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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 河野氏の周辺

毛利氏と伊予

 山口を拠点に、山陽・山陰地方をはじめ、北九州の一角にもその勢力をおよぼしていた大内氏も、義隆が譜代の重臣陶隆房(晴賢と改める)の反逆にあって、長門国深川の大寧寺で自殺した。晴賢はその翌年に、九州の大友義鑑の子の義長を迎えて義隆の後継者とし、みずから政権を掌握した。これよりさき、安芸国吉田を本拠地としていた毛利元就は、はじめ尼子氏の支配下にあったが、やがて尼子氏を離れて大内義隆に従い、その援助を受けて安芸国の諸将を討ち従え、ほぼ同国の統一に成功していた。そこで、晴賢の領国が動揺しているのに乗じて兵備を整え、陶氏討伐の兵を挙げた。弘治元年(一五五五)九月、晴賢は部将の制止をふり切って厳島に渡海し、堂岡に陣して毛利勢と対陣した。元就は村上三家を招いて制海権を確保し、一〇月一日、一挙にこれを攻撃したので、晴賢は敗北し、船に乗って脱走をはかったが、窮地におちいって大江浦で自殺した。この時、海上では伊予国の水軍と周防国の屋代島・宇賀島等の水軍の間で激戦が展開されたが、勝利は伊予側の手に帰した(第三節参照)。
 その後、毛利氏は周防の諸城を占領し、同三年(一五五七)三月には大内義長を攻撃した。この時、来島の村上通康らの伊予の水軍は、小早川隆景に協力して海上警固に従事し(河野孝敬文書・一八一〇)、陶氏の残党の掃討に当たった。やがて元就は義長の軍勢を撃破したので、義長は長門国勝山城で自殺し、大内氏は完全に滅亡した。こうして、毛利氏の武威は山陽地方に及ぶようになった。
 また、厳島合戦の恩賞として、村上三家は毛利氏から領地を与えられたことにより(村上文書屋代島・一八〇二他)、両者の間に形式的にもせよ被官関係が生じることになる。毛利氏としては、この際強力な海上武力を誇る三家をその家臣団のなかに位置づけたいところであったろうが、来島ら三家側はその意志を拒み(資料編一八一三)、「結べども、付随せず」という姿勢を崩さなかった。毛利氏としても、それにこだわらず、三家との提携を強め、かつその主筋にあたる河野氏との友好関係の樹立に意を用いた。そして天正九年(一五八一)、毛利氏と河野氏との間の縁組みが成功し、通直は吉見広頼の女で、輝元の姪にあたる女性を室に迎えた(萩藩閥閲録・二二六〇、村上文書屋代島・二二六一)。

宇摩・新居二郡領主石川氏

 宇摩・新居両郡が細川氏の支配下になってのちは、この両郡を実質上支配したのは石川氏であると思われる。石川氏は元来細川氏の一族で、同氏の指示によって伊予に入国し、新居郡高峠(高外木)城を拠点として、細川氏の代官として両郡を支配するようになったのではないかといわれているが、その辺の事情は明らかではない。石川氏は、戦国時代に入るころには、細川氏にかわってほぼ両郡の支配権を確立していたのではないかと思われるが、しばしば武将たちの反抗に悩まされた。天文二〇年(一五五一)ころには兵乱で領国内は騒然としたが、金子城の金子元成らの活躍で鎮定することができた(金子文書・一七七五・一七七六)。さらに弘治二年(一五五六)にも兵乱が発生したが、この時にも、元成らの活躍で事なきを得た(同・一八〇四)。そこで、石川氏は細川氏にかわって新しく台頭した三好氏と結んで勢力の維持につとめたが、領内の動揺はその後も続いた。
 元成は、二郡の政情の安定を願ってか、河野氏の実力者村上通康に使者を立てて厚誼を求めたが(金子文書・一九八五・一九八六)、このような状況のなかで、金子氏の勢力がしだいに台頭し、戦国末期には実質上金子氏が宇摩・新居両郡旗頭の地位に立ったものと思われる。なお、小早川隆景自筆書状(小早川家文書・二一一四)は、元亀二年(一五七一)、新居・宇摩郡で来島家が警固働きをしたことを伝えている。

