データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 伊予の守護と地頭

 守護・地頭の設置

 壇ノ浦における平家の滅亡は、源頼朝にとって事の終わりを意味したのではなかった。むしろ、すべてはそこから始まったといった方が正しい。その時頼朝の眼前にあった課題は、ほかでもない、新しい武家政権の樹立ということであった。
 いっぽう、頼朝の弟義経は、兄のそのような壮大な構想をついに理解することができなかった。義経はすぐれた軍事指揮者ではあったが、武家政権の樹立というような大きな歴史の流れは、その理解の外にあった。平家の勢力の滅亡した今、後白河上皇は今度は源氏同士を争わせることによって京都の政権を維持しようとしていた。兄と離別した義経は、そのような後白河上皇の術中に容易に陥った。義経は後白河上皇の支持を得て文治元年(一一八五)の一〇月に頼朝に叛旗を翻したが、畿内周辺の武士の支持をえることができず、一一月には叔父行家とともに西国に向けて行方をくらました。
 このような義経の行動とそれへの後白河上皇の肩入れは頼朝につけ入る隙を与える結果となった。頼朝は義経討伐を口実として、守護と地頭の設置を京都に要求し、京都の朝廷はこれを認めざるをえなかったのである。これを契機にして鎌倉の政権の力は、全国に及ぶことになった。

 伊予国の守護

 さて、そのような守護・地頭の制度は、伊予国ではどのような形であらわれてきたであろうか。まず守護の方から見ていくことにしよう。
 伊予国の守護については、古くから河野通信がその職に任ぜられたとの説がある(予章記等)。この通信守護補任説は、これまで源平争乱期における通信のめざましい活躍から、それなりに説得力をもっていると思われる。しかし、すぐれた勲功を評価することと、守護に補任することとはおのずから別問題である。頼朝にとって各国の守護とは、あくまでも、自分の最も信頼に足る東国出身の有力武士でなければならなかった。自分の意を体する面々を全国各地に派遣することにこそ、守護補任の意味があった。
 そのような頼朝の意図はいちおう別にしても、通信守護補任説には、そのほかにいくつかの疑問点がある。それは主として同説の根拠となる史料に対する疑問である。元来、その説の根拠として通例あげられてきたのは、『予章記』をはじめとする家譜類に収められた元暦二年(一一八五)七月二八日河野四郎宛源頼朝書状である。しかし、この文書は、様式・内容ともにとうてい当時のものとは信じられず、これをもとにして通信の守護補任の根拠とするわけにはいかない。またこの他に、『予章記』等には、通信の守護補任のことを記す史料として二通の源実朝書状も掲げられているが、これらも同様に信用することができない。それでは、私たちの目には守護として最もふさわしいように見える通信が守護でないとすれば、いったい誰がその地位についたのであろうか。それは頼朝の有力家人の一人佐々木盛綱である。
 ただ通信は全く守護の地位に関与することがなかったのかというと、必ずしもそうとはいい切れない側面もある。近年、草創期の守護・地頭制についてはめざましい研究の進展が見られ、特に守護に先行するといわれる「一国地頭職」については、精緻な研究が行われているが、そのような研究者のなかには、河野通信も伊予の「一国地頭職」を有していた可能性があることを指摘する者もいる。今後考えてみなければならない問題であろう。

