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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

3 藩校の萌芽

学問所興徳館の設立

 定静は安永八年(一七七九)七月に逝去し、嗣子がなかったので、田安宗武の二男定国(一七五七~一八〇四)が松山の松平家に入って第九代藩主となった。
 彼は学問振興策の一つとして、新たに学開所を設置する計画をすすめ、また莫大な経費をかけて大量の書籍を購入させた。これによって、藩校建設の道が開かれることになった。文化二年(一八〇五)に代官町三番町より北へ曲がり二軒目に(今の市役所の裏、番町小学校の敷地内)、「学行」すなわち学開所がつくられた(『垂憲録拾遺』)。これを興徳館とよんだが(「欽慕録」)、また考徳館とも書いた(「松城要輯」)。同館では杉山熊台(一七五五~一八二二)が頭取に、八人の藩士が御用掛に任ぜられた。藩士の精勤者は一〇〇名もあり、教育的効果があがったように思われる。これとは別に、丸ノ内に朱子学を専攻する学問所が建てられた(『却睡草』)。
 熊台は名を惟修、字を公敏といい、明月(前述)について蘐園学を学び、のち江戸に赴き古賀精里の門に入った。寛政異学の禁令が出されるに及んで、朱子学に転じた。晩年に抜擢されて側用達となり、藩政に貢献するところが大きかった。彼は詩文にも優れた才能を発揮し、死後に編集された『杉山熊台遺稿』が有名である。宇佐美淡斎(一七四九~一八一六)は名を源兵衛、字を士衡といい、目付を勤務し、のち町奉行として庶民から敬愛された。彼は古学を丹波南陵から、また蘐園学を斎宮静斎から、詩文を明月から修得した。詩集五編が伝えられ、随筆を集録した『淡斎漫筆』が最も有名である。野沢象水(一七六一~一八二四)は名を弘通、通称を才次郎といい、藩の軍事師範となった。はじめ堀河学を、晩年に宮原竜山について朱子学を研究した。彼の本領は兵学にあり、剣術・槍術・弓術・兵法に精通して、その名を知られた。

三省館の創設と宮原竜山

 定国の後継者であった定則のあと、その弟定通が文化六年(一八〇九)七月に、第一一代藩主となった。彼は藩の難局を打開するため、あらゆる方面にわたって大改革を断行した。同年一〇月に藩士の子弟の教育のために、江戸愛宕下の藩邸に学校がつくられ、これを三省館とよんだ。館名は松平定信(第九代藩主松平定国の弟)の選んだものであった(宮原竜山「三省館記」)。また同八年(一八一一)一〇月から三ノ丸大書院で儒学の講義が始まり、宮原桐月・杉山熊台らがそれに当たり、譜代以外の頭役・師役・目付らに聴講させた(「本藩譜」)。
 定通自身が好学で、儒官宮原桐月(竜山の弟、一七六九~一八四一)の指導をうけ、池内毫峯(名を義方、通称を禎助という)を儒官として二〇人扶持で召し抱え、その講義をひろく藩士に聴講させた。また定通が幕府の儒員古賀精里(一七五〇~一八一七)に入門し、さらに大学頭林述斎(一七六八~一八四一)の教えをうけた。前者は寛政の三博士の一人と称せられた篤学者であり、後者は昌平黌の学制の改革と聖堂の規模の拡大に努力した人物であった。
 ついで定通は佐藤一斎(一七七二~一八五九)についても指導をうけたことは、注目すべきであろう。一斎は昌平黌の儒官となり、幕政にも参与したが、朱子学にとらわれず、陽明学との調和をはかった。このように、定通は当代一流の学者に教えをうけたばかりでなく、藩士と会読・詩会・文会を開いて、作詩文の研究にふけった。