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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

三 関ヶ原の戦い

 西軍の進路

 石田三成らの西軍は伏見城を包囲し、八月一日に陥落させて緒戦を飾り、美濃・尾張方面に進出して、家康軍の西上を激撃しようとした。東海道を進む毛利・宇喜多らの約四万の大軍が、その通路に当たる伊勢の安濃津城・松坂城を八月下旬に開城させた。また大谷吉継を将とする近江軍団は二万余で北陸道を東進し、石田・小西・島津・小早川らの三万余の軍団は中山道を進み、まず大津城を囲んで城将京極高次に開城を迫ったが応じず、あくまでも籠城の姿勢を崩さぬため、家康激撃を急いで大津城をそのままにして関ヶ原の狭隘を経て垂井に進んだ。このあたりから濃尾平野が開け、伊藤盛正の守る大垣城がある。伊藤盛正はまだ西軍への去就を明らかにしていなかったが三成は東海道・中山道を西上してくる東軍に対抗するためにこの要地を拠点にしようと考え、強引に盛正に迫って大垣城に入り、島津・小西・宇喜多らにも入城を依頼した。
 これに対し東軍は、八月中旬に福島正則の清洲城に集結し、八月二三日に織田秀信の岐阜城を攻略した。三成は大垣にいながら秀信を援助することが出来ず、降伏させてしまい、美濃の平野部を東軍の手に収められてしまった。こうして東軍は大垣の西北方の赤坂に屯して家康の到着を待っていた。
 ようやく九月一四日に赤坂に着陣した家康の軍は、しかしすぐ南方の大垣を無視して西に向かい、三成の江州佐和山城を攻略し、進んで一挙に大坂を衝く気配を示した。三成はこの形勢を見て、大垣からおよそ一六キロメートル西方の関ケ原で東軍を食いとめようと決意した。
 九月一四日はこの地方一帯に秋雨が降っていた。夜に入ると三成軍はひそかに次々と大垣城を出て関ヶ原に向かった。行く手には黒々と南宮山(四一九メートル)が姿を見せはじめる。この山の北には中山道の垂井の町がある。赤坂から西進する東軍の兵に見つかってはならない。三成軍は南宮山の南の牧田道を回って関ヶ原に出た。北国街道を扼する笹尾山(二三五メートル)に到着したのは、九月一五日の午前一時ごろと言われている。
 東軍は赤坂を午前三時ごろにたち、中山道を西に進み夜明け方に関ヶ原に入り、前方に西軍が陣を張って待ち構えていることを知った。こうして一五日の朝、東軍七万八、〇〇〇、西軍八万三、〇〇〇が関ヶ原の集落西方の山裾で開戦することになる。

 関ヶ原の位置

 関ヶ原は琵琶湖の東方に聳える伊吹山(一、三七七メートル)南麓の盆地で、北と西・南は山に囲まれ、東がわずかに開けて美濃・尾張の平野に連なっている。この関ヶ原の狭隘には古代に畿内を警備する不破の関が中山道に置かれていた。関ヶ原の地名もこの不破の関所に由来している。関所跡は今も東海道線と新幹線に挟まれた松尾山(二九三メートル)を南に仰ぐあたりに残っている。戦いの行われた盆地の広さは東西約二キロメートル、南北約一・八㌖、面積約四平方キロメートルに過ぎない。ここはまた古く大海人皇子(天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)の軍勢の戦った壬申の乱(六七二)の戦場でもあった。

