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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一 太閤検地前の伊予

 玉木吉保の検地

 毛利輝元の部下である玉木吉保の自叙伝に「身自鏡」(『国史資料』第三巻所載)がある。その一節に、「三十ノ歳ハ伊与ノ検地ニ渡リケル」「三十一ノ歳モ与州ノ検地ニ渡リケル」とあり、同書の注釈者は、玉木吉保三〇歳の歳は天正一一年(一五八三)である。なお彼は三二歳には長門の大津郡、三三には周防国大島郡、三四には出雲仁田郡、三五には安芸国佐西郡・佐東郡・高田郡、三六には石見の検地に当たっている。このころ毛利氏の検地が行われていたことを知るべきである、と書き添え、吉保の検地活動を説明している。
 毛利氏では、領土を表現するのに、天正一一年には既に、従来の貫文高制とならんで石高制を用いた地域のあったことを証明する史料が明らかにされている(宮川満『太閤検地論』第三部)から、吉保がこのころ、検地に活躍していたことは疑う余地もあるまい。彼が三〇歳と三一歳の両年、すなわち天正一一年と一二年に、検地のため伊予に渡ったと自叙していることについて、彼が誰の命令で、伊予のどこに渡り、どのような検地をしたのか考察してみよう。
 当時、伊予国においては、東・中予は道後湯築城を根拠とする河野通直、南予は宇和の黒瀬城に拠った西園寺公広が先祖累代の余光でなお主権者であった。しかしその実質は、河野氏の場合、外では中国の毛利氏と緊密な関係で結ばれていたが、土佐の長宗我部元親に宇摩・浮穴の両郡から侵略され、内では配下の来島通康が、河野家の継承問題から反抗し、その子通総に至っては、毛利・河野に対立して漸進する織田信長とその部将羽柴秀吉勢に気脈を通じるに至っていた。また西園寺公広も川筋を利用して執ように来侵する元親の攻勢と、機をうかがう喜多郡の宇都宮豊綱の不穏な動きとに苦しめられていた。このように河野・西園寺両氏とも主権者としての威武も極めて弱まり、殊に織田と毛利の対立が激しくなると、そのすきに乗じた長宗我部の伊予侵攻が強化され、伊予の両主権者は共に微弱な存在となっていた。
 また瀬戸内海では、鎌倉期以来村上氏一族が因島・能島・来島など芸予海域の要衝を占め、戦時は勿論、平時においても舟運の利を収めて重きをなしていたが、この村上一族にも内紛が生じた。天正一〇年(一五八二)河野氏の命によって伊予勢が毛利軍の援兵として中国に出動してからは、専ら毛利勢に加担する能島の村上武吉父子と、ひそかに信長の部将羽柴秀吉に気脈を通じる来島の村上通総との間の亀裂が表面化した。信長が本能寺で自刃した直後、秀吉と毛利氏が和睦した六月末に、毛利氏と組んだ能島水軍と、忽那島の二神氏と結んだ来島水軍の通総が忽那島を中心に戦って来島勢が敗北した。
 毛利方では、来島勢を破ったとはいえ、年来深い友誼関係にあった一大水軍力の支持を失ったことは大きな痛手であるので、後日に備えるためにも、能島の村上武吉との関係を一層緊密化する必要があり、天正一〇年九月以降、次のように領土の分与を行った。

 ① 天正一〇年九月  毛利輝元から武吉へ、防州吉敷郡秋穂荘(現山口県吉敷郡小郡町付近)の内一〇〇〇石
 ② 天正一〇年一〇月 小早川隆景から武吉とその長男元吉へ、防州熊毛郡賀川伊保荘の内で五〇〇石
 ③ 天正一〇年一一月 輝元から武吉へ、防州屋代島の内、来島の村上氏に厳島の合戦後与えていた領土と、別に江田島とを与え、武吉の次男景親には能美島を与えた。

 以上のような伊予、殊に瀬戸内海の情勢を考えれば、毛利氏が能島村上氏の内政をも援助して、両者の関係を強化するため、検地に堪能な玉木吉保を再度にわたって能島に派遣したのではなかろうか。こうした想定のもとに、当時能島村上氏の勢力圏であった越智郡大島及び同郡伯方島を調査したが、吉保がこの地に渡来して検地したという明徴は全くなく、またその伝承のかけらもない。したがって古保の伊予での検地は果たしてどこであったのか、今後の研究にまたなければならない。

 隆景らの検地の有無

 秀吉の四国統一後の論功行賞によって、小早川隆景・安国寺恵瓊・来島通総・得居通之らが伊予を領有することになった(第一章第一節参照)。
 これらの諸将の内、伊予に居城を構えたのは、来島・得居の二将であり、小早川・安国寺の両将は、本拠は中国にあり、かつ天正一四年(一五八六)には来島・得居の二将と共に秀吉の配下として九州に渡り、各所に転戦したから、伊予で検地を行う暇はなかった。この事は、隆景の部下と思われる沼間田民部丞が、所領内の伊予郡宝珠寺(現伊予市上吾川)に与えた天正一四年一一月二日付寺領引渡状(資近上一-20)や、来島通総の部将達が所領内の乃万郡佐方保(現越智郡菊間町)八幡社に対して同年一二月一三日付で交付した社領坪付(資近上一-22)などに次のような点が共通して見られる。すなわち、面積を表すのに、中世さながらの町・段言(三六〇歩)・大(二四〇歩)・中(一八〇歩)・小(一二〇歩)・歩の単位で表しており、三〇歩を一畝とし、一〇畝を一反とする天正検地の田制を採用するに至っておらないこと、またその年貢である分米を銭納する場合の換算を示している点などから、まだ中世のままであるといえよう。したがってこれらの諸将によって検地が行われていないことを示している。

図1-5 山口付近略図

図1-5 山口付近略図


図1-6 瀬戸内海諸島略図

図1-6 瀬戸内海諸島略図