データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 享保飢饉①

享保飢饉と人口の推移

 享保飢饉は享保一七年(一七三二)の麦と稲の大凶作が直接の原因であった。麦も水田の裏作が大部分で、このため特に水田中心地域はひどい影響を受けた。当時の稲作は、いくらか余裕のある新田を除いては、年貢等の上納、郡・村入用等の納入を加え、手元に残るものはほとんどなかった。したがって農民は麦を最大の主食としていた。この麦の凶作は農民に決定的な影響を及ぼし、また稲の凶作は収入減となった藩側はもちろん、米価の高騰に伴って町人層、特に都市細民に大きな影響を与えた。
 さて、藩は毎年春、宗門改めと共に人数の確認をしていた。享保六年以降は、六年ごとの人数を幕府に報告することが義務づけられていた。表五-39は、享保六年から文政一一年(一八二八)までの松山藩の人口(藩士を除く、以下同様)の推移である。これによると享保一七年~延享元年(一七四四)までに二万九九一人、一二パーセントの大幅な減少を示している。これはもちろん享保飢饉の影響によるものである。なお、飢饉から一〇〇年を経た文政一一年の人口も飢饉前に復していない。
 表五-40は今治藩の享保一一年から宝暦元年(一七五一)までの人口推移と、享保一一年、同一八年の領内を地域別に区分した人口である。同藩では享保一五年から一八年の間に二、八一三人、さらに元文元年(一七三六)までに九〇二人、合わせて三、七一五人の減少が見られる。これは享保一五年の人口に対して七パーセントに当たる。また、享保一一年と一八年の領内人口の地域別比較では、この間地方と島方の人口が減少した一方、被害の比較的軽かった宇摩郡は逆に三六四人増加している。
 つぎに小松藩の場合、享保六年から元文三年までの人口を表五-41に示した。一七年の人口は春までのもので、まだ飢饉の影響を受けていない。したがって元文三年との差(二九七人の減少)を飢饉の影響と見ることができる。この間、小松領内の地域別人口は、周敷郡が三一四人の減少をみたのに対し、被害が少なかった新居郡はわずかではあるが増加している。
 特異な気象状況享保一七年は、春の多雨、梅雨期から続いた夏の長雨、さらに一転して下駄に移る(『虫付損毛留書』)、特異な気象状況であった。
 この年の稲の不作の東限界に近い摂津池田(現、大阪府池田市)の気象資料 (『池田市史資料編』3)からも、この気象状況を知ることができる。表五-42は太陽暦に換算した三月以降の月別の降雨日数を、前後の年と比較したものである。これによると、享保一七年の三月・四月は、同一六・一八年とほとんど差はないが、五~七月の間、特に七月(閏五月十日~六月十日)は、雨の日数が多い。しかし八月以降は両年と比較して大差はない。県内には当時の日記等の気象資料もないので、伊予国と同じように大凶作であった肥前佐賀と、摂津池田の降雨状況を、四月・五月・閏五月の三か月にっいて表五-43に示した。四月六日以降、晩春にはすでに降雨日が多く、梅雨に入った感じさえする。松山付近でも、春より長雨(『松山叢談』)とあり、また古田藩から幕府への報告に、当春以来夏中雨が降り続いたとしている(資近上七-5)。暦の上での入梅は五月一八日で、この時九州は降雨が続いていた。表記のように、閏五月は雨が間断なく続き、さらにこの表からはみ出しているが、六月に入ってからも雷雨が連目あった。
 もちろん、この間に伊予でも度々豪雨があった。宇和島では五月から閏五月までに大雨が三度あって、七三六町二反六畝余の田畑が流失・破損した(『伊達家御歴代事記』9)。松山付近でも閏五月一〇日を中心に数日大雨が続いた。このため河川・池の堤防の決壊、さらに井関等の破損が続出した(「増田家記」・「浮穴郡窪野村庄屋日記」)。藩主の江戸ヘの出発も二日遅らせて一三日に出発した。例年であれば、半夏生は梅雨の終末期に当たっているが、この年の梅雨は六月上旬まで続いた。したがって土用の前半は雨の降り続く冷夏であった。その後は西国代官所(増田太兵衛)・摂州代官所(千種清左衛門)から幕府への報告(『虫付損毛留書』)によれば、六月中旬~七月中旬にかけて雨が降らず、照り続いたとしている。この年に今治藩を襲封した松平定郷は、七月一一日今治に帰り、同月一九日には日吉村(現、今治市)の青木神社に参拝した。この時郡代・御用人・寺社奉行を同行して、雨乞祈祷を行っている(『今治夜話』)。また吉田藩では、七月上旬ようやく四、五目快晴となって、殊の外暑くなった(資近上七-5)と幕府に報告している。
 このように享保一七年は、春の多雨、長期間続いた梅雨と冷夏、残暑の異常な暑さと旱魃など異常気象の連続であった。同時にこれが、同年の麦の凶作および稲の虫付損毛による大凶作の自然的背景であった。

麦の凶作

 松山藩では畑方も含め年貢は米納が原則であった。このため、御物成米・御種子米元利・郡入用米・借米・借銀を合わせた年々の米による上納分、さらに郡・村入用米を加えると収穫量に対して総納人分は相当量に達していた。表五-44は和気郡堀江村の米の収穫量と上納米の数量を示したものである。これによると収穫量の減少した場合は、作徳米は極めて少なく、享保三年(一七一八)には六一五俵の不足米があった。このうち約八〇パーセントに当たる四八一俵余は御捨米(免除)となったものの、残る一三三俵三斗余と、さらに九〇俵を借入し、一〇年賦で返済することになっている。
 このように過重な米納の中で、麦作は農民の食糧確保のために極めて重要であった。表五-45は和気郡の麦作について示したものであるが、正徳三年(一七一三)は麦の大凶作で、平年の三分の一にも満たなかった。そのため、同年の稲作が平年作であったにもかかわらず、翌年の春米価は異常に高騰し、前年の秋に石(二俵)七六匁前後であったものが一二六・七匁にもなった(『松山市史料集』5)。
 麦のうち生育期間のやや長い小麦は、田植の制約のない畑方で一部栽培されていたが、麦作の大部分は、湿田(春田)を除く二毛作田の裏作として栽培されていた。湿田は海岸低湿地に多く、和気郡堀江村では田方の六〇パーセントを占めていた。このため耕地全体に対する麦の作付率も沿岸部ではおのずと低かった。麦作のうち小麦の占める比率は、同郡吉藤村では作付率一五パーセント・収穫高一〇パーセント前後、堀江村では作付率一〇~二五パーセント、収穫高五~一〇パーセント程度と極めて低く、麦作は裸麦が主体であった。
 享保年間前後で、麦の凶作であった年は、正徳三年・享保一七年・寛保元年(一七四一)および同三年であった。このうち正徳三年は、三~五月にかけて雨が続いたため、収穫された麦も朽ち麦で、収量も平年作の三割足らず、しかも実入りも悪く、このような年は前代未聞のことであった。また寛保元年・同二年も春の長雨で麦が朽ち、収量は豊年時の三分の一程度で、特に小麦が不作であった(『松山市史料集』5)。
 「伊予郡代官注進書」によると、享保一七年の麦作が大凶作であった北川原村・浜村・筒井村・西古泉村・神崎村・釣吉村は共に麦作は皆無と記してある。また周布郡北条村(現、東予市)の八幡宮神主矢野義尚の「享保一七年壬子凶年覚書」には、この年は春に雨が度々あり、麦作は例年の半作であった。麦刈時分は天気はよかったが、小麦・麦とも赤手がおびただしく付き、種子にはならなかったと記している(『小松邑誌』)。このことから、麦の凶作原因は赤手、すなわち赤かび病であったことがわかる。農業技術の進んだ近年でも、この病害が蔓延して収穫皆無となって焼き払ったこともある。藩政時代の麦の豊凶は赤かび病の発生状況と収穫期の降雨に支配されていた。前記正徳三年・寛保元・同二年の麦の凶作も、赤かび病によるものであった。この病害にかかると残った麦も「朽麦」として麦種子とはならなかった。さらに病原である胞子が稲株に付着して越年し、春になって気温が上昇すると再び活動を始め、空中を浮遊して、麦の開花時分になって適当な温度と高湿度があれば異常発生することになる。
 享保一七年は、まさにこの異常発生の年であった。四月七日の前後の雨は、ちょうど裸麦の開花期に当たり、また同月一四日前後の長雨は小麦の開花期に当たったこともあって、異常発生したものと推測される。

