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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 通有晩年の活動

 所領の復活

 文永・弘安の両役を通して、強力な元軍を相手に死闘をくり返し、さらに軍役その他の負担に苦しんだのは、ほとんど九州の武士であって、四国の御家人で役に参陣したのは、河野氏以外にはいないのではないかと推測される。同氏が参陣した理由としては、九州に所領(筑前国弥富郷)をもっていたからではないかという説と、強力な水軍をもっていたからだという説があるが、いずれも定かではない。しかし、ともかくも通有は四国の御家人を代表する形で北九州へ出動した。
 この通有に対する恩賞は、『予章記』や『予陽河野家譜』の記すところによると、肥前国神崎荘のうちの小崎郷・同郷加納下東郷・余残分・荒野と肥後国下久々村で三〇〇町、伊予国内では山崎荘(現伊予市)を賜わったといい、『築山本河野家譜』は、「なお予州のうち山崎の庄彼是数ヶ所を賜う」と山崎荘以外にも新しい領地を得たことを記している。これらについて、主として石野弥栄の研究によりつつ述べてみることにする。
 院領肥前国神崎荘は三千町歩の田地を有する大規模な荘園で、弘安八年(一二八五)、将軍家政所下文(淀稲葉文書・二九二)をうけて、同年七月一六日、六波羅施行状(淀稲葉文書・二九三)が発せられ、筑前国弥富郷の替地として通有に同荘小崎郷を領知させている。この通有への小崎郷給与は、弘安の役における恩賞の一番手であること、同荘内での恩賞地の場合、通有以外の九州御家人はすべて少弐・大友両氏の連署するいわゆる孔子配分状で、田地三町、五町、一〇町と細分された土地を与えられているのとちがって、同郷地頭職を一円的に分与されているのが特徴で、かなりの好遇を受けていることがわかる。
 同荘小崎郷加納下東郷については、前対馬守(通有か)が、その下知状案(肥前修学院文書・四九四)で修学院の成舜律師の本領を安堵しており、同荘内余残分については、延慶二年(一三〇九)三月一〇日付の関東下知状(築山本河野家譜・四三二)によって同所が先例に任せて安堵されている。同荘内荒野分も、余残分を安堵された同じ日に、関東御教書(尊経閣文庫所蔵文書・四三三)によって安堵されており、いずれも蒙古合戦の恩賞地であると思われる。肥後国豊福荘内下久具村(予章記や予陽河野家譜は下久々村と記す)については、河野通有が同所を領知したことを記す確かな史料が伝わっていない。しかし、当地には河野氏にまつわる遺跡や伝承が存在する。なお、通有が神崎荘小崎郷以前に領知していたとも考えられる筑前国弥富郷は、いつどのような経緯で河野氏の手に渡ったのかさだかではない。弘安の役以前に同氏が北九州に所領をもっていた可能性は薄いので、同役の恩賞として、いったん弥富郷を宛行われることになっていたのかも知れない。今後の研究課題である。
 つぎに、伊予国内の恩賞地については、同役の軍功によって、承久の乱に没収された所領を回復したといい伝えているけれども、これを明示する史料がないばかりでなく、この点についてはいろいろな疑問がある。ただ、役後、通有は通時をはじめとして蒙古合戦で戦死した一族郎党の菩提を弔うために、周敷郡北条郷(東予市北条)に長福寺を建立しているので、この北条郷は同役の恩賞地と考えられ、「予州のうち山崎の庄彼是数ヶ所を賜う」という『築山本河野家譜』の記述は案外正しいのかも知れない。このように見てくると、通有に与えられた恩賞地はかなり多い。通有が幕府からこのように高い評価を受けたのは、彼がただ単に夜戦によって敵将を生捕ったということばかりではなく、他国から進んで参陣し、「河野の後築地」にみられるような勇戦が、将兵の志気を鼓舞するのに重要な役割を果たしたことにあったものと思われる。