 両軍の対陣

 九月一五日夜明けまでの両陣対陣の図を見ると、盆地西部の高地に拠る西軍が東からの東軍を激撃する形で陣を張っている。北の笹尾山に石田三成の本陣があり、その右手に島津義弘と甥の島津豊久が北国街道をはさむ形で陣を布いている。その右に天満山を背に小西行長と一万七、〇〇〇の大部隊を率いる宇喜多秀家が並んでいる。そのまた右手高地に中山道を扼する形で大谷吉継が早くから精兵六〇〇を率いて陣を布いている。その大谷の指揮下にある赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治が中山道の南に並んでいる。その右手の松尾山に小早川秀秋の陣がある。大谷はこの秀秋の動向か気になって、あらかじめ脇坂ら四人をこれに備えたのであった。
 また関ヶ原の南の南宮山には大将毛利輝元の養子二二歳の秀元を後ろに、古川広家が控える。その東麓に長束正家・安国寺恵瓊、後ろに長宗我部盛親が陣取っている。これに備えて北の麓の中山道沿いに東軍の池田輝政・浅野幸長・山内一豊らの軍が配置されている。
 南宮山の北西麓に桃配山という小丘があって北裾を中山道が通じている。壬申の乱のとき大海人皇子が兵士に桃を配ってねぎらったという伝説があるが、この小丘に徳川家康の本営がある。現在の国道二一号は昔の中山道で、桃配山は東海道線「関ヶ原駅」の東一・七キロメートルにあって、山裾を二一号が削っている。
 桃配山の西に東軍がずらりと西向きに並び、西軍に正対している。最右翼の黒田長政が石田三成に対し、その左に細川忠興から加藤嘉明・筒井定次・家康の三子松平忠吉・田中吉成・井伊直政、少し間をおいて左に藤堂高虎・京極高知の陣、最左翼に福島正則が陣を布き西軍の宇喜多秀家に対陣している。
 一五日の朝、夜来の細雨はまだやまず、関ヶ原は一面に濃霧が立ちこめて全く見通しがきかない。午前八時ごろになってわずかに霧が晴れたので井伊直政・松平忠吉の中堅が先鋒の福島正則隊の横を抜けて前に出、宇喜多隊に鉄砲を撃ちかけた。おくれてならじと福島隊は八〇〇の銃卒をひきいて宇喜多隊に迫り、激しく銃撃を開始した。のち、この場所を「開戦地」と呼び、丸山烽火場に陣していた黒田長政・竹中重門はこの時、開戦の烽火をあげたという。
 東軍の右翼も一斉に石田・小西の陣を攻撃し、左翼の藤堂・京極の隊も大谷吉継の隊と交戦を始めた。桃配山にいた家康には遠くて戦況が知悉出来ず、しだいに本営を東へ進め、午前一一時ごろには陣場野の地点まで進出して、全軍を指揮したという。
 この家康のじっとしていられない焦燥の気持ちはよく分かるような気がする。この対陣図を見ても盆地の西に集まった東軍は西の西軍と、南の松尾山の小早川軍と、東の南宮山の毛利軍の三方から挟み撃ちされる形で、小早川秀秋の裏切りの約と吉川広家の内応の約を信用しない限り、家康の大胆きわまる布陣というの外はない。

 西軍敗れる

 午前八時ころになって濃く立ちこめた霧が次第にはれて来た。開戦から二時間を経過している。定かには見えぬが西軍が優勢と見えた。笹尾山の石田の本営からのろしが上がった。これを合図に南宮山の毛利勢と、松尾山の小早川勢が下って来れば西軍の勝利は決定的と思われたのに毛利勢も小早川勢も動かない。南宮山では大将毛利秀元をはじめ長束正家や安国寺恵瓊らも進撃しようとするが、毛利の前隊を率いる吉川広家が動かない。正午ごろになっても松尾山の小早川勢も動かず、たまりかねた家康陣から秀秋陣に催促鉄砲を打ち込んだ。小心翼々の秀秋も遂に立った。ときの声を挙げて山を下り、味方の大谷隊に攻撃を開始した。大谷吉継はある程度小早川の裏切りを予測して脇坂・朽木・小川・赤座軍をこれに備えていた。ところが、彼等はいずれも近江出身の武将で、家康の依頼を受げた同郷の藤堂高虎の内通工作に荷担していたのであったが、さすがの大谷もそれを知らなかった。彼等が小早川勢の裏切りに連動して大谷勢を囲むように攻撃してくると、遂に敗れて吉継は自害し、大谷隊は潰滅した。
 西軍は謀反人の出現で土気阻喪し、小西隊も潰え、宇喜多隊も敗走した。頑強に最後まで黒田・細川らの諸将と激戦をくり返したが、東軍が悉く殺到したため潰え去った。最後まで隊伍を整えて戦っていた島津軍も、豊久以下の主な将を失い孤立したが、東軍の中央突破を試みて関ヶ原を脱出し、薩摩に帰ることを得た。

