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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

三 櫨と蝋

唐櫨の生産

 製蝋業の発展には、原料の漆・櫨の増産が必要である。初期には山野に自生のものを採取したため、櫨より漆の方が重要であった。宝永三年(一七〇六)、宇和島藩内では約一万本の漆樹が計上され、漆九貫七七四匁余と漆実二一石三斗余が小物成として各村に割当てられていた(『大成郡録』)。今治藩でも山地を持つ諸村に、貞享ころは七九匁余の漆銀、一二七匁余の新漆銀、八匁余の木数改漆銀が課せられた。
 享保以降の幕令をうけ、特に櫨栽培に力を入れたのは松山・大洲・宇和島の三藩である。樹種の中心は薩摩種で、需要・収益共に多く、急速に山間地方の代表的商品作物となった。大洲藩では浮穴郡石畳村(現、喜多郡内子町)庄屋伊兵衛ら一族が、寛保二年(一七四二)九月に植栽した。藩も九州から苗木を移入して配布し、安永五年(一七七六)一〇月には販売を自由として栽培を勧め、天保期には全領に普及した。ただし安永九年一〇月、伊予郡上野村の「唐櫨立木改」によると組頭政助と五人組頭二人に、神文誓紙により厳正に調査する旨を誓わせている(玉井家文書)。
 松山藩では寛保四年四月に、三津街道に唐櫨を植え、領民に藩の意欲を知らせた。安永三年(一七七四)には、湊町の大浜屋喜兵衛に、久留米から苗を移入させ、道後堀端、石手川堤防、祝谷畏山等に植えさせ、久米・浮穴・周布・桑村・風早の五郡二二か村にも配布した(『愛媛県農業史』)。こうして文化二年(一八〇五)には城下の製蝋業者は一二軒(安政四年は一五軒)にもなり、付随する唐櫨出買商人が三七〇人もいた。この時期同藩の蝋は国産の一つに成長し、「松山青蝋」として山陽筋へ盛んに移出された。安政二年三月、唐櫨問屋のうち魚町二丁目の和泉屋利右衛門が、藩命によって一丁目の油屋豊助と交替した(村瀬家文書)。
 宇和島藩は延享二年(一七四五)一月、一〇代官を通じて全領内に種子を配布した。宝暦四年(一七五四)二月、早くも櫨実専売のため誉田屋ら三商人に蝋実晒座が許され、他所売り停止となった。安永元年(一七七二)には櫨苗を配布し、三年には生産高の調査が行われた。当時、成育状況が良かったのは沿岸の西宇和地方で、天明二年(一七八二)三月、宮内村庄屋の都築与左衛門が晒蝋・青蝋・櫨実売捌方世話人となった(田苗真土亀甲家文書)。天明・寛政期には国産品としての見通しも立ち、大坂移出も試みられ、文化・文政期には全領内で櫨実が生産された。

櫨実の専売

 今治藩は宝暦二年(一七五二)に宇摩郡柏村、同四年に越智郡大浜村に試植を命じた(資近上三-93)が、その後史料が中断する。弘化五年(一八四八)に古谷村の清作・惣平二名に、領内の櫨実一手買いを許したが、百姓へは他領からの買値が高ければ売ってもよいと寛大であった。しかし元治二年(一八六五)二月には国産品として専売制をとり、法界寺村庄屋浮穴弥惣太、今治村庄屋南丈太郎ら四名を産物櫨掛り方とし、領内産櫨の一手買入れと蝋絞りを許し、他所売りを厳禁した(国府叢書)。同時に代官所が各村に苗を配布し、販売高の八割を村方分、二割を上納とし、閑地の最大限の利用、小百姓に至るまで精を出すことを命じ、裁培法も指導した。櫨苗はその後も希望者に下付され、成育状況などは掛り役が回村して調査した(大浜柳原家文書)。
 西条藩でも藩の勧めにより、広く領内で生産された。しかし藩の意向に従わない村方もあり、宇摩郡入野村でも、櫨植付方の薄ヶ原見分に対しこれを拒否した。村の言い分は、以前からの牛馬飼料所・草刈り場であること、高付場で一四石余を村方で負担していること、植えるのなら楮にしたいとのことであった。寛政および文化年間、さらにその後も再三植付けが勧められたが、同様の理由で断っている(山中家文書)。しかし同村の問屋大茂屋が、天保二年二一月、浦山の権平・辻の菊次郎ら六人の買出人から受取った櫨実は一七一貫余であった。大茂屋はこれを買入価格の約二倍で販売し、西条札三一三匁余の収益をあげており(山中家文書)、宇摩郡でも栽培は極めて盛んであった。文久二年(一八六二)、新居郡中野村の藩有林内に一〇町八反余、加茂川端七七〇間にも櫨が栽培されていた(久門家文書)。嘉永三年(一八五〇)秋には既に手付金三〇〇匁を渡している紀州伊都郡の綿屋喜兵衛が、中野村へ唐櫨を買い付けに来て、紛争を起こしている。
 西条藩は元治元年(一八六四)一一月に櫨座を開設し、櫨実の領外移出を禁じ、櫨実を担保に融資も行った(下泉川西原家文書)。小松藩でも文政七年(一八二四)八月に他所売りを禁じ、問屋を町内の川口屋辰蔵と鍛冶屋才次の二軒に指定した(小松藩会所日記)。
 宇和島藩の櫨実専売は、櫨植付銀の貸し付け、櫨実の領外移出禁止、買い上げは蝋座が行い、余りは藩の買い上げ、という形をとった。専売の布告は文化八年(一八一一)七月、文政八年一一月、慶応元年などに出されたが、蝋に比して統制は緩く、値段によっては他所売りを認めることもあり、この点は大洲・新谷藩でも同様であった。幕末には生産・取引量が増大し、慶応四年一一月、宮之浦の蝋座芳十郎・善八らは、櫨実一万五、〇〇〇貫の購入のため、銀札一、二六〇貫の貸し下げを物産方に願っている(『高山浦庄屋田中家史料』)。

