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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

四 河川の交通

河川の利用

 河川は、近世では最も安全で経済的な交通路であった。川舟の構造は簡単で、積載量が多く、運賃は安く、陸海路へ接続する交通路としても重要であった。従って銅山川・加茂川・肱川・広見川などの大河のほか、各地の小河川もよく使用された。川舟は底が低平で細長い。船頭や筏師により山間地域から材木・薪炭・雑穀が下り、城下や里方から日用品や魚・塩が上った。
 貨物量の増えた松山城下では、陸路だけでは不便のため嘉永三年(一八五〇)に三津までの水運を開いた。古町からは大法寺川筋、外側からは福正寺前川筋を利用し、両者は中ノ川で合流して三津の堀川へ下った。舟は米三五俵積を基準とし、一艘当たり古町から一四匁、外側からは一七匁であったが、特に外側発展の原因となった。
 川舟の統制も船役所が行い、鑑札の交付や運上銀の徴収に当たった。積荷は番所で検査をした。小松藩の嘉永六年の布告「広江川船方定法」一四か条によると、出入舟ぱ問屋から庄屋へ届けること、川運上は帆一反につき銀二分、但し西条藩の蔵米を積む場合は無運上、商品の直取引は禁止、乗客のうち女子供の手形は特に厳しく改める、港への繋舟、港内の荷物の上げおろしは禁止などを定めている。

肱川の水運

 大洲喜多など南予の山間部では肱川水系の果たした役割が大きい。特に本流の坂石―鳥首―大洲―須合田―長浜間には数多くの河港が開かれ、明治期でも二〇〇艘以上の川舟が上下した。材木や竹材などは主として筏に組八、筏師が川を流したが、起源や状況については史料が乏しい。川舟は年貢米の輸送や商品の積み出しのほか、大洲藩では藩の役用が課されて領主の回領その他の公用にも徴用された。
 大洲藩の川併は「川艜掟」によって取り締まられ、川舟の差配には、城下の竹田屋と奈良屋が当たった。これによると城下・須合田・柴村を除く村々は、自村からの積み下げのみ許され、上流へ積むことは禁じられた。船朔が自分契約で増積みすることや、問屋筋を通さぬ直取引は禁止であった。しかしこれらの定めは余り守られず安永四年(一七七五)五月には、城下の船問屋は、厳重な取り締まりを藩に願っている(「洲藩規則集」)。文化一三年(一八一六)一二月には取り締まり一六か条と積荷量・俵の大きさ等補則一四か条の詳細な控を公布したが積荷は問屋・荷主・船頭の合意で定め、問屋を経ぬ相対積禁止が確認された。増積みは三分までは認められ、急荷物は二匁、夜中の運送では三匁の増運賃が認められた。但し、家中荷物の運賃は別の定めである。一艘の積載量は米麦・雑穀類は上り二〇俵、下り三〇俵までである(『愛媛県編年史』8)。