 首謀者の処刑

 小西行長は九月一九日に伊吹山中で捕えられ、また石田三成も同二一日に伊吹山中にかくれていたところを捕えられた。安国寺恵瓊は逃れて京都に潜入し、以前からゆかりのある建仁寺にかくれ、ついで六条あたりに潜んでいるところを九月二二日に京都所司代奥平信昌の手に捕えられた。
 三人は大坂に拘置されていたが、やがて首かせをはめられて大坂・堺・京の町を引きまわしの上、六条河原で処刑され、自殺した長束正家の首と共に三条橋に梟首された。
 宇喜多秀家は薩摩で捕えられて八丈島に流され、増田長盛は武蔵岩槻に、真田昌幸は高野山に幽閉された。吉川広家は毛利家の領国保証を願ったため西軍に加わらず、毛利秀元をも牽制して戦わせず東軍勝利のために大いに努めたのであったが、家康は大坂に入城すると態度を一変し、輝元の総大将としての責任は免れないとして毛利家を取り潰すことをきめた。広家は窮地に立たされ、毛利家のため種々奔走の結果、ようやく周防・長門の二国を安堵された。毛利輝元は安芸広島一二○万五、〇〇〇石から備中・備後・安芸・石見・出雲・隠岐の六国を失い、周防・長門三六万九、〇〇〇石に削減されたことになる。上杉景勝は陸奥の九〇万石を削られ、出羽米沢三〇万石のみを安堵され、土佐の長宗我部盛親は二二万二、〇〇〇石を没収されて牢人となった。西軍に加わって無傷のまま本領を保ったのは、薩摩の島津氏(六〇万五、〇〇〇石)でこの処置は家康としても不本意であったろうと思われる。

 伊予の東軍と西軍

 関ヶ原の戦いは天下分け目の戦いといわれるが、伊予国六大名も、これまでの行きがかりから思い思いに東・西軍につき、自らの運命を一日のうちに決定してしまった。
 東軍にくみしたのは加藤嘉明(松前一〇万石)と藤堂高虎(板島八万石)の二人であり、西軍に加わったのは小川祐忠(国府七万石)・池田高祐(大洲二万石)・来島康親(野間風早一万四、〇〇〇石)・安国寺恵瓊(伊予の内六万石)の四人であった。
 加藤嘉明は文禄四年(一五九五)七月二一日に中予四郡(久米・野間・温泉・伊予)六万石と四万三〇〇石の蔵入地代官を命じられ、翌五年七月二七日河内国で知行地二、〇〇〇余石を加増され、さらに慶長三年(一五九八)五月三日慶長の役の軍功を賞され三万七、〇〇〇余石を加増されて計一〇万石となっていた(水口加藤文書)。これに関ヶ原の軍功で一〇万石を加増されて二〇万石、伊予半国の領主となった。『加藤家譜』は「(慶長五年)十一月公拾万石を加封せられ、旧領合せて弐拾万石の封を受く」と記している。
 藤堂高虎は文禄四年七月二二日に宇和郡の内七万石を与えられたが(藤堂文書)、慶長の役の功を賞され慶長三年六月二二日に蔵入代官所の喜多・浮穴二郡のうち一万石を加増されて八万石となり(聿脩録・宗国史)、関ヶ原の戦功により一二万石を加増され、加藤嘉明と同じく二〇万石となり、共に伊予半国を領することになった。『聿脩録』に「公益封十二万石、旧を併せ二十万石、伊予半州を有す、国府城を撤して今治に移築す」とある。
 次に西軍に属した諸将について見る。
 小川祐忠は慶長三年に池田伊予守(秀雄)の跡を得て越智郡国府城七万石を領したが、元来近江国の出身で、関ヶ原では小早川秀秋の裏切りに連動して味方の大谷隊を襲い、裏切り者という屈辱に堪えて、三成の居城佐和山攻めまでしたが、終に所領を没収された。この厳しい処置について『当代記』は祐忠は常に弱きを捨てて強きにつくという型の人柄であることを諸人が訴えたためといい、同情はなかったようである。                                      
 池田高祐(大洲二万石(二万二、〇〇〇石とも))は秀雄の子、秀氏ともある。『寛政重修諸家譜』に「其子(秀雄)伊与守秀氏、父に継て太閤につかへ二万石を領し、(慶長)五年石田三成謀反のときこれにくみし、関ヶ原のたたかひ敗北ののち高野山に逃れ、藤堂高虎によりて、その罪を謝したてまつりしかば、東照宮御許容ありて高虎にめし預けられ、これよりその領地伊与国にあり、のち赦免をかうぶり、京都に住す」とある。
 来島康親(野間風早一万四、〇〇〇石)は通総の子、のち長親と改めた。父が朝鮮の役で戦死したため一六歳で遺領を継ぎ、秀吉に請い朝鮮の役におもむいた(寛政重修諸家譜)。関ヶ原の戦いでは始め西軍にいたが、東軍に降って本領を安堵された(恩栄録)。『関原軍記大成』には東軍に内通し、赦免された人物として名が挙げられている。翌六年二月に豊後国日田・玖珠・速見三郡のうちに移され、玖珠郡森に住したが、同一七年三月二五日に三一歳で卒した(寛政重修諸家譜)。その子通春の時に来島氏を久留嶋氏と改め、代々森に住した。
 安国寺恵瓊(伊予の内六万名)は前述したように安芸国武田氏の出、若く仏門に入り京都東福寺で臨済禅を修め、安芸安国寺の住持となった。師の竺雲恵心が毛利氏と昵懇だったため使僧となって天正元年(一五七三)秀吉を知り、四国平定後、伊予和気郡で二万三、〇〇〇石を拝領し、のち、六万石に加増された僧籍大名であるが、和気郡以外の知行地は不明である。慶長三年(一五九八)、京都東福寺住持に昇進したが、石田三成らと謀って家康打倒の首謀格にまつり上げられ、戦いに敗れて捕えられ三成・行長と共に六条河原で斬首された。