稲の植えつけと長雨・洪水

 松山付近の稲の植えつけは、和気郡堀江村の場合、元禄一二年(一六九九)は五月一四日(植え始めは湿田、以下同様)から六月一三日まで、宝永三年(一七〇六)は五月二日から同一六日までであった。さらに享保年代に入って、同三年は五月一五日から同二六日、六年は五月二〇日から六月三日までに植えつけられている。(『松山市史料集』5)。この植えつけの時期を新暦に換算すると、六月中旬~七月上旬に当たっている。享保一七年の場合も、長雨で田方の植えつけには都合がよかったと記している(「増田家記」)ので、植えつけの終了は、これらの年と大差なかったものと思われる。
 幕府へ報告した最終の損工局に、洪水にかかわる損毛が含まれているのは、傾斜地の多い南予にある二藩で、このうち吉田藩は全損手局の七パーセントに当たる七九七石余の風雨損米、宇和島藩は一パーセントに当たる二八三石余の流田損毛である(資近上七-18・22)。残る六藩については、すべて虫付損毛によるものであると記している(資近上七-15・16・17・19・20・21)。このことから、この年の豪雨は、稲の損毛高に直接は大きなかかわりのなかったことがわかる。

稲虫とウンカ

 稲の害虫は、古くはすべて蝗と書かれていた。宝永六年(一七〇九)貝原益軒はその著作『大和本草』で、螟・螣・蟊・賊の四種を蝗と呼び、すべてイナゴの類であると述べている。またこの中で、中国の古代の政治書「管子」を引用して凶年の五害(水旱風厲虫)の一つに含まれている虫とは蝗のことで、日本では俗に実盛虫というと記している。
 大蔵永常は、文政九年(一八二六)の『除蝗録』(後編は弘化元年出版)の中で、さらに飛虫・こぬか虫等を加え、合わせて一〇種類の蝗をあげている。そしてこの蝗の呼び方は国や所によって異なるが、蝗といった場合には、一般的にはウンカのことであるとしたうえで、過去の大凶作、特に享保、天明の大飢饉はウンカの被害によるものだとして、注油駆除法を呼びかけている。永常によって指摘された一〇種の蝗は、いまなお何を指しているか明確でないものもあるが、推定される害虫として、螟はイナゴ類、螣はウンカ類がツマグロヨコバイ類、蟊と賊は共にメイチュウ類(幼虫)、飛虫はウンカ類のうちトビイロウンカ、こぬか虫はツママグロヨコバイかセジロウンカに当てられている。
 農業技術の進んだ現在でも、なお大きな被害のあるのはメイチュウとウンカ(秋ウンカ)である。近世の場合も、この点では違いはなかろう。このうちメイチュウは、虫の食い込んだ株を除去することによって防止することができるが、ウンカについては注油法が導入されるまでは手の施しようがなかった。
 さて、享保一七年の稲の大凶作について、伊予の各藩を含め西日本の諸藩から幕府への報告書(『虫付損毛留書』)には、「虫付」としているだけで、稲虫が何であるかはわからない。しかし幕府代官所からの報告には、うんか(美作・備中・備後・讃岐預り所・近江・大和)、いもち虫(摂津・大和・但馬)、さいわい虫(大和)、かいとう虫(但馬)、あまごうんか(美作)と稲虫名を記している。このうち、いもち虫とかいとう虫は、但馬にある同じ代官所から提出されたものにもあって、このことから二種類以上の稲虫のいたことも考えられる。
 さて伊予では、大凶作の要因となった稲虫ぱどのように記録されているか、当時の古記録からまとめたのが表五-46である。これによると、ウンカ・うんか・浮塵子・雲蚊・雲霞の五つに分類することができる。したがって伊予の場合では、ウンカ以外の稲虫は考えられない。しかし、ウンカ類は種類が非常に多いので、詳細な種類はわからない。

ウンカの異常発生と幕府への注進

 ウンカの異常に気づいたのはいつか、これについて、まとめたのが表五-47である。これによると、六月以来とした「御先祖由来記」の記録もあるが、具体的に期日のわかるものでは、「和気郡堀江村庄屋記録」の六月一五日が最初である。なお、この三日後が立秋に当たっている。次いで、小松領の周敷郡北条村付近の状況を記した「社司矢野義尚享保十七年壬子凶年覚書」の六月二〇日、『今治夜話』の六月二二日~二三日と続いている。「味酒神社年代記」には、七月七日ごろより虫くいが始まったとあるが、『松山叢談』の味酒社日記引用部分では、六月中ごろからうんかがわくと記してある。
 ウンカの異常発生は九州(西国)の場合、『諌早日記』の「近日もっての外、虫が増えた」とする六月八日の記録が最も早い。また『九葉実録』(大村藩)には、六月一五日の項に「封内大ニ蝗アリ」とある。したがって伊予は九州に比較して、ウンカの異常発生時期が遅かったことがわかる。九州では土用の前半から、伊予は、後半以降の異常発生であった。夏ウンカ(セジロウンカ)の多発と、秋ウンカ(トビイロウンカ)の異常発生によるものと推定される。この年に限らず、近世の稲の大凶作は、ほとんど秋ウン力さらには夏ウンカによる損毛であった。
 この稲虫の異常発生に驚いた各藩は、幕府へ注進することになった。これをまとめたのが表五-48である。伊予国のうち注進の最も早かったのは大洲・新谷藩で、七月二六口に老中へ報告している。大洲藩は藩主が在郷中で、七月一七日地元で作成された注進書が、そのまま老中に提出された。ところが藩主が在府(江戸)の場合は、地元から江戸屋敷の藩主の元に届けられた注進をもとに正式の注進書が作成され、幕府に提出されている。小松藩の提出は七月二八日、松山藩は翌二九日であったが、藩の使者が注進のため江戸藩邸へ出発したのは、小松藩は七月一一日、(資近上七-128)、松山藩(使者は勘定奉行)七月一四日(「増田家記」)のことであった。したがって、実質的には注進の最も早かったのは小松藩・松山藩の順になる。
 最初の注進書にすでに飢人について記人しているのは古田藩であった。当時藩主は在郷中で、注進書は七月二六日の日付けで作成されている。これによると、稲の収穫皆無の村浦は数十か村にも達し、渇命に及ぶものが数多くある、六記されている。宇和島藩では、享保一二年に二万四、〇〇〇石、二年後の一四年に四万五、二一四石、共に虫付きを中心にした損毛が続いていた(『記録書抜』)。吉田藩でも同じ状況であったと推測されるので、この注進内容も誇張されたものではなかろう。

