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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

3 宇和島藩の明倫館拡張と蘭学の発展

伊達村候の奨学と内徳館

 慶長一九年(一六一四)に仙台城主伊達政宗の子秀宗が宇和島一〇万石に封ぜられ、翌元和元年三月に宇和島に赴いた。しかし、同地域では戦国時代の殺伐とした遺風があり、かつ重税に苦しむ農民たちの反抗があり、内治の整備に忙殺されて、他をかえりみる余裕はなかった。第二代宗利は好学の士であったが、城池の修築と、弟宗純に吉田三万石を分知したのに伴う財政困窮によって、文教政策に乗り出すことはできなかった。
 三代宗贇が幕命によって江戸聖堂復興の助役を命ぜられたため、大学頭林信篤に接近したこと、また将軍徳川綱吉が儒教を愛好したことによって、藩内にも学問尊重の気運がおこる端緒となった。このころになると、各藩でも領内に儒臣を招いて、藩士の教育に留意するようになった。宗贇も元禄一六年(一七〇三)に、浅見絅斎の弟子高木何及を江戸藩邸詰の家臣とし、また自分の子村年の侍講とした。村年も武芸・学問を好み、将来を期待されたにかかわらず、年三一歳で病没したので、教育施設の実現を見ないで終わった。
 享保二〇年(一七三五)に、村候は父のあとを継ぎ藩主となった。藩財政は窮迫していたので、彼はその対策に苦心しなければならなかった。彼は?園学派の服部南郭の門に学び、かつ大学頭林鳳岡らとも親しかったので、学問に対する理解があった。彼は元文二年(一七三七)に医学をはじめ文武の諸芸に志す藩士に対し、修業扶持を支給する奨学制度を明示した。また寛保二年(一七四二)に上津藤馬を宇和島に招いて、若輩に勉学の機会を与えた。翌三年に村候は施政方針として二五条の項目を公にし(『宇和島・吉田両藩誌』)、藩士に対する教育の重要性を主張した。その具体策として儒臣の講義を聴講させ、学問・武芸に精進すべきことを力説した。
 さらに村候はその実をあげるために、伊藤仁斎の末子蘭嵎を招聘しようとしたが、これは実現しなかったので、その推薦によって安藤陽州を採用した。陽州は讃岐国の人で満蔵といい、京都に赴いて古義堂に入り、親しく蘭隅の教えをうげていた。寛延元年(一七四八)七月に宇和島の堀端側通に藩校が設けられて、名称を内徳館といい、陽州が教授として学問場を統率した。内徳館は、他藩校と同様に、学問・武芸の練習場であったから、剣術・柔術の稽古場が設けられ、さらに軍編成の基礎となる組の対抗競技、および流派の対抗試合も実施され、武芸の検討の場ともなり、活況を呈した。
 藩校設立の目的は、藩に役立つ人物を養成するにあったが、家中武士のみならず農民・町人にも希望者があれば参加することを認めた。この点からすれば、村候は極めて開明的であったが、階級制度の厳しい当時において効果があったかどうかは疑わしい。内徳館の教育には、古義堂で蘭嵎の教えをうけていた藤好南阜を帰藩させて、陽州を援助させた。南阜は名を本蔵、諱を道生といい、宇和島藩の算用方を勤務する家に生まれた。また村候は水戸家で編集中の『大日本史』の写本をつくらせ、藩士の勉学に資するほどの熱心さであった。
 陽州は古典を研究のすえ、明和四年(一七六七)に『日本大典』一〇巻を著して、わが国古代の諸制度を明らかにした。村候はこれを讃美して、知行一五〇石を給与した。村候はそのほかに宝暦年間に外科医を長崎に派遣し、オランダ医学を学ばせ、斬新な西洋医術の移入をはかった。

施設の拡大による敷教館

 陽州は天明元年(一七八一)に隠退し、子毅軒(新助)がそのあとを継いで教授となった。毅軒はかって崎門派の西依成斎の教えをうけていたから、藩校も崎門派が主流となった。
 ところが、寛政二年(一七九〇)に幕府が異学の禁令を出すと、やがて同藩でも朱子学復興の気運が現れた。それは岡研水が教授となり、村寿(村候の子)に朱子学に統一すべきことを力説したのによると考えられる。研水は同藩士で、はじめ朱子学の頼春水に学び、のち伊藤東所の門をくぐったが、天明七年(一七八七)以降は朱子学の尾藤二洲に就いて精励した。また服部栗斎に学んだ都築鳳栖も、藩校に勤務したので、藩学は朱子学派で塗りつぶされることとなった。
 寛政六年(一七九四)に村候が逝去したので、その子村寿が第六代藩主となった。村寿は内徳館を拡大して、敷教館と改名した。それは家臣の次・三男をも収容して教養を高めるとともに、ひいては藩内の綱紀の粛正をはかるためであった。また貧困な下級武士には教科書等を貸し付け、彼らの就学を容易にした。さらに講釈日を増して、徒士以上の身分で一四歳以上のものを出席させた。

