」が、頭上に魚桶を載せて松前城から勝山へ、多くの荷物を行列をなして運んだという口碑が残っており、今日この魚桶を「ごろびつ」と呼ぶのは「御料櫃」のなまったものという。
 「売魚婦(おたた)」たちは。

   長いものぞナ松前のかずら、蔓は松前に葉は松山へ
     花はお江戸の城で咲く

と歌いつつ作業にしたがい、嘉明夫人も路上で握り飯を配って、その労をねぎらったと伝えている。
 城郭の屋根瓦は土産の菊間瓦を使用したと思われる(資近上一-101・102)。また重信はこの山上に瓦を運ぶために、近郷の農民を動員して、三方からずらりと行列を作らせ、リレー式に手送りをさせたと伝える。その能率のよさはおびただしい枚数の瓦の運搬がわずか一日で終わり、嘉明を驚嘆させたという。
 城の工事と併行して、城下町の地割が行われた。勝山の麓の「堀之内」はじめ南東部を武家屋敷とし、六月一日から西北部に商家の地割をはじめた。靍屋町・松屋町から亀屋町・竹屋町と割り三〇町に及んだ。内二〇町は嘉明自身が、一〇町は家老佃十成が割ったという(予陽郡郷俚諺集)。また北部に寺院を配する計画にした。
 こうした城郭と武家屋敷、町屋があらまし出来た慶長八年一〇月に、嘉明は家臣・町人たちを引き連れて、伊予郡松前町から新城地に移り住んだ。ここを松山と名付けたのは若松・松代・松江・高松などと同様に家康の姓松平氏にあやかり「松」を祝して、繁栄を願ったものといわれている(予陽郡郷俚諺集)。いま松山市の中央、海抜一三二メートル(比高約一〇〇メートル)の丘の上に聳える典型的な平山城は壮麗で、松山市街をひきしめている。城の中心をなす天守閣は天明四年(一七八四)の落雷で焼け、幕末の嘉永七年(一八五四)に復旧したものであるが、この木々の緑濃い城山は県都松山のシンボルであり、松山人の心のふるさとでもある。
 加藤嘉明は松山にあること二五年で、寛永四年(一六二七)に会津四〇万石に転封を命じられた。築城工事は着工後、二〇余年の歳月を要したので、ようやく転封のころに完成を見たのであった。この時六五歳であった。

 その後の嘉明

 会津は奥州の咽喉に当たる要害の地で蒲生忠郷死去の跡へは知勇兼備の将を置く必要があり、宿老を集めて会議の席上、藤堂高虎が「誰彼と申さんより加藤左馬助にしくもの候べしとも思われず」と嘉明を推挙した。高虎、嘉明の不和は天下周知のことであったので推挙の理由を質すと「臣と嘉明との不和は私事なり、会津藩鎮の事は公事に属す、敢て私事を以て公事を妨げんや、今嘉明を措て他に適任者あるを知らず、故を以て推薦するなり」と、是に於て転封のことが決したという。嘉明も高虎の雅量に感じ、爾後水魚の交わりを為したという(加藤嘉明公伝)。なお嘉明転封を「寛政重脩諸家譜」は三月一四日とするが、蒲生忠知に松山の城二〇万石を与えたのが二月一〇日であるため(寛永系図・藩翰譜)三月一四日は誤りである(大猷院殿御実紀九)。
 寛永八年九月一二日、江戸桜田の自邸で六九歳で病没し、麻布の善福寺に葬られたが、現在の墓は京都市東山区の東大谷墓地にある。大正六年に従三位を追贈された。
 加藤嘉明というと勇武で若々しい多血質の武将という印象があるが、土木に長じた重臣足立重信に命じて重信川の改修や石手川の水利を整えて松山城下町を建設し、同時に三〇〇余ヘクタールの水田を生み出し、川沿いに三、〇〇〇ヘクタール、産米一〇万石という灌漑の便をはかり、会津若松では道路と交通の整備、蠟、漆から漆器の生産など産業の育成、鉱山の開発に努めている。