データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 大学僧凝然

出自

 延応二年(一二四〇)三月六日、伊予国越智郡高橋郷(現今治市)の小千(越智)家に男児が生まれた。幼名などいっさいわかっていないが、のち字は示観、諱を凝然といった。奇しくも、その前年、広い意味では越智と同族である河野氏に一遍が生まれている。
 凝然の生誕については、『律苑僧宝伝』・『招提千載伝記』・『本朝高僧伝』などに記されており、生年月日と高橋郷に生まれたとすることはまずまちがいないが、右の三書は出自をいずれも藤原氏とし、その後これがそのまま踏襲されて来た。しかし、現在西条市伊曽乃神社に所蔵する『与州新居系図』により越智氏とすることができる。同系図の記述は、玉澄から始まり、直澄・為世・季成と続き、そのつぎの代から高市氏・小千(越智)氏・拝志氏と分脈する。季成の二子頼成の子頼則から「小千」と称せられ、それから三代目の行連から必要な部分を抄出すると図1―19のようになる。
 ところで、右の小千弥太郎の注記に「自父前亡」とあり、その三子に「僧」とあるのが凝然に、長兄行継の子の童子に実円禅明が比せられる。また、右の系図全体を通じて仏縁につながる者が大変多いことから、凝然という大学僧の生まれる環境が思われる。そのなかでまず注目されるのは凝然の大叔父(祖父の弟)小千三郎の注記に「出家西谷房」とあることである。この西谷房について、系図ではこの部分に近い余白に、「西谷房ノ母ハ孝貞祝ノ女也、行忍房ハ西谷房ノ子也、孝貞祝後家名妙阿ミタ仏与州円明寺念仏堂ノ本願也、妙阿ハ行忍房ノ曽祖母也、孝貞ハ行忍房ノ曽祖父也」とある。これを系譜に書きなおすと、(図表 「系譜」 参照)となる。ここに新しく登場した妙阿は近見山上にあった古刹円明寺(現在の札所延命寺の前身)の塔頭念仏堂の本願であることがわかるし、その孫にあたる西谷房は、近見山の西谷にあった塔頭の名から出たものと考えられる。すなわち古代この地方随一の大寺であった円明寺と地方の豪族越智氏との関係もおしはかれる。こうした関係にあったからこそ、凝然二九歳の時、円明寺西谷において『八宗綱要』を撰述したのであった。なお、近縁者の中に「鴨部別名尼御前」とか「八幡大乗院」の律僧とかが見えるが、この別名とか八幡というのはいずれも高橋の近在である。こうした諸条件により、凝然の出自を、越智郡高橋郷の越智氏と断定するわけである。

八宗兼学

 当時の円明寺はおそらく天台系の学問寺で、多くの僧が、あちこちの谷や峰に立つ塔頭寺院において修学していたのであろう。そのなかに、右のような越智氏ゆかりの念仏堂や西谷の房があり、出藍のほまれの高い凝然を僧とするため円明寺に入れ、数年を経て、建長七年(一二五五)都へのぼらせた。この年一六歳、叡山で菩薩戒を受け、名を凝然と改めたとみられる。しかし、翌建長八年(一二五六)秋ごろにはすでに、この年五月東大寺戒壇院主となった円照のもとに投じており、翌年この師から沙弥戒を受け、さらに二〇歳の正嘉三年(一二五九)通受戒(具足戒)を受けて一人前の僧となり、東大寺の教学にうち込むことになった。
 おそらく戒壇院の寮に寄宿した凝然は、師円照から主に律と華厳を学び、のちには自らも華厳教学と律学の権威となり、戒壇院主をつとめることになる。当時の奈良仏教界一般の風潮は、学問が宗教活動の主体であり、必須の律学のほかできるだけ多くの学業を修めることが理想であり、いわゆる八宗兼学であるから、凝然の修学もその例にもれず、正嘉元年(一二五七)から弘長三年(一二六三)(一八歳から二四歳)までの七年間は、まさに八宗兼学の時代であった。
 円照以外にまず師事した京都三聖寺の円悟上人浄因は、もと俊芿の創建した京都泉涌寺の首座であった。泉涌寺は律と天台を宗とし、その律は鑑真以来戒壇院を中心とした南京律に対して、北京律といわれた。凝然はこの両律の融合を図ろうとする円照によって東大寺戒壇院に招かれたのを機縁に、浄因に学び、以後泉涌寺との関係を深めて行くのであるが、かつて東大寺戒壇と天台戒壇が抗争し、今また山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)が戒壇の設立で争っているとき、円照・凝然によってすすめられた両律の融合は大きい意味がある。
 こうして他の師に学ばなくても、東大寺そのものが八宗兼学の寺で、各業の学僧を多く擁していたので、それらを戒壇院に招いて講義を受ければよいわけであって、その一端として正嘉二年(一二五八)には東大寺の学僧により倶舎業が講ぜられたことを記している。そして早くも翌正元元年(一二五九)ごろ、『内典塵露章』の草稿を作り師円照を驚かせている。これは、倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳・真言・禅・浄土の一〇宗の伝承や教義などを述べた短章からなり、この年の作とすれば『八宗綱要』に先立つこと九年、その草稿のごときものになったわけである。
 ところで、凝然にとって華厳学最高の師は、この年七月第一〇二代東大寺別当となった宗性であった。宗性は三年間この職をつとめたが、凝然五三歳の年に没するまで師事し、華厳の相伝上は、第一九代宗性、第二〇代宗顕、第二一代凝然となっている。弘長元年(一二六一)、上洛して禅道を学んだといわれる(律苑僧宝伝)が明らかでない。この年特筆すべきことは、七月、洛北九品寺の長西に観経疏の講義を聴いたことである。長西は法然門の高足であるが、浄土教に限ることなく、天台、ことに禅に通じていた。凝然の『浄土法門源流章』はその影響によるものであり、『浄土伝統総系譜』は、凝然を長西の弟子としている。また、この年から聖徳太子の三経義疏を学び始め、晩年それぞれの註釈書を完成、自らを「三経学士沙門凝然」と呼んだ。
 凝然の八宗兼学は真言にも及んだ。弘長三年(二四歳)から文永四年(二八歳)にかけての五年間木幡(京都府宇治市)の回心上人真空に学んでいる。当時、京都と奈良の間をしばしば往復して修学していたわけである。特に『十住心論』について学び、それが晩年『十住心論義批』に結実した。この文永四年(一二六七)の早い時期に郷国伊予に帰り、祖父の弟西谷房ゆかりの円明寺西谷にこもって執筆し、翌年正月二九日に完成したのが『八宗綱要』である(『愛媛県史資料編学問・宗教』に収録)。これが完成すると、おそらく勇躍して師と同輩の待つ奈良に帰ったのであろう、そして文永八年(三二歳)まではほぼ戒壇院に定住したとみられる。文永九年(一二七二)と翌年は師円照の住持する(戒壇院主として奈良との間を往返していた)洛東鷲尾山金山院(現金台寺)に住む間、泉涌寺円珠上人に師事、その後は留守がちの師円照に代わって戒壇院に律を講じ、その後継者としての地歩を固めた。