ウンカによる虫枯れの進行

 ウンカは六月後半から田面に現れ、七月に入るごろから、急激な勢いで増加した。すでに松山付近では、七月上旬までに決定的な損毛(被害)となっている。
 和気郡古三津村(現、松山市)の場合、損毛状況は七月八日現在でまとめられ、翌九日庄屋から代官所に注進されている。表五-49はこの被害状況を示したものである。もちろん、村方役人の調査(改め)であるから若干の誇張もあろうが、それにしても本田(古新田を含む)七三町六反余のうち四八パーセントに当たる三五町歩は皆無、皆無と見えるがなお少々青味のあるものが四二パーセント三〇町八反で、収穫のほぼ九〇パーセントが絶望的である。残る一〇パーセントにっいても、痛みは少ないものの虫は多いと指摘している。また新田にっいても二八町八反余のうち、八七パーセントの二五町は皆無、残る三町八反余も中痛となっている。古三津村には、これ以降の資料はないが、恐らく数日後には、収穫の全く望めない壊滅的な状態になったものと思われる。
 収穫が望めなげれば、できる限り早期に畑作物に切り替えるのが得策である。松山藩は七月一二日藩役人の吟味によって、菜・大根・蕎麦等の勝手作が許可された。吟味時期は出穂期が選ばれ、早稲については、和気郡は一四日、風早郡は一五日に実施されている(古三津村庄屋御用日記)。
 浮穴郡窪野村(現、松山市)は三坂峠のふもと、窪野川沿いの盆地に位置した村である。当時の石高三〇一石、面積五八町五反余のうち、石高では田方が八五パーセント、面積四三町三反余(うち川成引五町余)と七四パーセントを占め、新田はなかった。水田は主として標高一〇〇圭二六〇メートルに分布し、等高線に沿うて階段状に配列をしている。
 庄屋が注進した最初は七月六日であった。これによると、ウンカの多いこと、早稲の出穂が殊の外悪いこと、中稲、晩稲についてはまだ出穂しないので様子がつかめないことの三点であった。さらに一四日には、虫の被害が村の隅々まで行き渡り、三~六、七歩の虫痛みに見える。このうち三~四歩通りの痛みは、青味はあるが、出穂は極端に悪い。五~七町程(田方の一三~一八パーセント)は、今は虫痛みが少ないが虫は多い。またところどころの大痛み場所を合わせ五~六反程は皆無になったと記している。七月一六日には、昨日の昼から虫痛みが激増したこと、大痛みのうち四町歩が皆無になったことを注進した。しかし虫食いの進行速度は、和気郡古三津村の七月八日現在のものと比較しても、なお遅れていることがわかる。その後、虫食いの注進は七月二二日、そして二四日で終わっている。二二日のものには、村中ならして五歩通り余りの痛み、また、水田一筆単位ですべて損毛するのではなく、生毛が少しずつ残っているとしている。二四日の注進では、「枯れ日々相増し」とあって、依然として虫食いは衰えていない。
 大凶作の年には、まず籾種子を確保する必要があった。この年の窪野村の総収納高は、表五-50で示したように一二一俵余で、すべて籾で収納されたが、この中には籾種子にならないものが四六俵余も含まれていた。
 『小松藩会所日記』(資近上七-128)には、七月八日から小見付けの完了する九月一九日までのウンカによる損毛状況が収録されている。このうち主なものを表五-51に示した。はなはだ食い痛みが見えるとした七月八日の翌日には、水が醤油のような色になったと記している。これは脱皮したウンカの抜け殼によるためで、異常発生していた様子がよくわかる。七月一〇日には、皆無同然の村もあるとしているが、これを具体的な地域名で挙げているのは、「下通り皆無の様子」とした七月一七日の記録である。下通りは周敷郡の北条・広江・今在家である。領内のうち山沿い、上手にある新居郡(四か村は共に山麓~山間部にある)の村々は、下通りに比較して虫食いの進行が遅かった。例えば七月九日の新居郡は稲に虫気はなかったが、早稲等においおい腐りが見えた。また七月一八日の吉田上分、大頭村に虫食いが少ない。同一九日妙口、大頭は稲の見分けの様子がよいと記録している。ところが、七月二一日新居郡上島山・半田はかなり痛んでいる。また九月一日大頭村前方の見分けと違い、おいおい甚だしい痛みがある、と記載されていることからわかるように、多少損毛の程度は軽かったものの大凶作であったことは間違いない。九月一九日の項に、「見立米(本田・新田分)書付差し出す」とある。
 ウンカ、特に秋ウンカの被害は坪枯れが特色である。水田中のいくつかの核を中心に同心円状に虫枯れが進行する。この年のような大凶作の場合でも、隣接する相互の坪枯れの境界付近には生毛(枯れ残り)の残ることがある。小松領内では、他と比較してやや被害の軽かった妙口村で、見立米を決める小見付か、九月二日~一〇日と長期に亘って実施されていることは、この生毛が各所に残り、確認作業に手間取ったためであろう。

ウンカの防除法

 後述するように、新しい防除法が一部導入されていた地域もあるが、当時の防除は、祈祷・まじない、それに虫送り等が中心であった。
 松山藩では、虫退散の祈祷を、道後八幡宮で行うことを申し渡したのは、七月一日であった。各郡および村でも、これに倣って祈祷・太鼓・鉦による虫送りが毎夜続いた。小松領内では七月八日ごろから昼夜の別なく虫送りを行った。
 二宮神社編年誌』(資近上七-133)によると、この付近の虫付きは、七月五日ごろからであるが、すでに伊予各地からの情報は、七月一日ごろまでには伝わっていた。金子村で虫送りを始めたのは五日ごろからで、堂庵から持ち出した半鐘をたたき、鉦・太鼓を打ち鳴らし、ほら貝を吹き、大声にはやし、夜は松明をかざし、昼夜の区別なく、畦畔を巡行して虫送りを行っている。西条藩では虫退散の祈祷を蝗除祈祷と呼び、七月一〇日~一二日までの三日間、西方(西条)は石鎚権現、東方(新居~宇摩分)は一宮神社で斎行した。これは藩の指示によるもので、領内の神職が参寵し、大庄屋・庄屋が村を代表して参拝するよう命ぜられた。表五-52はこのうち一宮神社関係を示したものである。寒川組に庄屋の代参があるのは、祈祷最終日に代官による稲痛みの見分げに庄屋が立会ったためである。祈祷の後、煌除札(虫除け札)は各村に配布されて、村の入口等に立てられた。
 今治付近は、七月一五日・一六日ごろから虫食いの最盛時で、虫除けと雨乞を兼ねた祈祷を、一六日には真光寺で、一九日には藩主も参拝して青木社で執行した。「今治夜話」にはこの効果があって、にわかに風が吹き、小雨もあって、虫気はこれより衰えたとある。
 『小松藩会所日記』享保一八年四月(資近上七-128)の項に、かねて仰せられた通り、一反分の苗代に射干草(三本の割合であおぎ風を当て、さらに水口に立て、虫除けのまじないとするように、申し渡したとしている。また虫つきを防ぐため、畦畔に虫の嫌う慧葺仁(はと麦)を植えることを村々に触れたとしている。
 稲虫防除法として、いくつかの積極的な方法があった。宇和島藩は、最近年々稲虫が多く、この原因は稲の古株であるとして、享保一一年(一七二六)の冬から一二年にかけて、稲の古株を取り除き焼き捨てるよう指示し、この人夫費用として三〇〇俵を農民に与えている。こ収が徹底したかどうかはわからないが、同一二年・一四年・一七年と虫付き損毛が続いた。また幕府は同一八年二月、前年の虫の巣が葭・萱の根、または土の中に残っているとして、掘り返し焼き捨てるよう幕領・大名領に指示した(『虫付損毛留書』)。
 松山藩は、虫食いの激化していた七月九日水の干上がった田に虫食いが少ないとして、まだ虫のついていない田は、すべて水を切り流すように申し渡した(「西岡家記」)。また、これで仮に稲が痛んだとしても、やむをえないとしている(資近上七-130)。これは松山藩のとった苦肉の策であったが、その効果がどうであったかは、よくわからない。いずれにしても、松山藩は決定的な凶作に追い込まれた。
 松山藩領風早郡代官所の享保三年から文政二年(一八一九)にかけての重要事項をまとめたものに、『壱番日記呼出』がある。この中の「雑事」の項七月一六日(資近上七-130)に、「田方虫付きの場合、鯨油を水田に流せば、虫の防除ができることを他領で見分した。また夜分虫の近くでたき火をすると、残らず虫を集め炊き殺すことができる。この二つの方法を生毛の残っている場所で実施するように」指示した記述がみられる。この鯨油の防除法は、ただ水面に油を流すだけで、『除蝗録』にあるような、ウンカを払い落とす作業までは知られてなかったらしく、ほとんど効果もなく、また時期的にも遅かった。もっとも、鯨油の使用がどのような経路で伝えられたのかはよくわからない。

