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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 林野制度の確立

山林の所有

 林野は古来共有の原則によって利用されて来た。しかし中世末から近世初頭にかげての膨大な用材の需要は、この観念を一変させたという。慶長から寛永・寛文期にかけては、各藩ともに急激な建設開発期に当たり、城郭や城下町の建設、河川開発や寺社の復興も行われた。藩士や町人の住居も必要であった。江戸藩邸の建築や幕府公役のために、大量の竹木が江戸へ大廻り回船で運ばれた。また薪炭材の必要量は、用材の数倍であったといわれる。
 藤堂高虎は慶長一一年(一六〇六)三月江戸城増築を命じられ、その他多くの城郭の普請をつとめた。加藤嘉明も同一四年六月から名古屋城の修築に当たった(『愛媛県編年史』6)。翌年三月、大仏殿の修築を命じられた福島正則は、石鎚の山中に良材を求めてその伐り出しと運材に当たった(「西条藩の林業」)。こうして想像を絶する木材の需要量と、将来の安定供給あるいは財源として藩の目は、藩有林の設定と拡大に向けられた。寺社に保有が許されるのは境内や参道に限られ、百姓が飼肥料や燃料用に私有が許されるのは、屋敷回りや里山の雑木林のみとなった。したがって、入会の野山や、藩有林への一部入山が許されて、ようやく自給生活も可能であった。
 高虎・嘉明が慶長五年(一六〇〇)一二月に行った領知協定や(資近上一-90)、寛永三年二六三八)五月に嘉明の与えた許可状では、百姓の入会権や下草刈り取りは従来のまま認めている。しかし慶長六年一一月、高虎が渡辺勘兵衛に発した「置目条々」では、竹林に関しては高虎が直接奉行に指示するとし、給人でも自由に伐採が出来なくなっている(資近上一-94)。同一五年八月、脇坂安治が喜多郡の給入所に宛てた法度もまた同様で(資近上一-122)、いかに森林が重視されたかを窺うことが出来る。

宇和島藩の林政

 広大な林野を持つ宇和島藩ぱ、林政にも殊のほか意を用い、林野制度を整備した。ただ形態的には、伊達政宗期の仙台藩の林野管理機構とほぼ同様である。宇和島藩に限らず他藩でもほとんどの林野が藩有林で、民有林は少ない。民有林といっても所有権は藩にあり、運上を上納して利用のみが許された。良材はすべて登録されて藩有であり、百姓の自由にはならなかった。林政の主眼は船具材や建築材となる松・杉・檜・桐などの御用木の確保にあり、ついで楠・竹・櫨・楮などが重視された。藩有林も村々に管理責任があり、用木は山方発行の許可証がないと、小松一本でも伐れなかった。
 山奉行以下の支配組織は松山・今治など各藩ともほぼ共通である。一二か村一七か所に藩有林を持った古田藩も、宇和島藩と類似の林政である。村ごとに林野の所在、面積、所有者を記す山林改帳が数年ごとに作成され、藩庁に提出された。宇和島藩では、初め郡奉行が林野も管轄したが、慶安四年(一六五一)に山奉行、寛文一三年(一六七三)に材木奉行の名がみえる。その後寛保三年(一七四三)九月と寛政九年(一七九七)六月に山役所が廃止されて郡奉行の兼務となったが、ともに宝暦三年(一七五三)七月および文化八年(一八一一)一二月に再興された。宝暦期には二人の山奉行の月番制をとるなど、年代によって機構の改変がみられた。

西条藩の林政

 西条藩では万治三年(一六六〇)に一柳直興が初めて山林に竿入れした。しかし直興が改易になると、幕府は隣藩の小松に、藩士を派遣して西条領内の乱伐取り締まりをするように命じた(『西条市誌』)。同藩は林野が広く、特に加茂川上流域には杉、檜の良材を産し、他国にも移出して重要財源となっていたためである。寛文一〇年(一六七〇)、松平頼純も入封と共に山林竹木の乱伐禁止を百姓に触れ久門家文書)、宗藩和歌山流の林政を展開した。山方役所には奉行二・山目付一・山廻り六・御手山並楮方一名がした(「治藩の余波」)。寛文四年、和歌山藩同様に杉・檜・榧・松・楠・槇を留木とし、その後樫・桑・漆・銀杏・さわら・槐を加えた。個人の屋敷内でも良木は全て帳付木として藩有となり、他の用材や薪炭の利用、流通も統制され、多種の運上が設定された。但し、村方の橋や樋門の用材、大火や災害時の建築材は、無償か安価で払い下げられた。
 西条藩の林野は、樹種では松山・櫨山・雑木山・草山などと区分された。藩有林は奥地自然林の御林山や留山、比較的交通便利の所には直営造林、百姓に一部用益を許したり植林を命じる御預山、高請林・切替畑となる高請山などがあった。間伐今枝切り等林野の管理は、いずれも郡方平村々の責任である。個人有の山林は百姓(持)山と呼ばれた。共同利用の入会山は、乱伐防止の立場から藩によって入会規則が指導され、斧や鋸の持込禁止によって保護された。
 なお別子銅山の稼行に伴い、多量の坑木や薪炭林の必要から、宝永元年(一七〇四)に西条領中の大永山・種子川山・立川山など六か村、同三年には東西の上野二か村が収公されて幕領となった。

