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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 松山藩の備荒貯蓄

安井右内備荒の必要を説く

 江戸時代、幕府や諸藩が軍事上の必要や米価調節、又は凶荒備蓄の目的をもって穀物を蓄えたが、これを一般に囲米・囲籾と呼んでいる。郷村における凶荒備蓄のみを目的とするものは、社倉・義倉などと呼び、軍事上の目的を有する貯穀とは区別して考えられる性格のものである。
 幕府が直轄地の貯蔵庫や、譜代大名の城に委託した城詰米は、江戸時代初期においては主として軍事的必要から蓄えたものであったろうが、泰平の時代が続くにつれ、救荒貯穀としての役割を持って来た。特に享保の大飢饉における幕府の飢人救済の基盤は、大坂城の詰米をはじめとして、譜代大名の城にあった城詰米が活用されたのである。
 享保一七年(一七三二)夏から、同一八年初めにかけて、西日本一帯を襲った蝗害によって飢人一九九万四、〇〇〇人余、餓死者一万二、〇〇〇人余を出した(『平凡社世界百科大事典』)。この時松山藩では五、七〇五人が餓死している(資近上七-29)。同藩の米作が収穫皆無と記録されるほどの被害を受けたこと(資近上七-15)及び藩による庶民救済策の不手際が加わったためであろう。
 安井右内(熈載)が文政元年(一八一八)に著した『却睡草』の中で、多くの餓死者を出した松山藩で武士に一人の餓死者もいなかったということは、役人の怠慢であると決めつけている。それにひきかえ、飢饉に際して種麦を残すために餓死した伊予郡筒井村の百姓作兵衛(後世に義農作兵衛と呼ぶ)を激賞している。右内は、こうした災害に備えて米穀を貯蔵する必要を説いたのである。
 『却睡草』の著者安井右内(一七九〇~一八二七)は、文化文政期の士風退廃を嘆き、藩政改革を企画したが、上司の採用するところとならず、著作に没頭して不平を慰めていた。ある目、右内は『却睡草』三巻を一一代藩主松平定通に献上し、夜陰に乗じて松山を出奔した。これを知った上司は、捕手を遣わして右内を捕え、獄舎に幽閉した。
 右内が出奔する直前に藩主に献上した『却睡草』は、文化一〇年(一八一三)から六年の歳月を費して著しかもので、松山藩歴代藩主及び家臣の嘉言善行を記したものである。正岡子規の叔父である加藤拓川(恒忠)によれば明治初年に久松家(松山藩主松平氏が明治元年久松の旧姓に復した)が編纂した『松山叢談』を読んで、同書の面白い材料は、みな『却睡草』から採っている。もしこの一冊がなかったならば、浩瀚なる(書物の分量が多し『松山叢談』三〇冊は、無味乾燥な記録にすぎない(『拓川集・随筆編』下)、と高く評価している。
 『却睡草』の書名の由来は、末多国(?)に五味草(?)というものがあり、これを食べる人は夜も眠らないという。右内が不眠不休万世を憂えて著した、その気慨が書名とされたのである。
 右内が同書の中で義農作兵衛を激賞している部分は、作兵衛に関する文章に必ずといってよいほど引用されている。特に、作兵衛が麦種は自分の命よりも大切であり、種を遺すことが国恩に報ずることである、との言葉を残して餓死したくだりは、全国的に流布している。右内は、これはどのすさまじい気迫を持った作兵衛の言葉に接するとき、身の毛もよだつばかりであり、武士などは恥かしくてとても及ぶものではない、と記している。この時の松山藩主定英は、幕府より四か月にわたる差し控えを命じられ、許された翌月(享保一八年五月)に急逝している(第五章第二節参照)。
 こうした飢饉の惨状に対し、右内は牧済策・備荒政策の不手際を強く批判するとともに、備荒貯蓄の重要性を説いたのである。それでは、右内の提言に至るまで、松山藩では全く備荒制度がなかったのかというと、そうではなく、大飢饉後における領内の再建を待って備荒策は不十分ながらも開始されていた。