藩としての当面の急務

 ウンカによる損毛は、地域によって多少の違いはあったが、晩稲の出穂時期に当たる七月二〇日ごろには、大凶作は現実の問題となった。したがって藩としても、この異常な状況の中で、藩士に対して俸禄の渡し方、米穀の領外流出を防止すると共に搬入を図ることが当面の急務であった。
 小松藩は七月一五日、藩士の俸禄制限令を発表した。これによると、表五-53に示したように給人(切米取り以上)は、家族一人当たり半扶持とした。なお、石高に対する扶持割合は、収納の確定する一一月まで保留する。扶持米取りについても減額支給するとして、同月二〇日から実施した。扶持米取りのうち、在所(小松)勤務の藩士については生活が厳しすぎるとして、九月・一一月に順次改正された。九月六日には、「虫付き大変につき、御簡略かたがた御戻りあそばされる」として、藩船静丸で二五名の江戸詰め・大坂詰めの藩士や中間達が帰郷した(資近上七-128)。このように小松藩は凶作についての対応が早かった。
 松山藩は被害が最も大きく、藩士の俸禄は人数扶持以外の方法はないとして、七月二〇日に申し渡した(資近上二-52)。これは各家の抱えている家来人数と家族数を組(部署)ごとに取りまとめて申告させ、これによって扶持米を支給する仕組みである。この場合申告できる家来人数は、役職・持高によって規制された。また家族数についても三歳以下は含まれなかった。九月二四日藩庁では、先々御扶持方の渡し方についても不安で迷惑をかけるとして、持高に応じて二〇〇匁~六匁(正銀=銀貨か銀札かは不明)を支給した。
 今治藩は七月二五日藩士を総登城させ、家老服部伊織から、年々引米を申しつけて心苦しいが、今年の損毛ではやむをえないとして、人数扶持を申し渡した。これによると、家族給のうち本扶持は給人の場合六人まで、中小姓は四人まで、従士格は三人までで、これ以外は半扶持、また家来給は一〇〇石について人数扶持一人、給人格の家来は半扶持であった(今治藩編年史料)。
 宇和島藩のとった当初の対応を示したのが表五-54である。今年は虫つきで過分の引き方になったとして、七月二二日全藩士(知行・切米・扶持米取り)に対して、大幅な御借米(引米)を覚悟するように申し渡した。八月一七日藩は給知(知行地)分の米(大豆・胡麻は従来通り)はすべて藩の蔵納めにすることを申し渡した(『記録書抜』)。宇和島藩は正保二年(一六四五)に給知制を中止したとされているが、この申し渡しから推定して一部復活していたことになる。さて、知行地は村から納入された米・大豆・胡麻等を代官が取りまとめ、給人(知行取り)に手渡す仕組みであったから、藩へは蔵納めで俸禄も蔵米から支給されることになった。この年は御借米として、どの程度引米されたかよくわからないが、大幅な引米のあったことは間違いない。しかし藩士にとって最悪の事態である人数扶持の記録は見当たらない。表記したように、藩は支出を最大限に切り詰めると共に、藩士に対しては勤務の軽減、また男女召仕人数を削減させるなど、経費の節減を図らせた。
 米価の高騰は社会不安を一層強め、この結果銀札に対する信用は低下した。松山藩は七月一五日この混乱を避けるため、正銀との交換を取りやめ、三津札場(銀札場)を閉鎖した。このような状況下にあって、藩はまず米穀の確保に乗り出した。表五-55は三津における松山藩の米の確保策を中心に表記したものである。これによると、商人を督励して旅米の導入を図ると共に、藩自体も一、○○○石を尾道で購入し、八月五日三津の藩米蔵に搬入した。また七月一八日には、三津商人一二人の米蔵から、合わせて米五八俵を買い上げ、蔵の封印を解除したとしている。このことから記録は残されていないが、蔵改め、封印が前もって実施されたことが理解される。三津は松山藩最大の米の集散地で、したがって蔵改めと封印は米の領外流出の防止を目的としたものであろう。八月一○日にも蔵改めがあったが、これは松山の酒屋預り米を吟味するのが目的であった(資近上七-135)。
 今治藩は七月一九日、町奉行所から米雑穀の他領売り差し止めの触れを出した。翌二〇日には、「抜売」によって、他領に流出するのを防止するため、町・郷・島方とも蔵改めを実施して、数量を確認し封印した(『今治拾遺』)。
 『今治夜話』に収録されている「岩井孫八物語」によると、町方の蔵改めは非常に厳しかったことがわかる。家ごとに米高を調べ、なかには床の下等に隠した米もあって、これらはすべて納屋・土蔵に入れさせ封印した。ところが、日々の飯米まで封印された者もあって、甚だ難渋した。このため、嘆願の結果三日後に封印は解除されたと記している。
 八月三日領内の巨商・富豪一六人(表五-56)を城内に招き、今年の財源の窮状を述べ、臨時御用銀の拠出方を要請した。全体の割当額はよくわからないが、このうちの町方五人衆は九〇貫目が割当てられた。この金額(正銀)は、当時の米価に換算すると一、五〇〇石に当たる莫大なものであった。
 宇和島藩は他領から米穀を搬入することを禁止していた。ところが米穀が高騰したため、八月は米穀の番所改めは行わないとして、搬入を黙認し、九月以降は正式にこれを許可した(『記録書抜』)。
 西条藩でも飢扶持渡しのため、尾道・輛方面で米麦等を購入し搬入したものと推測される(『多喜浜塩田史』)。小松藩では九月一九日新屋敷の商人を大坂に派遣して、米四九石四斗余、麦六七石一斗余を代銀五貫七九〇匁で購入し一一月一〇日帰郷した。なお翌一八年一月には飢夫食として尾道で購人した麦一〇〇石を搬入した。

損毛高の注進と取箇

 幕府へあてだ注進書のうち、西条・小松・今治・吉田・宇和島藩から提出したものにぱ、損毛高が報告されている。このうち九月中に注進したのは、四日の西条藩と、一四日の小松藩である。小松藩の場合、損毛高を調べ、見立米(残米)を確定する検見(小見付)の終わったのは、九月一九日であった。したがって、この表五-57にある損毛高は、検見の完了する以前の数字である。もちろん大差はないと思われる。小松藩は畑方については春免を踏襲しているので、この損毛高は領内の田方にかかおるものである。西条藩の損毛高も、収穫を終えての最終的なものではなかろう。
 今治藩は損毛高一万八、六四三石余、領内石高の四六パーセントであり、これは西条・小松藩の比率に比べても少なすぎる。したがって、年貢の減少分を損毛高に置き換えて注進したものであろう。吉田藩は、損毛高と年貢の減少とを区別して注進している。損毛高は領内石高の九二パーセントを占めている。宇和島藩の損毛高は九万一、〇五七石余で、総石高の九一パーセントに当たっている。総石高から損毛高を差し引き、残り高(見立米)九、三四五石余、これに免(税率)・乗口(付加税)から、年貢を算定すると、三、〇九二石余となり、幕府に報告された年貢三、〇八六石余とほぼ一致している。
 幕府(勘定奉行)は、享保一二~一六年の五か年の年次別取箇(年貢)とその平均、さらにこの一七年の取箇を記載して提出するように指示した。伊予各藩ともこの指示に従って、一〇~一一月の間に取箇資料を報告している。このうち特に一七年の取箇は、幕府の拝借金の貸与条件ともかかわっていたので、もちろん作為のあったことも推測されるが、各藩の損毛、作柄状況の概略について知ることができる。これを表五-58で示した。これによると、取箇の陥没は一四年にもある。この年は、六月の干ばつ、八月・九月の大暴風、それに虫付き(『記録書抜』その他)による凶作であった。しかし一七年に比較すると、落ち込みようははるかに少ない。
 享保一二~一六年を平均した取箇と、石高との比率を算定すると、八〇・八パーセントの松山新田藩を最高に、松山藩八〇・七パーセント、大洲藩六二・六パーセントの順で、最低は宇和島藩二九・五パーセントである。この数字は、検地のさいの石盛の決め方等が大きく影響しているので、そのまま農民負担の厳しさに結びつくものではない。
 飢饉前五か年を平均した取箇に対して、一七年の取箇の占める割合は、藩ごとの凶作の程度を表すものであろう。松山藩・同新田藩は取箇皆無、小松藩は九・八パーセント、宇和島藩一〇・四パーセント、今治藩一六・四パーセント、吉田藩二二・五パーセント、大洲藩三四・九パーセント、西条藩は四九・八パーセントである。松山藩の場合、悪米一、四五○石は夫食米として渡したとある。これを取箇に入れても、わずかに一・二パーセントである。また小松藩は、取箇はすべて畑方で、田方は皆無であった。ただ悪米が四〇〇石余あり、夫食米に渡しかとしている。これを取箇に加えると一九・四パーセントになって、今治藩の次に位置することになる。一七年の取箇が正しく報告されたかどうか、この年の凶作は稲のウンカによる虫付きで、このため耕地に占める水田の比率も多分にかかわってくるから、この藩の順序がそのまま凶作の強さとはいえない。しかし凶作の中心が松山付近であることは間違いなかろう。

