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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 中世城郭の構造

山城の概観

 中世城郭は、構築された時代により、また築城主体が分国大名か、国人級領主か、小土豪級領主か、構築した城主の階層により、あるいは山地か、丘陵地か、平地か、河海の沿岸かなど城郭の立地条件などの諸要因により、多種多様な構造をもって構築される。約七〇〇におよぶ城郭の構造を、遂一説明することは至難であるから、簡単に全城郭を概観したうえ、標式的城郭構造をもつ数城について説明するにとどめたい。
 伊予の中世城郭は、一五〇アールの平坦地に堀と土塁に囲まれた平岡氏の荏原城(松山市恵原町、口絵参照)のような平城、および標高七二メートルの丘陵を囲んで堀をめぐらした居館と居城を兼ねた河野氏の湯築城(松山市道後湯之町)、燧灘沿岸の標高一八メートルの丘陵を利用して土肥氏が築いた川之江城(川之江市大門)、肱川左岸標高二三メートルの小丘に築かれた宇都宮氏の地蔵ケ嶽城(大洲市三ノ丸)のような平山城など数城を除いて、標高約四〇〇~二〇〇メートル前後の高所にあるいわゆる山城である。武士団間の戦闘様式の変化に伴って南北朝期以降ころから、平地に建てられた居館の背後かあるいは近傍の丘陵・山地を利用して、城郭が構築された。
 多くの山城は、自然か人工の平坦面を切岸で囲んだいくつかの郭(曲輪ともかく)から成立する。城の中核となる本丸の郭は、周辺の山なみからひときわ抜け出て屹立している山巓付近に設けられ、そこから支配領域の平地が一眸のもとに俯瞰できた。本丸を防衛するための二の丸・三の丸などの郭、さては帯郭のいくつかを備えた山城もあったが、それらを欠くものもあった。城山の各所に尾根をたどって攻撃する敵を遮断するため、空堀が掘られ、防御上脆弱な箇所には土塁が築かれた。これら郭配置・空堀・土塁などは、戦国期に入ると変化発達して城全体の防衛機能を増進する。このほか山城には、逆茂木などの柵・塀・木戸・櫓・堀・石垣などを設置しているものもあった。
 これら山城は、ふつう山下に土塁・石垣・土塀などの障壁に囲まれた「土居」とよぶ城主の屋敷地を伴っており、土居の内には城主の居館と郎従たちの家や下人たちの小屋が立ちならんでいた。城主は土居を中心として周辺に広がる村落の農地と農民を支配し、平時は農業経営にあたり、有事の際には村落居住の家の子郎党を率いて、山城の攻防を主とする戦闘に従事した。山城と山下の土居を含む村落との密接不可分の関係は重視されねばならない。

河野郷土居・高縄山城の構造

 中世城郭は、武士の屋敷―居館から出発する。前項でふれたごとく中・東予きっての中世大領主河野氏が、この地に発祥し、居館・城郭を構築し、中・東予支配の根拠地とした河野郷土居・高縄山城の構造をみよう。
 北条平野の中央部に、風早郡五郷の一つ河野郷があり、平野から約四キロメートルほど東へ入り込み、南・北両側を平行して東西に連なる標高約一二○~一三〇メートルの低い丘陵に挾まれた馬蹄形の小平地―善応寺部落がある―に、両丘陵を天然の土塁として土居は構築された。高縄山(標高九八六メートル)の西斜面に発し、山麓西部を開析して、高穴山(標高二九二メートル)の南側を西流する河野川と、雄甲山(標高二三八メートル)・雌甲山(標高一九二メートル)の南側を河野川と平行して西流する高山川とが、土居内を防衛する濠の役割をつとめた。東へ向かって緩傾斜の耕地をのぼりつめると、土居の内全体から斎灘までの展望がきく標高七〇メートルの高台があり、建武年間河野通盛が、土居館を改築して創建した河野氏の氏寺善応寺がある。『善応寺縁起』などによって(善応寺文書・一二四一)、寺創建以前の土居館が広壮雄大な居館であったと推察される。この居館の周辺には、河野館の防衛にあたる一族郎従の屋敷が設けられていた。
 河野郷土居の東部、居館の背後にそそり立つ雄甲・雌甲の二岩峯と、土居の北東端に聳える高穴山には、天嶮を利用してそれぞれ山城を構築して、三つの山城があいまって土居全体の防衛を堅固にしていた。とくに高穴城は、源平合戦当時築かれていた河野氏の主城で、「山高、谷深、四方嶮難」(予陽河野家譜)の要害堅固の城であった。当城は東西に連なる尾根を削平して構築した関係で、東西一二五メートル×南北一七メートルで東西に細長く、東高西低の階段式構造の郭配置をとっている。東部に二六メートル×一四メートルの長円形をした本丸が、長さ一〇メートルの石垣をもつ三メートル×二〇メートルの帯郭を西側に配して南東→北西に連なり、本丸の西、比高一五メートルの段差をもって東西二一メートル×南北一〇メートルの長方形をした二の丸があり、その西斜面は三〇メートルから二つの尾根に分かれ、両尾根に深さ一~三メートル、幅二~八メートルの空堀が掘られ、城の大手口の防衛にあたった。この三城と背後に高く聳える高縄山一帯を総称して高縄山城といったとおもわれる。