 毛利勢の伊予侵入

 伊予国では松前城主加藤嘉明の留守をねらい、毛利輝元の臣宍戸善左衛門(景好)・村上掃部頭(元吉)・能島内匠・曽根兵庫らを将とする三、〇〇〇余騎・一○○余彼の兵艘が松前城をめざし攻撃して来た。これは伊予国にいた河野氏の遺臣平岡善兵衛が新領主に反抗しようとして「能島・村上一族来攻すれば必ず気脈を通ずる者多がるべし」と、しきりに毛利勢を誘ったこともあり、また自らも一揆を起こし農民数百を集めて荏原の古城に立て籠った。松前城の留守を預かる佃十成は隣国藤堂の援兵の申し出を断り、独力でこれを守るに決した。
 毛利兵が興居島を経て三津浦に上陸すると、十成はまず松前の黒田・大溝・永田などの村々の百姓を使い酒肴を贈って内通を装わせ、加藤は領民に重税を課し、城内にある留守兵は老病者で兵糧もまた乏しいと偽った。毛利の兵は大いに喜び、村上掃部頭の陣屋に集まり酒宴を催した。慶長五年九月一八日の夜のことであった。この様子を察知した十成は、同夜戌の下刻(九時)に手勢を率いて松前城を発し三津浦に向かった。夜討ちのことゆえ、味方の申し合わせとして、
 一 味方相言葉、誰そと問はば松と答え申すべき事、
 一 敵の首取るべからず、討捨に仕り、四方八面に切って廻り申すべき事、
 一 敵と取組み相戦い候とも、貝の音聞え候はば、早速その方へ馳集り引取申すべき事、
の三条を取り決めた。毛利兵は物見を轡山に置いたので、道を転じ江戸山を越えて三津に至った。
 子の刻(一二時)、民家を焼いたので毛利軍は狼狽し、混乱の中で十成の軍は村上・能島・曽根の三将を討ち取り、味方の手勢一〇余人が戦死した。
 三津の敗戦兵は荏原城の平岡善兵衛に合流し、平岡は策を定め久米如来院に立て籠った。一九日、十成は再び如来院を攻めた。平岡は猟師らに下知し鉄砲を撃たせて之を防いだ。松前勢の先頭黒田九郎兵衛は山門を打ち破り、寺内に乱入して毛利兵を討ったが、毛利兵に味方する一揆の郷民らは雨の如く鉄砲を撃ち出し、黒田もついに鉄砲にあたり命を墜とした。

 のち久米の郷民らは九郎兵衛戦死の場所に黒田塚を作った。風熱を患う人、これに香花を手向ければ本服すると喧伝され、一社を建てて祀るという(現在日尾八幡社の西方の祠という)。

 黒田につづいた飛松兵介もまた命を墜とした。十成は兵を二手に分けて前後より攻め、芸兵を追いつめ討ち取った。
 このとき南の荏原村に一揆が起こり、芸兵と結んだ。十成の部下竹村源介は槍を片手に、汗馬に鞭打ち眼光炯々、雷の如き怒声を発して、一揆の前に立ち塞がっだので、一揆は恐れて和気郡山越村に逃れ、また近隣をかたらい大勢となって、還熊八幡社を本陣として松前勢に対した。十成は八幡山に向かい、大いに戦った。芸兵は防ぎ戦ったが終に囲みを破られ、風早浦から船に乗って芸州に逃れ去った。
 芸州兵に心を寄せる郡民共は一揆を起こし、松前領の村々に攻め入り家財・農具を奪うなどの乱暴をしたので、十成はこれを鎮め、一揆を指揮する正岡式部・寺町弥六左衛門を討ち取った。郷民はこれによって降参し、或いは逃れて一揆は鎮定した(予陽郡郷俚諺集・関ヶ原軍記大成など)。
 このごろ、藤堂高虎領の宇和郡松葉村でも有力名主三瀬六兵衛が毛利家に内通して新領主を倒そうとする企て
があった(資近上一-84)。これは事前に発覚して、首魁の六兵衛は一族と共に、矢狭間を持つ二重塀の酒蔵に立て籠った。変を聞いて大津より力石良連らの将は三〇〇人の兵を率いて馳せつけ、町なかで火器を用いて攻防戦を展開し、敵味方合わせて七〇余の死者を出して鎮定した。