松山藩の備荒対策

 安永四年(一七七五)六月一五日、家老の竹内久右衛門敦信から、藩財政が困窮したので、藩士に対しては、四年先の安永八年から三年間の人数扶持実施を予告し、町・村に対しては今年から貯銀・貯穀(七年間の期間を設けて実施)を行うように、との通達があった(資近上二-79)。
 藩の通達で注目すべきは、次の二点であろう。まず一つは、藩の財政運営が困難になったので、水旱(洪水や干魃)などの備蓄も全くない状況になった、としている点である。すなわち、水旱の災に関して、救済する主体は藩であることを表明していることが理解されよう。二つ目は、藩の財政難という事態に際して、凶荒対策費を庶民の負担増によって実現しようとした点である。すなわち、年貢増徴という手段を取らず、貯えられた銀米は、災害に際してのみ支出することとし、他には流用しないことを明言していることである。
 藩が貯米目標としたのは、七か年間で五万俵であった。浮穴郡(石高は三万五、六五六石=元禄一三年)の場合、貯米目標は、五、〇八七俵九升三合で、一か年につき七二六俵九升九合であった。徴収率は、一石について四斗(四〇パーセント)が標準であるとすれば、二パーセントの増徴となる(藩全体の増徴率は同様に計算すると四・八パーセントの増徴である)。

備荒政策の成果

 安永四年の家老布達は、家中人数扶持実施を含む厳しいものであったが、現実には人数扶持の実施は見送りとなり、貯米計画も五か年で中止された。同七年一二月一日になって、藩庁は人数扶持中止の理由を、家中一同が精励して、相応の成果があがった、としている。また、貯米については、目標の五万俵に対して、実績は三万一、九一一俵であった。
 この貯米は、文政六年(一八二三)及び天保八・九年(一八三七・三八)の飢饉救済ならびに、困窮者への貸し付けに利用され、相応の成果をあげたようである。
 この備荒貯米の運用については、安永四年の家老布達で明言しているように、水旱の災害にのみ支出することになっていたが、運用の具体的な基準は不詳である。ただ、明治四年(一八七一)一二月松山県租税課から久万山(浮穴郡のうち三坂峠以南の高地)大庄屋場に、備荒のために蓄えられていた米・銀を引き渡した際に、取り扱い定規が添えられているので、ほぼ藩政期における運用状況を推測することができる。
 定規は三か条からなっており、その要旨は次のようである。
 ① 貯米は、非常の天災によって、庶民が甚大な被害を受けた時に限って救済するために設けたものであるから、平常時に軽率に差配すべきではない。但し、その場合でも極難渋の者に対しては十分調査の上救済すること。
 ② 救済する場合は、差配に至る事情を詳しく上申し、県の許可を得て施行すること。
 ③ 救済に際して、規定の利息以上の利を取ったり、私腹を肥やすような行動を慎むこと。

備荒制度発足の背景

 松山藩におげる備荒貯蓄制度が安永四年に発足したのは、明和二年(一七六五)の一万石上知問題と同七年の一五万石復帰との間に密接なつながりがある。すなわち、明和二年松山新田藩(松平定章が一万石を分知され、享保五年成立)の松平定静が宗家に入って、八代藩主となったことにより、新田藩は廃止され、幕府ヘ一万石を上知することとなった。松山藩としては、一万石の減収となったわけである(松山新田藩は現実には領域を特定せず、蔵米で一万石の収入に該当するものを定章に支給した。定静時代も同様であった)。この一万石の減少は、領内の新田高を杢局に繰り入れることで処理することとし、明和七年五月幕府の認可を受けた。これ以後、松山藩は表高こそ一五万石に復したが、領土が増加したわけでもなく、年貢率を増加したわけでもなかったから、減収分に見合うだけの財源を生み出さなげれば、従来通りの施策を実施できなかったのである。明和七年には、城下町の大火により六五〇軒余が焼失しており、これの復興にも多大の出費を要したから、藩財政の運営は予想以上に困難であったろう。
 こうした財政の困窮は一時的には、町人からの借金で賄うことができても、根本的対策とはなり得ない。かえって利子が滞って財政を圧迫することになるばかりであった(借金の額については具体的資料がない)。
 こうした場合、藩の財政策としては、藩士の給与削減が最も手っ取り早い方法である。松山藩では、明和二年から同三年及び同五年から八年にかげての人数扶持によって、何とかやりくりしていた。このような藩士の犠牲によっての財政運営は、そう長続きするものではない。
 安永四年に、松山藩が打ち出した、郷町の救済費は郷町の協力によって実現しようとする政策は、ある面では画期的なものであったといえよう。これまで水災・半勉による被害があれば、藩の経常費から支出していたのに対し、五万俵という目標を設定し、これを基本財産(籾またぱ銀で蓄えておき、運用によって利殖を図り、その利子を救済に充て、大災害の時には基本財産部分まで使用する)として救済するという方法である。
 これまでの基本的な考え方からすれば、この基本財産の五万俵は本来藩が積み立てるべきものであるが、財政の困窮や、藩士の人数扶持予告といった非常事態宣言を背景に、藩としては余力がないから、郷町に頼るのであるという説明をしなげればならなかったところに、財政当局者の苦悩があったろう。だからこそ、徴収する米の使途を明確にし、水旱以外には使用しないと宣言したのである。
 松山藩領島し太部のうち越智島(現越智郡に属する大三島・岩城島・生名島・岡村島など)では、寛政期に二五七俵(籾で五一四俵)、大保七年にも同量の貯米が元締めから命じられ、一七か村へ割りつけている(最高は井ノ目村の六〇俵、最低は大見村の三俵)。これは安永四年に実施された五万俵貯米のずれ込みか、別個に計画された貯米か定かではないが、いずれにしても安永四年貯米分か明治四年に藩庁から一、三六九俵、越智島へ下げ渡されている。

