データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)
二 式内社と神階叙位
伊予国の式内社
『延喜式』に載録された神名帳によると、九世紀ころ国家より官社の格付けを与えられていた伊予国の神社は二四社であり、うち大社が七、小社が一七という内訳であった(表3―2)。むろん各地域の村落にはこれ以外に相当数の小神社が存在し、地域民衆の信仰の拠点となっていたのであるが、出雲国の例などから推してこの官社の数はほぼ八世紀にまで遡るものとみられている。
この官社を(延喜)式内社ともいうが、これがそのほかの小神社と区別されるのは、律令国家が全国的な規模での神衹イデオロギー支配を完成するため、公的に創出したといわれる祈年祭の幣帛分与に預かるという点である。祈年祭は毎年二月に実施される春の予祝行事であり、これによって伊予国の主要な神々は、司祭者たる天皇をその頂点とする律令神衹体系のもとに序列化されていった。伊予国の官社はみな国衙より班幣をうける、いわゆる国幣社であったが、幣帛の内容は『延喜式』によると、大社の場合は「糸三両、綿三両」、小社では「糸二両、綿二両」となっている。
さらにこれら式内社のうち、臨時祭の一つである名神祭の班幣に預かる名神の地位を与えられているのは、神名帳によると宇摩郡の村山神社以下七社であるが、同じ『延喜式』名神祭条にもみえているのは村山・大山積・野間・阿沼美の四社のみである。このうち大山積・野間両神社は承和五年(八三八)、村山神社は仁寿三年(八五三)にそれぞれ名神の列に加えられたことが確認できるが(続日本後紀・文徳天皇実録)、それ以外は不明である。
また一見して明らかなように、南予地域には式内社の分布は認められない。これは農業生産条件に卓越した東中予地域において、各祭神と連なる在地豪族層を早くから律令国家がとりこみ、その支配を浸透させていたことと関連するものとみられている。
大山積神社と越智氏
これら古代伊予国の官社のうち特に注目されるのは大山積神社(越智郡大三島町宮浦)である。その祭神大山積神は記紀の伝承によれば伊弉諾・伊弉冉二神の子で、山の神を統轄したといわれる。また『伊予国風土記』逸文には、この神は一名和多志大神ともいい、仁徳天皇のころ百済よりいったん摂津国御嶋に渡来したのを、さらに当地に遷座したものとみえており、航海神としての性格も有していたことが知られる(第二章第三節参照)。
こうした二面性は古来よりの大山積神社の信仰形態であり、その由来は大三島の地理的条件もさることながら、多くはこれを氏神として奉斎していた越智氏の氏族的性格に規定されたものとみられている。すなわちすでに広く指摘されていることではあるが、『日本霊異記』の越智直説話や、古代大和政権の朝鮮経営を担当した紀氏、物部氏との同族的結合という事実等にうかがえるように、越智氏は大和政権の対外政策の推進に深く関与している。そのことはまた、『伊予国風土記』の逸文にみえる造船伝承で著名な野間郡熊野岑とならんで、大三島の山地も古代の船材に用いられた良質のクスの樹の繁茂地であり、越智氏はこれらを支配することにより造船技術をも掌握していたという面と密接に関連していた。
なお記紀の大山積神が、越智氏の信仰対象であり、本来は無縁であるが類似の神格をもつ大三島の古くからの祭神に結合され、その社号ともされていったのは、八世紀前半律令学者として活躍し、かつ『日本書紀』編纂にも何らかの関わりを有したとみられる越智広江(第二章第二節)の媒介によるものではないかとの推測も行われている。また本社には、大通智勝仏を本地仏とする神仏習合が見られる(予章記)。これは、越智氏がみずからの姓の越智すなわち「知慧に越ゆ」から発想したものと推定されている。
