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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 農業技術の改良

農具の発達

 近世の農業では鍬・鎌・犂の主要農具の他に数多くの補助用具が使用された。種々の用途の桶、自家製の藁製品、篩や箕、蓑笠、牛馬用具などである。鍬、鎌等の改良は元禄期から著しく、綿や桑など商品作物の普及と、農具の分化の関係は深いといわれる。改良型の基本型は先進地から移入されたが、各農家が好みや土地条件に合わせて工夫し、村々の鍛冶屋に発注したためである。
 万能で最も基本的な農具である鍬は、木製を主とし、先端部のみ鉄製の歯先を付げるものが多かった。元禄~享保期に総鉄製で打ち起こし用の備中鍬が普及し、他の鍬は除草や中耕、整地用具となった。犂は前期には上層農民のものであったが、深耕の効果から幕末以降は下層にも普及した。
 穀調整面では、扱き箸に代わり千歯扱き(万力)が和泉地方で考案された。元和ごろ麦用の竹製が、元禄ごろに稲用の鉄製が使用されはじめ、作業能率が一〇倍であったため全国に普及した。中国からは唐臼が寛永期に、唐箕が元禄期に長崎へ伝来し、各地で改良型が製作された。
また、万石通(千石通)も発明され、籾すりに利用されて大いに能率をあげた。

肥料の多様化

 近世、特に前期の肥料の中心は刈敷で、他に厩肥、堆肥、人糞、糠、灰などの自給肥料を主としていた。刈敷用の草は、『清良記』巻七によると秀れたものとしてわらび・ぜんまい・海藻など一五種をあげる。同書では、食して味が良いか葉の柔らかいものを中位、滋味のあるものを下の肥料としている。田の元肥としての必要量は、反当三〇〇~五〇〇貫で、刈り取りのための林野は田の数倍の面積を要する。したがって、入会地をめぐる村々の紛争は水論についで多く、藩庁が裁決に当たることも度々であった。
 入会地論争では、替地にからむ松山・大洲藩の争いである「砥部騒動」が大きかった。これは伊予郡の大平村・三秋村の山々をめぐる四〇か村の対立で、寛文期から始まり、寛保二年(一七四二)には、竹槍なども持ち出された。新居地方の入会は、慶長五年(一六〇〇)に加藤嘉明と藤堂高虎の領地分けの際に、旧慣による旨が確認された(資近上一-90)。その後一柳氏や松平氏入部の際にも慣行を認めたが争論は多く、特に大野山・種子川山・大生院山の入山をめぐる紛争は激しかった。越智郡小大下島は岡村・大下両村が入会で肥草を刈ったが元禄一六年(一七〇三)から境界でもめ、明和五年(一七六八)には暴力事件も起きた。藩庁は天保九年(一八三八)、同島を二村に分けて解決した。
 下肥は野菜や麦作に有効で、新居地方では不足分を別子銅山まで買いに出かけた(一宮社記)。城下や町場では周辺農村と契約して米や野菜と交換した。今治藩では町奉行一宮伝左衛門の発案で、それまで無料の家中や町家からの汲み取りを延宝七年(一六七九)から米や餅米と替えることとした。貧困町人は喜んだが、百姓は糞喰い正月と笑ったという(『今治夜話』)。
 中後期からは干鰯、石灰、油や蝋の絞り粕などが使用された。しかし油粕一貫目は天保八年で八匁、嘉永四年六匁三分(五年で四匁二分)と高価で(昌農内村大西家日記)、商品作物や野菜生産地では使用されたが、中南予の山間では、依然として自給肥料中心であった。金肥の使用は、地域の土質や肥料の生産とも関係があった。石灰石を産する東宇和や越智郡では石灰の使用が多く、酸性土壌の新居地方でも波止浜から石灰や、讃州船の運ぶ灰を購入した。天保期には新居浜浦でも灰船を商う者が増え、讃州船を圧した。しかし一斗六升桶で二匁が九升二、三合入りで六匁と値上がりし、下泉川・沢津両組一七か村の百姓は、讃州船人港の復活と、灰問屋経由の販売を要望した(松神子小野家文書)。

病虫害の防除

 洪水・旱魃などの災害と共に、大凶作の原因となったものが病虫害、殊に稲作では浮塵子であった。防除知識の乏しい近世では、神仏に頼り、虫送りの民俗行事をして災難を免れんとするか、被害にかかれば病株を焼いて処理するしかなかった。農業経営では最も遅れた分野で、ほとんど技術の域には達しなかった。祈祷は氏神単位で行うが、被害の大きい場合は数か村連合や郡単位で、大山祇神社・伊曽乃神社など地方の大社が選ばれた。氏神では二夜三日であることが多いが、連合の場合は藩役人も詰めて七日七夜(ひと七日)の煌虫退散五穀成就の祈祷が行われた。菊間加茂神社ではこうした大祈祷が宝暦五年(一七五五)、天明六年(一七八六)、文化一〇年(一八三〇)、文政二年(一八一九)、同八年、天保八年(一八三七)、安政五年(一八五八)、万延元年(一八六〇)と行われている(加茂社記)。
 鯨油を田に注入する駆除法は、伊予では享保ごろにはじまり、明和ごろには宇和島藩でも行われた。竹筒に穴を開け、二尺四方に一滴ずつ垂らし、竹枝で払い落とした虫を水と共に流す方法である。初期には各藩領とも、村方から被害の大きい時に藩に下付を願ったが、文化・文政期以降は毎年定量の鯨油が村ごとに配布された。その量は反当たり上田四合、中田三合、下田二合で、交付時に代金の半額、年末までに残額を藩に支払う例であった。
 今治領越智郡大浜村では、天保~文久年間に、毎年水田二五町七畝余に鯨油七斗七升七合五勺が下付され、代金一七〇~三〇〇匁を上納している(大浜柳原家文書)。野間郡浜村では、代官命による稲作虫差手当油の絞油一四石(二斗入り七〇挺)の配布が弘化二年(一八四五)五月に終了しているので、鯨油以外の油も使用されたことが分かる(浜村庄屋御用日記)。

表3-27 小松藩の主な入会山論争

表3-27 小松藩の主な入会山論争