データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 初期荘園

1 墾田法と荘地の設定

 法隆寺の荘倉

 天平一五年(七四三)、政府は墾田永年私財法を発し、一定限度内で墾田を永久に私有することを認めた。その結果、有力な貴族や大寺社は広大な未開発の山林・原野を私有し、現地に荘と呼ばれる管理事務所や倉庫を建てて、開墾・経営に努めた。当初、主として建物を意味していた荘(庄)は、やがて変質して、私有地全体をさすようになり、田園としての荘園と呼ばれるようになった。このような八世紀後半から九世紀ごろまでの荘園を初期荘園といい、中央の貴族・寺社などが自ら開発した自墾地系荘園と墾田を買収した墾田地系荘園とからなっていた。初期荘園の多くは、国家に租を出す輸租田であった。伊予国における初期荘園としては、法隆寺の荘倉、風早郡の忽那島荘、新居郡の新居荘、伊予郡の苧津荘などが知られている。
 法隆寺の荘倉は、天平一九年(七四七)ころ、伊予国全体で一四か所にあった。神野郡(後の新居郡)・浮穴郡・骨奈島(忽那島)に各一か所、和気郡・風早郡に各二か所、温泉郡に三か所、伊予郡に四か所である(法隆寺伽藍縁起并流記資財帳、以下法隆寺資財帳と略記する。資料編三)。現在地への比定は、忽那島荘を除き不明である。ただ、温泉郡と浮穴郡の所在地については、白鳳時代(七世紀後半)以後の古代寺院跡と考えられている湯之町廃寺(松山市道後祝谷)、内代廃寺(同道後上市)、中村廃寺(同中村町)(以上、温泉郡)、中ノ子廃寺(同南土居町)、上野廃寺(同上野町)(以上、浮穴郡)から法隆寺式複弁八弁蓮華文軒丸瓦などが出土しているので、これらによって廃寺の性格及び法隆寺との関連が注目される。

 東大寺領新居荘

 新居荘の名は大治五年(一一三〇)の東大寺諸荘文書并絵図目録に記録されている天平勝宝八年(七五六)の「国司定文」にはじめてみられる(東大寺文書・七五)。これによると、新井荘(大治五年以後新居荘)の四至(荘域)は、東は継山(新居浜市関の戸周辺か)、西は多豆河(国領川)、南は澤路(従来は駅路と読まれていたが、正しくは澤路と読むべきである。新居浜市船木の山麓か)、北は小野山(同市郷山か)に囲まれた範囲である。古代の新居郡井上郷(和名抄)内に公領と混在していたと思われる。
 この荘域内に、野八〇町、池地三町六反余が存在していた。野とは未開墾地のことであり、池地は池の面積であろう。天平勝宝八年以後の新居荘は、順調に開発が進んだとみえ、約二百年後の天暦四年(九五〇)には荘地が九三町と増加している。その内訳は田四町六反余、畠八八町三反余である(東南院文書・四四)。ところが、長徳四年(九九八)になると、田地は九六町六反余と地積はわずかではあるが増大しているものの、その実態は、畠地八八町三反余が陸地九三町に変わっている(同文書・四九)。陸地とは荒廃地のことであり、荘園の荒廃、没落を物語っている。東大寺領荘園の多くは、天暦から長徳年間にかけて荒廃しているが、新居荘もその例外ではなかったと思われる。もっとも、この傾向は何も東大寺領荘園に限ったことではなく、初期荘園の多くは、九世紀末ないし一〇世紀ごろまでには没落している。
 その原因は、開発・耕作にあたる班田農民らを確保できなかったこと、つまり、初期荘園の多くは、専属の荘民がいたわけではないので、周辺の班田農民を動員し、雇用または一年ごとの賃租をさせねばならなかったが、これを確保できなかったことである。また、初期荘園の開発・経営は官司(国家)に依存していたので官司の協力がえられにくくなったこと、東大寺に十分な荘園管理能力が備わっていなかったことも指摘されている。だいたい、東大寺領荘園は在地豪族を屈服させて成立したものが多く、開発にあたっては政府機関の一つである造東大寺司の指示が荘の興廃に大きくかかわっていた。天平勝宝七年(七五五)ごろ成立した越前国桑原荘に見られるように、造東大寺司の指示という官衙の力によって成立・存続していた東大寺領の初期荘園は、国家権力による周辺班田農民の動員による開発と請作(小作)が行きづまり、これに代わる労働力の確保ができなかったことにより、その多くが一〇世紀初めごろまでに没落していった。このことは、律令国家体制の動揺・変質を如実に示していることでもあった。新居荘の興廃もこれに大きくかかわっていたのである。
 ところで、荒廃した初期荘園としての新居荘は、この後もいちおう東大寺によって維持されていたらしく、仁平三年(一一五三)の東大寺諸荘園文書目録にもその名がみえるが(守屋孝蔵氏所蔵文書・八五)、その実態は明らかでない。なお、新居荘の開発・経営に協力した地方豪族は明らかでないが、おそらくは平安末期に登場する新居氏となんらかの関連があるものと思われる(与州新居系図)。