当神の史料的に確実な初見は天平神護二年(七六六)四月神戸五烟を賜与されたというものであり(続日本紀)、同時に従四位下に叙されている。この神階は後述するように以後着実に上昇し(表3―3参照)、貞観一七年(八七五)三月にはついに正二位に達した(三代実録)。
ところで神職には神主・禰宜・祝(部)などさまざまなものがあるが、一般に地方の神社祭祀の中心的役割を果たしていたのは祝(部)であったとみられ、国司を通して神衹官に登録され、課役免の特権を与えられていた。祝(部)は原則として神社に従属する祭祀専業者集団である神戸から採用されることになっていたが、ほかに元慶五年(八八一)三月の伊予国解(類聚三代格・二五)に祝部登用の母体として「氏人幷神戸百姓」、また『延喜式』に祝部の「定氏之社」という表現がそれぞれみえているように、祝(部)を出す氏族が世襲的に固定されている場合もあった。大山積神社の場合、神戸五烟が付属していたことは前記のとおりであるが、その大祝職が譜第郡領家たる越智氏内部において、郡司職とともに分掌されていたという伝承からも推測されるように、後者の方式がとられていたとみられ、その職掌は以後も代々越智氏(のちの三島氏、大祝氏)に継承されていった。
なお元慶五年の伊予国解は、「氏人幷神戸百姓」といえども課丁からの祝(部)補任を避け、八位以上か年齢六〇歳以上、または年少者のうち祭事に堪えうる者をえらぶべきこと、「氏人」を確実に掌握するため諸社祝部氏人本系帳を作り、三年ごとに京進すべきことなどを伝える。これによって九世紀における戸籍制度の形骸化による公民制の動揺、それに伴う課口減と税制危機といった事態(本章第一節)は、そのままこのような神社政策の面にも影を落としていることが知られる。
最後に神社の経済的基盤について一言すると、国家から給与される神封・神田、神戸から徴する神税等がそれにあたる。そのうち神封については、『新抄格勅符抄』収載の大同元年(八〇六)牒の神封部によると(資料編二一)、伊曽乃神には天平神護元年(七六五)一〇月に一〇戸、翌年一二月に五戸の計一五戸、大山積神には同年五月に五戸が支給されている。また具体的年代は不詳ながら伊予・野間神に六戸、伊予津比古神に三戸賜わっていたことも知られるが、これもおそらくこのころのことであろう。ただ『新抄格勅符抄』大同元年牒神封部は、神封と神戸をあわせ記載しているとの指摘があり、事実『続日本紀』によれば天平神護二年四月、伊曽乃・大山積両神に五烟、伊予・野間両神に二烟と、時期的にもきわめて近接して神戸が給されており、神封部の記載が封戸なのか神戸なのかについては、にわかに決し難い。大山積神については後に天慶三年(九四〇)九月ごろ新たに五戸を封ぜられているが、これが純友の乱への対応措置であることは疑いない。
その他の式内社
ここで、大山積神社以外の主要な式内社について簡単にふれておくことにする。宇摩郡の村山神社は、土居町津根にあり、天照大神と斉明・天智の二天皇および大山積神を祭祀している。仁寿三年(八五三)に名神となり(文徳天皇実録)、貞観九年(八六七)に神階正五位下、同一二年(八七〇)に正五位上に叙せられている(三代実録)。新居郡には大社の伊曽乃神社と、小社の黒島神社がある。伊曽乃神社は、西条市中野にあり、天照大神を祭神としている。天平神護元年(七六五)一〇月に神封一〇戸をあてられ(新抄格勅符抄・二一)、翌二年神階従四位下を授けられ、神封五戸をあてられた(続日本紀)。さらにその後次々と神階をのぼり、天慶三年(九四〇)に、海賊平定祈願のため正二位を授けられている(長寛勘文)。桑村郡の布都神社は東予市吉岡にある小社で、建布都神を祭神とする。天安二年(八五八)一〇月に、正六位上から従五位下に昇叙されている。