拝借金の貸与

 九月二八日諸大名が江戸城に登城したさい、虫付き損毛地域の大名に対して拝借金を貸与することを申し渡した。なお在郷で登城できなかった大名(伊予では今治・大洲・吉田)については、同日夜老中松平左近将監(乗邑)宅に家来を集めて申し渡した。この時の貸与の条件は、一七年の取箇(年貢)が前五か年(享保一二~一六年)の平均取箇の半分以下の場合に限ると規定された。
 各藩はこの年の免定(年貢率決定)の終わるのを待って、一七年の取箇に享保一二~一六年までの取箇と平均を添え勘定奉行に提出した。伊予の各藩はもちろん条件を満たし拝借金が貸与されている。ただ新谷藩に貸与されなかっだのは、大洲藩六万石のうち一万石の内分であったから「壱人立」(『虫附損毛留書』)と見なされなかったためで、この決め手は上米(享保七~一五年まで一万石につき一〇〇石)を上納しなかったためであった。貸与金額は表五-59にあるように、最高は松山藩の一万二、〇〇〇両、最低は小松藩・松山新田藩の二、〇〇〇両で、この返納は翌年は免除、一九年から無利子五か年賦で上納する規定であった。
 さて藩にとって拝借金がどのような役割りを果たしたか小松藩の例で考察しよう。表五-60は小松藩の拝借金にかかわっだ事項を表記したものである。九月二八日当時在府中であった藩主一柳兵部少輔(頼邦)は江戸城中で拝借金貸与の内示を受けた。この知らせが大坂経由の今治藩の便で小松に届けられたのは一〇日後の一〇月七日夜であった。藩では直ちに家中に知らせると共に、領内の庄屋に対し明朝会所に参集するように指示した。八日朝領内の庄屋に拝借金が仰せつけられたことを告げ、①作柄のよかった畑方にっいても増免(〇・一~○・○五)を免除し例年の通りとする。②町裏の畑方も例年の通りとする。③去年からの借免(〇・一)も今年は免除する。④損毛の最も大きかった下三か村(北条・今在家・広江)の家敷年貢を来年に延期する。⑤種子籾の利を今年は免除する。⑥村高に二歩通り(○・○二)の米(夫米)は枯稲を除き生毛のみを対象とする。⑦新屋敷村の一〇〇石分の畠田(オカボの作付)は収穫皆無のために畑年貢は免除する、と以上七項目の申し渡しをした。これらはいずれも年貢等の減収にかかわるが、しかし拝借金がこれを補てんする役割りを果たし、年貢等の減免に踏み切ったのである。
 拝借金二、〇〇〇両は一一月九日江戸で受け取った。このうち江戸割り当て分として、江戸屋敷の春までのまかない分、そのほか諸人用、家中への御心付け分を合わせて八六八両三分(全体の四三パーセント)・大坂までの送金経費一両一分・大坂での上納金その他一〇〇両を除いて一、〇三〇両を一二月一四日に小松に持ち帰った。この拝借金の受領によって同月二〇日には藩士のうち給人・中小姓に、また翌二一日には徒行中に御心付金を支給している。

米価の高騰

 享保一〇年から一六年までの米価は、米の流通の中心大坂堂島会所でも安値で、最高(一一年)、最低(一四年)、共に低い水準で上下した(『米と江戸時代』)。松山藩の米価は図五-6で示したように、最高は一一年一〇月の五四匁四分余、最低は一四年の三〇匁である。数字を欠いだ年もあるが、これが最高、最低であることには間違いはなかろう。
 享保一五年幕府の藩札解禁を機会に、松山藩では藩札を発行し正貨と交換させ、一分(銀に換算、一匁の一〇分の□以上の正貨(金銀銭)の通用を禁止した。
 享保一七年は麦の凶作、六月後半からウンカの異常発生で松山付近は七月に入って皆無は決定的となった。このような社会不安を背景に米価はすでに一石二〇〇匁、麦同一五六匁、大豆は同一三六匁に達した。七月一九日藩は用意米として五八俵を三津商人から強制的に買い上げたが、この値段は石当たり一七三匁の高値であった。米を中心とした食糧の高騰は、藩札への不信を招き、領民が正貨の交換を求めて殺到したため、七月一五日藩は三津札所を閉鎖した。八月一日ころ、穀物の公定相場は銀一匁で米二合八勺(石当た旦二五七匁余)麦・大豆各四合であったが、この値段でも町方では一切商売をしないとしている。さらに一一月には一石九三七匁余に達した。この数字が架空でなかったことは、藩札を改印札に切り換えた際、享保一八年一二月の町中への触書に「正銀一〇匁が銀札五〇~六〇匁ないし一四〇~一五〇匁で交換されているのはふとどきである」と記されていることによっても明らかである(『松山藩法令集』)。
 大坂町奉行は、幕府の回米を払い下げる場合、前もって各藩の米価を報告させた。この報告のうち小松藩・新谷藩のものが残されている。これによると最も安い新谷古米で一石につき五〇匁、その外は両藩ともに五七匁三分~六四匁八分である。したがって幕府の回米もこれに似合った価格で払い下げられている。宇和島藩に対して一八年一月に払い下げられた幕府回米は、九五匁~一〇〇匁六分に暴騰しているのは、もちろん地元宇和島の米価に対応させた結果である。宇和島藩でも一七年九月ころから藩杜の通用が滞った、このため中旬には、「内分で相対を以って振替え通用」(『記録書抜』)とあるように、内々で正貨との差を公然と認めていた。しかし藩はこの差を最少限に食い止めるため、藩札で上納物を納入させ、また一八年三月には町人から銀札三九貫余(外に銭二〇貫余)を御用銀として納入させるなど、藩札の回収を図った。