 加藤・藤堂の領地配分

 さて伊予半国ずつを与えられた加藤嘉明と藤堂高虎には伊予国をどのように配分されたであろうか。従来の加藤の支配圏は中予であり、藤堂の支配圏は南予てあったから、所領が倍増しても従来の所領はそのままとし、その上に加増されたことは勿論である。また加藤が温泉郡松山に新城を営むのは従来の所領の内であるが、藤堂は瀬戸内海に面した越智郡今治に新城を築くのであるから、新しい所領はこの地方で得なくてはならない。家康から与えられた両人への所領配分は太閤検地の結果による郡石高を基準に、郡単位で大まかに指示し、実地に当たっての細かな配分は両人の協定ないし鬮取りに委ねられている(資近上一-90)。
 伊予国二つ割の指令は「佐伯文書」に収められているが、残念ながら前の部分が欠けており、藤堂分か不十分であるが前知行所と郡石高を併せ考えるとき、一応理解が出来る。
 いま「佐伯文書」の主文を取り上げると、

 1、(前欠)五千九百石、並に越智郡の内四千五百石、合せて拾四万四百石は藤堂佐渡守分、久米郡、温泉郡、伊予郡、和気郡、野間郡、浮穴郡の内拾壱万四百石、並に宇摩郡、新居郡の三万石、合せて拾四万四百石は加藤左馬助分、右の外郡々絵図を以て領知方、何れも割符せしめ別紙書を給し、双方にこれある事
 2、風早郡、桑村郡、周布郡この三郡は二つ割、並びに越智郡の内、新居郡の内、両郡の儀は算用に入れ相互申談じ之を割る、且つ其外水天(?)山林川成共に上中下組み合せ二つ割に相定め、鬮取りの上は向後違変有るべがらすの事以上のことで、大様は理解出来る。
 1によれば加藤、藤堂ともに伊予国で一四万四〇〇石は従来の自領を含んで均等に受ける。文面完全な加藤について見れば、久米・温泉・伊予・和気・野間・浮穴で一一万四〇〇石、それに宇摩・新居で三万石、計一四万四〇〇石となる。これに対し藤堂分は推定であるが、在来の所領が宇和・喜多であることは明らかなので、新城地たる越智郡の内四、五〇〇石を合わせて一四万四〇〇石となるべきである。郡高は「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」を参考にすると、宇和郡一〇万石余、喜多郡三万石余であるので、前欠の部分は宇和郡・喜多郡一三万石、浮穴郡五、九〇〇石と越智郡の内四、五〇〇石、合わせて一四万四〇〇石は藤堂佐渡守分、となって加藤左馬助分と石高が一致する。恐らく「佐伯文書」の前欠の個所は、そのように記されていたものと推測される。藤堂のこれまでの所領と伊予国一四郡の各郡高を併せ考えて、これ以外には考えられないように思われる。
 2によれば風早・桑村・周布の三郡は加藤・藤堂が半分ずつ分ける。三郡合計石高は五万余石である。越智郡三万八、〇〇〇石余のうち藤堂四、五〇〇石の残り、宇摩・新居二郡局四万七、八〇〇石余のうち三万石を加藤分にした残り、その他は両人の協定、または鬮引きで所属を含め、伊予国四〇万石を二〇万石ずつになるよう明細書を二部作り両人が持つことにする。
というものであった。恐らく江戸城の家康の手許で伊予国各郡の石高を勘案して、図上に線を引き、両人の取り分が二〇万石になるように考えられ、細部に至っては現地の両人に委ねたのであろう。現在となっては両人の所領の細部は不明である。

図1-12 関ヶ原古戦場の現況

図1-12 関ヶ原古戦場の現況


図1-13 加藤・藤堂領地協定図

図1-13 加藤・藤堂領地協定図