 海賊の追捕

 鎌倉末期になると世は乱れ、治安が悪化して世情はしだいに騒がしくなっていった。この不安な世情を代表するものが悪党の横行であり、また各地で山賊や海賊が相つぐようになった。瀬戸内海の交通事情も物騒をきわめ、安心して船旅ができるような状況ではなかったようである。
 このような背景のもとに、徳治二年(一三〇七)三月、幕府は河野通有に対して、近いうちに西国ならびに熊野浦々の海賊が蜂起するという噂があるので、追捕するよう命じている(尊経閣文庫所蔵文書・四〇六)。これについて通有がどういう対応をしたかわからない。しかし、その二年後の延慶二年(一三〇九)六月、ふたたび彼に関東御教書(松雲公採集遺編類纂・四三四)が下されて、西海ならびに熊野浦海賊の蜂起に備えて海上警固を怠らぬよう命じているのに、鎮西(九州)にいるというではないか、早く伊予国に帰り、賊徒を誅伐せよ、と命じている。当時、通有は異国警固番役勤仕のためか、あるいはそれを名目として神崎荘小崎郷経営のため九州に居住していたものであろうが、これを機に帰国して、海上警固の任についたようである。異国警固より内海の海上警固を優先させているところに、海賊横行の事態のきびしさがにじみ出ているようである。通有が海賊を討伐したことを記す確かな史料は伝わっていない。しかし、『予陽河野家譜』等には、彼は徳治年中に幕府から西海の海賊を討伐せよとの御教書を受けて出動し、彼らを誅伐して家名を天下にあらわしたと記している。
 これに対して、河野氏と同様に伊予の海上警固の任についていたと思われる越智郡高市郷の地頭小早川氏は、正和三年(一三一四)六月、代官景房なる者が海賊人右衛門五郎を(萩藩譜録・四五七)、七月には海賊人雅楽左衛門次郎を(小早川家証文・四五八)、続いて元応元年(一三一九)には海賊人弥五郎家秀を捕え(小早川家証文・四八三)、海上警固に実力を発揮している。
 その後元応三年(一三二一)、幕府は内海の治安確立をめざして、内海の海上交通の要衝である忽那島を拠点に海上警固を勤仕すべきことを、河野対馬前司(通有か)や土居彦九郎(通増)に命じた(尊経閣文庫所蔵文書・四九三)。元応年間、内海で海上警固を実施したのは、伊予以外では播磨・安芸・周防の諸国である。

 長福寺建立

 弘安の役後、通有は蒙古合戦で討死した叔父通時以下一族郎従の菩提を弔うため、周敷郡北条郷の地に長福寺を建立したという。『予陽河野家譜』は、これについて、「弘安五年壬午蒙古合戦、討死する所の士卒追福のため、これを建立せらる」と記している。
 河野通有の死没年については、これまで応長元年(一三一一)七月一四日に卒去し、遺骸は長福寺に葬むられたといわれてきた。同寺の過去帳によると、彼は長福寺殿天心紹普大居士と□(言に益)(いみな)せられた。『予陽河野家譜』によれば、その法号は長福寺殿道本大禅定門と記されているが、『一柳伝記略』その他によって、この法号は叔父通時のものであると理解されている。しかし、今日では彼の歿年月日は見直さなくてはならなくなっている。それは、河野対馬前司と土居彦九郎に海上警固を命じた前出の六波羅御教書(尊経閣文庫所蔵文書・四九三)の発給年月日は元応三年(一三二一)二月であり、河野対馬前司は河野通有に比定されている。さらに、元亨二年(一三二二)四月二七日付で、肥前国神崎荘小崎郷加納下東郷の領知について言及した前対馬守某下知状案(肥前修学院文書・四九四)なども存在するので、彼の歿年は元亨二年(一三二二)以後のことと考えるのが妥当のようである。
 通有の歿後、河野氏は家督相続や一族の処遇等の問題をめぐって、嫡庶間の競合や対立、一族間の抗争が激化した。やがて一族は、通盛の率いる惣領家と、土居通増や得能通綱らの率いる庶家とに分裂し、鎌倉末期から南北朝時代へと続く動乱のなかにまき込まれていくことになるのである。