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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

3 大保木山騒動

山村の悪条件と農民の苦難

 江戸前期における一揆のなかで、この騒動は慶長八年(一六〇三)から寛文一〇年(一六七〇)にわたっている。実に六八年の長期間に紛争を執拗に繰返して、ようやく解決を見た新居郡大保木山騒動について述べよう。
 はじめ年貢の銀納を切望した農民が、山村における自然の苛酷な環境と、その対象である領主の変遷に悩まされながら、所期の目的を達成するため苦闘を繰返した。大保木山は隣接する中奥山・兎之山・黒瀬山・東之川山・西之川山の諸村とともに、新居郡の山嶽地帯を占め、俗に「六ヶ山」とよばれ、はじめ松山藩領であった。この地域の村民たちは、生計をほとんど林産物に依存し、もみ板・桧板・五葉松板・栂柱等を積み出し、あるいは炭焼、薪材の採取に従うものが多かった。米穀の生産はすくなく、玉蜀黍・稗・粟・豆等が彼らの生活を支える資料であった。
 この六か村地域に起こった大保木山農民騒動の史料については、中奥山村ま屋治平(治兵衛とも書いた)が寛文四年(一六六四)に記述したという「寛文四年辰十月銀納請書願帳」、同一〇年三月すなわち事件の解決した日に、兎之山を除く五か山総代の吉左衛門が、五か村の百姓総代の立会のもとに書いたと伝える「寛文十戌年三月五ヶ山諸運上銀納願定帳写」、騒動の落着した時から二〇年後の延宝五年(一六七七)正月に大保木山村の庄屋伊藤平左衛門の書いた記録の写本が残存している。これらの史料のうち年代的に考えると、最初の二冊が信頼できるはずであるが、寛文一〇年以降の記事が混入し、明らかに後人によって加筆されたところがあり、また石鎚権現の霊験談が語られ、史実として採りあげられない箇所も存在する。最終の分は、記述が物語的であり、おそらく伝承されて行く間に、潤色された分野が生じたと思われる。いずれも不完全な史料であるが、これらを取捨選択しながら、騒動の勃発した原因および経過について述べよう。
 この六か村の年貢は米納であったから、山嶽地域の農民にとって極めて不便であり、かつ過重であった。また江戸初期には木材の需要がすくなく、価額が下落したうえに、米価が上昇して一石につき銀七八~九匁の相場となった。したがって、米穀を買入れて上納することは、農民に大きい負担となり、すでに二~三年も未進となる状況であった。そこで、大保木山の治兵衛は藩庁に対し年貢を銀納に変更すること、六か山地区へ出稼に移住した新百姓を郷里へ帰村させること等を訴える決心をし、中奥山・黒瀬山・兎之山・東之川山・西之川山の各村のま屋・組頭・百姓総代らと談合した。その結果、銀納請の問題は緊急を要するとの観点から、嘆願書が作成された。その時の年代は、前記の史料の一つに慶長八年秋とし、嘆願書の提出先を松山城主加藤嘉明であったとしている。
 加藤家では、元和九年(一六二三)六月に六か村の庄屋・組頭らを松山に召集して、銀納請を許容しない旨を言明したばかりでなく、今後このような行動を厳禁するとの強硬な態度を示した。一同は帰村のうえ、対策を協議したところ、兎之山村の代表者は重大な事態になるのを恐れ、離脱を表明した。寛永四年(一六二七)に嘉明が会津へ転封となり、蒲生忠知が松山城主となった。五か山では銀納請願の陳情を繰り返したが、その間に真綿・茶・鉄砲役等が現物納から銀納に変更された。ところが忠知が同一一年に病没し、蒲生家は断絶した。同一三年に一柳直興が西条藩主に任ぜられ、この五か山の地域はその領有するところとなった。