製蝋業の展開

 南予では櫨が「清良記」巻7に記載されており、慶長一三年(一六〇八)には藤堂高虎が新七郎に木蝋の集荷を指示した(『愛媛県編年史』6)。しかし蝋の量産は、農村へも鬢付が普及する中期以降であった。綿織と異なり、蝋打は職人的な技術と資金を要し、豪商豪農層によって経営されたためである。
 大洲藩では、喜多郡古田村五十崎の綿屋長左衛門の弟善六の子善太郎が、元文三年(一七三八)に安芸から甚平ら三人の職人を雇って蝋打を開始した。ついで同村の紙屋三郎右衛門が安芸から、藩も九州から櫨苗を移入した。製蝋の技法は内子六日市の庄屋六兵衛、新谷藩只海村の富永甚蔵、ついで宇和島藩に伝えられた(『積塵邦語』)。内子では宝暦年間に芳我弥三衛門が晒蝋法を考案し、やがて上方へも出荷した。寛政一〇年(一七九八)の出津口銭は蝋一丸(七五斤)が四匁、櫨一〇貫が八分の定めであった。嘉永以降は宇津村の奥田屋源左衛門が三島丸、和霊丸の二艘で、長浜港から安芸方面へ出荷した。慶応ころにはさらに純度の高い白蝋が生産され、販路は江戸へも拡大した。
 宇和島藩では寛保以降生産が進み、宝暦四年(一七五四)には流通体制も整えられた。安永一〇年(一七八一)には晒蝋銀一枚、青蝋三〇匁の運上、一俵に付き晒蝋二匁二分、青蝋一匁一分、櫨実二分の分一銀が定められ、徴収は庄屋・横目が当たった(田苗真土亀甲家文書)。天明以降は、予想外に生産が伸び蝋座を増すと共に大坂移出を試みた。寛政三年(一七九一)七月、城下の瀬戸屋喜八、宅屋喜右衛門ら五軒、大坂の加島屋作兵衛と絞屋善兵衛を国産物の引請方とし、専売の方向に向かった。吉田藩では安永ころから櫨の植栽を勧め、天明期には他所売りを禁止した。盛時には製蝋家七、八〇軒があり、櫨実は四〇万貫以上を産し、共に大坂蔵屋敷に納められて専売された。

宇和島藩の蝋専売

 宇和島藩の専売制は、藩の財政再建策と農民や商人の抵抗のからみで数回の曲折を繰り返すが、生産奨励は一貫していた。一回目の専売制は文化五年(一八〇八)末からで、長山久助・末口屋六左衛門を蝋座の頭取とし、城下一六軒と郷方の蝋座に定め一一か条を布告した。新株を認める、領中の蝋はすべて蝋座か藩が買い上げて抜け売り停止とし、蝋は各組で船積みし大坂の引請問屋に送る、という内容であった。ただ従来の問屋取引も認め、大坂値下落の時は他への出荷も認めるなどやや弱腰であった。文化八年にはこれを強化して、すべての櫨実と蝋を藩の手に握ろうとした。しかし山方や蝋座の反対から二年で専売制を停止し、分一銀制に復した。
 文政の専売制は海防強化・殖産興業の立場から思い切った藩営の問屋制手工業を試みた。櫨実流出の原料減に対して領内産のすべてを大坂相場で藩の強制買い上げとし、抜け売りは厳罰主義で庄屋にも責任をとらせた。蝋座へは櫨元銀を貸し付け、翌年一一月の返金は蝋皆済の形で蝋を藩の掌中とした。打賃は一貫目に二分を与え、品質を上中下に分けて大坂へ出荷した。しかもこの専売策も出発時が大坂相場の最下落期であったため、価格や打賃への不満、五月からの製蝋期が農繁期に当たる点などから百姓の反対があり、山方や蝋座の流通の自由への要求から数年で中止となった。天保・弘化期は、比較的緩やかな統制の中で増株や譲株も許され、生産が拡大した。検査と運上が主で、青蝋一株正銀四〇匁、移出一季当たり一二五匁、晒蝋百斤当たり四匁であった。安政三年(一八五六)には、文化期と同様の手法で三回目の専売制を実施したが間もなく廃止した。
 慶応元年の専売は、長州出兵の出費など内外の形勢緊張による富国強兵策から行われたもので、山方や蝋座の反対を押し切り、文政期の仕法を拡大再現したものである。物産方を改革して蝋座方を吸収し、取り締まり方である庄屋豪農層を含めて支配を強化した。すべて物産方の買い上げとし、勝手売りを停止した。運上の値上げと大坂での取引を特定の問屋から蝋仲間二〇〇軒の入札制とした点が特色であった。櫨価格は蝋座ヘ一任した。これらの専売制を通じ、蝋座の暴利・櫨実の買叩き等に対し、文久二年と元治元年の宇和川村小藪騒動、明治三年の野村騒動など、時には百姓側の激しい抵抗も行われた。しかし宇和島藩の緩急時宜に応じた政策は、同藩の製蝋業を大いに発展させ、近代化への財源の一つとなった。御金方へ上納された安政四年(一八五七)分の蝋座高運上は、金一四四両余と銀札一九貫二九二匁余であった。慶応元年の蝋座株は約三〇〇軒である。

表3-51 東西両三浦庄屋田中家の櫨実生産

表3-51 東西両三浦庄屋田中家の櫨実生産


表3-52 宇和島藩蠟専売の歩み

表3-52 宇和島藩蠟専売の歩み