戒壇院嗣席      

 建治三年(一二七七)一〇月二二日、師円照が洛東金山院で示寂すると、凝然が戒壇院に嗣席して院主となった。時に三八歳である。
 このごろ書いた『梵網戒本疏日珠鈔』五〇巻は着手から四二年後の文保二年(一三一八)に完成するが、うち初めの二五巻は建治二年に、最後の五巻を残してつぎの二〇巻は翌年に撰述を終えている。それらにはすべて奥書きがあり、たとえば巻一には
 于時建治二年歳次丙子六月四日 於南都戒壇院記之 華厳宗沙門凝然 生年 三十七
 于後弘安六年癸未五月廿六日 於戒壇院 潤色治定 沙門凝然春秋四十有四
とあり、こうした奥書が伝記資料となるわけである。なお、これは、大乗律第一の経典とされる『梵網経』の注釈書であり、いっぽう、凝然が小乗戒の根拠となる四分律の注釈書『四分戒本疏賛宗記』を完成したのは正和二年(七四歳)のときである。戒壇院主として南都戒壇をささえる凝然にとって、これら戒律の注釈書がまず必要であった。
 戒壇院のことについて凝然の記したものには、七七歳のときに定置した『戒壇院式』があり、一般には、『東大寺要録』『東大寺縁起』などによって知られる。東大寺戒壇は、天平勝宝六年(七五四)に造立して授戒を行い、翌七年に大仏殿西方に戒壇院が建立された。戒壇は三層より成り、三聚浄戒を表すものとみられるから、明らかに大乗戒壇である。この戒壇も、天台に大乗戒壇が設立されたこともあり、奈良仏教の衰退や私度僧の増加などもあって、鎌倉初期までに荒廃し、律学は衰えていた。鎌倉時代に入ると、興福寺の実範・覚盛、真言系の叡尊などによって戒律は復興のきざしを示したが、戒壇院の復興に力を注いだ蓮実の招きで円照がここに入り、戒壇院を中心に南都戒律を復興、そして凝然がそれを継承、八二歳で没するまでの実に四五年間、戒壇院主として戒壇と律学の再興に大きい功績を残した。