林野の保護

 享保以降、各藩の林政は大きく転換した。乱伐によって森林が荒廃し、減少したためである。御立山、留山、留木を増加し、運上を値上げすると共に乱伐を禁じ、植林を命じる布令が次々と発せられた。林政の主眼点が、利用から保護に転じたことが明瞭である。山林改めが強化され、正徳三年(一七一三)と文政一〇年(一八二七)には、松山藩は境界を絵図面化させ、郡方、山守らの取り締まりの不十分を叱責した。大洲藩では山守に起請文を書かせて、巡回や厳正な取り締まりを命じている(有友家文書)。
 乱伐防止や庄屋、山守らの取り締まり強化、山焼や切畑の停止等を含む山林取締令は、今治藩の貞享二年(一六八五)六月七か条(資近上三-83)、宇和島藩享保一九年(一七三四)四月、西条藩寛延元年(一七四四)一二月六か条、寛政二年(一七九〇)一一か条(松神子小野家文書)、松山藩宝暦九年(一七五九)二月一三か条(堀江村公用記録)などにみられる。いずれも後代ほど詳細である。西条藩の寛政令では女・子供にまで徹底すべきとし、村役人と村民全員に請印を押させた。また、松山藩の天明三年二一月布告などで、藩士の家の門松に枝松を使用させることも一般的となった。
 宇和島藩では乱伐停止令が元禄一〇年(一六九七)七月、宝永四年(一七〇七)一〇月、正徳五年(一七一五)九月、享保四年一一月と六年に発せられた。植林命令は元文元年(一七三六)八月、享保六年と一〇年、野火取締令が延宝五年(一六七七)、安永七年(一七七八)に出ている。同藩では宝暦六年と文化四年(一八〇七)に滑床山一円、正徳~享保期に奥鬼ケ城・水ケ森ほか七か所、安永四年には保内・矢野両組の海岸部全域、天明二年(一七八二)奥浦や城下近郊、天保八年(一八三七)には恵美須山と串山を留山・留野として一切の入山を禁じ、森林の成育を保護した(『記録書抜』)。宝暦一〇年五月には「郷中百姓控山ノ定」により、旧来の諸規定を確認させた(『愛媛県編年史』7)。
 失火や盗木など森林に関する刑罰も、益々強化され、宇和島藩では元文三年(一七三八)一〇月に等妙寺山の檜皮を盗んだ百姓が、死刑のところ罪一等を減じられて遠島となった。宝暦五年三月には、無届けで控山の木を伐った庄屋が藤治駄場へ杉苗三、〇〇〇本の過料植を命じられた。安永二年(一七七三)六月、滑床山で盗木をした百姓は、過料のうえ領外追放となった(『記録書抜』)。小松藩では少し軽く、安永九年二月、川堤の御用木を伐った新屋敷村の甚兵衛が、戸締めの上過料となった例がある(「小松藩日記繰出」)。

植林の進展

 林木育成の布令は、慶長一八年(一六一三)三月、足立半右衛門が二神島に発したものが早い例である(来迎寺文書)。松山藩越智島では禿山の惨状から、元禄元年(一六八八)代官林源太兵衛の指揮下に、翌二年にかげて一七か村に植林を実施し、一一年から野間郡別府村沿岸にも松を植えた。越智島の成育状況は、宝永二年(一七〇五)に山手代の松本忠助か、島方御林植松改めに来島し検分した。宝永七年、江戸藩邸が焼失した際には島方からも用材を運んだ。しかし島は上質に保水力がなく、同一〇年、享保二年(一七一七)、同七年などの暴風雨では、山崩れの被害を出した。貞享二年(一六八五)には野間郡長坂村にも植林が行われた。
 今治藩では貞享四年正月、鳥生村衣千山への松苗植栽や、元禄六年、城下船頭町への杉苗五六五本の植栽が早い例である(大浜柳原家文書)。一八世紀に入ると本格的植林が進められ、宇和島藩では享保一一年に桐、漆、松、杉、桑の植栽を勧め、預山の松、杉は、植付者に三分の二を与えるとして村人の意欲をあおった。同一二年末には松六万七、四〇七本、杉五、〇六七本の成育を報告している。明和六年(一七六九)には領内の全百姓一人に付き棕櫚一〇〇本、桐二本の植栽を命じた。この御用桐は文化一〇年(一八一三)の初伐り以降、一本ずつを補植させた。この天明期には新谷・今治・西条藩でも桐を植えさせている。また個人の植林も行われ、新居郡船木村の百姓孫兵衛は、明和五年五月、植林の功により銀五〇〇目と米五俵を西条藩から贈られた(『西条誌』)。
 後代、植林は更に計画的となり、宇和島藩では弘化四年(一八四七)から年次計画によって杉・檜などの惣山植え付けを展開した。同年から安政三年までの一〇年間は毎年一万二、〇〇〇本、翌年からは一万五、〇〇〇本を植えた。苗は城下に植木苗座を設げて用意した(宇和島藩御用場日記)。しかし植林の進展は御立山の増加を意味し、百姓には不利の上に負担増となった。幕末は諸国の木材が払底し上方や尾道などの荷動きがよいため、同藩では従来放置していた滑床山の奥地林の伐採を安政五年(一八五八)から開始した。また風波が強く、急傾斜で植林には不適の佐田岬半島でも、盛夏に毎年一〇町歩ずつ山焼きをし、松を主体に植林を開始した(「大控」)。

表三-35 宇和島藩の林制一覧(青野春水「宇和島藩の林野制」他より作成)

表三-35 宇和島藩の林制一覧(青野春水「宇和島藩の林野制」他より作成)