明倫館の規模拡大

 文政二年(一八一九)一二月に、藩では教学の振興と改革のため、敷教館を明倫館と改称した。従来のように文武の奨励に加えて、医学・兵学も重要な課題として採りあげられた。同七年(一八二四)に村寿は隠退し、宗紀が七代藩主となった。宗紀は春山と号し、文武両道に通じ経済に明るい人であった。彼は財政窮迫を打開するため、負債の整理、殖産興業をも図ったが、その反面文教を振興して士気を一新しようとした。従来医学修業者に与えていた二人扶持を儒者にも給与し、他の地域への遊学を認めた。また明倫館の規模を拡大し、培寮・達寮を設置し、勉学に熱心なものには一人扶持を与えたほどの積極的な政策を遂行した(「教育史資料巻之一」)。中之間席以上のおよそ三〇〇戸の長男・次男・三男、徒士およそ一六〇戸、および御目見以上の本人・嫡男は、すべて明倫館に入り、素読を受けなければならなかった。
 武芸を奨励するための組織として、世話頭取(家老兼務)・目付を配するとともに、修業の便をぱかる目的から、藩営の剣術稽古場を充実した。特に砲術の訓練にいろいろな利便を与え、会津の佐藤初太郎を招聘して焔硝の製法を学ばせ、藩士板倉志摩之助らを江戸に派遣して砲術を学ばせた。弘化元年(一八四四)に、宇和島に焔硝製造所が設置されるに至った。
 宇和島藩における国学の研究は、村候の時代にはじまり、村寿の治世に入って盛んとなった。まず八幡浜の商人野井安定と野田広足は矢野神山社という歌会を結成して和歌の研究にっとめた。また松阪の本居宣長に和歌の添削を乞い、また著書を購入して研究のすえ、自身も松阪に赴いて、直接指導をうけた。その後、宣長の養嗣子大平の門に入学した藩士・庶民もすくなくなかった。そのなかでも、最も注目されるのは、宍戸大瀧と鈴木重麿であった。前者は家老宍戸紀照の弟であって、書道・和歌・国文を通じ、わが国の古典を独習した。さらに大平のもとに至って直接指導をうけ、国学の深奥を極めたといわれた。後者も大平の門人となり、刻苦精励して『言葉之重弥木栄』五六巻・『神かねの日記』をはじめ著述が多かった。

伊達宗城と蘭学

 弘化元年(一八四四)に宗紀のあとをうけたのは、養子宗城であった。彼は伊達家の親戚の旗本山口直勝の四男で、開明的な家庭に育ったから、外国の事情に通じていたので、その教学政策は大胆でかつ多彩であった。彼は安政三年(一八五五)七月に、明倫館内に小学校を建て、御目見以下の軽輩すなわち足軽・中間の子弟を収容した。このころの教授陣には、都築鳳栖その子燧洋・安藤観生・金子篁陵、おくれて上甲振洋、観生の子霞園、上甲芳亭(振洋の兄)らの俊秀の士が妍を競い、教学の黄金時代が現出した。
 宗城は海外勢力の切迫から、砲術の発展に心を用い、宇和島に大砲鋳造所を設置して一三貫五〇〇目玉・六貫目玉・四貫目玉をおのおの一挺、一五〇目玉二挺を製造し、また火薬製造所をも新設した。これら新兵器の充実による軍の編成替を断行し、持弓組を持筒組に改めた。これらの西洋流による演習・試射が繰り返し行われ、武芸の一つとして尊重された。
 宗城は早くから医学を重視していたので、医学の保護奨励とその遊学希望者への助成にっとめた。蘭学が勃興すると、文化三年(一八〇六)に富沢道竟・浅野洞庵を江戸の大槻玄沢のもとに送って、蘭学の研究に専心させたのをはじめ、多くの藩士を各地に遊学させた。特に宗城が最も力を入れたのは、二宮敬作であった。敬作はシーボルトの高弟であったが、シーボルト事件に連座して卯之町に帰り、医業のほかに蘭学の教授に当たった。また藩士富沢社中は江戸に出て、シーボルト門の伊藤玄朴の門に入った。林玄中は大坂に赴き、緒方洪庵の適々斎塾で勉学した。嘉永二年(一八四九)に礼中は師の玄朴から牛痘痴・種痘針を贈られ、種痘の処置について指導をうけた。同藩では、宇和島の町会所に種痘所を設立し、さらに医員を増備して、希望者に無料で種痘を実施した。
 これよりさき、同藩にとって重要な事項は、高野長英が宗城の保護をうけて、宇和島に滞在したことであった。長英は蛮社の獄によって、幕吏のお尋ねものとなってその措置に窮していた。宗城は長英の才を惜しみ、自藩にかくまうこととした。長英は東海道を通って宇和島に来て、羽州浪人伊東瑞渓と称し、藩庁から四人扶持と翻訳料を支給された。彼は藩士への蘭学の教授と蘭書の翻訳に従事し、「三兵タクチーキ」を講読し、『砲家必読』等を著した。彼の活動は多方面にも及び、海岸防衛のために同郡外海村に西洋式の台場の設計をした。
 長英の宇和島退去ののち、村田亮庵(後の大村益次郎)が嘉永六年(一八五三)に宇和島藩に招かれ、蘭学・兵法の教授に当たった。彼は同藩では優遇をうけ一五人扶持のほかに、米六俵を給せられた。彼は名を蔵六と改めたが、兵器の製造、軍艦の建造にも関与して、同藩の近代的な装備に貢献した。のち彼は幕府の蕃書調所の教授手伝に栄転したので、同藩を去ったが、彼の残した功績も大きかった。
 宗城は安政五年(一八五八)に家督を宗徳に譲ったが、なお宗徳を補佐して、近代化について努力を続けた。元治元年(一八六四)、蘭学稽古場にシーボルトの門弟三瀬諸淵が迎えられ、翌年に英蘭稽古場に発展した(『先哲偉人叢書三瀬諸淵』)。このころ英学修行のため、藩内の英材を横浜・長崎に送り、将来の進運に具えたことは、注意すべき事柄であった。