大学僧

 弘安年間(一二七八~一二八七)三九歳から四八歳までの一〇年間、凝然の著作の主要なものには、『華厳二種生死義』九巻(弘安三、四年)『華厳孔目章発悟記』二三巻(弘安九、一〇年)がある。また、これら二つの著作の間に、弘安六年(一二八三)九月八日には、凝然第一の高弟禅爾によって『華厳五教章』(華厳第三祖賢首の著作)の一部が開板されているので、凝然の指導により一門の華厳学習のテキストに使用されたものと考えられる。さらに、弘安八年(一二八五)二月一九日、予州円明寺で『華厳五十要問答』に加点を終えている。これは華厳第二祖智儼が華厳の要目五〇について精義を述べたもので、凝然がこの書を重視したことは、生涯の著作の最後となった『五十要問答加塵章』二巻を没年に撰述していることでもわかる。
 ついで、正応年間(一二八八~一二九二)、四九歳から五一歳までの四か年も引きつづき華厳学に努力をそそぎ、正応四年(一二九一)二月一三日『南山教義章』三〇巻を完成しているが、書名が知られているだけで今日に伝わらない。そして、翌五年(一二九二)五月一八日には『華厳十重唯識円鑑記』二巻、閏六月一一日に『華厳十重唯識瓊鑑章』 一巻を、そしてこの年、最も早く三月に着手した『華厳十重唯識□(王に常)(じょう)鑑記』七巻を七月一八日に終功するという速筆ぶりである。こうして、『□(王に常)鑑記』・『円鑑記』・『瓊鑑章』の華厳十重唯識三部作が完成した。第一の『□(王に常)鑑記』七巻が最も詳しく、『円鑑記』二巻はその精要を述べ、『瓊鑑章』 一巻は略章である。そして、凝然はみずからの後継者として嘱目していた第一の高弟禅爾にこれら三部作を与えた。
 つづく永仁年間(一二九三~一二九八)の華厳関係の著作には、華厳宗を率いる東南院貫主の命によって宗の要義をまとめた『華厳法界義鏡』二巻(永仁二年)があり、これを甥の禅明房に与えた。なお、この年の八月ごろから着手してこの年のうちに巻二三までを書いた『華厳五教章通略記』五二巻は、華厳第二祖賢首の『華厳五教章』の注釈書で、凝然の華厳学関係における主著であり、その完成は七二歳のときのことである。なお、華厳経関係の著作には、三八歳の建治三年(一二七七)に初め二一巻まで撰述してあとは不明である『華厳五教賢聖章』六〇巻、延慶二年(一三〇九)七〇歳で完成した『華厳探玄記洞幽鈔』 一二○巻という大著その他がある。
 つぎに、凝然は卓越した仏教史家であり、仏教史学の先駆者である。凝然最初の著作が伊予円明寺西谷において書かれた『八宗綱要』であることは、さきに記した。この書が、今もなお各宗のテキストとして用いられることは著名で、これに先行する『内典塵露章』とともに注目すべきものである。そして、最も円熟した晩年の著作に『三国仏法伝通縁起』三巻と『浄土法門源流章』一巻がある。共に応長元年(一三一一)七二歳に相ついで終功しており、ことに前者は仏教通史として画期的なもので、仏教史家としての評価は今日も変わらない。
 学僧としての業蹟の第三は、聖徳太子三経義疏の註解である。太子へ崇敬の念を寄せたのは早く、二二歳にして三経義疏の研究を志したという。また、永仁六年(一二九八)一〇月二四日、戒壇院において『維摩経義疏』を講じ、点訓を加えたともいうから、他の義疏とともに時々講じていたのであろうがほかに記録はない。それが著述として結実した最初のものは、乾元元年(一三〇二)に着手し、翌嘉元元年(一三〇三)に完成した『勝鬘経疏詳玄記』 一八巻、ついで正和元年(一三一二)に着手した『法華疏慧光記』六〇巻を同三年(七五歳)に終功した。その奥書によると、この書は甥の実円禅明房のために撰述されたもので、禅明房に対し努力を忘れないようにとさとし、また、上宮太子の三経義疏を弘通したいとも記している。そして、最後にできたのが『維摩経疏菴羅記』四〇巻で、実に八一歳、死の前年の正応二年(一三二〇)の作であった。巻八の奥書によると、「老眼の涙汁を拭き、中風の右手を励まし、昼は日光に対して勇を起こし、夜は燈燭に挑して眠りをさまし、経を勘え論を引き、文を尋ね釈を伺い、義を案じ理を立てて、文字安立し句逗布置す」と、労苦のほどを偲ばせるものがある。
 また、『菴羅記』巻一を書き終えると、その奥書に、自分は二二歳の年以来太子の三経の妙疏を習学し、ことし満六〇年に至るまで、不聡不敏かつ怠惰であるにもかかわらず、志だけは失わず努力を積んでここにいたった、いま老邁を顧ずこの鈔を集成した、という意味のことを記している。また、以上あげた三経義疏註釈書のすべての巻の奥書の末尾に「三経学士」と自称していることからも、これを終生の仕事としたことがわかる。
 凝然の示寂は元亨元年(一三二一)二月二三日、八二歳であった。その著作はすべて一二六部、一二〇〇余巻、古今に絶する大学僧であった。詳しくは伝記とともに『沙門凝然』(愛媛文化双書)を参照せられたい。

図1-19 凝然をめぐる人々(『与州新居系図』より)

図1-19 凝然をめぐる人々(『与州新居系図』より)


系譜

系譜