 忽那島荘

 この荘の初見はさきの天平一九年の『法隆寺資財帳』である。しかし、その荘園の様相は不明で、わずかに、「官牧」としての側面から推測しうる程度である。
 貞観一八年(八七六)ごろの風早郡忽那島は、兵部省管轄の官牧があり、各三百余疋の牛馬が放牧されており、年に馬四疋、牛二頭を貢進していた。島内には水草が乏しいのに、牛馬は繁殖し、青苗を群がって食べ、百姓は困りはて、貢進牛馬を除いて他を沽却(売却)し、その価を正税の一部にすることを願い出る有り様であった(三代実録)。このことは、忽那島の田園化と班田農民の存在を示してはいるが、忽那島荘の様相は詳らかでない。忽那七島は、古代にあっては風早郡に属していたが、郷名の記録はない。風早郡の他の五郷(粟井・河野・高田・難波・那賀)のいずれかに属していたのか、記載もれなのか不明である(和名抄。なお邨岡良弼『日本地理志料』は忽那郷の存在を推定している)。いずれにしても、法隆寺領忽那島荘の開発・経営が官司、班田農民に依拠していたことを知ることができる。忽那島の官牧としての機能は、すくなくとも一〇世紀初頭の延喜年間までは存続していた(延喜式)。かつて島内の粟井に馬頭明神、神浦に牛頭明神の小祠があったことは、当時の農民の精神生活を知る上でも興味深い事柄である。
 忽那島荘は、建久二年(一一九一)以後は、長講堂領荘園となり、課役として兵士役、砂金、続松などを負担していた(京都大学文学部所蔵文書・一一七)。

 苧津荘

 貞観一四年(八七二)の貞観寺田地目録帳によれば、貞観九年(八六七)、右大臣藤原良相が貞観寺に苧津荘(伊予郡)の田地四九町五反余を施入している(仁和寺文書・二三)。初期荘園の成立過程には、野地占定、施入、買得、相博(交換)などがあるが、苧津荘は施入によっている。施入とは寺社に資財所領を寄進することである。荘地の地目については苧津荘分の記載はないが、他荘園の例からいって、熟田(耕作田)、畠、荒地、未開地、治田、林、浜、山などに分類されていたと思われる。なお、治田はハリタであり、墾田が未開の開墾予定地を含むのに対して開田のみをさし、在地の有力農民(田堵)が開墾した場合が多い。