藩の飢人救済

 享保年代は凶作が頻発し、一四年もひどい凶作であった。宇和島藩でも表五-61にあるように、一四年一二月~翌一五年四月まで間に、飢人一万三、三七二人に一人当たり二升八合余の飢食を貸与し、また年々の年貢納入の延期分大豆二万五、八〇〇俵余を免除している。一五年は比較的作柄はよかったが、冬から一六年の春にかけて、当時困窮していた浦方に米四、〇〇〇俵を与え、村方に対しても、一四年出水のさい破損した箇所の川除普請を実施して夫食二、二〇〇俵余が支給されている。一六年も洪水と虫付きのために不作であった。これを受けて翌一七年二月以降、保内組~御荘組までの間、広範囲にわたって飢食が渡され、また総延夫数一五万五、一七三人の川除普請を実施して米一、〇四四石の夫食を支給した。唐黍にっいても事実上栽培を認めている。唐黍は当時急激な勢いで普及して、城下町の宇和島にも莫大な量が出回った。このため雑穀ひいては米価への影響も大きいとして市中への搬入と、栽培についても取り締まっていた。しかし一七年二月、困窮が甚だしいとして、当分の間上畑以外の栽培を認めると共に、飯料の余分を売り渡すことも勝手次第であると申し渡した。
 表記のように九、一〇月になって宇和盆地にある水田中心地域の多田組、山田組の飢人数の急増しているのが目立っている。飢食渡しが一一月二日を最後になくなるのは、記載が省略されたためである(『記録書抜』)。一一月二目の時点で、山田組の飢人は、三、九九八人で人目の五八パーセント、多田組は二、八六四人で人目の四七パーセント(ともに宇水三年の人口と比較して)に当たっている。翌年二月幕府に報告された宇和島藩の飢人は五万六、九八〇人で全人口(宝永三年)の六七パーセントである。表五-62は『不鳴条』にある「蝗災年飢食下される覚(一七年七月・一八年三月)」を表記しかものである。これによると、大豆は穀物全体の八〇パーセントを占めて飢食の中心であった。
 虫付きの村に対しては、この年の暮れは拝借物の取り立てをせず、また自分相対の場合も取り立てをしないことを一一月一二日申し渡した。同月二五日宇和島城下の無縁者・町方の飢人に対して、藩は翌年一月中頃までの予定で粥の施しを始めたが、藩士・寺院・町方有志の協力(友救)もあって三月まで続けられた。
 松山藩の場合、すでに七月一六日に周辺の郷方から流れ込んだ多数の袖乞が城下を徘回している(西岡家記)。したがってこの頃には多数の飢人のいたことがわかる。伊予郡上野村上分(松山藩預り)では七月三〇日から翌一八年一月三〇日まで飢扶持が渡された(「壬子歳飢人扶持渡」)。
 表五-63は和気郡古三津村の飢食給与状況を整理して表記したものである。これによると飢食(雑穀を含む御救米)の支給は九月三日から翌一八年四月四日までの間で、このうち実数は無給日を除いた一五三日(無給は一四九日)であった。飢人は一八年一月一七日までは百姓と無給(土地を持だない)、一月一八日~同月二七日までは区別なし、これ以降は男・女・子供に区分されている。飢人の最大数は一一月中旬から翌年一月中旬にかげての二、四一一人で、九月三日の九〇四人の二・七倍に達している。この飢人数は飢饉直後の一九年の人口一、九五九人(『和気郡弐拾弐ヶ村手鑑』)をはるかに上回り、このことからも当然多数の餓死者のあったことが推測される。
 支給内容はまず大麦に始まり、次いで米に変わり、二月三日以降は厳しい食糧事情を反映して、米の割合が次第に減少して、大麦・小麦・大豆・稗・蕎麦等の雑穀が増加し、小麦粕・糠・醤油の実(搾りかす)、さらには漆の実・いもの茎(里芋)ひじき・神馬草までが米に換算され、主食として渡された。また三月四日~七日と三月二八日~四月四日には四石七斗余、二石四斗余が支給されなかった旨を記しているが、形式上は支給されたとして一日の支給量、総支給量にも含まれている。こうして飢食として渡された回米の総量は一七〇石三斗余で、このうち幕府回米は一一八石余(不足分を除く)で六七パーセントを占めていた。しかし、この回米には不足米が多く、飢食として渡された実際の量は一五八石六寸余であった。
 小松藩の飢人救済は「御山」(藩有林)を蕨掘りに解放したことから始まった。ところがこの結果、当分蕨掘りを必要としない者まで山に入り込み、木の根(かくい)等を掘り返し、牛馬を使って持ち帰る者まで現れた。そこでこれを防止するために、藩会所が木札(鑑札)を庄屋の証明した難渋者に限って渡すこととし、人山の際これを所持させることにした。
 藩会所は検見(毛見)に引き続いて免定も九月二五日までに終え、これを機会に飢人救済に主力を注ぐことになった。同二五日周布郡内に二人の足軽を派遣して、村々の端々まで見回り飢人の有無を確認するように指示した。庄屋から飢人数について報告があったのは、九月二八日の今在家村(飢人一三人)・北条村(同四五人)・広江村(同二四人)が最初であった。これ以降一一月一四日までの間に、千足山村を除く周布郡内から増加のつど飢人数が報告され、その総数は一、八九五人となった。なお一〇月一八日、今治に派遣された大坂町奉行所与力の阿部伊右衛門に対して、飢人数九八九人(周布郡一〇か村七二三人、同小松町六五人、新居郡八か村二〇一人)と報告している。
 藩は庄屋からの報告の度に会所詰の藩役人を派遣し、飢人を確認して籾三升~五升の飢食を与えていた。ところが幕府への報告以後飢人が急激に増大したため、庄屋を経由した飢人救済では処理できなくなった。このため翌年の一月から、領内を①新屋敷村・小松町、②北条村、③妙口村、④北川村・南川村、⑤周布村・吉田村、⑥大頭村・大郷村、⑦新居郡四か村の七つに区分して、各二名の会所役人(足軽を含む)を配置して飢人救済に当たらせた。一月一四目には飢人数が五、四二四人に達した(二月四日付け大坂城代の老中あて報告には五、四一一人とある)。飢食の総支給量は米三八四石八斗余(雑穀も含む)、味噌三七〇貫余にのばった。また一二月二〇日には、飢えと寒さで難渋する下三か村の飢人に大小各五束の薪を支給した。また同日周布村理兵衛ら三人は、北条村で米一石六斗、今在家村・広江村各米八斗の粥を施与することを藩会所に申し出許可されている。さらに二月にも町年寄ら有志によって粥が給されている。
 さらに小松藩の救済策に作夫食(作食)の貸与があった。生命を維持するための飢食に対して農耕のための飯料で、一八年二月九日から支給された。総貸与量は表五-64にあるように米一二〇石余であった。このうち八八パーセントは被害の最も大きかった下三か村が占め、一反当たり本田は六升、新田は三升であった。被害の比較的軽かった新居郡四か村、周布郡の妙口・大郷・千足山の三か村には貸与されなかった。

幕府の回米

 幕府の勘定奉行は回米についての基本方針の中で、領内の人民は領主の作略で救済するのが当然であるが、今年は国々とも異常な凶作で、金銀の都合はついても、近国には米がないので、このためやむをえず回米を実施すると述べている。幕府は当初、回米は小倉あるいは北九州の二、三の港を予定していた。ところが各藩や代官所からの注進、大坂城代等の情報収集によって、中国・四国筋が回米の対象地域に加わった。
 伊予は宇和島に回米される予定であった。ところが、大坂城代から老中に提出した一〇月二八日付け文書に「飢人有る場所、今治湊の方船着勝手よく」とあって、今治に変更されている。なおこの中に、伊予は虫付きが強く、緊急に与力らを派遣して、各領主の役人、名主に面談して確かめたところ、おびただしい数の飢人で、回米二万五、〇〇〇石の申し出があったと報告している。この与力とは、大坂町奉行所の阿部伊右衛門で、ほかに二名の同心が随行した。一〇月一七日今治の宿舎(本陣)となった長嶋屋惣右衛門宅に到着し、大坂町奉行と各藩との回米折衝に当たった。また、各藩とも米受取役人を今治に派遣した。したがって回米の終わるまで、与力ら大坂側役人、各藩役人、村役人等が今治に滞在した。
 さて阿部伊右衛門らは到着した翌一八日、本陣で各藩役人および村役人から領内の事情を聴取した。表五-65は新谷藩の回米受取役人である。また、このときの伊右衛門と新谷藩回米受取役人との問答を表五-66に示した。これによると飢人、特に餓死人について注意を払っていることがわかる。また新谷の米価について、上米五九匁、下米は五七匁と答えたところ、それは下値であろう、出発のとき大坂でも七〇匁余りであったと反論している。これは払い下げ価格が地元の米価によって決定されるので、これを配慮した与力側の牽制であろう。
 大坂から積み出された回米は、大坂城代から老中に報告された。これによると伊予は表五-67にあるように、一〇月二八日までに一万二、〇一九石余が積み出され一八年二月一六日一、五八七石余で終了している。この間に伊予に回米された量は合わせて三万九、五四九石余であった。この外に松山藩に委託されていた城詰御用米の残り七、〇〇〇石のうち、六、三〇〇石が追加申し込みをした松山藩に払い下げられたので、これを加えると合計は四万五、八四九石余になる。このうちには新谷藩の海上損失米二〇〇石が含まれているので、これを除くと実質は四万五、六四九石余になる。この伊予各藩の数量を表五-68に示した。松山藩への払い下げ数量は、二万一、四八八石で、佐賀藩・福岡藩に次いで多い。国別で伊予は全体(約二六万石)のうち一七パーセントを占めて最も多い。宇和島・古田両藩は石高に比べ払い下げ数量が異常に少ない。
 今治に回米されたもののうち、小松・新谷両藩に払い下げられたものを表記したものが表五-69である。これによると最初の受け取りは一一月七日、最後は小松藩の場合追願分を除いて同二九日、新谷藩は一二月五日であった。もちろん米は古米で、払い下げ値段は地元米価を基準に与力と各藩役人との交渉で決められた。一一月七日に受け取った米は石当たり六四匁七分五厘、この後多少安価になったこともあるが、年内ぱほぼ六五匁程度で推移した。ところが一八年に入って受け取った分については、一石九五匁~一〇〇匁六分の高値になった。代銀支払いについては後に変更になるが、当初は受け取ってから一〇〇日後と定められていた。
 幕府払い下げの回米を家中(藩士)の扶持米として支給することは許されなかった。回米は飢人のためのもので、したがって飢人数は、そのつと、各藩から与力阿部伊右衛門を通じ、大坂町奉行に報告され、大坂城代から老中へも通知された。表五-70は伊予各藩の飢人数をまとめたものである。藩によって飢人数が最大になった時期は異なっているがこの最多のものを合計すると、総飢人数は二六万五、二六五人になる。このうち松山藩が最も多く九万四、七八三人で、全体の三五・七パーセントを占める。次いで宇和島藩の二万五パーセント、大洲藩の一六・二パーセントの順である。一二月七日松山藩の飢人数九万四、七八三人、餓死者は五、七〇五人とあるので、最大の飢人数は、一〇万を超えた時期があったことになり、この年の松山藩の人口一七万八、三七八人(『松山叢談』)の五六パーセントに当たっている。なお、飢人数と回米量を分布図で示したのが図五-7である。

