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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

1 松山城下町

町人町の建設

 松山城下町は、関ヶ原役の戦功により、松前(現、伊予郡松前町)城主加藤嘉明が一〇万石から二〇万石に大増封となった翌々年の慶長七年(一六〇二)、新たに道後平野のほぼ中央に位置し平田曠野の中に立つ勝山の丘陵上に築城した際、同時に建設したものである。『内山家記』には、そのことについて次のように記している。
 
 此城は慶長七年正月十五日から築き初め、家中の地割を定めて後、同六月朔日から商家の地割をした。四角四座といって、鶴屋町、松屋町を地割の始めとし、次に亀屋町・竹屋町を割り、夫から段々割定めて三十町になった。そのうち二十町は、嘉明自身の縄張りであり、十町は佃十成が是を割ったという(資近上一-99)。

これから最初の三〇町の地割は、城主と重臣とによって行われたことが知られるが、その際有力な御用商人相図屋宗郡・府中屋念斎等が協力したことを見逃してはならない。彼らは嘉明の下手代奉行松本新左衛門の妻の兄弟で、殊に念斎は嘉明と親交があり、格別の信任をうげていたらしく、古町分の町家の地割は彼の意見に基づいて行われ、三の丸の城濠及び念斎堀を掘って、新城郭・新城下町の建設に重要な役割を演じた。

古町分の形成

 このようにして城主と家臣・御用商人の協力によって町割が完成した最初の町人街が城郭の西北地区―古町分―に建設されたのは何故であったか。より広間であり、より飲料水にも恵まれ、南向き等の良好な地理的条件を備え、それ故に武家屋敷の大部分が置かれていた東・南地区に何故建設されなかったか、その原因を尋ねてみよう。まず第一に考えられることは、城下町が主として軍事上の要請から建設されたものである限り、町人街もその要請を満足するよう配置されるべきである。松山城の脆弱点は、西北方面(港へ最短距離にあり、従って海より攻撃をうけ易い)にあったようである。古町分は、この方面に対する防御上の砦として配置されたものであろう。第二に考えられることは、瀬戸内海の水路に直面している良好な外港三津から、最も近い距離にあるという経済上の利点があるからであろう。瀬戸内の多くの城下町が、内海水路を利用するために、沿岸かその付近に立地していることは周知のことであり、松山城下町もその例に洩れていない。ただ城の位置が政治的・軍事的考慮から幾分内陸にあるため、直接水運の利を得ることが出来ない欠陥があったことは否定できない。
 古町分は、新たに建設された城下町に集住する家中侍たちのために、武具や日用道具を製作する職人たちや、生活必需品を供給したり、俸禄米の換金・金融に従事する商人たちを多数誘致集中さるべきであった。藩当局が「古町三十町は古来より年貢免許」(『内山家記』)としたのは、その方策の一つであって、その恩典を利用し、新市街での繁栄を待望した商人・職人は、加藤氏の旧城下町松前から、あるいは領内郷方から続々集住して、城下町人を構成するようになった。そのうち松前城下から移ってきた町人に豪商・名家が多く、初期城下町人の指導的地位についた者が多かった。
 例えば、寛永頃から明治初年まで、たびたび大年寄を出していた栗田家は、最初は加藤家の家臣で松前城下に居住していたが、初代与三左衛門(寛永一一年没)が致仕し、松山城下中松前町に出て商家となり、屋号を廉屋と称したものである(「栗田家系譜」)。
 この家と同じく、たびたび大年寄を輩出した家筋の曽我部・後藤両家についてみると、前者は伊予郡八倉村に住んでいた初代孫右衛門(慶安二年没)が、松前城下町についで松山城下町へ出て、松前町において八蔵屋の屋号で商業を営んだものであり(「松山旧家記録一 八蔵屋由緒」)、後者は豊前出身の武家で、旧誼の嘉明を頼って伊予郡北河原村に居住した後、松前城下町を経て、松山城下松前町に出て豊前屋と称して代々酒造業を営んだ(「後藤家系譜し。文化年間頃まで、大年寄役を勤めていた古川家も、初代久右衛門が豊前中津から松前城下町に移住し、嘉明の愛顧をうけ、のち松山城下町の有力な商家として活躍するようになった。
 このようにみてくると、松山城下町の御免町古町三〇町の中心街松前町は、城主加藤家と何らかの関係をもち、かつて旧城下町松前に居住していた有力町人らによって形成されたものと思われる。加藤嘉明は、古町三〇町の各町にも松前町と同じでないにしても、似かよった形で領内各地の商人・職人を同じ職種ごとに、職種名を冠した町に集住させて、徐々に町人街を充実していった。松平氏時代の様子を記した『松山町鑑』(資近上二-三-173)によって町名をあげると

 ○手工業を営む職人町としては、鍛冶屋町・畳屋町・紺屋町・利屋町・桧物屋町・樽屋町・細物町・傘屋町(延宝頃からか)
 ○商業を営む商人町としては、呉服町・木屋町・萱町・魚町・米屋町・紙屋町
 ○その他 風呂屋町・松屋町