2 初期荘園の人々

 力田の輩と班田農民

 初期荘園は専属の荘民をもたなかった。荘園の開発・経営は在地の事情に通じ、勢力をもつ地方豪族を中心に、「殷富の百姓」「富豪の輩」といわれる有力班田農民の協力に依存していた。彼らは、開田にあたっては、周辺の班田農民や浮浪人、逃亡人に功稲(手間賃)、食米を支払って雇役し、その後の耕作には、一年契約で約二割の小作料をとる賃租に出していた。班田制が実施されなくなった一〇世紀ごろになると、国衙領および荘園では富豪層、すなわち郡司層を含む地方豪族や有力農民に請作(賃租)させるようになったが、この請作人を一般に田堵という。田堵は、請作にあたっては、国衙及び荘園に対して、自分の名に負って、所当官物(従来の租)、雑公事を(庸・調)請負った。この請負地は負名と呼ばれ、後の名主、名田の起源となった。
 嘉祥三年(八五〇)に、伊予国の力田物部連道吉と鴨部首福主らが窮民を私財で救済し、位一階を賜っているが(文徳天皇実録)、「力田」とはさきの富豪の輩のことであり、田堵のことと思われる。

 窯業と工人

 新居浜市船木町上原に須恵器を焼いた古代のカメ谷窯跡がある。新居荘の柏坂の古池と推定される池田の大池の南側にあたり、燃料の薪、水に恵まれたところである。カメ谷窯跡からは、蓋杯、高台のついた杯・皿・椀などの食器類や円面硯などが出土している。このなかには、「庄」、「加」の文字を刻んだ須恵器片もみられる。カメ谷の出土の須恵器は八世紀の中ごろから一〇世紀ごろのものであり、天平勝宝八年(七五六)以後の東大寺領新居荘の窯跡と思われる。
 ところで「庄」は新居荘の庄、あるいは荘官の庄などが考えられるがはっきりしない。いずれにしろ、これらの須恵器類は、新居荘の開発・経営に利用され、その一部は荘官や賃租を行っていた有力な班田農民らの食器として使用されたことであろう。さらに、窯業が行われていたことは、専業工人や市場の存在を物語っており、一般的に、奴婢を除き専属の荘民のいない初期荘園にあっては貴重な労働力であったろう。

3 雑役免荘園の成立

 王朝国家と公田制

 現在の史学界では、平安時代の九世紀までを律令国家の時代とし、一〇世紀初頭から一二世紀に至る約三世紀間を王朝国家の時代と呼んでいる。一般にいう摂関政治、院政の時代でもある。九世紀以前の律令的土地所有制は、公地である口分田を班田農民一人一人に班給し、租・庸・調・雑徭などを徴収する班田制であった。これに対し、一〇世紀以降の王朝国家では、公田制に変質している。この班田制から公田制への変質はつぎのようにとらえられている。
 口分田制下の班田農民の負担は重く、浮浪・逃亡するものが続出した。貧窮した班田農民は富豪層などの私出挙に頼り、負債がかさむとともに次第に律令的国家支配から離れ富豪層に隷属していった。中央政府や国司はこうした現実に対応せざるをえなくなり、富豪層を登用し、彼らに公地を請作させるようになった。富豪層は官物(租)、雑役の納入義務をその名に負って、請負ったのでその名田は負名と呼ばれた。いっぽう、国司も中央政府に対して豊凶に関係なく、一定の官物、雑役を請負うようになった。このような班田制崩壊後の国司や負名(富豪層)の請負いにもとづく、新しい土地制度を公田(国衙領)制という。
 王朝国家体制下における土地制度の変遷とともに、税の負担体系も従来の租庸調から所当官物(租)、雑役(雑公事=租以外の特産物など)の二本建てに変化している。この時期、すなわち一〇、一一世紀に、没落する初期荘園に代わって、雑役免系荘園と寄進地系荘園が出現した。

