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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 村上氏の水軍組織

村上氏の二つの顔

 まだ歴史の表舞台に登場しないころの村上氏というのは、漁業のかたわら警固料で一族の生計を立てていた典型的な警固衆であったと思われる。したがって、当時の彼らは領土に対する執着心が薄く、特定の豪族と主従関係を結ばねばならぬ理由や義理も、あまり持ち合わせていなかったようである。しかし、やがて彼らが領土的な野心に目ざめるようになってくると、その性格も変わってきて、二つの顔をもつようになってきた。すなわち、その一つは、水軍組織をもつ海上警固の専門家の顔であり、他は、一定の所領を有する在地領主の顔である。この二つは、本来たがいに相容れがたい性格のものであると思われる。漁業者と農民とでは、生活の基盤が違うからである。この異質の両集団を、梶取百姓出身の強力な指導者がうまく調整して組織化した海上武士団が、水軍村上氏といえそうである。
 「板子一枚、下は地獄」という生活に支えられた水軍の将兵や、常に海とのかかわりの中で生きる海島の住民は、同族的な結束が強い反面、閉鎖的で現実的な気風が強く、農村を基盤とした在地勢力のように、土地を通して主従関係を結ぶとか、それがために束縛を受けることをあまり好まなかった。したがって、三家の水軍は、いずれも河野家の重臣の地位にありながら、ほかの諸将にくらべて、かなり自由に行動していたことがうかがわれる。
 厳島合戦を例に、彼らの物の考え方をみてみよう。陶氏との決戦にあたって、かつて三家の本拠地を襲撃した実績をもつ強力な防州の水軍に対抗するため、毛利氏は三家に救援を依頼した。これに対して、三家は早くから毛利氏に味方する意志を持っていたとみられるにもかかわらず、おそらくは能島家の主導で、参陣をぎりぎりまで引き延ばした。
 戦後、恩賞として向島を与えられた因島家は、それに対して、不満の意を表明したようである(村上文書因島・一八九八)。来島家も、恩賞として屋代島の半分と能美島を与えられた。しかし、来島家はそのことによって毛利氏の家臣(被官)になったという意識はさらになかったようで、翌年に毛利氏と敵対しかねない態度を示したこともある(資料編一八一三号)。いずれに味方するかは、警固料しだいという警固衆の思想や思考をみるうえで興味深い史料である。しかし、戦国大名同士の対立抗争が激しくなるにつれて、このような論理はしだいに通用しなくなり、警固衆もきびしい選択を迫られるようになっていった。

三家の水軍組織

 河野氏支配下の水軍としては、村上三家と今岡・忽那・得居等の諸氏を挙げることができよう。しかし、得居氏が水軍組織をもつようになるのは、来島家の系列下にはいった永禄のころからのようである。これら諸氏の水軍組織をある程度うかがうことができる文献は、河野氏の家臣団名簿である『河野分限録』と、『村上三家由来記』所収の三家の家臣団名簿くらいしかない。しかも、これらは近世になって成立したものであるから、その記述をそのまま信頼することは危険である。そこで、そのことを十分念頭におきながら、以下簡単にその内容を紹介してみることにする。
 『河野分限録』の記すところによると、右の諸氏はいずれも河野家御侍大将一八将のなかに名を連ねている。ことに村上三家は船大将を兼ね、三家合わせて七九〇余騎とあるから、これが事実とすれば、これら「馬上」がそれぞれ率いる具足(足軽や船侍)に水主・揖取などを加えると、その動員能力はかなりの数にのぼったであろう。これら三家のなかでも、二六〇余騎を率いる因島家は比較的陸軍的な性格が強く、領土拡張に執念を燃やした。同家の要となっていたのは五家将とよばれる重臣たちで、席次と役割がきまっていた。それを現代的ないい方で表現するならば、第一家将救井氏が国防方、第二家将稲井氏が貿易方、第三家将末永氏が内務方(側用人頭)、第四家将宮地氏が回送方、第五家将南氏が海関方という分担になっており、この下に八家士大将衆が置かれ、さらに実戦部隊の主力である番頭衆が控えていたと伝えられている。船奉行は片山・坂田・野間・原の四氏で、いざ出陣という場合には、軍大将救井氏の采配のもと、船奉行指揮下の軍船に番頭衆を中心とする将兵が乗りこみ、それに手先と外様の船手衆の率いる船団が加わった時、因島村上水軍が成立したようである。
 つぎに、能島家が因島家に比べて水軍的色彩が強いのは、二六〇余騎の馬上の中に三四騎の海賊頭を含んでいることである。彼らはそれぞれ単位水軍の頭であって、船侍など海戦専門の兵員そのほかを多数扶養していた。そして、いざ合戦といえば、船大将の号令のもと、各海賊頭や手先・外様の船手役が率いる単位水軍が集結して、能島村上水軍が形成されたといわれる。それだけに、海戦における同家の戦闘力は抜群で、内海諸海賊や航海者にとって最も畏怖すべき存在であったであろう。
 二七〇余騎といわれる来島家の水軍組織は、まだ解明されていない。しかし、三二騎の海賊頭を保有していたところからみて、因島家よりも能島家のそれに近かったようである。また、天正のころの同家は、陸戦でも精強の誉高かったところからみて、陸戦隊的な要素の強い軍事組織を作っていた可能性もあるが、そういう点も、今後の研究課題である。

水軍の収入源

 水軍の収入源は、警固料・関銭・回船料・貿易収入などが主なものであるが、なかでも関所からの収入が莫大で、しかも安定していたという。室町時代、能島家は安芸の宮島(厳島)で荷駄別役銭を、周防の上ノ関で帆別銭を徴集する権利を大内氏から認められていたが(大願寺文書・一七七〇)、このように、関銭には帆の広さに応じて徴集する帆別銭、櫓数に応じて課す櫓別銭、積荷に応じて課す荷駄別役銭などがあった。これらのうち、どの方法で徴集するかは、それぞれの関所の慣例に従っていたようである。そして、一度通関料を払って、支払い済みの船印を立てておけば、あとの関所は自由通航という掟があって、それが海の男の仁義であった。
 これら関銭の額(税率)を記す確かな史料は伝えられていない。『能島家根本覚書』(村上文書屋代島)には、荷物の十分一と記しているが、それを裏づける史料は何もない。
 彼らは関銭を取り立てるため、船が関所にさしかかった時、必ず帆を下げさせた。しかし、公方への進上米を運送するような場合には、過書(過所ともいう)という通関料免除を保証する証文を示せば、関銭を納めなくとも、どの関所も無事に通過できるしきたりであった。いずれにしても、瀬戸内海を運航する船にとって、高い通関料はかなり重い負担であった。
 そのほか、船が潮流の激しい瀬戸にさしかかった時には、関所の警固衆がその船に乗り移って水先案内をすることがあり、これを上乗りとよんだ。また、警固船を出して、船(船団)に同行し、その代償として警固料を受け取ることもあった。海関に由来する地名としては、下ノ関(山口県)・中ノ関(同県防府市)・上ノ関(同県熊毛郡)・関前(越智郡)などのほか、安芸の音戸瀬戸の沿岸には警固屋という地名があり、三田尻(山口県防府市)には警固町という地があって、警固関の名残りをとどめている。