足利将軍と河野氏

 河野通宣は、幕府に任官を希望し、永禄五年(一五六二)ころ、左京大夫に補任されている(通宣については本章第一節参照)。このように、河野通盛が建武三年(一三三六)に足利直義から安堵状(河野文書臼杵稲葉・五八六)を与えられて以来、足利将軍家と河野氏の間には、交渉が持ち続けられた。ことに戦国末期の永禄・元亀(一五五八~一五七〇)のころには、河野氏にあてた義輝・義昭両将軍の御内書のほか、側近の梅仙軒靈超や上野量忠・一色藤長らのおびただしい書状が存在し、これが河野氏と将軍家の関係を知るための有力な手がかりとなっている。
 当時の幕府は、すでに形骸化・無力化して衰微の一途をたどるばかりの状態であったし、いっぽうの河野氏もまた内憂外患に悩まされていた。この両者が親密な交渉をもつようになったのは、足利義輝・同義昭の側近であった梅仙軒靈超の存在に負うところが大であろう。越智郡日吉郷の海会寺領は靈超の知行地で、同所の完全支配をねらう来島村上氏との問に紛争の絶えなかった土地であった。そこで、彼は将軍や河野氏の権威を背景に知行地の保持をはかったところから、このような関係が生じたものと思われる。来島家の海会寺領侵略は、通宣が宗三郎と名乗っていた永禄の初めころにすでにはじまっており、足利義輝が「国内の混乱をロ実に約束を実行しないのは不届きである。海会寺分の監督をしっかりするように」(河野文書臼杵稲葉・一八九一)と通宣に命じたり、靈超自らが通宣に、「未納になっている日吉郷の公用銭を取り立てて欲しい」(同・一八七三)と依頼したりしている。
 その後、来島の村上通康が病没すると、その子牛松(通総)は海会寺領を押領した。そこで、足利義昭は靈超のために御内書を河野牛福丸に下して(河野文書臼杵稲葉・二一四一)、牛松の乱暴を停止するように命じ、また一色藤長・靈超からも牛福丸に書状(同・二一四二・二一四三)を送って、同じ趣旨の依頼をしている。それで、河野氏としても永禄一三年(一五七〇)、二神氏に対し牛松と交渉を絶つように指令して、これに圧力をかけた(二神文書・二一○六)。その後も、靈超らから河野氏に対し、何度も同じ要請をした。しかし、結局日吉郷海会寺領は靈超のもとへ返らなかったようである。また、この係争に関係して注目されることは、この梅仙軒靈超の斡旋によって、将軍義昭が宇摩・新居両郡を河野氏に返還する旨の御内書を出していることで(河野文書臼杵稲葉・二一四六)、これは元亀元年(一五七〇)のことと思われる。しかし、このころ宇摩・新居両郡は前記のように独立した勢力となっていて、河野氏の手に届かなかった。したがって、この両郡の返還は単なる口約束か外交辞令で、河野氏にとっては何の実効も伴わなかったものと思われる。
 まったく実権のない将軍義昭は、全国統一をめざして政治・経済の分野で改革を断行する織田信長と対立をくり返した。そのうえ、天正元年(一五七三)二月、義昭は武田晴信・本願寺光佐・浅井長政らと結んで、信長を討伐しようとしたが失敗し、二条城や槇島城(京都府宇治市)などで織田勢の攻撃を受けることになった。同年七月、追いつめられた義昭は、信長に和を請うて河内国若江に移り、さらに紀伊国へと赴いた。一般に義昭が京を追われた時をもって、足利幕府は滅亡したとされる。
 翌二年(一五七四)三月、前将軍義昭は反信長派の有力大名らと結んで京都を回復しようと謀り、河野氏にも協力を要請したが(河野文書臼杵稲葉・二一三六)、諸将の足並みはそろわず失敗した。天正三年(一五七五)、義昭は失意のうちに堺(和泉国)を船出して備後の鞆ノ津に赴き、毛利氏に保護を求め、同氏はこれを受け入れたことによって、織田・毛利両氏は敵対関係にはいった。同四年(一五七六)、毛利氏は大坂の石山に粮米を送ることになり、村上三家に協力を要請した。この時、義昭の側近真木嶋昭光(前槇島城主)も通直に書状(河野文書臼杵稲葉・二一七七)を送って、毛利氏に協力するよう要請するとともに、三家の水軍が摂津国の木津川口で織田氏の水軍を撃破して勝利を得ると、ふたたび通直に書を送ってその戦功を讃えた(同・二一九九)。
 しかし、その後の天下の形勢は如何ともなし難く、ほぼ同年(天正四年)を最後にして将軍家と河野氏との間の音信は途絶えてしまった。

河野通直牛福丸

 晩年病魔に冒された湯築城主河野通宣左京大夫は、嗣子もなかったので、教通の弟の通生の曽孫にあたる野間郡池原館(現菊間町)の池原(簗瀬)牛福丸を迎えて養子とし、永禄一一年(一五六八)二月に宗家を相続させた。この時、牛福丸は五歳の幼児であったという。牛福丸は四郎といい、翌一二年、元服して通直と称し、兵部少輔・伊予守となったが、若年であったから実父の通吉が後見人となって政務を担当した。しかし、この通直も病弱であったらしく、河野氏が強固な領国体制を確立して、難局を切り抜けることは困難であって、以後いくたびかの危機に見舞われることになった。
 そのような河野氏にとって、それまで強固な団結を誇ってきた村上三家が分裂しはじめたのは大きな打撃であった。永禄一二年(一五六九)、北九州の地で毛利・大友両氏が対陣した時、毛利氏に属して出陣した能島家が、大友・尼子両氏と通じて日和見をしたため来島家が苦戦し、それ以後能島家は元亀三年(一五七二)まで来島家と対陣して、はげしい攻防戦を繰り返した(村上文書屋代島・二〇八九)。来島家は、能島家と争ういっぽう、河野氏に対しても不穏な態度をとるようになった。その原因は、村上牛松(通昌・通総)の父通康が河野弾正少弼通直の後継者に指名されながら、重臣団の排斥を受けて失格して以来の怨念が爆発したことにあるといわれる。牛松は前記のように将軍足利義昭の側近梅仙軒靈超の知行地越智郡日吉郷海会寺領に関して河野通直(牛福丸)の指示にもまったく耳をかそうとはしなかった(河野文書臼杵稲葉・二一四三他)。しかし、これを武力で討伐する力も、通直にはなかったようである。