西条藩の一揆処分

 一柳直興は農民の希望を無視して、五か山に対し真綿・茶・鉄砲役等の銀納を物納に復旧したばかりでなく、新たに竹に対する租税をはじめ雑税を課した。万治年間(一六五八~六一)となり、中奥山村の庄屋治平はこの件について大保木山の庄屋平左衛門に相談したが、重大問題であるため、ひろく五か山の村民の意見を聞くことになった。そこで各村の庄屋・組頭・百姓代らは、大保木村の会所に集合して、協議を重ねた結果、嘆願書を作成し、代表者として血判を押した。彼らは嘆願書を同藩の代官鈴木九左衛門に、のち直接藩主に提出して、厳しく願意を申し立てた。
 藩では農民らの意外に執拗で、かつ強硬な態度に驚き、断固として彼らを弾圧する方針をとった。寛文四年(一六六四)一一月に、首謀者の治平ら六人を、さらにこれに加担した農民一〇人を逮捕して、西条の獄舎に入れた。藩庁は翌日に、彼らを斬罪の刑に処した。翌五年となり、その理由はわからないが、藩では五か山の訴願を認めることに内定していた。ところが七月に直興が所領を没収され、松山藩主がこの地域を預かることになった。そこで、五か山の代表者たちは吉左衛門(平左衛門の弟)を総代とし、松山藩に対し運動を続ける方針をたて、松山へ出掛けて嘆願を重ねること一六度に及んだと伝えられる。松平西条藩成立直後の同一〇年三月に、郡奉行・代官らは五か山の代表者を召集して、「銀納究高」が銀五貫三五八匁余である旨を申し渡した。この騒動も問題が起こった時から六八年を経て、ようやく農民側の希望のとおり銀納が容認された。

大保木騒動の意義

 この騒動は伊予国に起こった農民騒動のなかで、最も長期間にわたったものである。この騒動を通じて見られるテーマは、山嶽地帯の住民たちが自己の環境からくる生活の困難によって、米納を銀納に変更しようとするにあった。この騒動の発展過程において賦課の増徴も行われ、かつ村民にとって不利益な経済状況が生じたこと、その間に統治者の更迭があったこと、村民側に悲惨な犠牲者を生み、かえって彼らの間に不撓不屈の精神を醸成したことなどが、この紛争を継続させる重要な契機となったのであろう。
 さらにこれらの契機は、純朴な山間僻地の村民の独特の気性、あるいは江戸時代における貨幣経済の発達の諸現象とともに、この騒動解決への気運が促進したことを見逃してはならないであろう。

寛文年間の一揆

 前述した江戸前期以後、寛文九年(一六六九)から寛延年間(一七四八~五一)に至るまでの八〇年間に、伊予国に起こった一揆のうち主なものを掲げておこう。
 まず今治藩領において、寛文九年に越智郡松尾村(現、今治市)に騒動が起こった。それは同村の庄屋近藤八右衛門が、藩庁の施政の宜しくないために、農民が生活に困窮している実情を憂慮したのに始まった。彼は直接に藩主に農民の救済を訴える以外に方法がないと自覚し、直訴を断行した。藩庁ではいちおう対農村政策を緩和したが、八右衛門の行動を非合法的なものと断じ、同年一〇月に家族とともに、同郡鈍川村(現、玉川町)で斬殺した。この時、彼が訴えた村政の問題点は、課税の重圧に対する減免であろうと思われるが、史料がないので詳細は不明である。
 それから二年のちの寛文一一年三月に、宇和島藩領川内村をはじめ宮下・保田・祝森等の四か村(いずれも現、宇和島市)の庄屋がおこした騒動がある。これは俗に同藩で断行した内扮検地に反対したのを発端としたと伝えられる。同藩では藩主伊達秀宗が明暦三年(一六五七)に隠退して家督を宗利に譲った時、五男の宗純に吉田三万石を分知させた。このために宇和島藩は従来の一〇万から七万石となった。あたかも寛文六年(一六六六)七月に同地域が未曽有の大風雨にあい、田畑が流出するほどの大被害を生じた。これを機として、郡奉行八十島治右衛門は厳重な検地を行い、地坪制度(鬮持制度)を導入した。これが史上に有名な内扮検地であって、同時に施行した地坪制度は、農民の土地割換をすることによって彼らの負担の均衡をはかるにあった。その実施に伴って年貢の上納を容易にし、村の冗費を節減して、その増徴を計るのを目的とした。
 ところが、その施行に当たり、川内村(現、宇和島市)の庄屋四郎右衛門らは、農民たちの不利になるとし、その中止を藩庁に訴えた。治右衛門は、団結した四郎右衛門ら庄屋七人を極刑に処した。さらに彼は藩民を威圧して、検地を完了したといわれている。