黒瀬城の構造

 黒瀬城は、肱川の上流宇和川が南流する宇和盆地の南西隅標高三五〇メートル、比高二〇〇メートルの山頂に、前述したような経緯で戦国期天文年間から弘治年間にかけて、西園寺氏によって構築された山城である。この城は、表4―1に示したように、宇和郡全体の領主であり、手先一二○騎、旗本組衆三四騎、御旗本七人衆、黒瀬衆八騎などの直臣多数を擁し、配下に宇和郡内各要地に所領と城・居館を構えたいわゆる西園寺一五将を従えた西園寺氏の総本城であり、大根城であった。地政的にみて御庄組(現南宇和郡)を除く全宇和郡のほぼ中央に位置し、領主権力を全領内に浸透させるのに好都合であった。
 当城の本丸は、急傾斜の岩壁で囲まれた黒瀬山頂部を、東西に細長い一三〇メートル×二五メートルの平場をあてている。本丸の南側一帯には、嶮しい山腹の上部に、断続的に石垣が構築されており、本丸の西端崖下には土塁が築かれ西方へ伸びる尾根には、二つの空堀がある。本丸の北側の犬走りが東の方形郭二の丸につながり、その下を石塁で固めている。二の丸の北には、石塁で囲まれた腰郭が出張っている。本丸の南側にも犬走りがあり、細長く東に伸びて二の丸の東下三の丸郭に接続している。このように当城は戦略的要地を占め、黒瀬山の天嶮に加え、堅固な縄張りをもった山城であり、そのうえ当城の周辺山地には、当城を防御するためいくつかの支城が、山頂の平場を中心に築かれていた。
 鎌倉期以降宇和盆地の東側山地にあって、三世紀近く西園寺氏の大根城であった山城松葉城も、当城へ大根城が移転した後は、一支城として主城の防衛にあたった。また西園寺氏の直臣黒瀬衆の居城鎌田・明間・高山・山田・郷内・真土などの宇和盆地周辺の諸城も、当城を支える支城であった。こうして宇和最強の雄城たる当城は、戦国乱世を戦い抜き天正一五年(一五八七)廃城まで存続した。なお松葉・黒瀬両城の山下町として形成された松葉町(後卯之町と改称)については、本章第二節を参照されたい。

高外木城の構造

 源を石鎚連峰に発して北流する加茂川が、山地から道前平野に出る所、西岸に連なる外山の主峰高峠山(標高二三三メートル)を中心とした山城である。石鎚山系の山腹にある五箇山を背後に城から燧灘までつづく道前平野一帯を展望できる。
 南北朝期、東から侵攻する讃岐の細川勢に対抗するため、河野氏によって築城されたといわれている。永徳元年(一三八一)河野・細川両氏の和議成立後、細川領となった宇摩・新居両郡の支配の拠点となり、やがて細川氏の部将石川氏代々が城主となり、細川氏の代官的役割をつとめ両郡の支配者となった。
 当城は、高峠山の主峰を中心に、東西に連なった三つの峰を利用して築かれ、西高東低の階段式城郭である。まず本丸についてみると、峰の西端高地に、比高四メートルで東西二〇メートル×南北三〇メートルの方形の平坦面をもつ本壇があり、本壇を取り囲むように幅五~七メートルの方形の平坦面があって、比高七メートルの切り立った斜面が本丸全体をとり囲んでいる。なお斜面の北部と東部に部分的ではあるが、石垣が築かれていたとみられる。
 本丸の東に接続して七メートル低いところに二の丸が構えられている。二の丸は東西二五メートル×南北三〇メートルの長方形の平坦面から成る。東端には高さ一メートル幅ニメートル長さ八メートルの馬蹄形の土塁が築かれていた。二の丸の東につづいて比高五メートル下方に、東西二〇メートル×南北二〇メートルの平坦から成る御馬屋敷がある。御馬屋敷の東四〇メートル稜線を降りた所に、幅三メートル深さ二メートルの空堀が施設されていた。
 こうした要害堅固に構築された当城の防衛力をより強固なものにしたのは、高峠山の東西の山麓に構成された二つの支城―土居構―の役割をもつ城主の居館であった。本城から東へ稜線を降りること一・五キロメートルの山麓に、「東之館」があった。現在県指定史跡「土居構」となっているが、ここは加茂川左岸の河岸段丘面上に位置し、西部は高峠山麓につづき、東部と北部の一部は比高七メートルの段丘崖、南部は風呂ヶ谷川を利用した幅一〇メートルの堀をつくって、要害の地とし、内に東西六〇メートル×南北七〇メートルの規模をもつ居館を構築した。なお居館の東・北・南部は、石垣で囲み東・南部に幅ニメートルの犬走りが設けられていた。「西之館」は、本城の北西山麓に存在したと伝えられているが、所在は不明である。
 当城は、東方一・五キロメートル加茂川を隔てた船形山に築かれた横山城、西方四・五キロメートルの山地に築かれた高尾城などの支城砦を配置する東予地方きっての大城郭であった。

