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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 大除城主大野氏の消長

大除城を築く

 大野氏は、浮穴郡の山間部を本拠とする国人である。すでに室町時代から姿を見せ始めるが、それについては第三章第二節で述べたので、ここでは主として戦国時代の同氏の姿をみることにする。
 河野氏の領国支配において、土佐勢の侵入は最も警戒を要するところであった。そのため土佐国に接する小田・久万地方の守りとして久万山の明神村に大除城を築き、大野氏に守らせることにした。『予陽河野家譜』や『大野直昌由緒聞書』によると、大除城は、土佐勢に対する備えとして湯築城主河野氏の築くところで、「大いに敵を払い怨を除く」の意で命名され、喜多郡宇津城主大野直家(『大野系図』の朝直と恐らく同一人物)を迎えたというのである。
 大除築城の年代は判然としないが、恐らく久万山に出雲入道が跳梁し、通繁兄弟がこれを平定したと『大野系図』の記す寛正五年(一四六四)前後のことではなかったかと思われる。大除城主初代とされる直家(朝直)のときにあるいは大修理が加えられたのかもしれない。
 大野氏の拠った大除城跡は、三坂峠を越えて久万町の町並みに入ろうとする左手、高殿神社から川を距てて見上げる比高約二〇〇メートルの山頂にある。南北に流れる久万川が裾をめぐり、川に沿う土佐道を扼する究竟の地点にあって、平時の居館のあった槻ノ沢から城跡に登ると、三方切り立った険しい地形で聳立し、東側だけが裏山につづき、この地点に空堀・石垣で防禦線を設けてある。槻ノ沢には古井戸があり、土地の人は「殿様井戸」と呼んでいる。また小字名として「かまえ」「馬場」「城のきし」「くらが森」などが残っている。部下の将兵たちは平時には槻ノ沢にいて耕作と軍事の訓練をし、戦争となると住居を引き払って兵粮・武器を携えて城地に立てこもる手筈であったと思われる。久万山・小田郷では大除城を中心に三〇余の枝城を要所々々に作って、それぞれ将士を配し土佐勢の侵入に備えていた。
 一般に朝直・利直・直昌を大除三代と称する。

初代朝直

 『大野系図』に見える朝直は、『予陽河野家譜』や庄屋文書では安芸守直家とある。土佐長宗我部氏に対抗する将として輿望をになって入り、大除三代の祖となる人物であるが、系図では文明三年(一四七一)の誕生で九郎又は弥次郎と称し、左近将監、従五位下安芸守に任じられ、明応元年に本領荏原・林・久万山を軍兵を以て切取ったと記してある。この荏原以下の土地はかつて土岐氏の所領で、美濃の土岐成頼から父綱直が管理を依頼されたものであるが(大野文書・一四九三)、彼の代となると大野氏の所領となっていたらしい。庄屋文書によると朝直は永正一六年(一五一九)四九歳で死去し、法名を口称院殿唯心即是大居士という。現在、久万町に万徳山口称院法然寺がある。これは入野村にあった口称院という小堂を移し建立したものと伝える。入野村は大除城の対岸にあるので、口称院は朝直の墓所であったのであろう。