年貢納入状況の実態

 西条領郷村(現、新居浜市)は、国領川の東側にあって、郷山を囲むように分布する四つの集落から成り立っている。このうち、村高の七六パーセントを占める本郷が国領川の扇央部にあるために、村全体としては畑方がやや多い。
 郷村には長期にわたって、年貢収納(取箇)を取り決めた「免定~が残っている。このうち享保一五~一九年までを示しだのが表五-71である。当時、西条藩は春免が基本で、この五年間にも春免が三か年ある。作柄によって決定する秋免は、一五年と一七年である。この五か年のうち、年貢の最も少ないのは一七年であるが、最も多い一六年と比較しても、石高で一八石余へ本田畑)、免率で○・○二九の違いに過ぎない。さらに一二年までさかのぼって、年貢を組ごとに示しだのが図五-8である。一四年がどの組も最大の落ち込みである。本郷の一三・二〇年、又野の一三年は一七年を下回っている。したがって一七年の年貢の落ち込みは目立たない。享保一二~一六年まで五か年の本田畑の平均の取箇は一三五石余となる。これに対して一七年は、わずかではあるが上回っている。ところが一四年の場合は五か年平均の五八パーセントにしか当たらない。この図にはないが、同九年は大干ばつで、本田畑・新田畑とも取箇皆無の大凶作であった。同五年にも洪水による凶作があった。
 したがって、西条領郷村では、享保一七年は松山付近のような決定的な凶作ではなかったものの、五・九・一三・一四年さらには一七年
と続いた不作により、大きな影響のあったことはいうまでもない。
 今治藩の年貢納入の数量については、愛媛県立図書館に享保一七年一一月作成の『子秋御免定帳』が残っているので、年貢取り立て状況を知ることができる。この中には越智郡内の島方・地方の村々はすべて含まれているが、宇摩郡の一八か村は含まれていない。これを表五-72に示した。これによると、定米(予定の年貢数量二一万〇、二六九石六斗余のうち七五パーセントの一万五、二六四石七斗余を不作引きとして引き去り、残る五、〇〇四石八斗余が年貢として上納された。これ以外に宇摩郡一八か村分か加おったことになる。当時の宇摩郡の定米は二、六〇〇石(四ツ免として)と推定される。このうちから不作引きがどの程度あったかはよくわからないが、宇摩郡を中心にしている幕府領の享保一七年の取箇が、同一五年に比較してむしろ増加していることから推測して、ほぼ定米分か納入されたものと思われる(表五-73)。『今治夜話』には一万二、四五〇石が納入され、このうち三、〇〇〇俵を百姓に下されたとしている。今治藩の幕府勘定奉行へ報告した取箇は三、〇二三石四斗余となっている。
 さて、『子秋御免定帳』にある定米高に対し、不作引きの比率を算定してこれを不作率とした。これを六つの階層に区分して図五-9に示した。これによると九〇パーセント以上の不作率の高い村は、幸新田・八幡の両新田村の皆無を含め八か村ある。これに八〇パーセント以上の村を加え九分布を見ると、犬島の東岸、松木~高市~国分にかけた今治平野の南部、蒼社川沿いの谷底平野に食い込むように分布している。これに対して不作率六〇パーセント以下の村は一九か村で、このうち地方に分布するものは、水田のない猟師町と片山村の二か村のみで、残る一七か村は島方に位置している村である。不作はウンカによる虫食いが原因であるから、当然耕地全体に占める水田比率がかかわってくる。この水田率と不作率との関係を見るために図五-10を示した。これによると両者は相関していることがわかる。しかし、なかには古国分村のように水田率はわずかに五一パーセントであるが、不作率は八二パーセントと食い違いの大きな村もあった。
 宇和島藩の享保一七年の年貢納入高は、『記録書抜』、『伊達家御歴代事記』の中に収録されている。これによると表五-74に示したように、定米は三万三、一〇七石余で、これからすでに免受されていた分を差し引くと三万二、五七一石余となる。このうち七、五七一石余が上納米で二三・二パーセントを占め、残る二万四、九九九石余、七六・八パーセントが引方となっている。したがってこの引方に乗口(付加分)を加えた合計二万七、一三九石余が減額されたことになる。減額分の九四・二パーセントは虫付きによる立見引き(検見引き)である。
 さて、上納米七、五七一石余に乗口を加えた八、二一四石余が、この年の上納米の総量となる。藩から幕府へ報告した一七年の取箇は三、〇八六石余で、この両方の数量に相当な差のあることがわかる。

餓死者と死亡状況

 松山藩は一〇月末現在で老中に餓死人数を報告した。この数は図五11に示したように三、四八九人で、そのほかに斃牛馬三、〇九七頭のあったことを報告している。これとは別に、回米のため今治に駐をしていた与力が、前後二回にわたって大坂町奉行に報告したものがある。この餓死人数は大坂城代から老中へも通知されている。これによると最初に報告した餓死者は、いつ現在で調べたものか明らかでないが、松山藩は一、一五二人、今治藩一一三人であった。『虫付損毛留書』によれば、松山藩は増加分として四、五五三人を加え、総餓死人数五、七〇五人と報告されている。この松山藩の餓死人数が老中に知らされたのは一二月一三日であった。松山藩主松平定英が、幕府から差控え(謹慎)を命ぜられたのは一二月一九日であるから、この餓死人数を踏まえての処分と思われる。
 幕府に報告された餓死者数を地域(国)ごとにまとめ表五-75と図五-12に示した。これによると享保飢饉の餓死者総数は一万二、四六〇人で、このうち伊予が四七パーセントを占めている。しかも伊予以外は、ほとんど一八年に入ってから報告されたもので、したがって松山藩の五、七〇五人の餓死者数は、幕府に強烈な印象を与える結果になった。
 享保飢饉はまず麦の凶作で始まったから、飢人はもちろん、餓死者もごく早い時期から現れたものと推測される。図五-13は伊予郡中川原村(現、松前町)宗金寺の過去帳から、当時の死亡状況をまとめ図示したものである。これによると、七、八月ころから増加の兆しが見られ、一〇月で急増し、一一月にはピークに達している。一二月以降減少のカーブを描いて麦の収穫される四月には平常に戻った。七月から翌年四月までの死亡者は二一七人で、これは中川原村のほぼ六〇パーセントの人口に当たるものと推定される。
 和気郡古三津村について享保飢饉を挟んだ一六年と一九年の戸数(一六年の人口は不明)を比較したのが表五-76である。これによると一六年に対して一九年の百姓家は一〇四パーセントと増加しているが、無給家は九〇パーセントに減少、漁業集落の刈屋は六九~六六パーセントとなっており、漁村の減少が著しいことがわかる。享保飢饉の最多の飢人数は二、四一一人で、これに対して一九年の人口は一、九五九人である。したがって全人口が飢人であったとすると、享保飢饉の死亡者は四五〇人前後になる。なお古三津村の儀光寺・法雲寺の過去帳によると、享保一七年七月から一八年四月までの死亡者は五六一人である。
 図五-14は三津浜町の飢人および死亡状況を示したもので、一一月八日までの飢人数は四三七人となっている。その後の状況はわからないが、飢人比率二二パーセントは、農村に比べて著しく低い。飢人のうち一一八が病死しているが、その中には当然餓死者のいたことも考えられる。
 風早郡代官所記録「壱番日記呼出」(資近上七-130)から享保飢饉前後の人口、餓死者等についてまとめたのが表五-77である。これによるとて一月一目までに餓死者は七二〇人、同三日までの五二人を加えて餓死者数は八七二人に達した。同郡では飢人一万三、八一六人に一人一日五勺の割りで御救米(飢食)を支給している。この飢食を支給された人数は郡内の総人口とほぼ一致している。このことから三津浜等の町方に比べ、被害の大きかった村方が手厚く保護されている様子がわかる。
 図五-15は鳥生村実法寺の過去帳から死亡状況を表記したものである。鳥生村は海岸沿いの低平な水田地帯で新田も多い。今治領内では凶作の最も厳しい地域であった。この死亡者数は一七・一八年は共に多いが、極端な突出はしていない。また月別分布でも一七年後半はやや増加しているが、曲線は緩やかでピークは一八年三月にずれ込んでいる。同じ今治地区にあって松山領の野間郡宅間村の場合を図五-16に示した。低平な水田が中心であるが、背後には丘陵もあって耕地の四〇パーセントは畑方が占めていた。同村では、一七年に死者が激増しており、月別分布でも一七年一〇・一一月から急増し一二月が最多となっている。この点鳥生の場合と大きく異なっているが、鳥生のピークである三月にも二次的な増大がある。このような相違は、何か原因であるのかよくわからない。
 図五-17は周布郡北条村長福寺の過去帳から死亡状況をまとめたものである。北条村は低平な臨海村の水田中心地域で新田も多い。小松領に属し、稲の被害の最も大きかった下三か村の一つであった。この被害をそのまま反映して一七・一八年の死亡者も極端に多くなっている。月別分布によると、一一月以降死亡数が増大し、一二月、一月ともに高く、ピークは二月に現れている。小松藩から幕府へ餓死者の報告はなかったが、この死亡状況から推測して、餓死者がなかったとするのは無理である。
 図五-18は新居郡金子村真光寺の過去帳から死亡状況をまとめたものである。これによると、金子村では一八年の死亡数が突出しており、一七年は享保一五年の死亡数をも下回っている。月別分布の最多は一八年三月であるが、この前後のカーブも緩やかで飢饉の影響が強いとはいえない。この金子村の死亡状況と似ているのが、図五-19に示した川之江村の場合である。一八年の死亡数は突出はしているが、一七年は一九・二〇年を下回っている。月別分布も一八年二・三月がピークとなっているが、わずかにカーブする程度で死亡状況から享保飢饉の影響はほとんど見られない。
 図五-20は喜多郡大洲村法華寺の過去帳からまとめたものである。一八年の死亡数は突出している。一七年の総死亡数は多くはないが、この後半からやや増加の傾向が見られる。月別分布で死亡数が最大になるのは一八年七月である。『栴檀林造営記』(資近上七-134)によると、「飢亡の者道路を充塞す」とあって当時のすさまじい状況がよくわかる。藩庁ではこれを放置するのは忍びないとして、法華寺の寺山に手厚く葬らせ、これを「無縁の墳」あるいは「飢喪の合もう(墓)」と呼び、この墳墓のしるしに桜樹一株を植えたとしている。もちろんこれらの餓死者は法華寺の過去帳には収録されてはいない。
 図五-21は宇和郡皆田村法蔵寺の過去帳から死亡状況を図示したものである。皆田村は宇和川沿いの谷底平野にある水田を中心とした村である。一七・一八年とも死亡数が突出して多い。月別分布のピークは一八年三月であるが、一〇月もこれに次ぐ。宇和島藩からは幕府に対して餓死者を報告していないが、この皆田村の死亡状況から推測して餓死者のいないのは不自然である。