河川の渡し

 大河や深所では藩営か個人請負の渡しがあって、人馬や荷物を船で対岸に運んだ。肱川では街道筋を結ぶ大渡しは藩営の定渡しで、旅人は無料であった。寛政一〇年(一七九八)九月の定書によると、藩船と大渡守二名が配置された。民営では上渡・中渡・桝形・柿ノ本瀬の四渡しがあり、一人一文であった。渡し場には水位を示す定杭があり、隠れてしまうと船止めとなった。増水時にはその割合により寛政八年五月の定めで二~八文の割増となった。銅山川の広瀬渡りでは、安政五年ころ、太い針金を両岸につないでおいて、船客が手繰って渡る船渡りが行われていた。
 加茂川の渡しては享保一五年(一七三〇)に洲之内村の油屋弥兵衛が、同川の往還通りが僅かな出水でも旅人が困るため渡し船を備えておき、綱を手繰って通行出来るよう、また大水の時は渡し守が渡したい旨を藩に願った。宝暦四年(一七五四)にも願っている(久門家文書)。中野村東古中では、夜間や出水時の船渡りの目標のために常夜燈を建立した(写真三-51)。また、文政九年(一八二六)四月、重信川の出合では、渡舟が転覆しておたたら二四人が溺死した(『松山叢談』)。さらに金毘羅街道筋の中山川釜ノ口渡しには、茶屋や旅寵数軒があった。
 加茂川の通常の歩行渡りは駕や青駄であるが、巡見使・藩主などの公用往来でぱ多人数が動員された。天明九年の「東西川越覚帳」によると加茂川では肝煎五人と大町・氷見組を中心に川越人足二〇〇人、国領川では同四名と沢津・船本両組から一五〇大、浦山川は同三人と土居・東寒川両組から六〇人の出動計画が定められていた。更に人足不足の場合は百姓で補うとしている。出水が少ない時は綱を渡しての歩行渡り、藩主らの通行時は歩み板の仮橋や、川舟を並べた舟橋も用意された。出水が多く歩行不能の場合は、下流の舟組による舟渡しとなった。その際の肝煎は禎瑞・洲之内・占川村の庄屋四人であった。幕吏通行では武士一人に駕かき人足とも一二人が付き、家来衆へは二人、荷物持ちは挾箱一荷に二人、長持四人、合羽籠二人と定められていた。寛政元年(一七八九)四月、巡見使池田雅次郎ら三〇人の通行では、定人足の他に高瀬舟一般、ちょろ船一三艘、水主一五人を用意した(福田家文書)。
 享保一五年(一七三〇)一月、小松藩主。柳頼邦が鹿狩りの帰途加茂川を渡ったが、舟三艘と人足二四人を用意した大町村組頭に、酒手として鳥目二貫文を与えた(小松藩会所日記)。

橋 梁

 小河川岸城下の堀・水路には橋が架けられた。しかし簡単な構造の板橋か土橋・石橋で、出水の度に破損して交通が途絶した。古田城下には延享元年(一七四四)から明治四年の間の橋の修理記録があるが、宝暦六年(一七五六)~嘉永五年(一八五二)の間に八幡宮下の土橋九回、八幡崎土橋は七回、鶴間口土橋は五回修理している(「吉田御分知後諸事書抜」)。
 松山城下では文政ごろに修理を藩費普請とする橋が二七、町方負担の小町橋が九〇、藩と町の持寄負担が五橋めった。石手川規模の河川では橋の建設は遅く、寛政元年(一七八九)六月に新立永久橋、文化一四年(一八一七)には橘(立花)口に尭音橋が落成した。尭音橋は、岩国の錦帯橋を模した木供橋であった(『松山叢談』)。
 街道の橋については、明治一二年六月、越智郡長が岩村県令へ提出した報告に、松山藩境の山路村から今治町を通って桜井・孫兵衛作から桑村郡境に至る四里四丁五二間余の一一か村に二六橋があった。うち板橋は蒼社川に架かる幅一間、長さ三三間のものと長沢橋の二本のみで、他はすべて長さ一、二間の石橋であった(「道路橋梁等取調簿」)。嘉永七年の冬に、波止浜街道筋の浅川渡り石橋を修築したが、七歩を今治藩、三歩と弁当茶番代を村々が負担した。しかし同橋は安政四年(一八五七)八月の地震で壊れた。同七年八月修繕の際は本代作料一一五匁、日雇八人分賃四〇匁、その他四六匁余を石井・今治・大浜・大新田の四か忖小均等割で負担した。
 明治五年五月「橋梁等営繕箇所誌」(野間郡控)では、村方の橋の架橋修築は村費、各村利用の橋は最寄り村々、往還筋の場合は郡と村の負担としている。天保一一年六月、宇和島藩は人夫八、三〇〇人余で滑床山新道を開削、万年橋を架けて物資輸送の便を図った。新谷藩の矢落川には橋がなく、人々は飛び石伝しに渡っていたが、幕末のころ稲田清左衛門が私費で架橋し、稲田橋と呼ばれた。