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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

1 内ノ子騒動

騒動の原因

 この後期の性格を明確に持ち、未曽有の広域にわたり、かつ藩庁に大打撃を与えたのは、大洲藩に起こった内ノ子騒動である。内ノ子村(現、内子町)は喜多郡に属し、内ノ子盆地の経済の中枢であった。この騒動の原因は、大洲藩が六万石の小藩であり、また経済も特に潤沢でなかったから、財政は次第に困難となったために、藩庁は寛延三年(一七五〇)に、田租の引き上げを断行することになった(農民側の史料「口上書之事」)ことによる。
 次に注目されるのは、すでに帯刀を許された庄屋らが横暴となり、いろいろの口実を設げて農民に対する課役を重くし、彼らを酷使する傾向にあったことである。さらにこの騒動の三年前、すなわち延享四年(一七四七)に勃発した御蔵騒動とほぼ同様の原因が存在していた。その近因は農民側か物成米を納入するに当たって、従来繰棒によっているのを甚だ不利とし、直棒にするよう主張して、ついに徒党を組んで反抗した。その結果農民たちの主張は貫徹せられ、年貢米の納入に直棒を使用することになった。
 ところが、この内ノ子騒動に当たっても、農民側が再び直棒の使用を主張していることは、大洲藩の『加藤家年譜』延享五年の条に「先年に直棒になったが、このたびまた繰棒になった」との記述によって諒解される。藩吏も繰棒による方が自己の利益になるので、御蔵騒動においていったん改正を契約したにかかわらず、農民の希望を完全に無視して直棒を使用していなかったと想像される。
 また同藩では、大洲半紙と称せられる製紙が農家の副業として生産されていたが、藩庁は商家より低廉な価額で農民から強制的に買いあげていた。農民側はこれを不当とし、町家と同等の価額で買いあげるよう嘆願した。そのほかに年貢米を丈量する場合、計り捨てと称して藩吏だもの収入としていたこと、牛物成の納付については、蔵川屋とよぶ商人に請負わせていたため、農家の負担が過重となったこと、頼母子を強制されたために、これが家計を圧迫して、苦難な生活が倍加されたことなど、彼らの日常生活の広い範囲にわたっていた。

浮穴郡農民の村出

 寛延三年(一七五〇)一月一六日の夜、浮穴郡薄木(臼杵とも書く/現、小田町)・二名・露之峰(現、久万町)の三村の農民らが蜂起して、隣接する寺村(現、小田町)の庄屋栗田吉右衛門の居宅を襲撃したのにはじまる。この時の総勢は、およそ一、五〇〇人であった。これよりさきすでに彼らの間で、一揆の計画が進捗していたことは、各村の農民が薄本村の天満宮に集合し、同地の農民九右衛門の指揮に従い、神前で一揆の成功を祈願したのによって明らかであろう。
 いっぽうこれらの農民の動静を探知した隣村の庄屋たちは、一六日夜吉右衛門宅に会合し、大洲藩庁へ飛脚を送ってその指示を仰いだ。蜂起した農民はさらに薄木村、ついで中田渡村(現、小田町)の庄屋宅を襲撃したが、村役人らの説得にあい、喜多郡村前村(現、内子町)から北表村(現、五十崎町)へ移動し、その勢ぱおよそ二、〇〇〇人になったという。北表村の庄屋富永良助は農民に謝罪して、ようやく打ちこわしを免れた。彼らは奥筋にあたる八か村の農民に一揆に参加するよう諾憑するために、これらの村々へ押寄せた。
 他の別動隊は浮穴郡総津村(現、伊予郡広田村)から喜多郡中山村(現、伊予郡中山町)へ進出し、同村の玉屋・美濃屋(豪農で商取引を営業していたと思われる)の家屋を打ちこわそうとしたが、陳謝にあい一部建物を破損した程度に終おった。彼らはその夜中山村に野宿し、翌一九日に五百木村(現、内子町)の豪農又吉の居宅へ押寄せ、綱で家屋を引き倒すとともに、家財道具を破壊し、貯蔵されていた楮・漆の実を持ち出して川に流し、乱暴狼籍の限りを尽くした。一行は論田村(現、内子町)を経て、古田村の河原に参集して気勢をあげた。彼らは同村庄屋新六の屋敷を襲い綱をかけて引き倒し、酒樽をこわし三百余石の酒を流し捨てた。さらに平岡村(現、五十崎町)庄屋栗田儀右衛門宅に押しかけ「子孫に至るまで庄屋職に就かない」旨を誓約させた。やがて彼らは内ノ子村の河原に落合ったが、農民の総数はおよそ一万八、〇〇〇人に達したと伝えられる。
 農民たちは二〇日に内ノ子河原に急造した小舎で起居し、藩庁に対峙する形勢となった。彼らの飯米および雑費等は、五百木屋(内ノ子村の豪農で商取引をも兼ねた)らの豪農が負担したらしく、一日に飯米九〇石ずつ、小遣銭一貫八~九〇〇目ずつ支出した記録がある(「口上書之事」)。