海城の概観

 伊予の中世城郭の大きな特徴は、山城とならんで海岸・島嶼など海辺に立地したいわゆる海城が多いことである。海城の基本的特徴は、城郭の縄張りのなかに、城により多少の相異はあっても必ず海をとり入れ海を障壁として、城の防衛に利用していることである。
 陸地沿岸部に築かれた平山城には、海を防塞の一部とした縄張りの城がある。たとえば北宇和郡法花津湾北岸標高二五メートルの丘陵に立地する法華津本城、和気郡西岸(松山港三津内港口)標高五〇メートルの丘陵に立地する湊山城、和気郡の北境堀江湾に臨む標高一〇七メートルの丘陵に立地する葛籠葛城などがある。海沿いにある平城のほとんどが、海水を城郭の内側にとり入れる縄張りにしている。伊予郡の松前城・海辺城、周敷郡の鷺ノ森城などはその一例であろう。
 島嶼部の城は、一部を除き大部分が海城となっているが、とくに芸予諸島の瀬戸―海峡中の小島嶼に築かれた海城には、注目される。畿内と西国とを結ぶ内海水路が、鼻繰・船折・来島の三つの瀬戸を通過するが、いずれの瀬戸も急潮渦巻き、潮に逆らっての航行は困難であった。そのような瀬戸に臨む要害の島に南北朝期ころから海賊衆によって、通航の船舶をチェックし関銭、警固料などを徴収し、進んではここを基地として船隊を組んで海戦に参加するため、堅固な城郭甘崎・能島・来島などが築かれはじめた。
 これら海城の特徴は、①瀬戸の狭小な水路中の島嶼に立地している。②急潮による難所を要害として利用している。③島全体を城郭として縄張りしている。④島の本城の周辺に本城防衛のための支城・番城・砦などが設置されている。この点の例を来島瀬戸の西口海中にある来島城にとると、城主来島村上氏の発展に伴い、対岸の波方浦を中心とする波方城砦群(波方城・黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦など七砦、天満鼻見張台・大角番所・波方館・養老館など)を築き、一六世紀以降大根城を来島から波方に移している。⑤城の周囲に桟橋・船入りなどの繋船施設を備えている。⑥用水が欠乏している城の給水施設(井戸)を島外の海浜に持っている。これらの特徴をもった海城に、上記三城のほか温泉郡中島と怒和島の間のクダコ水道中の久多児城がある。