 佐々木氏と宇都宮氏

 佐々木盛綱が伊予国の最初の守護であることを明記しているのは、例によって『吾妻鏡』である。同書建仁三年(一二〇三)四月六日条に「当国守護人佐々木三郎兵衛尉盛綱法師」と見えるのがそれである。それでは、この伊予国にあまり縁がありそうには見えない佐々木盛綱とは、いったいどのような人物なのであろうか。またどのような事情で伊予国の守護に任ぜられることになったのであろうか。
 元来佐々木氏は、宇多天皇の流れをくむ宇多源氏の一流といわれ、近江国蒲生郡佐々木荘を本拠として佐々木姓を名乗った一族である。平安時代には一地方豪族にすぎなかったが、平安末期から武士団化して成長をとげ、特に宇多天皇九世の孫と伝えられる秀義は、源氏と姻戚関係を結び、勢威を振るった。しかし、平氏政権時代には不遇で、平氏のために本拠佐々木荘を逐われて相模国に移り、そのことが再び源氏に接近する端緒となった。そういう意味では佐々木氏は、源氏の再興に一族の命運を賭けた最も典型的な源氏方の武将であったといえる。それであるから、頼朝の挙兵にはいち早く馳せ参じ、秀義の子定綱・経高・盛綱・高綱らを中心にして、源平の争乱の過程では多くの武勲をたてたことが知られている(図1―5参照)。そのうち盛綱は、秀義の第三子で(一一五一年ころの誕生と推定されている)、早くから頼朝につかえ、山木兼隆襲撃、石橋山の合戦など、争乱の初期から頼朝の側近であった。その後争乱の進展にともなって、西上する範頼軍に従い、京都近郊での義仲の追討、備前児島での平家軍との合戦などに名をあげた。
 このように見てくると、盛綱とその背後にある佐々木一族が、頼朝にとっていかに信頼にたる人々であったか、そして東国政権の威令を全国に及ぼす守護の地位につくのにいかにふさわしい面々であったかがよく理解される。その証拠に盛綱は、伊予の他に、讃岐・越後・上野においても守護の地位を得ているし、さらに守護職の数は、佐々木一族すべてを合わせると、西国を中心に十数か国に及んだといわれる。頼朝の佐々木一族に対する期待の大きさが、うかがわれよう。
 しかし残念ながら、この佐々木盛綱がいったいいつからいつまで伊予国守護の職にあり、守護としてどのような働きをしたのかなどについては、明らかではない。いずれにせよ、その任期はあまり長く続くことはなかったようで、鎌倉時代の早い時期につぎの守護に交替したことが確認されている。それは、やはり東国の有力御家人のひとり宇都宮氏である。
 宇都宮氏の出自については諸説があって、さきの佐々木氏のように明らかではないが、下野国宇都宮郷を本拠とする地方豪族であったことはまちがいない。一時平家に仕えたこともあったが、朝綱のころから頼朝に臣従し、以後有力御家人として鎌倉幕府内に重きをなした。建久五年(一一九四)には朝綱が公田を掠領したとして一族が各地に流罪に処せられ、一時は危機に見舞われたが、その後復活して、以前のような有力御家人の地位を回復したようである。佐々木盛綱の跡を襲って伊予の守護職の地位についたのは、その朝綱の孫頼綱である(図1―6参照)。
 頼綱はその没年から逆算して承安二年(一一七二)ころの誕生と考えられているから、仁平元年(一一五一)ころの誕生と推定されている佐々木盛綱とは、二〇歳ほどの歳のひらきがあったことになる。したがって、源平争乱期における活躍は見られないが、草創期の幕府内にあって、正治元年(一一九九)には御家人たちの梶原景時糺断に加わり、元久二年(一二〇五)には畠山重忠討伐に参加するなど、有力御家人としての種々の活動の跡が見られる。しかし、同じ元久二年の八月には、北条時政の女婿であった関係から、時政が同じ女婿の平賀朝雅を将軍の位につけようとした陰謀に加担したとの嫌疑をうけて討伐軍をさしむけられることもあった。その後出家して蓮生と名乗り、歌道に精励して、その作歌は『新勅撰集』を始めとする鎌倉時代の多くの和歌集に見られる。
 さて、そのような頼綱の、伊予の守護としての姿が最初に史料上に見えるのは、承久~嘉禎年間(一二一九~一二三七)ころのものと推定される『忽那家文書』においてである。これは、慕府評定衆のメンバーの一人二階堂行村(出家して行西という)が、忽那氏の「船往還」を守護代が妨げるのを何とかしてやってほしいという意味のことを「宇都宮入道」に伝えた書状である。内容から「宇都宮入道」は当然守護でなければならないし、この時期それに相当するのは頼綱しかいない。このようにして、一三世紀前半のいつの時点かにおいて、佐々木盛綱から宇都宮頼綱への守護の交替が行われたらしいことがわかる。その後も宇都宮一族の守護としての活動のあとは、断片的ながらいろいろなところで確認することができる。結局宇都宮氏は、鎌倉幕府の滅亡までその地位を手放すことがなかったようである。