折衝と回答

 農民らのなかには前途を憂えた結果、宇和島藩領に逃散し、同藩主に訴えようと主張するものもあった。大洲藩の支藩である新谷藩では、事態の容易でない状況を察し、奉行津田八郎左衛門らを派遣して、彼らの要望事項を大洲藩に取次ぐ旨を述べ、調停に応ずるよう懲憑した。そこで彼らは協議の結果、二三日に希望事項をとりまとめて列記した「口上書之事」を提出した。
 そこで大洲藩においては、農民側の要望事項について検討のすえ、四日のちの二七日に新谷藩を通じて回答した。この間にあって農民は折からの雨天と寒気に悩まされ、宇和島藩領への逃散を企てるのでないかと想像された。藩庁ではこれを防止するため、できる限り彼らの希望に従う旨を力説した。この農民の不安な動揺が、藩庁側をして著しく譲歩を余儀なくしたと考えられる。
 新谷藩は内ノ子河原に農民を呼び集め、大洲藩からの回答を発表した。その内容は、1定免制を続けて実施する、2災害の場合は検見のうえで免を決定する、3年貢の丈量をする時、蔵方役人の計り捨てを禁止する、4斗棒については、農民の不利益となる繰棒を中止し、直棒で丈量する、5小物成の割付については、農民側の希望する生産高によることを否認し、従来どおりとする、6小物成の徴収を豪商の取扱いにまかせないで、村方から直接納入する、7紙座・漆之実座・椿座等を廃止する、8先納米・貸借銀も元利決算のうえ順次に返却するなどをはじめとして、一七か条にわたっていた。
 これらの農民側に対する藩庁の回答書を見ると、彼らの希望の大部分が容認せられていて、拒否されたものはわずか四項目にすぎない。したがって、この一揆は明らかに彼らの勝利となり、騒動の目的も貫徹されたといっても過言ではないであろう。ただ彼らの重要事項の一つであった本川・日野々川・立石・大平(現、小田町)・父野川(現、久万町)・山の鳥坂(現在、五十崎町・肱川町・河辺村に三分)等の各村の庄屋の更迭については、藩庁は正式に何らの返答をしていない。あたかも表面上無視したかのような感があるが、調停の地位にあった八郎左衛門が大洲藩に提出した覚書のなかに、これらの村役人の更迭と、横暴な豪商を閉居釘付に処する必要のあることを主張しているのを見ると、大洲藩はこれらに対し何らかの措置をしたと想像される。なお徒党の頭取の吟味についても、八郎左衛門のほかに法華寺の学舟、高昌寺の真貌、願成寺の秀寛らが調停に立ち、首謀者の探索をしない旨の一札を得ることができた。
 この騒動は大洲藩領の三分の一以上に及ぶ広域なものであり、かつ最初の本格的な暴動を伴った一揆として注目され、その対象が単に藩庁にとどまらず、村役人・豪農・豪商であったところに、封建制の成熟期の形態を具えていて、同藩にも江戸後期の情勢が到来したことを示している。藩庁はこれに対する鎮圧策をも講ずることができないまま、ほとんど拱手傍観するありさまで、わずかに支藩の斡旋によって事態を解決したに過ぎなかった(『伊予農民騒動史話』参照)。