 このような職名を冠した町名は、古町地区に限ってみられるもので、外側地区にみられないのは、古町が外側と異なって、城主から年貢免許の恩典と経営上の特権を与えられている関係を示しているものではあるまいか。

外側分の町人街の形成

 城下町建設当初、古町三〇町以外の町家地―外側とよばれていた―は町割の対象地にもならず、従って古町のような年貢免許の恩典をうけず、年貢地として城下町の埓外に放置されていた。しかし外側地域には、将来の発展を招来するいくつかの有利な素地がそなわっていた。まず松山城の南東にあって広間、良好な居住条件と城郭防衛条件をそなえており、藩邸・家老をはじめとする上級藩士の屋敷地(三の丸・一・二・三・四番町等)があり、その周辺には町家と混在した下級藩士の屋敷組家、歩行・同心・足軽・中間の家があって約四、五〇〇人にのぼる藩士卒の大部分は、この地域に集中居住していた。多くの藩士達は、日常の生活必需品をはじめとする諸物資の購入、蔵米の販売等の用達の必要から、侍屋敷地周辺に商家が設立されることを望み、城下町草創の頃から寛文~延宝年間にかけて、隣接地域に自然発生的に、水呑町の永町一・二・三丁目(正徳三年八月湊町と改称)・外巡町の大唐人町(天保七年四月大唐人一・二・三丁目と改称)を中心とする外側分の町人街が形成された。
 延宝五年(一六七七)の「外側町家の図」によると、現在の湊町三丁目の町家は、北側で奥行一三間、南側で一〇間半に区切られ、間口は三~一〇間であったことがわかる。この年、現在の湊町一・二丁目にあたる河原町末新立町・河原町・永町一・二丁目の家数合計二〇八軒とある。また元禄一一年(一六九八)、現在の大街道三丁目にあたる「小唐人南片原町居家敷間寸并ニ御年貢畝高覚」によると、畝高六反五畝二六歩(一、九七六坪)、三五軒の町家(紺屋・椛屋・味噌屋・縫屋などの屋号をもった家がある)・医師家・寺庵などが記されていて、多くの家が奥行一一間、間口三~一〇間となっている。このような断片的な資料から推察すると、城下町創設当時一軒の商家もなかった外側地区が、年貢賦課という不利な条件にもめげず、約半世紀後には古町地区と並ぶほどの町づくりが進んできた。とはいうものの城下の繁栄の中心は、豪商や一流商店の多かった古町地区にあり、町並みも古町分か整然とした町割(都市計画)によって建設されたのに対して、外側分はいわば自然的発達による粗雑な町並みで、両者の間には相当な開きがあった。

町組と町の区分

 ここで延宝五年(一六七七)松山城下図に記され、また『松山町鑑』(資近上二-三-173)に記された元禄七年正月現在の松山城下の町人町の全貌をまとめると表六-1のようになる。
 表では、全城下町をその形成過程による格付けから、年貢免許の古町三〇町、古町の外縁部に年貢地の外巡町二三町・水呑町一八町とに区分し、次に地域的に全城下町を古町分四〇町と外側分三一町とに大別している。古町分では六~七町、外側分では四~九町でそれぞれ一町組を組織し、古町分で六町組、外側分では五町組の合計一一町組が組織されている。
 次に町家の軒数は、古町分四〇町、二、五四八軒、外側分三一町、二、九七三軒で、ちょうど全城下五、五五三軒を折半した形となっている。町家の形態として特色があるのは、借家軒数(二、九七八軒)が本家軒数(二、五七五軒)を上回っていることである。借家率をみると、古町の中心的位置を占めていた松前町組で四七パーセント、本町組で三八パーセント、府中町組で六〇パーセントの高率を数える。
 ところで、この元禄七年の城下総軒数、および本家・借家軒数は、九〇年後の天明四年(一七八四)には、本家一、八六八軒・借家二、三八三軒となっており、本家で約七〇〇軒、借家で約六〇〇軒、計一、三〇〇軒余も減少している。なお空き家が三〇六軒(本家四六軒・借家二六〇軒)にも及んでいる(資近上二-三-173-(32))。これはこの頃城下町の商業が、在郷商人の活躍によって衰微しかかっていたことによるものである。天明七年に書かれた『唐人町中之町之記録』によると、近年郷方往来筋や村々山分に至るまで、諸種の商売店が追々出来てきたため、城下町方の諸商売が日々に減少し、町人一同困窮し、相続の程も覚束なく、渡世も相立だなくなっている。そこで郷方で商売をしている者どもを、残らず城下に強制移転のうえ、商売するよう仰せつけ下さい。そうすれば城下町方も賑やかになりますから、そのように一同御願い申し上げますという嘆願書が記されている(資近上二-188)。

