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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

4 寛政―文政年間の一揆

中津川騒動と波方騒動等

 宇和島藩領宇和郡中津川村(現、八幡浜市)で、農民と組頭総左衛門との間に紛争が起こり、両者が対立したので、寛政八年(一七九六)に藩庁では郷目付らを現地に派遣し、事件の調査に当たらせた。その間に、農民は藩庁に強訴するため村出したが、その途中同郡光満村(現、宇和島市)から引き返した。いっぽう藩庁における審議の結果、頭取四人は入牢し、総左衛門は罷免された。紛争の内容は不明であるが、組頭に非違があったと推察される(清家日記)。
 寛政一二年(一八〇〇)に、松山藩領野間郡波方村(現、越智郡波方町)の農民が村出して、強訴しようとして松山に向かった。庄屋忠蔵は月番の庄助からその情報を得たので、直ちにその後を追い、同郡九王村(現、越智郡大西町)で彼らにあい、説得につとめ、ようやく帰村させることに成功した(『今治藩編年史料』)。
 享和三年(一八〇三)三月に、宇和島藩領宇和郡高山村(現、東宇和郡明浜町)の農民三百余人が村出して、藩庁に強訴した。その理由は明確でないが、庄屋の施政に疑義を持ったようである。藩では調査する旨を約し、彼らを帰村させることに成功した(『伊達家御歴代事記』)。

大洲藩紙騒動と奥野川騒動

 文化一三年(一八一六)に、大洲藩領では有名な紙騒動が起こった。大洲地域にはひろく椿が栽培され、大洲半紙とよぶ良質の製紙を産出した。藩はその有利なことに着眼し、明和八年(一七七一)に喜多郡五十崎・浮穴郡北平(現、河辺村)の両村に楮役所を設けて、藩内の楮および製紙をすべて集荷し、藩の専売品として販売するに至った。したがって、農民相互間の取引きをいっさい禁止した。藩では独占したこれらの製品を大坂へ輸送し、商人の手を通じて販売したので、藩の重要な財源となった。
 ところが農家に課せられた椿の栽培、特に紙の製造については、負担が重いうえ、農繁期にも供出を迫られた。また専売品として、農家から安価に搾取したので、民家を潤すことがなかった。柚ノ木村庄屋三瀬孫四郎は北只村庄屋上田八十八らとともに協議のうえ、農民らとともに藩庁に強訴しようと計画した。しかし庄屋のうちに藩庁に内通するものがあり、計画の実施前に孫四郎らは捕縛せられ、同年一一月ついに極刑に処せられた(『加藤家譜』)。
 吉田藩領奥野川村(現、北宇和郡松野町)の農民は、庄屋の施政に不満を懐き、徒党して藩庁に直訴しようとした。その途中、藩吏に差しとめられ、いったん帰村した。しかし藩庁の態度は変わらなかったので、農民は土佐国境まで赴き、土佐藩吏に逃散を願い出た。土佐藩吏は急を古田藩庁に告げるとともに、説諭して帰村させた。吉田藩では逃散した農民を処罰し、禁足を命じた。彼らはこれを不満として、翌四年正月に越境する農民が増加した。土佐藩吏は彼らを捕縛して、吉田藩の庄屋に引き渡した(兼松家文書)。

高瀬騒動と富野川騒動

 文政八年(一八二五)に、宇和島藩領宇和郡高瀬村(現、野村町)に起こった一揆は、①農民に対する負担の過重と、彼ら自身の生活の窮迫、②同年の天災による凶作、③庄屋善兵衛の非違と横暴、④大地主として、また高利貸資本家としての村役人に対する農民層の反感などを諸誘因としている。はじめ藩庁の負担の軽減と、納税の期限の延期を懇願したが、その要望が容認されないため、その対象は庄屋の不正を糾弾することとなった。彼らは庄屋の命令に従わず、次第に反抗的となり、これを説得しようとする組頭を忌避し、事件はますます紛糾した。
 いっぽう藩庁は、事の重大なのに驚き、野村組村庄屋五人を派遣し、その調停に当たらせた。農民らは庄屋の経理に疑惑の眼を向け、不正を徹底的に糾明することを切望した。組村庄屋らの調停の努力にもかかわらず、抗争は解消しなかった。農民らは庄屋に対する反抗を持続し、あたかも嫌悪の情を催させるようないやがらせ的な態度を繰返した。さらに問題の未解決を怖れた彼らは、結束を堅くし、庄屋の排斥を強要して、隣接する大洲領へ逃散した。そこで、宇和島藩庁では代官・庄屋らを派遣し、大洲藩吏と交渉して事件の解決を急いだ。
 その結果、農民は帰村することを承諾し、同時に善兵衛は宇和島へ呼出され、厳重な取調べののち罪状も明らかとなったので、入牢を命じられた。やがて彼は他藩へ追放となり、その所有財産の処分が組村庄屋の立会のもとで行われた。農民に対しては、形式的な遠慮を命ぜられたに過ぎなかった。要するにこの一揆は、南予型とも称せられる狭い地域における消極的な反抗であって、最後に逃散によってようやく解決を見た(「高瀬村百姓徒党大洲表出訴一件」)。
 文政一〇年には、宇和島藩領宇和郡富野川村(現、野村町)に騒動が起こった。同村では四〇年まえの天明八年(一七八八)に騒動(前述)があり、ここに再び一揆が蜂起した。その原因は、寛政八年(一七九六)に同村組頭となった大野吉左衛門が村政に通じていたため庄屋格となり、庄屋鹿之助の後見人となったことからはじまる。ところが、農民の熊治・弥太郎・品吉らは、吉左衛門に非違ありとして、村民を煽動して騒動をおこし、庄屋もこれに同調した。藩庁では吉左衛門の取扱った庄屋文書を厳重に調査したが、何ら不正が発見されなかったので彼を現職にとどめ、一揆の主謀者を鵜来・沖・日振の三島へ配流した(『伊予百姓一揆史料』)。