 封戸の荘園化と雑役免荘園

 雑役免荘園とは、所当官物は国衙(国庁)に納めるが、雑役(雑公事)のみは荘園領主である寺社や貴族の得分(収入)とするものである。元来、律令制下では、有力貴族や寺社に農民の「戸」を分与する封戸制(租の半額と調庸の全額を収得させる)や、特に寺社に対して国衙の正税(租)のなかから一定量を給与する制度があった。ところが、律令国家体制が動揺してくると、これらが円滑に給付されなくなって、貴族・寺社(封主)の不満をかった。伊予国にあっても、天永三年(一一一二)、東大寺が伊予国衙に対して、封戸二百戸分の調・庸・雑物などの代米および未納分を完納するよう要請している(東南院文書・七二)。正税や封戸物は、当初国衙がみずから徴収し、支給していたが、やがて封戸物(雑役)は寺社が直接徴収するようになった。これを便補(便宜補塡)という。つまり、国衙にかわって寺社が特定の負名や郡郷から雑役(雑公事)を直接徴収するようになったのである。こうして、所当官物は国衙が、一定の雑役は寺社が徴収権をもつ雑役免系荘園が成立した。
 ところで、寺社が郡郷から直接、雑役を徴収するにはその田地を決定せねばならない。決定にあたって、初めは、一筆一筆の田地まで固定せず、ただ全体の面積のみを示し農民から平均して負担をとる浮免田であったが、やがて田地を固定し(坪付)、そこから雑役をとる定免田化がおこなわれるようになった。この定免田化の後、雑役だけでなく所当官物をもあわせて徴収する不輸免田が出現して雑役免荘園が確立した。その盛期は一〇、一一世紀とされる。この事例は石清水八幡宮宝塔院領玉生荘にみられる。

 石清水八幡宮宝塔院領玉生荘

 玉生荘は伊予郡岡田郷(松前町)にあった雑役免系荘園である。養和元年(一一八一)の院庁下文などによれば、寛仁・万寿年間(一〇一七~一〇二七)ごろに、不輸之地と封戸の代償としての便補の保から成立していた荘園であることがわかる(石清水八幡宮記録・一〇一)。不輸の地とは不輸租田、すなわち太政官符および民部省符によって租税を免除された田地のことであり、このような特権を確保した荘園を官省符荘と呼んだ。便補の保は会料など、本来負担するはずであった封戸にかえて、便宜上公領である他郷をこれにあてたものである。天暦七年(九五三)、伊予国の封戸二五戸が石清水八幡宮護国寺に施入されているが(扶桑略記)、これらの封戸が荘園化に関係したと思われる。つぎの仁和寺法勝院領豊村荘も雑役免系荘園の一つと思われる。

 仁和寺法勝院領豊村荘

 仁和寺は京都市右京区御室にある真言宗御室派の大本山であるが、光孝天皇の勅願により仁和二年(八八六)に着工し、同四年、宇多天皇により落成した。法勝院はその支院と思われる。豊村荘は旧宇摩郡の川之江市、三島市を中心とした条里制のなかに設定された、いわば条里制荘園でもある(条里については第二章第二節参照)。荘地の一九町九段一二八歩(計算では二〇町四反三八歩になる)が条里にそって広範囲にわたって散在している。ただ、荘地が一条里(三六町)全体を占める例はなく、最大の面積をしめる三条の村岡里でも三町四反二〇歩と約一〇分の一以下である。一坪が一町の各坪内にあっても、一坪全体(一町)を占めるものはわずか二条の返谷田里の三四坪のみであり、他は八反一八〇歩から七四歩までさまざまである(仁和寺文書・四六)。残りの田地は公田あるいは他の荘地と思われ、このように一坪一町の土地を複数の者がもつ形態を相坪という。相坪であるがために、その土地を耕作している田堵らが他の公田へ出作し、やがてその公田をも加納(出作によって増加した田地)し、それをも雑役免田化して荘園が拡大されていくことが多かった。このように雑役免田の主体が公田畠であることが雑役免系荘園の特質である。雑役免系荘園は畿内に多く、なかでも興福寺領の荘園に多い。
 なお、法勝院領目録には目代(国司の代官)、郡司や刀禰(郷・保・村など公領の役人)の署名がみられるが、郡司や刀禰は王朝国家の時代に出現、成長した在地領主と深いかかわりをもつものである。