久万凶荒予備組合

 前途したように明治門年久万山犬庄屋場に対して、藩政時代の救荒用の米金が下げ渡された際、三か条の運用規定が添付されていた。この時松山県から還付され、大庄屋船田耕作が受け取った米金は七種の起源をもっていた。それらは旧藩庁が一括管理していたのであるが、七種の起源と引き渡し高をあげれは次のようであった。

 (1) 安永非常水旱災予備米(米二、三六三俵、うち一、〇〇〇俵分は稗囲じ畑ばかりの村では出米が少ないので、田のある村で引き受けて囲い、毎年諸作の実ったのち籾摺を許された。
 (2) 郡役人差配米(米二〇〇俵)起源年不詳、大庄所用務として藩から渡され、年利一割で貸し付け、利子二〇俵を村役人の給料とした。
 (3) 天保九年諸郡への下付米(米二八石九斗九升八合)天保飢饉救済のため藩より給付したもののうち、久万山分。
 (4) 明門元備金(銭札一一一貫二五匁七分五厘)久万山の戸数減少を防止する目的で藩から下付された金。その運用利子で家を建て農具を整えた。
 (5) 赤子養育米(米八〇七俵三斗一合)生活難から間引きが行われていたが、弘化二年の献上御用米が都合で返却されたのを、出産救助にあてた。
 (6) 畑所年貢米直違い積み立て(銭札二五三貫六六〇匁五厘)弘化四年以来二〇か年間、畑所の年貢銀納と米価との差額を代官が積み立てたもの。
 (7) 風損元備(銭札一〇八貫一二匁二分五厘)嘉永二年の風水害の被害救済の米金下賜の残額

以上(1)~(7)の米一、六一四石六斗八升と金二、三六三円九九銭(円換算)は、明治五年の大小区制実施とともに区長・戸長が管理することになった。同七年に地理的な事情から久谷・窪野(ともに現、松山市)の二村が久万山から分離したので、米一八三石八斗六升八合と金三八二円八銭三厘を二村に渡し、残りは翌八年に「久万山二四ヶ村共有民積米金」の名称で、監督戸長とこ名の取扱人によって運営されることになった。運営は江戸時代と同様難民の救助や、公共にかかわる費用の支出に充てられ、米は金に代えて利殖が図られた。
 その後明治一四年になって積米金の分割論争がもちあがった時、郡長桧垣伸は江戸時代以来の来由を重視して分割論をおさえ、植林と金融(明治二六年「久万融通会社」発足)とに充当するよう郡民を指導した。郡民のための積立金は「久万山共有凶荒予備」(明治一八年)・「明神村外八ヶ村久万凶荒予備組合」(明治二三年)・「久万凶荒予備組合」(大正一五年)と名称を変えながらも存続し、二六三ヘクタールに及ぶ組合林などを保有するに至った。

表5-91 松山藩郡別貯米高

表5-91 松山藩郡別貯米高