二代利直

 『大野系図』では利直は明応二年(一四九三)朝直の長男に生まれ、弥二郎と称し、右衛門太夫・紀伊守に任官している。天文一三年(一五四四)、五二歳のとき長男友直に家督を譲ったが、その翌年友直が死去したため、利直は再び大除城主となり、その追善のためか同一七年(一五四八)に菅生山大宝寺に梵鐘を寄進している。この鐘は現在松山市石手寺にあって、国の重要文化財に指定されている。銘文に「興隆寺 建長三秊六月八日大工河内国丹治国忠」とあり、その反対側に「菅生山大宝寺一山大法主別当 大且那大伴朝臣紀刕利直一結衆 東西真俗施主等 天文一七戊申年一一月吉日」の追銘がある。思うにこの鐘は建長三年(一二五一)に河内国で西山興隆寺(丹原町)の鐘として作られ、利直が盟友周敷郡剣山城主黒川通俊あたりに斡旋してもらって鐘をゆずり受けて大宝寺に寄進したものであろう。それが三転して三代直昌の時、彼が湯築城老臣となった時にでも土産物として河野氏を通じて石手寺に献ぜられたものであろうか。
 利直の時代は家臣団の抗争の項で見たように、周敷郡剣山城主黒川通俊と結んで浮穴郡棚居城主平岡房実の一党戒能通運を攻め、越えて天文二二年(一五五三)には平岡の支城拝志郷の花山城を攻めてこれを陥れている。そして家臣の森家継に数百騎をつけてこの城に置き、久万山に帰還したことも、さきに述べた。この年、利直は四男直昌に家督をゆずり、天正八年(一五八〇)七月一四日、八八歳で死去した。法名を威徳寺殿儀山道雍大居士という。

