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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

3 今治藩における学問の勃興と克明館

松平定房~同定陳と儒学

 寛永一二年(一六三五)に、藤堂高吉が伊勢国名張に転封ののち、松平定房が今治三万石の城主として入国した。定房は松山藩主松平定行の弟であって、幕府の信頼が厚く、江戸城留守居役をつとめたことがあった。定房は創業期に当たり、藩政を整備するために、江島為信を儒臣として招聘した。為信は日向国飫肥の人で、通称を三左衛門、のちに長左衛門と改め、また山水と号し俳人としても名を知られた。彼は大坂に遊学して兵学を習い、江戸に出て儒者として活勤し、蘐園学派の開祖荻生徂徠と親交があった。定房の子定時の治世に、為信らの努力によって、はじめて同藩の法度が発布され、藩士に対して文武を兼修するよう強調した。
 定時の子定陳がその後を継承したが、彼の治世は延宝時代から元禄の末年に至る二六年間であって、貞享・元禄の文化の興隆期に遭遇した。定陳は為信を重用して家老とし、兵学・儒学の振興をはからせた。彼自身は好学の士で、将軍徳川綱吉にならい為信の邸に赴き、みずから大学を講ずるほどの熱意を示した。また元禄一〇年(一六九七)には城内の大書院に藩士を召集し、論語を講じたのをはじめとして、武士階級への学問の浸透をはかった(「今治藩編年史」)。元禄一五年(一七〇二)に、定陳のあとを継承したのは、その子定基であった。彼も学問を好み、藩士に孟子をひもどき、藩士にこれを聴講させた。

文武奨励の必要性

 享保一七年(一七三二)そのあとをうけた養子定郷(五代)の時期には、封建制度が弛緩して綱紀が紊乱し、上級武士の腐敗が暴露せられ、藩政に対する革新的な献策を家臣に求めなければならなかった。また藩財政の窮乏を救うため、農作物の増収をはかる必要に迫られた。そこで計画されたのは、越智平野を貫流する総社川の大改修であった。その氾濫を防止するための治水工事は、一〇年の歳月を要してようやく竣功した。
 定郷のあとをついた定休の治世には、灌漑用水を獲得するために規模の大きい鹿児池が、次の定剛の治世には犬塚池が相ついで構築せられ、河南の山麓地域の水利が著しく改善された。これらの積極的な殖産興業をすすめるとともに、文武の奨励によって、士風の粛正を企てる必要があった。また定剛は寛政異学の禁による学問の統一をはからなければならなかった。そこで彼は、文化二年(一八〇五)四月に講書場とよぶ学開所を南堀端に設け、教授長野恭度に小学を講義させた。

克明館の創立

 ところが入学者の増加するにしたがい、学開所の施設を拡充することとなり、同一四年(一八一七)五月に二ノ丸の家老屋敷に隣接する地域に移転した。この藩校の名は松平定信によって克明館と称せられ、ここに定信自筆の額が掲げられた。克明館には、文学場と武芸稽古場とがあり、卒以上の子弟は八歳で武芸場に、一一歳で文学場に入る規定となっていた。その数はおよそ一八〇人、寄宿生は一五人で食費を給与した。文学場では四書・五経・小学・近思録・左伝・史記・蒙求・日本外史・靖献遺言を素読させ、終わった者は教官監督のもとに、生徒に輪講および討論させた。武芸には剣術・弓術・馬術・槍術・砲術・水泳の六科を修得させた。文学場における職員組織は監督および教授おのおの一名、句読師・指南・指南手伝い一二名らであった。同館の教授として活動したのは、長野恭度であり、字を景甫・囂斎といい、のちに景次郎と称した。三宅尚斎門下の山田静斎に学び、小松藩の竹鼻正脩とともにその高足と称せられ、克明館の学頭として活躍した。恭度のあと、豊田政仲・園美久らが教授となった。さらに恭度の子友賢がそののちを継承して活躍した。

幕末における教学の振興

 第一〇代藩主定法の治世に、家老久松長世は教学の振興をはかり、武芸の改革を断行し、従来の弓術を廃して、鉄砲による西洋操法を訓練させた。また藩士のうち志あるものを、長崎・京都・江戸・熊本・安芸に派遣し、新しい学問の移入をはかり、藩の危急に備えた。彼は砲術の研究に没頭し、『火攻全軍録』を著して、用兵の操典とした。慶応二年(一八六六)に、長世は克明館の敷地を拡張して、文武場を一か所に統合した(「今治藩編年史」)。
 これよりさき、文政年間から同藩では庶民教育に心学を採用して、その実績をあげた。定剛は松山藩の心学者田中一如を招き、かつ御用係の庄屋を任命して、一如に農閑期に領内を巡回して、庶民に道話を聴聞させた。一如は弘化元年(一八四四)にも、招かれて郡内に出講した。藩は心学が庶民の教化に大きい効果のあることを認め、丹下光亮にその研究を命じた。弘化二年に一如が来講した時、光亮はその門に入って、島方の廻村に随行した。のちに光亮は松山の六行舎、京都の明倫舎、大坂の明誠舎にも学んだ。帰藩ののちは年に一回以上各村を巡回して出講した。また藩邸において、藩主・家臣・奥女中に対し、あるいは市中商人の求めに応じて道話することもあった。その活躍した範囲も広かったので、彼に心酔するものも多く、大島では新民舎とよばれる講場がつくられ、門弟三五〇名を超えたといわれた。