能島城の構造

 現在史跡として国指定になっている当城は、芸予諸島の伯方島と南隣大島との間の海峡船折瀬戸に浮かぶ、南を頂点とするほぼ三角形の能島(面積約二・五ヘクタール)とその南にある長方形の属島の鯛崎島(面積約〇・七ヘクタール)の二つの小島にまたがって立地し、南北朝期から室町・戦国期にかけて、中部瀬戸内で活躍した海賊衆能島村上氏の大根城であった(口絵4参照)。村上氏がここに城を構築したのは、能島と大島との間の宮窪瀬戸、能島と東隣の鵜島との間の荒神瀬戸を含む船折瀬戸の急潮を天然の要害として、活用するためであった。しかも船折瀬戸は、内海の東西を結ぶ芸予諸島中の三海峡のうち、最短のコースであったから、この航路を往来する船舶が多く、それら船舶に対する軍事施設として、防衛充分な城が急潮の流れの真中に構築されたのであろう。
 能島の中央部標高三二メートルに北東―南西四〇メートル×北西―南東一五メートルの本丸があり、村上氏の居館が置かれていた(以下図4―9参照)。本丸の下段に、本丸を取り囲んで幅約二〇メートルの二の丸があり、二の丸の東には東西一二メートルの矢櫃があり、二の丸の南の出鼻には鍛冶職人屋敷があった。島の西部には、南北約四六メートル×東西三六メートルの底辺を西にむけた不等辺三角形の三の丸があり、南へ突き出た半島状の段丘のうえには、南北約三〇メートルの出丸を配し、島の西岸三の丸と出丸の中間の浅い湾入の浜には、家臣屋敷が立ちならんでいた。能島の南鯛崎島には、標高二二メートルの頂上に東西約一八メートル×南北約四八メートルの長楕円形の出丸が設けられ、能島古図によると、両島は橋で連絡されていたようで、二つの島あげて一つの城郭として、厳重な縄張りがなされていた。なお能島・鯛崎両島の周囲の岩礁上には、軍船繋留用の桟橋の柱立穴とみられる穴が、それぞれ約三四〇個、約一二〇個を数えているのをみると、島内のいたるところに桟橋が設けられ、乗船下船が自在にでき、多数の軍船が城の攻防のため、発着できるよう施設されていたとおもわれる。北隣の鵜島には、造船所・船奉行屋敷・船大工屋敷があり、南対岸の宮窪には潮待の古波戸があり、その上方には見張りの砦が設けられていた。こうして能島を中核とし鯛崎島・鵜島・大島・伯方島を結んで、一大海賊城砦群が構成されていた。なお当城の用水は、島内で得られないので鵜島から運んでいたが、のち宮窪にも水場を設けた。

甘崎城の構造

 現在県指定史跡となっている当城は、芸予諸島の大三島と東隣伯方島との間の海峡鼻繰瀬戸の北西端大三島甘崎沖に浮かぶ南東~北西に細長い古城島に立地している。南北朝期、内海の海賊衆今岡氏は、大根城をそれまで伯方島にあった枝越城から、新たに構築した当城に移したという。
 当城も能島城と同じく瀬戸(鼻繰)の急潮を、天然の要害として防衛に活用するのに最適の場所に立地している。「天崎古城図」(広島市立中央図書館蔵)や、図4―10に示した略測図によって、その規模をみると東西約三〇〇メートル×南北約八〇メートルの広さがあり、城山の北部に標高一七メートル、東西一六メートルX南北三一メートルの広さのほぼ円形の本丸があり、南へ比高三メートル下段に、東西一三メートル×南北三六メートルの二の丸、東西二二メートル×南北四七メートルの卵形をした三の丸へと平場が続いている。本丸・二の丸・三の丸を合わせて瓢簞状をした城地の周囲には、高さ約四~五メートル幅約ニメートルの石垣をめぐらし、さらに城山をのせる島の周囲を、高さ約三~六メートルの石垣で畳んでいるなど、城の厳重な防備がうかがわれる。
 甘崎城の石垣の大部分は、幕末~明治期付近島嶼部の護岸工事に使用するなどのため持ち去られ、地盤沈下などの関係もあってか、島周辺の海面下にわずかにその礎石を残している状態になり果てている。しかし、それでも県教育委員会の『伊予水軍関係資料調査報告書』(昭和五一年)によると、現在海辺に残存している石垣の礎石は、三二列総延長七〇〇メートルにおよんでいて、往時の素晴らしい壮大な縄張りをしのぶことができる。また岩礁上には、整然とした桟橋用の柱穴の跡が多数残っており、北海岸に船入の施設もあって、水軍城としての特色をもった構造であった。なお城の用水は、対岸の甘崎部落内の水場から供給していた。

図4-7 平岡氏の居城荏原城(松山市9

図4-7 平岡氏の居城荏原城(松山市9


表4-2 中世城郭の高さ

表4-2 中世城郭の高さ


図4-8 黒瀬城の縄張り(宇和町)

図4-8 黒瀬城の縄張り(宇和町)


図4-9 能島城跡実測図(宮窪町)

図4-9 能島城跡実測図(宮窪町)


図4-10 甘崎城略測図(上浦町)

図4-10 甘崎城略測図(上浦町)