三代直昌

 享禄三年(一五三〇)利直の四男として生まれ、弥六郎、九郎兵衛尉と称し、山城守に任ぜられた。天文二二年に家督を相続し、大除城主となったことについては多少のトラブルがあったようである。長男友直が夭折し、二、三男が妾腹であったため四男直昌が立ったので、二男直秀はこれを不服として中国へ出奔するなどのことがあった。
 ところで、直昌は利直の弟であると記したものがある。『予陽河野家譜』には「直家一男紀州利直、早世ニ依リテニ男山城守直昌其後ヲ相続ス」としているが、これは利直の長男早世のため、弟直昌が三代城主となったことの誤記であろうと思われる。『大野系図』などはすべて利直の子としてあり、『予陽河野家譜』も利直が小手ヶ滝城・大熊山城・花山城攻略のことなどを記しており、また石手寺鐘銘から見ても利直早世では符合しない。やはり利直は『大野系図』による天正八年八八歳死去説をとりたい。
 さて三代直昌については『予陽河野家譜』は「元来武勇父祖ニ超エ度々無双ノ誉ヲ抽テ、一族幕下四十余人、各掻上ヲ所々ニ構エ、之ニ居住ス」と記す。いま「掻上」と記された砦、つまり大除の支城を『大野家四拾八家之次第』などの庄屋文書により、また久万山・小田地方の現地について見ると、つぎのようである。
 まず久万山については ①船山城 東明神 船艸出羽、②笠松城 東明神 靏原三郎兵衛、③越木甫気城 西明神 山之内丹後、④天神ヶ森城 入野 梅木但馬、⑤池峠城 野尻 渡部左馬之助、⑥柳小路 野尻 大家又兵衛、⑦仲 菅生 露口清左衛門、⑧野尻 野尻 山口順甫、⑨尾首城 露之峰 尾首掃部、⑩上之段 直昌下屋敷 武市近江、⑪高藪城 畑之川 船艸五兵衛、⑫高森城 有枝 佐伯重兵衛、⑬石本城 大川 梅木馬之丞、⑭鷹森城 七鳥土州境 越智帯刀、⑮銭尾城 日野浦 菅新左衛門、⑯天神森城 西谷 山下金兵衛、⑰城ヶ森城 西谷 中川主膳、⑱松岡城 久主 重頭数馬、⑲若山城 昼之野土州境 菅内蔵之丞、⑳勝山城 直瀬 鳥越左門、㉑葛掛城 久谷 明神清右衛門、㉒勝山城 久谷 立林宇多、㉓真城 窪野 森讃岐
 ついで小田については ㉔町村城 本川 土居下野、㉕日野城 小田 日埜孫六、㉖戸井城 中川 大野近江守、㉗赤岩城 寺村 東築前守、安持備前、㉘轆轤城 土州境 小倉丹後、宮田右京、㉙崎森城 小屋 林勘解由、林忠左衛門、㉚惣津城 小田 大野九郎兵衛。これを地図のうえにおとしたのが図4―1である。ここに見られる諸城をすべて大野氏の支城と見ることはできないかもしれないが、直昌の勢力範囲を知るひとつの目安にはなるであろう。
 なお記録のなかには、大野氏の勢力範囲はもっと広く、喜多・宇和地方から北は荏原あたりまで伸びていたように記しているものもあるが、弟直行が大洲亀ヶ森城主であったことから見て、小田から内ノ子、大洲あたりまでは何らかのつながりがあったかもしれないが、宇和地方や重信川南岸の荏原地方までが配下であったとはとうてい考えられない。
 それにしても『河野分限録』によれば大野直昌は湯築城主河野通直の家臣として「御一門三十二将」の一人であり、御家老衆五人の筆頭に位置している。このように大野氏が河野家から重要視されたのは直昌以前にはかつてなかったことで、父祖の功業を背景に土佐備えの要地を占め、武将としての彼の声価が高まったためであろう。
 直昌の武功については『予陽河野家譜』では永禄一一年(一五六八)正月に、土佐一条尊家(兼定か)が福留・桑名らの部将に手勢五百余騎を率いさせて久万山に打入ったとあり、直昌は自ら大除旗下の尾首・船草出羽・山内・明神・梅木・渡部・越智らの将兵二百を動員し、奮戦してこれを撃退している。ただ別の史料によると、この年土佐勢と河野氏との衝突は、主として宇和郡でおこっており(乃美文書正写・二〇二六)、若干検討の余地がある。元亀三年(一五七二)七月、中国の毛利氏幕下の苫西・津高・神石・見島・高宮らが河野家に「聊かの宿意」を持って八千余騎で松前・三津・今津・北条・浅海などに分かれて攻め寄せて来た時には、大野直昌は久万・小田両山の勢三百余騎を率い、浮穴郡井門郷に打って出て、奮戦したと伝えられる(予陽河野家譜)。
 また同じ元亀三年九月、かねてより伊予侵攻の機会をうかがっていた阿波の三好氏は、織田信長に派兵を請うて、宇摩郡川之江城を攻め、ついで織田氏の兵船が風早浦、堀江浜を襲撃した。この時大野直昌は、土居清良らと共にこれを撃退したというが(同)、事実のほどは定かでない。
 直昌の弟に四歳年少の直行という者があった。直之とも記され、隼人・上総介・右衛門大夫とも称し、喜多郡菅田城主(大洲市)となり菅田直行とも呼ばれた。勇猛を以て聞こえ、地蔵ヶ嶽城(後の大洲城)主宇都宮豊綱の聟となり、その死後は地蔵ヶ嶽城主となり、郡内の棟梁と目された。
 彼は土佐の長宗我部氏に通じ、しばしば河野氏から討伐を受けた。『予陽河野家譜』は天正二年(一五七四)に直行が元親の率いる土佐勢を手引きして、兄の大除城主直昌を伊予・土佐国境の笹ヵ峠に誘い出し、一大決戦を行わせ、直昌配下の勇将七〇余人が討死したことを記しており、地元の庄屋文書なども(たとえば『大野家四拾八家之次第』)この戦いの模様を詳細に述べている。また笹ヵ峠は現に大野ヵ原と呼ばれている。だがこの戦いには疑問点が多く、ほかの史書・文書には全く見えず、史実とは認め難い。しかしこの時点で大野氏の浮沈に関する戦いがあったことは否めないようで、これ以後、直昌の名は河野氏の衰運のなかで記されることがない。小早川隆景の伊予攻略に際し、河野家とともに軍門に降り、通直が天正一五年(一五八七)七月九日、安芸国竹原に毛利氏を頼って伊予国を去り三津から乗船する際、わずか五〇余人の譜代の家臣が随従したなかに大野直昌の名を見出すに過ぎない(予陽河野家譜)。

図4-1 大野直昌の勢力範囲

図4-1 大野直昌の勢力範囲