貞享―享保年間の一揆

 貞享三年(一六八六)に、松山藩の東部、今治藩に近接する野間郡延喜村(現、今治市)に騒動が起こった。それは同村の庄屋忠左衛門が、農民の窮迫した状況を見て、その救済をたびたび代官に訴えたにかかわらず、かえりみられなかったことによる。彼は意を決して、農村の現況と代官の施政の怠慢とを、藩庁に越訴するに至った。藩では訴状の執筆者を探索した結果、忠左衛門を逮捕し、六月に子息とともに同郡大井村(現、越智郡大西町)で処刑した。享保四年(一七一九)三月に、宇和島藩領宇和郡下灘浦(現、北宇和郡津島町)の農民一〇一人が、訴訟の件ありと称して、宇和島の番所に押し寄せた。そこで郡方役人が極力彼らを説諭して、いったん帰村させた。ところが、同村の農民六二人が翌四月に再び船で宇和島樺崎に上陸して出訴しようとしたが、またも藩吏に制止されて引き揚げた。その訴訟の内容については、史料に記述されていないので不明であるが、のちに同村庄屋赤松忠兵衛が卯来島(現、高知県宿毛市)に配流されたのを見ると、庄屋に非違があったと推測される(『記録書抜』)。
 宇和島藩領宇和郡四郎谷村(現、東宇和郡野村町)の農民が、享保八年(一七二三)に村出して目付大森新兵衛宅に押し寄せ、凶作による生活の窮迫を訴えた(『伊達家御歴代事記』)。それに対する藩庁の措置について記述がないが、おそらく説諭のうえ帰村させたと思われる。
 次にあげられるのは、享保一七~九年(一七三二~三四)にわたり、宇摩郡豊田村(現、伊予三島市)に起こった騒動であった。豊田村(宝永年間川原尻村を改名)は、もと天領であったが、享保六年(一七二一)から松山藩の預地となった。同村は古くから豊岡川の氾濫によって、しばしば家屋・田畑に流水の被害をうげることが多かった。同村四代目の庄屋今城宇兵衛(享保七年庄屋職就任)は、あらゆる点で天領に復帰する方が農民に有利であると考慮したが、それは単に一庄屋の手によって解決する問題ではなかった。彼はこの寒村を救助するためには、豊岡川の治水工事を遂行する以外に良い方法はないと思い、大町村(現、伊予三島市)庄屋をはじめ近隣村落の援助のもとに、この難事業に当たった。この時大庄屋の地位にあった秋山太郎兵衛泰昆は、宇兵衛が村民の絶大な信頼を得ているのを嫉み、これと対立することになった。
 享保一七年(一七三二)の大飢饉の際、豊田村に餓死者は出なかったが、農民の生活は貧困の極にあったので、宇兵衛は松山藩の川之江陣屋に減租の嘆願を繰り返した。ところが要領を得ないため、彼は同一九年に隣接地区の庄屋と提携して、藩庁に直接訴状を差出すこととした。太郎兵衛はこれを知って、松山藩庁にこの計画を密告した。そのために、宇兵衛は逮捕され、責任者として二月に斬殺されるに至った。

久万山騒動

 寛保元年(一七四一)三月に、松山藩領浮穴郡を中心として、久万山騒動とよばれる大規模な逃散が起こった。享保の大飢饉の被害の回復しないなかで、久万山の農民が年貢の減免、製紙の負担過重を訴えるため村出した。ところが、彼らは松山藩吏の説得によって、いったん帰村したが、七月に再び蜂起した。この時、参加者は二六か村に拡大し、藩境を越えて大洲藩領に逃散した。松山藩では大洲藩庁を通じて折衝を続けたが進捗しないので、久万大宝寺の住職斉秀に調停を依頼した。斉秀が熱心に説得したこと、農民側の要望が大部分容認されたことによって、農民は帰村してこの事件は解決した。同時に家老・代官らが責任者として、遠島に処せられたが、その背後には藩庁の中枢部をめぐって、政争が存在した(この一揆については、『通史近世上』松山藩の項を参照されたい)。

図5-30 「六ヶ山」付近

図5-30 「六ヶ山」付近