片川・次カ川騒動

 宇和島藩領宇和郡片川村および次カ川(ともに現、野村町)は、ともに宇和盆地を東流する宇和川の渓谷に位置する部落であって、この地域の貢租は米穀のほかに大豆・櫨・椿などに及んでいた。文政一二年(一八二九)一二月に、両村の農民らは貸借した米穀・金銭の返却、および無尽の掛金の支払等を一〇か年延期されるよう両庄屋に嘆願した。庄屋はこれを拒否したので、農民らは非常手段をとる必要があるとの結論に達し、野村代官所に越訴することとなった。これを探知した野村組庄屋緒方与次兵衛は、彼らの困窮した事情を聞いたうえで、穏便に筋をたてて請願するように説得にっとめたので、村出していた農民もいったん帰村した。
 ところが翌一三年二月に野村組騒動(後述)が起こり、農民層から選出された年行司(村内の区を単位として彼らの間から選出され、水利について発言権を持っていた)が近隣六か村の同役を召集し、この問題を有利に解決するため、代官所に越訴することに決定した。やがて両村では、年行司の煽動によって農民は再び徒党して反抗した。藩庁では憂慮された野村組騒動も幸いに落着したので、郷目付に命じ足軽らを統率させて、その解決に当たらせた。藩吏はこの事件の顛末を調査した結果、一揆の主謀者に入牢、謹慎を命じた。それから四か月後の八月に、藩庁はこの事件が全く農民側の非違によると裁定し、主謀者に所替・禁足を命じ、庄屋小弥太をはじめ村役人に差控を通達したが、間もなく謹慎を免ぜられた。
 要するに、この騒動ははじめ農民によって起こされ、組庄屋の説得によっていったん鎮静したにかかわらず、年行司の結束によって紛争は再燃したので、藩庁は動揺の拡大を制圧しなければならなかった。この間に年行司と農民との連携が不十分なために、騒動の最終の目的を達成しないで終わった。なおこの一揆が農民側の敗北に終わったにかかわらず、年行司が処分をまぬがれたのは、注目すべきことであろう。

伊方浦騒動と二見浦騒動

 文政一三年(一八三〇)の春に、宇和島領宇和郡伊方浦(現、西宇和郡伊方町)に起こった騒動は、世襲的な庄屋の権勢の強大、農民の政治的意識の向上するにしたがい、藩吏・村役人層に対する不満等の諸原因を基礎とした。前庄屋の辻長次兵衛の年貢等横領の事実が露顕するや、その子の辻喜平太を庄屋職より罷免しようとして行動をおこした。
 農民たちは過去の村政における長次兵衛の非違をあげて、藩庁に強訴した。藩庁は調査のうえ、彼に対し所替・禁足を命じたが、農民たちはこの措置を緩慢なりとして、隣接する大洲藩領に逃散した。藩庁は事の重大なのに驚き、処分を厳重にすることを暗示して彼らに帰村をすすめ、六日後にようやく応諾させることができた。やがて藩庁は喜平太の庄屋役・家督ならびに所領を没収し、長次兵衛を流罪に処するとともに、一揆の主謀者市右衛門を死刑に処し、一六人の農民に流罪・所替を命じた。ここに世襲的に権勢を誇った辻家を村の主権者としての地位から追放することに成功した(『伊達家日記別録』・「奉願口上之覚」)。
 前記の伊方浦騒動と同じ事情の一揆として、同年に起こった宇和島領宇和郡二見浦(現、伊方町)騒動をあげることができる。二見浦は佐田岬半島にあって伊方浦の西方に位置し、村民の多くは漁業に依存していた。庄屋二宮源治は、職権を利用して横暴なため、村民の怨嵯の的となり、三荘大夫と誇称された。藩から支給された水主役の給与、小物成等を横領した。また漁業権を独占し、彼らの漁獲物をみだりに没収した。
 村民は源治の重なる非違に憤慨の結果、彼の非法を一七か条にまとめて強訴した。彼らはこの訴願を実現するため、雨乞と称して屯集し、村出して八幡浜浦(現、八幡浜市)に赴いた。しかし同行した郷代官が巧みに説得にっとめたので、彼らの結束は乱れ、ついに逃散の決意も消滅し、解散するに至った。
 ここに騒動は予想を裏切り、単純に終末を告げた。藩庁は源治の動静を調査した結果、庄屋の地位を取りあげて、追放を命じた。さらに農民側の要望は全面的に承認されたが、一揆の主謀者は遠島・所替の刑に処せられた。この騒動は極めて小規模なもので、しかも村民の行動がもろくも挫折したから、藩庁にとっては余り重要視すべき出来事ではなかったに相違ない。しかし同じ形態の伊方浦騒動があり、逃散に成功した時であったから、藩庁には打開の良策もなく、容易に村民側の要求を容認したと推察される。