 伊予国の地頭

 それではつぎに、鎌倉幕府のもうひとつの重要な地方制度である地頭について見ていくことにする。文治年間をはじめとして鎌倉初期に補任された地頭には、平家関係者からの没収地(いわゆる平家没官領)に新恩給与として職を与えられた者と、自分の先祖伝来の本領を安堵してそこに職を与えられた者との二つのタイプがある。前節でも述べたように、伊予国にはいろいろなところに平家の支配の痕跡が残っており、おそらく平家没官領も少なくなかったのではないかと思われるが、残念ながら今のところそれをはっきりと確認できるものはほとんどない。唯一の明確な平家関係所領である喜多郡矢野荘は、その領家(または預所)平頼盛と頼朝との関係によって没官領とはならなかったことがはっきりしているし、強いてあげるとすれば、宇和郡と三島社(大山祇神社)の地頭職をあげることができよう。
 宇和郡については、嘉禎二年(一二三六)二月、西園寺公経の幕府に対する強い要望によって、それまで職の所有者であった小鹿島(橘)公業から公経の手にわたったことが知られている(吾妻鏡)。そのことについて橘公業は、仁安元年(一二四〇)の譲状で、「故右大将(源頼朝)家より宇和郡地頭職を賜はって以降、今に違乱なく領知せしむる処、当公の御時、宇和郡の代はりに長島庄を宛給ふ所なり」(小鹿島文書・一四九)と述べており、公業が有していたのが宇和郡地頭職であり、しかもそれが頼朝から与えられたものであったことが知られる。これについては『吾妻鏡』に、宇和郡は遠祖橘遠保が藤原純友を討ちとって以来の相伝の所領である旨の記事があって、さきの譲状の文言との間にくい違いがみられるが、信憑性からみれば、編纂物である『吾妻鏡』より原文書である公業譲状をとるべきであろう。したがって、宇和郡が平家に関係した所領であったかどうかは確認できないにしても、その地に、橘氏が源平争乱時の勲功賞として頼朝から地頭職を与えられたことはまちがいなさそうである。
 三島社の地頭職については、鎌倉中期の成立と考えられる「三島社領主次第」に、建久八年(一一九七)四月北条義時が三島地頭に任ぜられ、正治二年(一二〇〇)には、それが大夫志入道(幕府の重臣大夫属入道三善善信のことか)の息進士信平に改められたとある(臼杵三島神社文書・四七四)。また元久二年(一二〇五)には、『大山積神社文書』の中に、地頭左衛門尉平なる人物が見える。この三者の相互関係はよくわからないし、前二者の記事には信憑性に若干の問題もあるが、いずれにしても、鎌倉初期に、国外の人物が大三島に新恩の地頭職を得たことは認めなければならないであろう。
 以上のような新恩給与の地頭職に対して、本領安堵の地頭職はどうであろうか。その典型的な例は忽那氏の場合である。忽那氏の源平合戦時における活動はよく知られていないが、おそらく源氏方の勝利に何らかの形で貢献するところがあったのであろう、元久二年(一二〇五)一一月には、藤原兼平(忽那氏は正式な場合にはしばしば藤原氏を称した)が、また承元二年(一二〇八)閏四月には、その子国重が、それぞれ忽那島地頭職に補任されている(長隆寺文書・五五五、忽那家文書・一二八)。これよりさき忽那島は、兼平の父俊平によって長講堂に寄進されているから、兼平や国重が得ていたのは、正確には長講堂領忽那島荘地頭職ということになる。そのため地頭職をえた忽那氏は、この後在地支配をめぐってしばしば荘園領主長講堂の意をうけた雑掌や預所と争うことになる。また地頭職自体も忽那氏内部で争奪の対象となり、鎌倉後期には、分割相続によって次第に細分化されていく。なお、これらのことについては、項を改めて詳しく述べることにする。
 新恩給与にしろ、本領安堵にしろ、鎌倉初期の伊予国の地頭職を見ていく時最も疑問に感じられるのは、源平争乱時にあれほどの勲功のあった河野氏の地頭職はどうなっているのかということである。源平争乱時の功績の度合いからすれば、河野通信は伊予国において最も多くの所領・所職を得るはずであるが、彼の所領・所職の痕跡がほとんど消えてしまっている。それはおそらく、この後通信が承久の乱において京方に味方して所領を没収されてしまったことと無関係ではないであろう。したがって、史料が残っていないことは、必ずしも通信の所領・所職の獲得が少なかったことを意味しているわけではないと思う。『予章記』は、承久の乱後通信が没収された所領を「当国他国領所五十三ヶ所、公田六十余町」と記しているが、この数値をそのまま信じることはできないにしても、通信が没収される以前にかなりの所領を有していたことはまちがいないであろう。その痕跡をわずかにうかがうことができるのは、久米郡石井郷(現松山市石井)である。
 ここは、承久の乱の時、河野氏の中ではひとり鎌倉方についた通信の子通久が、さきに与えられていた阿波国富田荘(現徳島市)地頭職のかわりに与えられたところである。他に『予章記』によると、文治五年(一一八九)の奥州征伐の功によって、喜多郡のかわりに久米郡を賜わったとあるから、あるいは一時的にこの両郡の地頭職を所有していたことがあったかもしれない。

 その後の地頭

 十分に明らかにすることはできないにしても、このようにして伊予国においても地頭の補任が行われ、在地領主の土地に対する欲求の充足と、鎌倉幕府の地方支配の整備が進められたことが明らかになった。しかし、このような鎌倉初期の地頭補任の状況が、そのまま鎌倉時代を通じて維持されたわけではない。このあと地頭補任の状況は、二度ほど大きな改変を蒙ることになる。ひとつは、承久の乱後のいわゆる新補地頭の補任の際であり、他は、蒙古襲来に対応して西国警備を強化した際である。伊予国においてもこの二つの激動の時代を境にして、地頭補任の状況が大きくかわることになる。個々の具体的な事例は、それぞれの箇所で詳しく述べることにして、ここでは田中稔の研究成果に拠って(「鎌倉時代における伊予国の地頭御家人について」)、鎌倉前期を通じた伊予国における地頭の補任状況を表1―2に整理しておくことにする。

図1-5 佐々木氏系図

図1-5 佐々木氏系図


図1-6 宇都宮氏系図

図1-6 宇都宮氏系図


表1-2 鎌倉時代伊予国の地頭補任地①

表1-2 鎌倉時代伊予国の地頭補任地①


表1-2 鎌倉時代伊予国の地頭補任地②

表1-2 鎌倉時代伊予国の地頭補任地②