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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 塩の商品化と船頭

塩の商品化

 百合文書をはじめとする東寺関係文書のなかには、弓削島荘の預所や公文が東寺にあてた年貢の送進状が、鎌倉期の正元元年(一二五九)から室町期の応永一一年(一四〇四)にわたって約三〇通残されている。これらを子細に検討してみるといくつかの興味深い点が見られる。そのうちのひとつは、それまでは数年に一通は必ず残されていた送進状が、延慶二年(一三〇九)から応安元年(一三六八)の約六〇年間には一通も見られない事実である。もちろん、当時作成された送進状がすべて現在にまで伝えられたわけではないから、史料残存の偶然性も十分考慮に入れなければならないが、それにしてもこの六〇年間が、ほかの時期に比して、弓削島荘からの年貢輸送が極端に少なくなった時期であることは認めてよいであろう。延慶元年から応安元年といえば、まさに鎌倉末から南北朝にかけての社会的動乱の時期であり、その動乱はこのような形で、東寺の年貢収取のうえにはっきりと大きな影をおとしている。
 一連の送進状を見て気のつくもうひとつの興味深い点は、この空白の六〇年間をはさんで、その前と後では、年貢の送進状況ががらりとかわっていることである。前の時期においては、これまで詳しく見てきたように、梶取の乗りくんだ船に積まれて、現物の塩が送られていたのに対して、後の時期になると塩の現物のかわりに、銭貨が送られている。つまり、年貢塩の輸送から年貢銭の輸送への転換である。このように南北朝の社会的動乱は、弓削島荘の年貢の輸送方法にも、大きな改変の手を加えずにはおかなかったのである。
 それでは、それまで大量に生産されていた塩はどのように処理され、また銭貨はどのように調達されたのであろうか。そのメカニズムを弓削島荘の例に即して、明確にすることは残念ながらできない。一般的にいわれていることからすれば、このころになると荘園のなかにも市が設けられるようになり、そこで塩は銭貨と交換されるのであるという。ただ、このころの弓削島にそれほどの交換能力をもつ市がたったとは考えられず、場合によっては、このころすでに港町として殷賑をきわめていた尾道あたりで、換金されたのかもしれない。
いずれにしても、こうして弓削島荘の塩は、南北朝期を境にして、これまでの年貢塩から商品塩としての側面を強くもつようになる。そして、そのことは、この輸送の方法をもかえることになる。すなわち、これまでは荘園制の制約のもとにある梶取によってになわれていた塩の輸送に、そのような制約から自由になった専門の輸送業者としての船頭が、大きく関与してくることになるのである。

兵庫北関入船納帳

 そのような船頭の姿をはっきりと確認できるようになるのは、室町時代も中期になってからのことである。弓削島荘の解体をまぢかにひかえた文安二年(一四四五)、東大寺が関を設けていた摂津国兵庫北関において一冊の帳簿が作成された。現在人々によって『兵庫北関入船納帳』と乎ばれているものがこれである。読んで字の如く、兵庫北関に入関した船に関する記録であるが、そこには、入関した船のひとつひとつについて、船籍地・積載品目とその量・入関月日・関税額・船頭・問丸が詳細に記入されている。この帳簿のうち、正月・二月分については東京大学文学部に所蔵されていることがすでに知られていて、これまでにも多くの史家に利用されてきたのであるが、近年林屋辰三郎によって三~一二月分が新たに発見され、このほど両者を併せて公刊された。
 この『入船納帳』には、瀬戸内海各地の百に余る船籍地の船が記載されているが、そのなかには伊予に籍をおく船も散見される。すなわち、文安二年の一年間に二六回の入関を記録されている弓削籍の船、六回の岩城籍の船、四回の伯方籍(史料上では「葉賀田」、「はかた」と見える)の船がそれである(表3―9参照)。このうち弓削島籍船の二六回という数値は全船籍地のなかでも二〇位以内にはいるものであり、これをみても室町期、伊予近海での水運の活発さが十分にうかがわれる。そして文安二年は、さきにも述べたように弓削島荘が史料上から姿を消す寛正四年(一四六三)から数えて一八年前にあたるわけであるが、荘園の解体期を迎えた弓削島が、いっぽうでは水運の拠点として着実に新たな成長をとげつつあることを知ることもできる。

船頭

 さて、そのような室町期の水運の担い手は船頭である。彼らはすでに荘園の束縛から離れて専門の水運業者として活動していた。『入船納帳』には、表3―10に整理したように、弓削籍船の船頭として九名の人物が見えるが、そのなかの代表は、一年に七回の入関実績を有する太郎衛門である。彼の積荷として見える「備後」というのは塩のことである。芸予諸島周辺で生産された塩は、「備後」、「三原」などの地名表示で呼ばれていたようである。南北朝期をはさんで商品化が進んでいた弓削島産の塩は、このような形で運ばれていた。
 表3―10に示される太郎衛門の水運活動を見て気のつくことは、まず第一に、年間を通じてほぼ定期的に兵庫北関に入関していることである。これはかつて鎌倉時代に梶取が、百姓仕事のあいまをぬって年一回の輸送に従事していたのとは、大きく様相を異にしている。定期的に伊予近海と京・大坂の間を行き来する専門の水運業者としての側面が、よくあらわれているといえよう。つぎに、太郎衛門の積荷がすべて「備後」=塩で統一されていることである。このことは、専門の水運業者といっても太郎衛門の活動が弓削島周辺の塩の生産地と切り離せない関係にあることを示していよう。
 また、そのような活発な活動の見られる太郎衛門に対して年一回の入関しか示さず、積荷の最も少ない(これは船の積載能力を示していよう)九郎太郎や孫四郎、太郎左衛門などは、やや趣を異にしているようである。特に「太郎衛門枝船」という注記を有し、太郎衛門と同じ五月一五日に入関している孫四郎らは、有力船頭太郎衛門に付属してその活動を補完する役割を果たしているのではないだろうか。同じようなことは「治部枝船」という注記を有する九郎四郎や九郎太郎についてもあてはまるだろう。入関月日がほとんど太郎衛門と重なることからすれば、九郎四郎や九郎太郎も太郎衛門といっしょに行動している(つまり「治部」は「太郎衛門」のことであろう)と考えられる。このように見ていくと、弓削島に籍をおく船の船頭たちのなかには、太郎衛門に代表される有力船頭と、九郎四郎・九郎太郎・孫四郎のような、有力船頭に付属してその活動を助ける中小船頭の二つの階層があったといえそうである。
 いずれにしても、このようにして室町期の弓削島を中心とする伊予近海は専門の水運業者である船頭ののりこんだ船が、豊富な塩を積んで縦横に行き来する世界となっていた。

表3-9 伊予国内に船籍地を有する船の兵庫北関入関状況①

表3-9 伊予国内に船籍地を有する船の兵庫北関入関状況①


表3-9 伊予国内に船籍地を有する船の兵庫北関入関状況②

表3-9 伊予国内に船籍地を有する船の兵庫北関入関状況②


表3-10 弓削船籍の船頭別入関状況

表3-10 弓削船籍の船頭別入関状況