元禄七年の職人・商人

 『松山町鑑』に所引の「町中ニ住居在之医師並諸細工人之覚」(資近上二-三-173-(23))によって、元禄七年一月調査の城下町主要職人・商人の数を、職種別に整理すると、次表のようになる(表六-2)。
 この表のうち、主要商工人は、だいたい古町の町人が多く、外側町人は少なかった。城下町=古町建設期には、藩主が御用手工業者の棟梁に拝領地を与え、そこに彼らに従属する職人を住まわせて町並みを造成させ、家中侍たちが使用する弓・矢・刀・鉄砲等の武器や鎧・鐙等の武具の製作に当たらせた。表にみえる名細工人一三人のうち、九人は古町分の職人であった。また古手屋・古手買中間・米肝煎などの主要商人も、たいていは古町の町人であった。

天明四年の職種別軒数

 『松山町鑑』二に所収の天明四年二月の「惣町中諸商売人井無商売人軒別高寄」に関する記録によって、当時の全城下の職業別戸数(資近上二-三-173-(32))を示せば表六-3のようである。
 この表によると日雇・孀・出商売などの下層町人の軒数が多く、全城下町方軒数の四分の一に当たる一、〇〇〇軒を越えており、うち八割は借家住まいであるから、多くは貧窮な生活を続けていたものであろう。藩の下級卒の足軽・中間たちの家も、全城下の一割強を占めていたことは、農業(田作)戸数の多さと共に、注意をひく。
 職家についてみると、酒造・大工・紺屋・樽屋・鍛冶屋・細物屋・傘屋・畳屋など四〇種をこえる業種があったが、いずれも家内手工業の範囲を出ない小規模のもので、日常生活に必要な家屋・衣料品・食料品・家具類の製作が主たるものであった。なおこれら手工業に従事する職家は、酒造を除いて中産階級以下のものが多かった。このうち酒造家についてみると、天明八年全城下町酒造株高は五五〇石二斗で、業者一三軒のうち、古町分か酒造株高四七〇石、業者九軒を占めていた。
 次に商家についてみると、荒物屋・穀物屋・米屋・煙草屋・八百屋・呉服屋・古手屋など二〇~三〇種があったが、これまた生活必需品関係の商売が多く、松山藩内で生産される商品が大部分であった。呉服・古手などの花形商品を取り扱う商家は、酒造家・質屋とともに富豪家が多かったし、城下町全体からみると、外側分よりも伝統の古い古町分に多かった。
 時代は下るが、嘉永四年(一八五一)藩当局が公布した古町分景気振興令には、次のような文言がある。

 元来古町は、本町一・二丁目の両町の古手屋があるので、是迄引立っていたのだから古町を取直す為、古手仲買を本町両町の内へ居住させ、右両町のうちに居住するものは、古手商と仲買の両方の商売を勝手次第とする。但又今まで古手仲買の営業を行っているものは、来年中を限って、追々両町内へ居住せよ。(「諸事頭書控」第一冊)

 このように古手仲買をすべて本町両町に集住させて、古手売買の独占権を与えて古町の復興を企図している。
 次に米の商売についてみると、古帳面に記されていた米仲買一三人中九人は、古町分の者であり、宝暦一○年(一七六〇)のように、時代が下っても、なお米仲買二〇人中一二人は古町出身者であった。
 前掲二表によって、元禄七年と天明四年との松山城下町方の職業別構成を比較すると、次のような時代的変遷に気がつくだろう。

 (1) 古手仲買は、四二軒から三二軒に減少し、新しく呉服屋八軒が出来ている。
 (2) 酒造屋は、酒造米制限のためか九九軒から一〇分の一の一〇軒に激減し、質屋は一四四人から三五軒に減少している。
 (3) 家中侍の需要に応じていた鎧師・鉄砲鍛冶は姿を消し、利屋も一五軒から七軒に減じ、白銀屋九軒は金具師七軒となり、鞘師一四軒も九軒となり、家中侍の需要が減少傾向にあったことを示している。
 (4) 城下町建設のとき、必要だったと思われる建設関係職人も、大工は二三六人から一八八軒に、木挽は五六人から二六軒に、屋根葺四四人は屋根屋一八軒となった。
 (5) 衣料関係の綿打屋・紺屋及び黒茶屋・紅粉屋は減少し、縫物屋二軒は仕立屋一五軒に増加した。

 最後に表六-4で松山城下町方の戸数・人口の変遷をあげておこう。

            (表六-4 参照)

図6-1藩政時代の松山城下町の身分別居住区

図6-1藩政時代の松山城下町の身分別居住区


表6-1 松山城下の町組・町名・軒数一覧 元禄7年(1694)

表6-1 松山城下の町組・町名・軒数一覧 元禄7年(1694)


表6-2 松山城下の商人・職人

表6-2 松山城下の商人・職人


表6-3 天明4年(1784)松山城下町の職種別軒数

表6-3 天明4年(1784)松山城下町の職種別軒数


表6-4 松山城下町の戸数・人口の変遷

表6-4 松山城下町の戸数・人口の変遷