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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 文永の役前後

 石井郷と河野氏

 承久の乱によって、河野氏は致命的ともいえる打撃を受けて伝統的な勢力を失った。そのなかにあって、ひとり関東方に属して勇戦した河野通久は、阿波国富田荘を与えられていたが、やがて貞応二年(一二二三)、幕府に願い出て伊予国久米郡石井郷の領有を認められ、からくも伊予国に河野氏の名を残すことに成功した。
 『予陽河野家譜』によれば、この石井郷領主河野通久には、嫡子左衛門四郎通時ら四男二女があったが、彼は幼少の子女を残して他界したため、同氏の惣領職は、通久の弟通継が継承した。そして、通継の家督は、その嫡子六郎通有が継承し、通久の女を室に迎えたとある。いっぽう、『築山本河野家譜』によれば、通久には通継・通時という二人の男子があり、通継が父通久の家督を継承したように記している。この辺の事情は今後の研究にまたなければならないが、後述するように、こののち所領をめぐって通時と通継が対立するようになったのは、通久の家督相続に端を発するものと考えられる。
 その当事者の一人である通時については、『吾妻鏡』に、建長四年(一二五二)四月一四日、鎌倉の鶴岡八幡宮で弓始めの儀式があって、将軍宗尊親王以下幕府の要職にある武将多数が見物に参列した時、彼もこの弓始めの射手に選ばれ、桑原盛時と組んで、二番手として出場したことを記している。

 嫡庶の争い

 鎌倉時代の武家社会にあっては、惣領制のもとで分割相続が行われたため、所領の相続をめぐって惣領と庶子の間で紛争がしばしばもちあがった。河野氏の場合も、通久の跡目を相続して同氏の惣領職をついた通継が、その主要部分を相続したはずであるが、文永のころになって、通時は財産分与について異議を唱えるようになり、通継を相手に領地争いをするようになった(萩藩譜録・二一四)。そこで、文永五年(一二六八)、幕府が仲介して、石井郷別名を割分して通時の知行分を確定することで双方が和解した。
 その後、通継が死去して通有がその家督を相続するようになると、領地争いが再燃して、通時は幕府に嫡家の非法を訴え出た。これに対して、文永九年(一二七二)、幕府は、「今さら譲状について料簡を加えるの条、その謂なし」と断じた上で、「通時の訴訟沙汰の限りにあらず」と通時の訴えを退けた(同)。こうして長い年月にわたって行われた河野氏の嫡庶の争いにもようやく決着がつけられたようである。

 文永の役と通有

 蒙古帝国五代のフビライ汗は、文永五年(一二六七)以来、たびたび朝鮮の高麗王を介し、使節をわが国に送って修好を迫った。しかし、これらの使節のもたらした国書は強圧的なものであったから、幕府は強硬政策をとって使節を退け、いっさい返事を与えなかった。そこで、フビライ汗は、このままでは日本を威圧することは無理であると判断し、蒙古・高麗の連合軍を組織して、同一一年(一二七四)一〇月、高麗の慶尚道合浦を進発させた。彼らはまず対馬・壱岐を攻略して、同一九日朝には北九州の博多湾に侵入し、翌二〇日の朝、湾岸に上陸を敢行して、九州武士と激戦をまじえた。
 蒙古の大軍が対馬・壱岐に押し寄せたという報告を受けた幕府では、ただちに西国の守護に対して、本所一円地の住人(非御家人)も動員して防戦にあたるよう命じた。しかし、それは一一月一日のことで、蒙古軍が敗退してから一〇日程経っている。あまりにも遅きに失したともいえようが、これを契機に、幕府の命令がほぼ全国の武士にまでおよんだことは特筆に価しよう。
 しかし、河野通有は文永の役には参戦していない。この役で、対馬から蒙古襲来の急報を受けた大宰府守護所では、北九州以外からも軍兵を招集するいとまはなかったであろう。当時日本側には、まだ蒙古と敵対するための戦略や態勢づくりは、十分にはできていなかったようである。実際に蒙古軍と対戦してみてその不覚を悟った鎌倉幕府では、それ以後本腰を入れて対蒙古合戦の準備に取り組むようになった。
 このような背景の下に、河野一族は勇躍して北九州へ出動する。その時期は明らかではないが、文永一一年(一二七四)一二月三〇日付の義宗(北条氏か)から通有に宛てた書状に、「蒙古人の事により、用意のため御下向の由事承り侯」(築山本河野家譜・二二五)とあって、文永の役の直後に出動の準備をしていたことがわかる。そして、『八幡愚童記』の記すところによると、彼は出発に際して、河野氏の氏神である大山祇神社に詣で、「十年のうち蒙古寄せ来たらずば、異国へ渡りて合戦すべきと起請文を書きて、氏神三島社に誓い、それを焼いて灰を飲んで云々」と悲壮な決意を示し、かつ一族の武運長久を祈ったという。
 北九州に上陸して、九州の武士たちを悩ませた蒙古軍は、暴風雨によって潰滅的な打撃をうけて引き返した。それにもかかわらずフビライ汗は、その後も使節を送って修好を求めてきた。しかし、執権北条時宗の決意は固く、建治元年(一二七五)四月には、使節一行を鎌倉の龍ノロで斬って、その決意を示した。それとともに、蒙古勢の再度の来襲に備えて、長門の要害の地や筑前・肥前の海岸に警固番役を置いて警戒に当たらせた。また、翌年の建治二年(一二七六)になると、九州の諸豪族に命じて、博多湾一帯の海岸に石塁(石築地)の構築を始め、弘安三年(一二八〇)ころいちおう完成して、各国武士に石塁警備分担場所が割り当てられ、警固番の任につくことになった。

図1-10 河野氏略系譜(予陽河野家譜による)

図1-10 河野氏略系譜(予陽河野家譜による)