越智郡の多伎神社は、朝倉村古谷にある大社で、素盞鳴尊・多伎理比古命・多伎理比売命を祭神とする。『三代実録』などに見える瀧神社は、この多伎神社の後身であろう。瀧神社を新居郡にありとする異説もある。貞観二年(八六〇)に神階従四位下を授けられて以来、次々と昇叙し、同一二年(八七〇)には正四位上となった(三代実録)。樟本神社は楠本神社とも書き、越智郡今治市立花にある小社で、素盞鳴命を祭神とした。貞観一七年(八七五)に従五位下から従五位上とされている(三代実録)。
野間郡の野間神社は今治市神宮にある大社で、怒麻国造の祖とされる饒速玉命・若弥尾命を祭神とする。天平神護二年(七六六)に神階従五位下に叙せられ神封二戸をあてられて以来(続日本紀)昇叙を重ね、天慶三年(九四〇)には、海賊平定を祈願するため、正二位を授けられた。風早郡の櫛玉比売命神社は北条市八反地にあり、天道日女命・御炊屋姫命を祭神とする。斉衡元年(八五四)に神階従五位下を授けられている。同じ北条市八反地には、饒速日命・宇麻志摩遅命を祭る国津比古命神社がある。
次に伊予郡では、大社の伊予神社が松前町神崎に鎮座し、彦狭島命を祭神としている。天平神護二年(七六八)四月に従五位下に叙され、神封二戸を授けられた「久米郡伊予神」(続日本紀)、貞観四年(八六二)の従四位下昇叙から始まり、貞観一二年には正四位上に至った「伊予村神」(三代実録)がこれにあたる。ただこの点に関して、小社伊予豆彦命神社が旧久米郡石井村(現松山市居相)の地域内にあるゆえをもって、この神社こそが右の両神に該当し、『延喜式』神名帳がこれを伊予郡に入れたのは誤りとする見解もある。しかし正四位上という神階から考えてもこれを大社、名神の伊予神社とみなすのが自然であり、この説は成り立ち難い。『続日本紀』と神名帳との間の所属郡の異同は、おそらく八、九世紀における行政区画の変更に基づくものであろう。
神階叙位の背景
古代伊予国の神社関係史料のうち、最も豊富な材料を提供しているのは、九世紀を中心とする神階叙位に関するものである。伊予国諸神への位階叙位は、早く天平神護二年(七六六)四月に伊曽乃神・大山積神に従四位下を、伊予神・野間神に従五位下をそれぞれ賜与したのに始まるが(続日本紀)、本格化するのは承和年間以後である(表3―3)。
その背景には種々の事情が考えられる。まず八世紀唯一の例である右記四神への叙位は、道鏡政権下での独自の宗教政策との関連で理解されようが、承和年間から寛平年間、および天慶年間における神階濫授はそのまま二期にわたる海賊活動の昻揚期に重複することから(本章第二節)、その大きなねらいがまず海賊対策にあったことは確実であろう。
神階には必ずしもそのまま経済的特権が付随するものではなく、むしろ栄誉称号的色彩が強いものといわれるが、昇叙の対象となった伊予国の神にはその大半が前記の式内社のものであり、したがって南予地域に対しては、仁和元年(八八五)二月の宇和津彦神(宇和郡)への従五位下叙位(三代実録)を除いて、その例は皆無である。この点からも判断されるように、昇叙の目的は単なる海賊対策のみにとどまらず、究極的には官社の祭神を自らの氏神として、律令国家に連なってきた伝統的在地勢力の動揺を防ぎ、これを体制内につなぎとめようとすることにこそあったものとみられている。その意味で神階叙位は、新興の富豪層の掌握を目ざした郡制再編と同一の政策基調に貫かれているものである。郡制再編が主に南予諸郡を中心に行われ、かつ神階昇叙の対象となった諸神の所属郡とほとんど重なっていないことからしても、両者は相互に補完しあう意義を担っていたともいえよう。
諸神に叙せられた位階のうち、最高位は大山積神・伊曽乃神・野間神の三神に与えられた正二位であるが、翻っていえば特にこの地方の在地勢力への働きかけが強く行われたということでもあり、律令国家によるこのような努力が一定の効を奏したことは、藤原純友の乱の結末が如実に示したとおりである(本章第二節)。