供養塔

 享保飢饉に関係する供養塔は、中予地区には数多く分布している。建立された時期は、享保飢饉の直後から、ごく最近のものまである。形式は墓石・墓標・供養・記念碑的なものまであって多様化している。
 墓石的な供養塔は、餓死者を葬った位置に建立したもので、この典型的なものは、松山市堀江町(旧、和気郡)の光明寺前にある供養塔である。この建立の由来は、餓死者の一五〇回忌に当たる明治一四年に、この供養塔に接して建立された「追遠之碑」に詳細に記されている。これによると、享保一七年は、稲虫による被害で、飢饉は激烈を極め、藩は手の施しようがなかった。妻子は離散し、食うものもなく、草の根、木の皮をかみ、飢えをしのいでいたが、この異常な食物で、身体にむくみを生じ、やせ衰え、堀江村でも村人八〇〇余人のうち、死者は半数を越えた。藩は大坂から少々麦や糠を買い求め、堀江浦に運んだ。飢人はこれを求めて各地から群がり集まったが、途中で倒れる者、あるいは船の入港までに餓死する者など、餓死者は一日に三〇~四〇人にも及ぶこともあった。これらの餓死者を光明寺の門前に集めて埋葬し、これを弔うために建立したのがこの供養塔であると述べている。当時の記録(松山市史料集所収「享保年代堀江村記録」)によると、堀江村の餓死人は、享保一七年七月より翌年三月までに、四〇〇人ほどとあり、この追遠の碑にある村人八〇〇人のうち死者は半数とある記事を立証している。なおこの供養塔の前で、二〇〇回忌法要(昭和五年)が盛大に実施された。
 松山市平田町(旧、和気郡)にある妙見寺は、日蓮宗の寺院である。この寺の由緒書きによると、「享保一七壬子年凶作、餓死者のため、山越町法華寺第八世日応上人、霊魂追悼のため、妙経一字一石、拝して書写し、妙法首題の塔を建立す、時に享保一九年なり」とある。享保一九年餓死者供養のため、松山城の真北に当たる現在の寺の位置に供養塔を建立した。この供養塔を妙見信仰の宝塔として位置づげ、これを守護するため妙見大菩薩像を勧請し、寛保四年(一七四四)この菩薩を収める堂宇を建立したのが、妙見寺の起こりである。この享保一九年建立の供養塔(宝塔)は現存しないが、高さ四尺三寸、巾八寸であったと記録されている。この後寛政九年(一七九七)にも供養塔が建立され(現存)、また一五〇回忌にあたる明治一四年には、日蓮上人六〇〇年忌も兼ねて「享保十七年凶歳餓死者百五万年忌」と刻まれた供養塔を建立した。この時の寄進者には、地元和気郡はもちろん、風早・温泉・伊予・久米・浮穴の各郡、さらには阿波国の者まで名を連ねている。
 松山市安城寺町(旧、和気郡)にある安祥寺門前に、年次を追って順次大きくなった六基の供養塔が並んでいる。第一基は飢饉の五○年後の安永一〇年(一七八一)、第二基はさらに二〇年後の享和元年(一八〇一)第三基はさらに三〇年後の天保二年(一八三一)に建立されている。これ以降五〇年区切りで、第四基は明治一四年、第五基は昭和五年、第六基は昭和五五年に建立された。新しく供養塔を建立する場合、順次大きくしなければならない言い伝えが今に残されている。これらの供養塔の前で、盆行事の一つとして、村(山村)総出で餓死者の供養を行っている。
 松山市西垣生(旧、伊予郡)の常光寺境内の墓地に「子丑両歳当村六百有員餓死人……(これ以下文字磨滅)」と刻んだ供養塔がある。子は享保一七年、丑は同一八年で、享保飢饉を意味していることは言うまでもない。建立の時期はよくわからないが、砂丘上にある墓地に位置していることから、餓死人を埋葬して、この直後に墓標として建立されたものであろう。六〇〇余人の死亡は、当時の垣生村人口の六五パーセントに当たるものと推測される。
 重信町下林(旧、浮穴郡)には、安永一〇年(一七八一)に建立された「餓死萬霊供養塔」がある。また同じ旧浮穴郡の松山市南高井にある「当郷餓死萬霊」と刻まれた寛政年間つ(元号のみ)建立の供養塔、北条市別府(旧、風早郡)の墓地には「為餓死人等菩提也」と刻まれた延享四年(一七四七)建立の供養塔がある(口絵参照)。
 大洲市にある法華寺の裏山「槃山」に、享保一七・一八年の無縁の餓死者を合葬し、桜を一株植え墓標としている。したがって、この桜に精霊が憑依しているので、将来この桜を折ってはならないと戒めている(資近上七-134)。

表5-39 松山藩の人口推移

表5-39 松山藩の人口推移


表5-40 今治藩の人口推移

表5-40 今治藩の人口推移


表5-41 小松藩の人口推移

表5-41 小松藩の人口推移


表5-42 享保16~18年の月別の天気の状況

表5-42 享保16~18年の月別の天気の状況


表5-43 享保17年4月~閏5月の天気

表5-43 享保17年4月~閏5月の天気


表5-44 和気郡堀江村の米積りと納入状況

表5-44 和気郡堀江村の米積りと納入状況


表5-45 和気郡における麦の収穫積り高

表5-45 和気郡における麦の収穫積り高


表5-46 享保17年の稲虫の記載内容

表5-46 享保17年の稲虫の記載内容


表5-47 ウンカの異常発生の記載状況

表5-47 ウンカの異常発生の記載状況


表5-48 伊予各藩から幕府(老中)あての注進状況(最初の注進)

表5-48 伊予各藩から幕府(老中)あての注進状況(最初の注進)